893中国の三面記事を読む(298)劉海粟:江青の裸体画を描いたという噂は本当か?

“芸術の叛徒”劉海粟は 江青のヌードを描いたのか?

2008-01-22 08:42:26 艺术叛徒刘海粟 江青画裸体画?

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Photo 劉海粟(1896/3/16-1994/8/7)はすぐれた美術家、教育家、美術史家、画家である。 彼は男女共学校を初めて作ったばかりか、ヌードモデルや写生旅行なども取り入れた。 劉海粟の話で一番びっくりさせられるのは、なんといっても江青のヌードを描いたと言われていることだ。 人民文学出版社が2002年8月出版した《滄海》の中で、劉海粟が1983年、このことについて語っている。 

劉海粟は、1935年夏、欧州から戻ってきた。 その頃、藍蘋と趙丹が話劇(新劇)《ノラ》を公演していた。 趙丹は最初から趙丹じゃなかった、趙鳳翺と言っていた。 この人はとても利発だったが、カッとし易いたちだった。 初めて美専に来た時、結婚のことで傅雷と争い彼を殴ったことがあった。 趙丹はもともと絵を勉強するためフランスに留学するつもりだった。 この人がもし絵をやっていたらきっと大成していたろうと思う。 だが彼は、その後芝居・映画をやるようになり大きな足跡を残した。 よくみんな趙丹が芝居をやるようになったのは偶然だというが、実は違う。 彼は美専で3年間ずっと学校の劇団の中核となって目覚しい活躍をしていた。 卒業の時、卒業公演で新劇をやり、彼が主役を演じた。 私は当時、欧州にいて見てなかったが、非常に大成功だったと聞いている。 これが張石川という映画会社のお偉方の目に留まった。 いろんなことがあったのに、表面的にはまるで偶然のように見えるが、実はまったく違っていたのです。

Photo_2 二人は上海金城大劇場で公演を行いました。 大きなポスターの上に趙丹と蘋の二人の名前が書かれていた。 その頃、趙丹は上海でもう有名になっていました。 蘋については、私はそれまで聞いたことがありませんでした。 ある時、趙丹が「一品香」に食事を招待してくれた時、蘋のことを訊ねてみました。 趙丹は私の気持ちを察し、校長、もしお時間がおありなら食事が終わったら蘋に会いに行きましょうと言った。 私もその気になり承知した。 彼は私を稽古場へ連れて行った。 壁際でチーパオを着た女の子が、行ったり来たりしながら、セリフを覚えていた。 趙丹は、あれが蘋ですと私に告げると、彼女を呼び寄せ、彼女に上海美専の劉海粟校長ですと紹介した。 蘋は、私の名前を聞くなり、ていねいに頭を下げ、お辞儀をした。

Photo_3 私の甥・劉獅がその頃、趙丹としょっちゅう付き合っており、その後、その甥が蘋を誘い出し、私に油絵2枚を描かせたことがある。 最初の一枚は、朝方の眠そうな姿、もう一枚は同じアングルの寝姿だった。蘋という人は、外見はそれほど目立たないけれど、しかし、彼女の身体の-------はとてもよかった。 それと、この人には芸術的天分があって、あなたが、彼女に何か言うと、彼女はそれをすぐ理解できた。 女性の顔と同じように、身体もとてもきれいだった。 蘋は正にそのような女性だった。

劉海粟“反革命分子”とされる

しかし《滄海》の中で、劉海粟が江青の人体(ヌード)を描いたという説明について、劉海粟の娘・劉蟾さんはキッパリと否定した。 “そんなことどうしてあり得ましょうか? 「文革」紅衛兵が家財の没収に来て、家の中の古い新聞に「蘋」という名前があったので、父が、江青が蘋だと言ったら、この話が伝わって「四人組」が父を「反革命分子」としたのです。 もし江青の人体を描いたのなら、なんで父を殺さなかったんでしょう?

今となっては、劉海粟が本当に江青のヌードを描いたのか追究しようがない。 しかし劉海粟が文革の時、“反革命分子”とされたのは紛れもないことである。 この災難の中、劉海粟の損失はおびただしいものだった。 劉海粟は目録リストの挿絵《梅園新村》のところに、簡単に三回の家財没収の情況を書き留めておいた。 「1966年8月24日、新興中学が家宅捜索に来た。 夕方、董某ほか40-50人が、私の書画作品と収蔵品などを5時間かけて燃やした。 翌日、董がまた本を取りに来た。 9月2日、絵画院から王某、徐某、楊某、厳某、戚某が木箱12箱に詰め持ち去る。 9月22日、復旦が家宅捜索に来る。 半月から50日ほど居住して、写真、日記を没収する」 わずか数行の文字から劉海粟が受けた、あの時代の災難が見て取れ、驚くばかり。

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Photo_4 江青:本名:李雲鶴。 1929年、山東実験話劇院で演技を学ぶ。 翌年、晦明劇社の女優となる。 1931年、青島大学の図書館員となり、1933年入党後、上海左翼教育工作者連盟と上海無名劇人協会に加入する。 1934年逮捕され、その後保釈され出獄する。 1935年、電通影片公司、1936年上海聯華影業公司の俳優となる。 芸名「蘋」として《自由神》、《都市風光》、《聯華交響曲》、《狼山喋血記》、《王老五》など左翼映画5作品と話劇の公演に参加した。

江青がファーストレディーとなってからは、多くの人に、当時“役者”だった事実を隠そうとした。 そのため彼女が主演したこの5作品は上映禁止となり、解放後は二度と見ることは出来なくなった。 新中国の人々は、彼女の当時の銀幕での風貌と歌声を見ることも聞くことも出来なくなった。 この5作Photo_5 品の映画の中で、《王老五》は、王老五という貧乏で風采の上がらない純朴な男、年は35でまだ結婚できないでいる。 隣の気性のきつい娘に恋している。 しかし、この娘は彼のことをなんとも思っていない。 そのうち、娘の年老いた父親が亡くなり、埋葬する金もないので、王老五が助けてやる。 それから娘に好感を持たれ、ついには結婚する。 結婚後、四人の子供に恵まれるが、暮らしはますます苦しくなる。 間もなく戦争が始まり、漢奸の親方が王老五を買収しておんぼろ地域を焼き払おうとする。 王老五は騙されて、手投げ弾を持って火をつけようとするが、突然、親方が貧しいおんぼろ地域の人々を殺害する陰謀に気付き、大声で漢奸を捕まえるよう叫びながら手投げ弾を親方のほうに投げつける。 親方は王老五に向かってピストルを撃ち怪我をさせる。 そして逆に漢奸の罪を着せ、王老五の家を燃してしまう。 王の妻と子供が火の海から逃げ出した時、親方はみんなを煽動して王老五が漢奸だと指さしていた。 王の妻は、懸命になって夫を庇う。 この時、火の手が敵機を呼び寄せ爆撃を浴びる。 おんぼろ地域は壊され王老五も爆撃で殺される。 王の妻は血涙の中で頭を上げ、深い悲しみに襲われながら、子供達を懐にしっかり抱きしめた。 このような映画は、当時としては、とても進歩的意義を持つ映画だった。

