893中国の三面記事を読む(298)劉海粟:江青の裸体画を描いたという噂は本当か?
“芸術の叛徒”劉海粟は 江青のヌードを描いたのか?
2008-01-22 08:42:26 “艺术叛徒”刘海粟 曾给江青画裸体画?
劉海粟(1896/3/16-1994/8/7)はすぐれた美術家、教育家、美術史家、画家である。 彼は男女共学校を初めて作ったばかりか、ヌードモデルや写生旅行なども取り入れた。 劉海粟の話で一番びっくりさせられるのは、なんといっても江青のヌードを描いたと言われていることだ。 人民文学出版社が2002年8月出版した《滄海》の中で、劉海粟が1983年、このことについて語っている。
劉海粟は、1935年夏、欧州から戻ってきた。 その頃、藍蘋と趙丹が話劇(新劇)《ノラ》を公演していた。 趙丹は最初から趙丹じゃなかった、趙鳳翺と言っていた。 この人はとても利発だったが、カッとし易いたちだった。 初めて美専に来た時、結婚のことで傅雷と争い彼を殴ったことがあった。 趙丹はもともと絵を勉強するためフランスに留学するつもりだった。 この人がもし絵をやっていたらきっと大成していたろうと思う。 だが彼は、その後芝居・映画をやるようになり大きな足跡を残した。 よくみんな趙丹が芝居をやるようになったのは偶然だというが、実は違う。 彼は美専で3年間ずっと学校の劇団の中核となって目覚しい活躍をしていた。 卒業の時、卒業公演で新劇をやり、彼が主役を演じた。 私は当時、欧州にいて見てなかったが、非常に大成功だったと聞いている。 これが張石川という映画会社のお偉方の目に留まった。 いろんなことがあったのに、表面的にはまるで偶然のように見えるが、実はまったく違っていたのです。
二人は上海金城大劇場で公演を行いました。 大きなポスターの上に趙丹と藍蘋の二人の名前が書かれていた。 その頃、趙丹は上海でもう有名になっていました。 藍蘋については、私はそれまで聞いたことがありませんでした。 ある時、趙丹が「一品香」に食事を招待してくれた時、藍蘋のことを訊ねてみました。 趙丹は私の気持ちを察し、校長、もしお時間がおありなら食事が終わったら藍蘋に会いに行きましょうと言った。 私もその気になり承知した。 彼は私を稽古場へ連れて行った。 壁際でチーパオを着た女の子が、行ったり来たりしながら、セリフを覚えていた。 趙丹は、あれが藍蘋ですと私に告げると、彼女を呼び寄せ、彼女に上海美専の劉海粟校長ですと紹介した。 藍蘋は、私の名前を聞くなり、ていねいに頭を下げ、お辞儀をした。
私の甥・劉獅がその頃、趙丹としょっちゅう付き合っており、その後、その甥が藍蘋を誘い出し、私に油絵2枚を描かせたことがある。 最初の一枚は、朝方の眠そうな姿、もう一枚は同じアングルの寝姿だった。藍蘋という人は、外見はそれほど目立たないけれど、しかし、彼女の身体の-------はとてもよかった。 それと、この人には芸術的天分があって、あなたが、彼女に何か言うと、彼女はそれをすぐ理解できた。 女性の顔と同じように、身体もとてもきれいだった。 藍蘋は正にそのような女性だった。
劉海粟“反革命分子”とされる
しかし《滄海》の中で、劉海粟が江青の人体(ヌード)を描いたという説明について、劉海粟の娘・劉蟾さんはキッパリと否定した。 “そんなことどうしてあり得ましょうか? 「文革」紅衛兵が家財の没収に来て、家の中の古い新聞に「藍蘋」という名前があったので、父が、江青が藍蘋だと言ったら、この話が伝わって「四人組」が父を「反革命分子」としたのです。 もし江青の人体を描いたのなら、なんで父を殺さなかったんでしょう?”