《王老五》のシナリオ・監督は、蔡楚生、主演:蘋(江青)、王次龍、殷秀岑、韓蘭根。 この中で蘋は、王の妻役。 また主題歌《王老五》も歌った。 この主題歌は当時大流行した。

江青が文革の時、あるいは裁判の時の演説の録音の声と彼女が歌っている主題曲と聞き比べたら、その声にはそう違いはない。 ただ時が移り状況もすっかり変わってしまった。 人の変化は実に大きいものだ。

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“芸術の叛徒”劉海粟

劉海粟は本名は、字は季芳、号は海翁という。 原籍は安徽鳳陽、1986年3月江蘇常州で生まれる。 油絵、国画、美術教育に優れていた。 1912年11月、烏始光、張聿光と共に上海で現代中国第一の美術学校“上海図画美術院”(上海美術専科学校前身)を創立し校長となった。 男女共学で、ヌードモデルや写生旅行などを取り入れ、“芸術の叛徒”と罵られたが、蔡元培などの学者からは支持された。

劉海粟が創設した上海美専の最初のヌードは男の子だった。 1917年、上海美専の成績展覧会でヌードの習作を展示した。 某女学校校長が“劉海粟は「芸術の叛徒、教育界のうじ虫」”と罵り一時世論が沸騰し、みなが劉海粟を非難した。 劉海粟はあっさり“芸術の叛徒”と認め自分の号とし、自らの励みとした。 まるで西洋の“野獣派”の先例のようだった。

1920年7月20日、女性モデル陳暁君を採用し、ヌード女性を初めてアトリエに登場させた。 当時の人は、上海に三大妖怪がいる。 一人は性知識を提唱する張競生、二人目は『毛毛雨』(ポルノ歌曲と言われる)を歌う黎錦暉、三人目がヌードを奨励する劉海粟だと言った。 

更にもっと大変なことがある。 彼は江蘇省教育委員会がモデルの写生を禁止しようとしていることについて、1925年8月22日、教育委員会宛に公開書簡を発表し、モデルについて弁明した。 上海市の姜懐素議員は劉海粟の書簡を読んだ後、《申報》に、「当局は劉海粟を厳罰に処すべき」との上申書を載せた。 劉海粟は即刻反論した。 ところが思わぬことが起こった。 上海総商会会長兼正俗社社長の朱葆三も新聞に、劉海粟に対する公開書簡を発表、劉海粟を「けだものにも劣る」と非難したのだ。 1927年、軍閥の孫伝芳が逮捕状を出したため、劉海粟は日本へ逃亡した。 朝日新聞社は彼のため東京で画展を開いた。

1938年春、上海へ戻り、上海中華書局の求めに応じ、80万語の大冊《海粟叢書》6巻を出した。 中身は《西画苑》、《国画苑》、《海粟国画、海粟油画》の三部に分れ、絵画論は深く明晰で広く読まれた。

1929年、劉海粟は欧州へ美術の視察に行き、フランス、イタリア、スイスなどを歴訪した。 1931年から1949年の間、彼はほとんど国外で画展を開いたり講義を行った。

中国建国後、華東芸術専科学校校長、南京芸術学院院長を歴任した。  1981年、イタリアの国家芸術院名誉院士として招聘を受け、金メダルを授与された。

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892中国の三面記事を読む(297)中国ヌードモデルの100年史(下)

2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年

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Photo しかし、良いことは長続きしないものだ。 1966年、“文革”が勃発した。 モデルの写生は“当然の如く“封建、資本、修正”の列に入れられた。 本物のモデルを描けないばかりか、石膏像もすべて叩き壊された。 1967年初秋、人体写生(ヌード)モデル問題について、周揚など中宣部、文化部の数人の指導者が批判された。 美術科Photo_2 の一部の教師達も“資産階級学院派”“復活”“復辟”の帽子を被された。 

1967年8月4日、毛主席から再度指示が出た。 “絵を描くことは科学的である。 人体を描くという問題については、徐悲鴻のデッサンの道を歩むべきだ----------” しかし毛沢東の指示は正式に出さPhoto_3 れなかった。 ただ密かに転写されたり、壁新聞、大学の刊行物に引用された。 だから大っぴらに後ろ盾とすることは出来なかった。

混乱状態はずっと“文革”終了まで続いた。 みんな恐怖が収まらず、モデルの写生など出来なかった。 1978年12月15日、文化部は、改めて1965年11月11日の文書を発送し、“このとPhoto_4 おり実行する”よう強調し、混乱を鎮めて正常に戻すことになった。 1949年から1980年の間の裸体(ヌード)芸術は休眠状態の時期だった。 特殊な要請があった関係で、“人体モデル”は取り締まれなかったけれど、“秘密の花園”に押し込まれていた。 これは実際的には1920年代から後Photo_5 退したものだった。 文革を頂点として、中国は極左の社会環境にあり、裸体芸術は間違いなく死んだようなものだった。

開放後の人体(ヌード)モデル騒動

中国裸体芸術の休眠中に起こった一連の歴史事件は、その厳しさは50年前よりひどかった。 しかし毛主席の指示により、中国画科の教学で人体デッPhoto_6 サン訓練を取り入れ、伝統の中国画の人物画に大きな飛躍をもたらしたことは、不幸中の幸いと言えるものだった。 勿論、裸体芸術自体についていうと、合法的に認められるようになったのは、1978年第十一回三中全会後のことだった。 

Photo_7 1980年から90年代後半までは、中国裸体芸術の“復興期”と言える。 改革開放はゆとりある社会をもたらした。 また中国人の考え方に急激な変化も与えるようになった。 こうした背景の下、社会のあらゆる分野に驚くべき発展が見られるようになった。 “タブー”だった裸体芸術も目覚しい勢いで発展をみた。 唐大禧の彫塑《猛士》、袁運Yuan 生の壁画《潑水節(水かけ祭)――生命の賛歌》などの代表作がある。

それと同時に“禁断の花園”の垣根(束縛)も取り払われた。 大都市の美術専門学校が建国以来初めてモデルを公開募集した。 1985年初め、上海戯劇学院がヌードモデルを募集した時、応募者は予想外の多さで、半日も経たないうちに、500人分の申込書がなくなるほどだった。 当然、“ヌードモデル”騒動が起こった。

1986年8月、南京芸術学院でヌードモデルをしていた陳素華さんが、病気のため江蘇の故郷に休養に戻った。 丁度テレビで劉海粟に関する映像が放送されていて、その中で人体モデルを描いている様子が映し出された。 村人は見終わった後、モデルとはどういうことか“理解した”

それからは毎日、彼女の家に“覗き見”に来る人がひっきりなしで、ひどいのになると“身体を売るなんてよしな”という人までいた。 ついには、この19歳の娘さんは頭がおかしくなってしまった。

Photo_9 しかし“ヌードモデル”騒動は芸術学科の繁栄を阻止することはできなかった。 数十年に亘り埋もれていた、1920-30年代に訳された本が《開国して、いろんな新しい学説、流派、思想が中国に導入され、芸術の発展を促進した》として、また見直された。 

1987年、陳酔氏の研究成果《裸体芸術論》が出版され、2年に亘り社会をにぎわした。 1988年、同書の累計印刷数は20万冊に上り、学術専門書がベストセラーになるという出版史上の奇跡を生んだ。 1988年はメディアから“陳酔年”と呼ばれた。

1988年末から1989年初にかけて、また社会を揺るがす事件が起こった。 “油絵人体(ヌード)芸術大展”が北京の中国美術館で開催された。 “油絵人体(ヌード)芸術大展”はすべて裸体作品だけを集めた画展で、中国美術館が開催したもので、これはわが国有史以来初めてのことであり、裸体芸術が中国でまた一歩前進することとなった。

しかしこの裸体芸術が夜明けを迎えている時、またモデル騒動が勃発した。 この展覧会の開会途中で、あるモデルが展示絵の前で、観衆から見咎められ、中傷され、これが基で夫と離婚する騒ぎになった。 もう一人のモデルは、姑がテレビニュースを見ていて分かり家庭争議を引き起こした。 そのためこの二人のモデルが、作品の取り下げを強く要求、また学校に経済的補償と給料アップを求めた。 後者の要求は拒否された。 その後、ある民間法律事務所の応援を受け、二人のモデルは美術学院に肖像権の侵犯で訴えを出した。 この裁判は、また10年かかり、1998年やっと和解し、原告に経済補償することで決着した。

1920年代の騒動と60年後の事件と比較した時、両者に大きな違いがある。 あの当時“ヌードモデル”はただの導火線に過ぎず、知識階級と行政側、進歩思想と封建・保守思想の衝突、モデル本人達とは関係なかった。 今は、観念的衝突から経済的衝突のレベルに突入した。 またモデル自身が前面に立ち、自身の権利を守るために戦った。 人々の自意識が強まり、価値観も変わった。 法意識も変わった。 これらは社会の進歩の反映である。

21世紀は 氾濫するヌードの時代

今日、ヌードを鑑賞し受け入れる人がますます増えている。 “ヌード”は今や、特定の環境の下で自分を見せる心理的解放の場となっている。 中国はヌード氾濫の時代に突入したと言える。

いわゆる“ヌード氾濫”とは、“ヌード”という方式なり手段が一般的に高まり、芸術的なものであれ、非芸術的なものであれ、時にはブームとなって、社会がヌードについて、普遍的関心と理解を持つことをいう。

Photo_8 ヌード撮影については、2002年9月《湯加麗ヌード芸術写真》の出版がきっかけとなったといえる。 自分の名前と身分を公開したヌード撮影集を出版したのは湯加麗が中国初となった。 しかし非難の声が殺到し、ほかのゴタゴタもからみ、一時、湯加麗は社会の関心の的となった。 ネット上でも論議を呼び、メディアはこれを“湯加麗事件”と呼んだ。

だが、この事件と以前の騒動なり事件とは非常に大きな違いがあった。 第一は、以前はネットなどなかった。 今回は伝統的メディア以外に、情報の発信は主にネットで広まった。 第二は、1990年代初めはまだマスコミの盛上がりは少なかったが、今は、大変盛んで虚実入り乱れている。 第三は、モデルが著名人であり、また主にネットで論議され、一般の興味が強く、言いたいことを思う存分言うので、ヌードという話題を更に一般化させた。 この話題は、2003年春の「SARS」の時で、みんなの集中力がそっちに移ってしまったので、もしそうでなかったら、きっともっと長く盛り上がったはずだった。

モデルの歴史全体を見た時、どの騒動、事件も社会の進展と考え方の変化を反映している。 現在のヌード氾濫時代は、少なくとも中国女性の自信、独立、自主性を見ることが出来る。 また中国の社会環境がますます良くなり、中国人が次第に富裕に向かっていることが伺える。 

20世紀初頭、ヌード芸術とヌードモデルが中国に伝わり、裸体芸術は百年の歴史を経てきた。 今、芸術環境は多元化の時代で、裸体芸術は、本来の位置に戻ったといえる。

《湯加麗ヌード芸術写真:紹介》Photo_10 Photo_13 Photo_15 Photo_16 Photo_11 Photo_12 Photo_20 Photo_21

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891中国の三面記事を読む(296)中国ヌードモデルの100年史(中)

2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年

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Photo_11 1924年、上海美専の学生・饒桂挙が南昌で画展を開き、数枚のヌード素描を展示した。 江西の警察は、強制的に閉鎖を命じた。 これが導火線となり、長いモデルをめぐる論戦と裁判が始まることになった。

当時、上海灘の社会的状況は混乱していて、美専が画作展覧会を開くのに乗じて、娼妓の裸体写真を撮ったり、猥褻な絵を描いて、これを“モデル”と称して、あちこちで売り捌いていた。 こうした社会の新しい動きに対し、一部の人々が、そのツケをみな劉海粟に押し付けようとした。