今となっては、劉海粟が本当に江青のヌードを描いたのか追究しようがない。 しかし劉海粟が文革の時、“反革命分子”とされたのは紛れもないことである。 この災難の中、劉海粟の損失はおびただしいものだった。 劉海粟は目録リストの挿絵《梅園新村》のところに、簡単に三回の家財没収の情況を書き留めておいた。 「1966年8月24日、新興中学が家宅捜索に来た。 夕方、董某ほか40-50人が、私の書画作品と収蔵品などを5時間かけて燃やした。 翌日、董がまた本を取りに来た。 9月2日、絵画院から王某、徐某、楊某、厳某、戚某が木箱12箱に詰め持ち去る。 9月22日、復旦が家宅捜索に来る。 半月から50日ほど居住して、写真、日記を没収する」 わずか数行の文字から劉海粟が受けた、あの時代の災難が見て取れ、驚くばかり。
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江青:本名:李雲鶴。 1929年、山東実験話劇院で演技を学ぶ。 翌年、晦明劇社の女優となる。 1931年、青島大学の図書館員となり、1933年入党後、上海左翼教育工作者連盟と上海無名劇人協会に加入する。 1934年逮捕され、その後保釈され出獄する。 1935年、電通影片公司、1936年上海聯華影業公司の俳優となる。 芸名「藍蘋」として《自由神》、《都市風光》、《聯華交響曲》、《狼山喋血記》、《王老五》など左翼映画5作品と話劇の公演に参加した。
江青がファーストレディーとなってからは、多くの人に、当時“役者”だった事実を隠そうとした。 そのため彼女が主演したこの5作品は上映禁止となり、解放後は二度と見ることは出来なくなった。 新中国の人々は、彼女の当時の銀幕での風貌と歌声を見ることも聞くことも出来なくなった。 この5作 品の映画の中で、《王老五》は、王老五という貧乏で風采の上がらない純朴な男、年は35でまだ結婚できないでいる。 隣の気性のきつい娘に恋している。 しかし、この娘は彼のことをなんとも思っていない。 そのうち、娘の年老いた父親が亡くなり、埋葬する金もないので、王老五が助けてやる。 それから娘に好感を持たれ、ついには結婚する。 結婚後、四人の子供に恵まれるが、暮らしはますます苦しくなる。 間もなく戦争が始まり、漢奸の親方が王老五を買収しておんぼろ地域を焼き払おうとする。 王老五は騙されて、手投げ弾を持って火をつけようとするが、突然、親方が貧しいおんぼろ地域の人々を殺害する陰謀に気付き、大声で漢奸を捕まえるよう叫びながら手投げ弾を親方のほうに投げつける。 親方は王老五に向かってピストルを撃ち怪我をさせる。 そして逆に漢奸の罪を着せ、王老五の家を燃してしまう。 王の妻と子供が火の海から逃げ出した時、親方はみんなを煽動して王老五が漢奸だと指さしていた。 王の妻は、懸命になって夫を庇う。 この時、火の手が敵機を呼び寄せ爆撃を浴びる。 おんぼろ地域は壊され王老五も爆撃で殺される。 王の妻は血涙の中で頭を上げ、深い悲しみに襲われながら、子供達を懐にしっかり抱きしめた。 このような映画は、当時としては、とても進歩的意義を持つ映画だった。
《王老五》のシナリオ・監督は、蔡楚生、主演:藍蘋(江青)、王次龍、殷秀岑、韓蘭根。 この中で藍蘋は、王の妻役。 また主題歌《王老五》も歌った。 この主題歌は当時大流行した。
江青が文革の時、あるいは裁判の時の演説の録音の声と彼女が歌っている主題曲と聞き比べたら、その声にはそう違いはない。 ただ時が移り状況もすっかり変わってしまった。 人の変化は実に大きいものだ。
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“芸術の叛徒”劉海粟
劉海粟は本名は磐、字は季芳、号は海翁という。 原籍は安徽鳳陽、1986年3月江蘇常州で生まれる。 油絵、国画、美術教育に優れていた。 1912年11月、烏始光、張聿光と共に上海で現代中国第一の美術学校“上海図画美術院”(上海美術専科学校前身)を創立し校長となった。 男女共学で、ヌードモデルや写生旅行などを取り入れ、“芸術の叛徒”と罵られたが、蔡元培などの学者からは支持された。
劉海粟が創設した上海美専の最初のヌードは男の子だった。 1917年、上海美専の成績展覧会でヌードの習作を展示した。 某女学校校長が“劉海粟は「芸術の叛徒、教育界のうじ虫」”と罵り、一時世論が沸騰し、みなが劉海粟を非難した。 劉海粟はあっさり“芸術の叛徒”と認め自分の号とし、自らの励みとした。 まるで西洋の“野獣派”の先例のようだった。
1920年7月20日、女性モデル陳暁君を採用し、ヌード女性を初めてアトリエに登場させた。 当時の人は、上海に三大妖怪がいる。 一人は性知識を提唱する張競生、二人目は『毛毛雨』(ポルノ歌曲と言われる)を歌う黎錦暉、三人目がヌードを奨励する劉海粟だと言った。
更にもっと大変なことがある。 彼は江蘇省教育委員会がモデルの写生を禁止しようとしていることについて、1925年8月22日、教育委員会宛に公開書簡を発表し、モデルについて弁明した。 上海市の姜懐素議員は劉海粟の書簡を読んだ後、《申報》に、「当局は劉海粟を厳罰に処すべき」との上申書を載せた。 劉海粟は即刻反論した。 ところが思わぬことが起こった。 上海総商会会長兼正俗社社長の朱葆三も新聞に、劉海粟に対する公開書簡を発表、劉海粟を「けだものにも劣る」と非難したのだ。 1927年、軍閥の孫伝芳が逮捕状を出したため、劉海粟は日本へ逃亡した。 朝日新聞社は彼のため東京で画展を開いた。
1938年春、上海へ戻り、上海中華書局の求めに応じ、80万語の大冊《海粟叢書》6巻を出した。 中身は《西画苑》、《国画苑》、《海粟国画、海粟油画》の三部に分れ、絵画論は深く明晰で広く読まれた。
1929年、劉海粟は欧州へ美術の視察に行き、フランス、イタリア、スイスなどを歴訪した。 1931年から1949年の間、彼はほとんど国外で画展を開いたり講義を行った。
中国建国後、華東芸術専科学校校長、南京芸術学院院長を歴任した。 1981年、イタリアの国家芸術院名誉院士として招聘を受け、金メダルを授与された。
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