Photo_12 1926年5月4日、上海市の議員姜懐素は、五省の聯軍司令・孫傳芳に上申書を出し、“天下の上海美専のモデル科の「悪の元凶」劉海粟を厳罰に処す”よう求めた。 上海の“正俗社”も劉海粟を“芸術の叛徒に非ず、儒教への反逆なり”と書信で非難しPhoto_13 た。 5月13日、《申報》は、上海県知事危道豊が出した“美専の裸体画禁止”の命令書を掲載した。 情勢が緊迫する中、劉海粟は守勢から攻勢に転ずることにした。 彼は、華東五省の聯軍司令・孫傳芳に直接、危道豊の処罰を求めた。 5月17日、18日の両日にわたり《申報》に、劉海粟は孫傳芳に宛てた“危道豊を非難する手紙”の全文を発表した。 しかし孫傳芳と危道豊は同じ穴のむじなだった。 6月3日、孫傳芳は《申報》で、劉海粟に返信を出した。 穏やかなものだった。 “美は芸術である。 モデルさえやめれば、人々は貴校の不始末など言わなくなります”

Photo_14 しかし劉海粟は、決して孫傳芳の言うままに恩を売られることを潔しとせず、理に基づいて闘おうと思っていた。 6月10日、また《申報》に、公開状を発表した。 “学制変更は全国的問題で一学校だけの問題ではない。 学術の興廃は、みんなで相談して決めるもので、一人で決めるものではない”

大軍閥の孫傳芳は侮辱されたと大いに怒り、劉海粟の逮捕状を密かに出し、上海美専を閉鎖しようとした。 しかし幸いなことに、美専の場所はフランス租界の中にあり、孫傳芳は簡単には手出しすることが出来なかった。 フランス領事は劉海粟に、なんとか孫傳芳と危道豊をなだめるよう説得した。 そこで7月15日、劉海粟は《申報》に孫傳芳宛の三回目の手紙を公開した。 “あなたの仰るとおり、弊校西洋画学部のモデルの裸体部分については、即刻停止します” ほどなく新聞には、“孫傳芳が各地にモデル禁止令を出し、先に劉海粟が沽券に関わると言っていたモデル事件も自動的に収束した”という記事が載った。

これでモデルを巡る騒ぎは一件落着のはずだった。 しかし危道豊がどうしても承知せず、また騒ぎを引き起こした。 彼は裁判所に、劉海粟が発表した公開書簡で、言葉が傲慢で彼の人格を侮辱し名誉を傷つけられたとして賠償を求めた。 最終的に裁判所は、劉海粟に対し名目的な判決・罰金50元を下した。 こうしてヌードモデル騒動は、“金を払ってケリを付け”終わりとなった。

十年かかったこの騒動は、形式的には負けたけれど、実際は勝利だった。 こういう洗礼を受けて、“ヌードモデル”は、とうとう中国の大地、ひいては一部中国人の意識の中に根を下ろすようになったからだ。 この闘争の勝利は、劉海粟の頑強さと雄弁さのほか、五四前後の新思潮、新しい思想が起こった時代的背景、社会の進歩、世論の大きな支持と切り離すことが出来ない。

ヌードモデル 長い幽閉期

十年に亘るヌードモデル騒動で、“ヌードモデル”と“裸体芸術”は、中国の大地に根を下ろした。 しかし発展もしなかった。 というのは、そもそも内憂外患の時代に入り、一般の人達は芸術など構っていられなかったからだ。 だから裸体芸術は基本的に、いくつかの美術学校とわずかな芸術家の範囲内の活動に止まっていた。 しかも大半は、一部の画室でモデルを使った習作作品で、たとえば劉海粟の《裸女》、林風眠の《女人体》のような作品があった。 美術学方面についていうと、裸体芸術とモデル問題をまともに論述するものは皆無だった。

20世紀初頭から1949年までの間は、中国裸体芸術の“揺籃期”といえる。 大きな発展はしなかったけれど、その存在の社会的基盤は出来上がった。 しかし、その次の1949年から1980年までは、中国の裸体芸術にとって、“幽閉期”(休眠期)と言える時代だった。

建国以降の30年、特定の体制と路線の下、裸体芸術の創作は禁止された。 甚だしきに至っては、《堕落のたぐい》と一緒にされ、世界的名画であろうと国内の刊行物に載せることは出来なかった。 建国以降、この分野は“禁止区域・タブー”となった。 だが同時に“特別区域”

でもあった。 新中国では絵画が直接、政治宣伝に活用されるため、西洋画、特にその中の人物画は非常に重用された。 美術学院の中で、油絵、彫塑などでは、従来の教学方式がそのまま残されており、中国画科でさえ、裸体モデルを描く基礎訓練を導入していた。 しかし、これはすべて画室の中だけに厳しく統制されていた。 作品は、絶対に社会に漏れることは許されなかった。 この時代の裸体芸術は“秘密の花園”で、特別に描かれた危険なものだったので、注意深く管理されていた。

しかし、あの特別な歴史の一時期“特別区域”といえども、悪運から逃がれることは出来なかった。 すんでのところで消滅させられるところだった。 

1964年5月“四清”運動(農村や都市の工場や学校で行われた政治運動。 政治・経済・組織・思想の四つを清め社会主義教育を徹底する運動)の初期、康生などが《モデル使用問題について》という報告の中で指示を出していた。 “私は禁止すべきだと思う。 画家になるためにモデルが必要だとは思わない”

3ヶ月後、文化部から《美術部門のモデルの使用廃止に関する通知》が出された。 これは美術、特に油絵・彫塑の教育にとって致命的打撃を与えるものだった。 1965年5月12日、中央美術学院教師・聞立鵬などが中央に書簡を送った。 その中には、“実際の人間(モデル)を写生することは、美術の基礎的訓練で絶対に必要な方法です”と力説し、“少なくとも油絵と彫塑の学科だけは、一定の人体習作が必要です”と意見を述べていた。 この文書は毛沢東の机の上に送られた。 “人体モデル(ヌード)”の運命は、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた。

1965年7月18日、毛沢東主席は手紙の最初の頁に指示を書いた。 “この件は変えるべきです。 老若男女の裸体モデルは、絵画と彫塑にとって必要な基本作業で、なくてはならないものです。 封建思想で禁止するのは妥当ではありません。 たとえ悪いことが出るとしても気にすることはない。 芸術学科のため多少の犠牲があろうと認めましょう” この指示により芸術学科は、正に地獄の入り口から生還できたのです。 1965年11月11日、中宣部から文化部組織を経て、《美術学校と美術創作部門のモデル使用に関する指示》が出され、正式に裸体芸術とモデルは認められた。

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890中国の三面記事を読む(295)中国ヌードモデルの100年史(上)

2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年

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Photo 前世紀初め、欧、米、日へ留学した若い学生が、ヌード芸術とその教授方法を中国に持ち帰ってから現在まで、ヌード芸術には百年の栄光と挫折の歴史がある。 中国最初のヌード習作は劉海粟が創立した上海美専で出現した。 1917年、美専の成績展覧会の中で展示されたヌードのデッサンが、俄然、ヌードモデル騒動に火をつけ、孫傳芳の口出しを招いてしまった。 この芸術を早期に導入し、実践していた教育家・劉海粟は、“芸術の叛徒”“教育界の害虫”と非難され、ヌードモデルを使う、使わせないの闘争がここから始まった。

新中国成立後、ヌードモデルの使用は、大学美術専攻学科の基礎訓練の中だけに厳しく規制されていた。 1965年、毛沢東の指示により、この芸術学科は滅亡の淵から救われた。

中国初期のヌードモデル

もじもじと登場からヌード時代へ

Photo 裸体芸術とヌードモデルが中国に伝えられてからもう百年になろうとしている。 どのヌード騒動の時も、社会の進歩と意識の変化がはっきりと見て取れる。 中国の古代にもこういうことはあった。 しかし西洋芸術のような意味での、ヌード芸術創作方式と密接不可分なヌードモデルの写生訓練が中国に伝わったのは、20世紀に入ってからのことだった。

第一期のヌードモデルは、もじもじと登場

20世紀初め、欧、米、日へ留学した若い学生が、西洋芸術で重要な意義を持つヌード芸術とその教授方法を中国に持ち帰り、美術学校でヌードモデルを描く科目を開設した。 一番早くこれを始めたのは、後に出家して和尚となった李叔同だった。 記録によると、彼は1914年、浙江第一師範学校に初めて人体写生課を作った。 しかし、これは学校内部だけに限られ、社会の敏感分子とは接触なく、従って、当時は社会の関心を呼ぶことはなかった。

“モデル騒動を引き起こし、後世に大きな影響を与えたのは劉海粟です” 中国芸術研究院美術研究所研究員の陳酔氏はこう語る。 1912年、劉海粟は上海で上海図画美術院を創設し、二年後、西洋画科に人体モデル写生課を作った。

しかしその当時モデルを探すことは一大問題だった。 女性モデルは無論のこと、男でさえ見つからなかった。 最後の手段として、どこから連れてきたのか分からないが、“和尚”という綽名の15歳の男の子を探してきた。 最初来たばかりの頃、男の子はもじもじしていたが、日が経つにつれだんだん慣れていった。 “これが中国美術学校でヌードモデルとして名前を残した第一号の人でした。 ただ綽名でしたが”と陳酔氏は語った。

だが学生達は、子供の体だけでは満足せず、成年モデルを探すことが急務となっていた。 その後、学校の用務員が、“やって見よう”と言ってくれた。 ただ半身を脱ぐことに同意しただけだった。 学校側は、まず最初半身裸でも、そのうち時間が経てば、全部脱いでくれるだろうと考えていた。 ところがこの人は一向に全裸になることを承知しない。 学校側は仕方なく、給与を高くしてあちこちにヌード募集を働きかけた。

高い給料により、多くの人が応募に訪れた。 しかし、これらの人々は、いざアトリエに入ると、びっくりして逃げ出した。 最後に、男性がやって来た。 劉海粟が彼と条件について話し、もしその場から逃げる時は罰金を科すと話した。 その人は、二つ返事で承知した。 しかしアトリエに入ると、“罰金払うよ”とぶつぶつ言い出した。

劉海粟の回顧録の中に、その時のやり取りが書いてある。 「私はその人に訊ねた。“なぜ罰金を払うと言ったんです?” 答“人の前で裸を見せることはできません” 質問“なぜ裸になれない?” 答“みんなの前では恥ずかしい” 私が“身体は誰にもあるものだ。 衣服は身体を保護するものであって、あなたの身体を見せないための服ではない。ちゃんとしたことをやらないで、逆に罰金を払うなんて、おかしく思いませんか?” 劉海粟の硬軟両用の戦術が功を奏した。その人は、私の言葉に動かされたようで、しばらく考えた後、そろそろとその服を脱ぎ、緊張した素肌を見せた。 すばらしい曲線、恥ずかしさのためだろう肌はバラ色のように赤味を帯び、血流の流れもわかり、初習者達を驚かせた」

“このようにして、この名も分からない男性が、本当の意味での中国人ヌードの最初の成人モデルとなった”と陳酔氏が語った。

そして、中国の最初の女性のヌードモデルとなったのは、白系ロシアの女性で、1920年にやっと“誕生”した。 それからは、女性モデルを使うことも珍しくなくなった。 北京美専、上海神州女学校美術科、美術研究所や一部画家個人の練習、創作などで女性モデルを使うようになった。

十年間続いたモデル騒動

教育に限って言うなら、20世紀初頭の中国に伝来した“西洋のもの”など誰も気に留めなかったはずだ。 しかし一度、裸体画が一般に公開されるや、情況は一変した。 十年にも亘り全国を震撼させたヌードモデル騒動は、1917年、上海美専が行った成績展覧会が発端だった。 渦中に巻き込まれたのは、誰あろう劉海粟だった。 その年の夏、上海美専は成績展覧会を開催した。 その中に、裸体の習作が入っていたため、参観者の度胆を抜いた。 その中で、城東女学校の楊白民校長の反応が強烈で、彼女は劉海粟を“芸術の叛徒、教育界のうじ虫”と罵った。 そして文章を書き、この展覧会を“理性をなくし、生殖器を崇拝する展覧会”だとし、非難キャンペーンを繰り広げた。 これがモデル騒動の第一号である。

1919年、劉海粟らはまた、小さな画作展覧会を開いた。 その中には、数枚の裸体画があった。 展覧の期間は5日間。 罵声が引っ切りなしに浴びせられ工部局も調査にきた。 工部局の職員は裸体画は数枚だし、展覧期間も間もなく終わるということで、特に何もしなかった。 これがモデル騒動の第二幕。

この二つの事件の社会的影響は、それほど大したものではなかった。 展示されていたのが男だったからだ。 しかし、モデル騒動第三弾の社会的影響はものすごいものだった。

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841中国の三面記事を読む(266)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ⑤【完】

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

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23 その後、潘玉良の身体は一進一退が続き、年と共に体力は衰えていった。 望郷と友人達に会いたいという思いが強くなった。 体調がいい時、彼女はセーヌの河岸をよく歩いた。 疲れて河辺の石の上に坐っては、河を見ながらボーっとすることが多くなった。 ここはまるで蘇州河の乍浦橋のようだった。 特に落日の時の川面や河岸に木の芽が芽吹き、新緑の並木が出来る頃、春の暖かな風に吹かれ2 て、河水がかすかにさざ波を立てる様は、黄浦江の波を思い出させるものだった。 昔、彼女はよく乍浦路の橋の上から、遠く朝日が黄浦江の朝霧を押しのけ上がるのを見ていたし、近くの蘇州河畔の落日の壮大な美しさを見ていた。 あの真っ赤な火の海をどうして忘れられようか? 人生に絶望した時、彼女はいつもそこに落ち着き先を求めた。

3 ちょうどこの時、二人の恩師が訪れ、彼女を絶望の淵から引き戻し、彼女に芸術の門への通行許可証を渡した。 それ以降、彼女は人間界に立ち戻ることが出来た。 でも誰が、彼女の上海への思いを理解出来たろうか?―――彼女は生涯を通じ第二の故郷と思っていた。

7 1964年、中仏が外交関係を樹立した。 黄鎮が初代駐仏大使となった。 黄鎮は若い頃、上海芸專を卒業しており、同窓として、彼は何度か潘玉良に会い、彼女に祖国の発展の状況を話した。 潘玉良は、帰国して親しい人達に会いたい、そして絵の創8 作もしたいという気持が強くなった。 彼女は子供に手紙を書き、帰国し親戚回りをしたいと頼んでいた。 ところがその願いは実現されなかった。 “文化大革命”ののろしが上がったためだ。 運動が終わった頃、彼女は病に侵され、医師から長期旅行の禁止を申し渡されていた。 彼女は生きている間に、自分の作品を祖国に運び、人々に真価を見てもらいたいと、どんなに思っていたことだろう!

4 1977年7月22日、潘玉良は光り輝く流星のように、パリの夜空から消えていった。 臨終の前、彼女は後半生面倒を見てくれた王守義に“彼女が果たせなかった願い”を実現するよう頼んだ----------後日、祖国へ戻ったら、潘贊化と結婚した時のネックレスと二度目に彼女がフランスに来る時、潘贊化が贈ってくれた銀製の懐中時計を、必ず潘贊化の身内に渡すよう頼んだ。 ネックレスは潘玉良と潘贊化の花嫁・花婿の写真同心結(中国の伝統的な結び5 方で、相思相愛の象徴。)のようにして飾ったものだった。 懐中時計は蔡鍔将軍が潘贊化に贈った貴重な品物であり、潘贊化が黄浦江で潘玉良に“餞別記念”として贈ったものだ。 王守義は両手にネックレスと“蔡鍔”の文字が見える懐中時計をしっかり手にしながら、目に涙を浮かべ、おえつと共にうなずいた。 それから間もなくして、潘玉良は目を閉じた----

6 葬儀の日、墓前には鮮花が沢山飾られた。 中国大使館の献花が一番目につくところに置かれた。 墓地には、美を追求する、肌色の違う、国籍も違う人々、フランスの人々が、哀悼を表す「エゾギク」や「紫色のカーネーション」の花束を持ち、悲しみと哀惜の涙を流していた。 芸術界の友人達は、彼女の死を心から悲しみ、彼女に別れを告げた。 ツルツルとした黒色の大理石の墓石に、白い大理石の11 玉良のレリーフが嵌めこまれた。 像の下の方には、10枚ほどの形の違った美しいメダルが掛けられ、右側に一行、中国の漢字で書かれた碑文があった。 「芸術家潘玉良之墓(1899-1977)」

中国の芸術家の中で、潘玉良は彫像作品で初めてパリ12 現代美術館に展示された。 この世界芸術の貴重な宝庫の中に、彼女は芸術を追求した中国人として、足跡を残すことになった。 彼女は数多くの困難を克服し、ままならぬ運命に立ち向かい、彼女の生命と才能はすべて人類の芸術に捧げられた。 彼女の現代芸術に対する貢献と画壇14 に占める地位は、たゆまぬ努力と追求により勝ち取ったものだ。 彼女の油絵は、現実主義、印象主義、野獣派など、多くの西洋絵画の各流派の基礎を基に、中国の伝統芸術の線描手法も取り入れ、中国芸術の味わい、詩情も見られ、大胆な構図、華やかな色彩の中に、律動感と美意識が感じられた。 

16 彼女の国画は、文人画のあっさりして上品なものとは違い、西洋画技法と後期印象派の手法を取り入れながら、また中国民間芸術の素朴さ、重厚さ、静謐さの味わいを取り入れ、中国の筆墨精神と西洋画の実体感の一体化に成功し、独特の美の境地を見せている。

17 1983年、中華人民共和国文化部は、中央美術学校、広東美術学院の専門家をフランスに派遣し、王守義が潘玉良のためフランス・パリ博物館に保存していた3000余件の芸術作品を全部祖国へ持ち帰り、安徽省博物館に収蔵した。 1992年、上海美術館と安徽省博物館は合同で、20 上海で、“潘玉良画展”を開催した。 2002年3月8日の“国際婦人デー”に、上海図書館、安徽省博物館、上海大学美術学院は合同で、“潘玉良人体絵画精品展”を開き、若い観客に潘玉良の芸術作品を鑑賞させると共に、彼女の芸術へのたゆまぬ努力の足跡を紹介した。

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840中国の三面記事を読む(265)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ④

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

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30 1928年冬、潘玉良は首尾よく学業を終え、喜び勇んで帰国した。 9年に亘る異国での漂泊のつらい日々を終え、上海美術専科学校の西洋画学部の主任になった。 二ヵ月後、王済遠先生が潘玉良のため「中国最初の女流画家展」を開催してくれた。 この画展は、全部で200点あまりが展示され、中国画壇に衝撃を与えた。 《申報》は、この画展の16 特集記事を載せた。 遠くローマにいる劉校長からも、このニュースを知って祝賀電報が送られてきた。 初めての画展の成功は、帰国したばかりの潘玉良に大きな自信を与え、彼女は更に一層努力を続け、1932年、彼女は、上海で二回目の個人画展19 を開いた。 欧州視察から帰国した劉校長も画展に訪れた。 校長は《浮山古刹》の前に立ち止まって、絵を見ている人達に、“見てご覧なさい。 なかなか趣のあるお寺です。 実に良く描けている。 作者の西洋画の基礎がしっかりしているからです。 技術も熟達しており、作品の構想もとてもいい”

その場にいた見学者達の誰もが賛同した。 だが校17 長は、話を一転すると、“しかし、このデッサンは私の好みではありません。 私は西洋芸術の手法を基に、我国の絵画芸術をもっと豊かに発展させてもらいたいと思います-------------” 玉良は衝撃を受けた。 彼女は自分の作品には個性がないのかと真剣に感じた。 その後、自分の芸術の栄養分として充実させ豊かにするため、彼女は黄山、廬山、浮山、27 揚子江などを歩いた。 小学生のような礼儀正しさで、名師に会いに行った。 古えの石濤、八大、沈石田から、近くは斉白石、張大千、劉海粟、黄賓虹、林風眠、采百家の優れたところを学ぶとともに、山頂、峡谷、画室、教室、河畔、林間などで絵を描き続けた。 二年後、彼女は新境地を開いた新作を発表し、人々から称賛を得た。 彼女の4回目20 の展覧会は、明復図書館で開かれ、百点ほどの最新作が展示された。 そのなかの《私の家庭》、《痩西湖の朝》、《白蕩湖》と《春》が、画壇の話題となった。 参観者が沢山訪れ、明復図書館は、かってない賑わいを見せた。 また多くの美術青年が、31 遠路はるばる見に訪れた。 彼女はしばしば彼らに取り囲まれ、絵画技法について質問を受けた。

これが潘玉良の活動の一番盛んな時期だった。 日本が、以前から狙っていた中国侵略戦争が始まり、中国は民族の危機に陥り、夥しい難民が路頭に迷い、帰るべき家を失くし、死線をさまよっていた。 民族絶滅の危機に直面し、亡国奴になりたくない人達は、大規模な救国運動に参加していった。 抗戦1 中、潘玉良も大きな熱情を持って、当時の美術界の募金展覧会の活動に参加し、その講演の中で、“一部有名人”達は、現実から遠ざかり絵を描かないと批判した。 しかし、そのため恥知らずな連中から、“娼妓が象牙の塔を汚すな”などという中傷を受けてしまった。 玉良は、それに動じず、なお一層、芸術創作と社会活動に打ち込んだ。 彼女は自分の芸術に対する思いと愛情を、油絵“白菊”に託し描き上げた。

21 1936年、彼女は5回目の個展を開いた。 これは彼女の祖国での最後の画展となった。 展示品の中の大きな油絵《人力壮士》、絵の中に表現されているのは、裸体の中国の力持が、小さな草花を踏みつけている大きな石を、両手で持ち上げていると23 ころ。 東北三省(満州)を踏みつけ、虎視眈々と中国の大地を狙っている充血した目、風雲急を告げる情勢、災難に遭う庶民、人民の叫び、権勢ある高官の知らぬふりなどを、彼女の心の中で悲壮な大合唱として構成したものだ。 彼女は力に対する賛美でもって、民族の危機を救う英雄に対する敬意を表現した。 参観に来た観衆の多くはこの絵の前に長いこと立ち、静かに感動を受けていた。

24 潘玉良もこの絵を愛し、自分の手元に保存しようと考えていた。 しかし画展が開かれたその日、教育部長の王雪艇がこの絵を買いたいと申し出た。 彼女も拒絶できず、1000元銀貨の予約を受け、画展終了後、絵を引き渡すことになった。

ところがその晩、画展会場が打ち壊され、《人力壮士》も切り裂かれ、そのそばに“妓女がに捧げた賛歌”と書かれたメモが貼られていた。 昔の古傷がまた、心ない人からあばかれ、潘玉良は呆然とその場に立ち尽くした。 メチャクチャになった展覧25 会場を眺めながら、悲しみをこらえることができなかった。 何年たっても、彼女の過去を許そうとしない人がいる。 しかし現在の潘玉良は、もう昔のひ弱な小娘ではなかった。 長年の苦労と夫・潘贊化の彼女に対する愛情が、彼女に強さと忍耐を学ばせた。 彼女は泰然自若として笑顔を見せながらこれらクズ達の攻撃・非難に耐えた。 これは自分の業績に対する批判ではないだろうか?

26 彼女の三不主義により、潘玉良のフランスでの晩年は、金がなく大変苦しい生活を送った。 彼女は限られた生活の中で暮らした。 王守義は数十年来の数少ない友人の一人だった。 王守義は、早くからフランスで働きながら勉強していた学生だった。 29 潘玉良とは苦学生仲間だった。 彼は善良で人情に篤い人だった。 後にパリのサン・ミシェル街で、「東方飯店」という中国料理店を開いた。 彼は仕事の合間に、しばしば、この貧しい暮らしの友人のところを訪れた。 時には、朝早く玉良のところへ行き、彼女と一緒に公園を散歩したり、お昼には、彼のレストランへ連れて行き食事を食べさせたりした。 ある時、玉良の画室が雨漏りして、絵が描けなくなったことがあった。 王守義は、材料を買ってきて、部屋の中を修理した。 輝かしく活躍している時も、日の目を見ない時も、王守義は黙って彼女に寄り添い、この老画家を援助し、暖かく慰めた。

1960年、潘玉良は、自分を一生愛してくれた夫・潘贊化が安徽で病死したことを知った。 彼女はとても悲しみ、遠い空を眺め、ふさぎこんで病気になってしまった。 彼女は、自分の心がポッカリと空いてしまった感じがした。 家へ戻る希望、夫への思い、再会を想像すること、これらすべてが夫の死と共に消えてしまった。 彼女の一生の中で、この時ほど、孤独と寂しさを感じたことはなかった。 昔の思い出が、一つ一つ頭の中に浮かんできた。 彼が玉良を連れて、ハス池をそぞろ歩きしたことや、灯りの下で間近に勉強を教えてくれたこと、湯気が立ち上っている「銀耳スープ」(シロキクラゲの滋養スープ)を持ってきてくれて、一サジ一サジ口元まで持ってきて飲ませてくれたこと、また、腰をかがめて築山から出てきたところや、彼がウーソン(呉淞)港で彼女の帰りを待っていてくれたこと----------など、目をつぶると、彼が笑いながら彼女の方へ歩いてくるのが見えた。 彼女は、これは幻覚だとはわかっていたが、この短い幻覚の中に浸っていたい、ずっとこの幸せが醒めないでほしいと願っていた。

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839中国の三面記事を読む(264)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ③

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

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Photo 上海美術専科学校に入った潘玉良は、このまたとないチャンスを大切に思い、懸命に勉強した。 成績は優秀で、いつも先生や劉校長から激励された。 黄浦江の朝日、蘇州河の落日、虞美人の墓、黄道婆Photo_2 の遺跡などでスケッチブックを手に一学年を送った。 二学年目には、人体デッサン課程が設けられ、健康な女性のヌードを描くことになった。 潘玉良はこれまで風景画は得意だったが、これまでのような自信が持てなかった。 今まで欠点など指摘されたことのなかった彼女は、初めて困難にぶち当たった。 ある日、彼女はお風呂に入った。 湯気28 がもうもうとたちこめているお風呂場で、彼女の目がパッと輝いた。 一年間、ヌードの授業があったが、モデルを描くチャンスがなかなかなかったからだ。 彼女はこの授業の成績に満足していなかっPhoto_3 た。 西洋画を学ぶのに、これは大事な授業である。 だからもっと練習するチャンスがほしいと思った。 ここは人体を練習するのに絶好の場所ではないか? 彼女は風呂に入る考えを取り止め、急いで宿舎に戻り、スケッチブックと鉛筆を持つと、洗い場の片隅で素早く描き始めた。 彼女は芸術を実行している興奮の真っ只中にあって、洗い場の音や18 風呂場特有のワンワンと響く音は一切耳に入らなかった。 彼女が考えていたのは、健康な人体と曲線を瞬間的に捉え、筆先を大雑把に走らせ濃淡で身体の線を描きあげることだった。 そうやってみごと19 な体形の浴女群像を、素早く何枚か描きあげることができた。 彼女が一生懸命描いている時、運悪く好奇心の強い女に見つかってしまい、大騒ぎとなった。 その混乱の中、彼女はしっかりと絵を胸の前32 に隠していた。 その時、以前、美専でモデルをしていた女の子が助けてくれ、ほうほうの体で風呂場から逃げ出した。

この思いがけない騒ぎに、彼女はビックリしてしまった。 このような事件を二度と起きないようにするため、彼女は自分をモデルにすることに決めた。 日曜日、彼女は家へ戻ると、窓を閉め、カーテンを下ろし、炭火をおこし、部屋の中を暖めると、大きな鏡の前でゆっくりと服を脱いだ。 午後の間ずっ1 と、芸術に夢中になり、休まず描き続けた。 この自分の裸体画の肌の弾力性、皮膚の下の血液の流れる感じが見て取れたところで、うまく顔を隠し、彼女は満足の笑みを浮かべた。 この《裸女》と命名2 された習作は、その後、学校主催の「教師・学生連合展覧会」に出展され、一時、全校の話題となった。 劉海粟校長は、彼女を呼んで、この作品の制作過程を訊ねた。 彼女はありのまま話した。 劉4 校長は黙って足元に目を落としながら、爪先で地面をたたいていたが、暫くたって、“玉良さん、西洋の絵は、中国ではいろいろ制限があります。 卒業したら、やはり欧州へ行くようにしなさい! 私がフランス語の先生を探します。 フランス語を勉強しなさい!”

7 夫の同意と支持を得て、潘玉良は上海を出発することになった。 あこがれを胸に、彼女は欧州留学の第一歩を踏み出した。 フランスへ到着した後、彼女はリヨンの中仏大学で、一ヶ月のフランス語の補習を受けた後、デッサンの成績が良かったので、国立リヨン美専に入学した。 1923年に、パリの国立美専に転校し、ダン・シーモン教授に師事することになった。 この期間、彼女はクラス・メートの徐悲鴻、邱代明などと、パリの凱旋門、波がきらめくセーヌ川などに足跡を残している。 二年後、その絵の素質がローマ国立美術学院絵画学部のカンロマッチ主任教授の目に留まり、同学部三年に入ることが出来、同学院の最初の中国女性画家となった。 芸術の都ローマ、そこは広大な古代建築と数多くの芸術品が秘蔵されていることで世界に知られており、ここで彼女は学術権威のジョーンズ教授の学生となった。 1928年、彼女は油絵専攻科を卒業し、ジョーンズ教授の彫塑班(彫刻と塑像)に正式に入ることになった。

遠く国外にいた潘玉良は知らないことだったが、この頃中国では、北伐戦争の勝利があったけれど、多くの軍閥が、国民政府の高官に変身し、国民や同盟会の不満を呼んでいた。 潘化の親友・柏烈武は危うくこれに巻き込まれ罪を被り死にそうになった。 潘化も巻き添えになり税関の監督の仕事を失ってしまった。 南京政府実業部は、彼に「専員」という閑職を与えただけだった。 もともと少ない留学の費用は、途絶えがちになった。 その上、官職を失っていた潘化は、心中面白くなく、玉良に手紙を出すのもまれになった。 そのため衣食を切り詰めても、彼女の生活はとても苦しくなった。 彼女はしばしば腹をすかして授業を受けることが多くなり、頬もこけ、顔がげっそりとなっていった。

1929年の春、彼女は4ヶ月も手紙やお金を受け取らないでいた。 身体は衰弱し、歩くことさえやっとで、彫塑の時など、しばしば立ちくらみを起こすほど体力が弱っていた。 しかし負けず嫌いの彼女は、誰にも話すことなく、歯を食いしばり休みながら勉強を続けた。 しかし、とうとう自分の視力が悪くなったのがわかった。 彼女とそんなに離れていないモデルの鼻や目の位置さえ見えないのだ。 塑台のねんどさえぼんやりとしか見えなくなり、自分の手の中のねんどの色も判別できなくなった。 彼女の驚きはひとしおでなく、もし失明したらどうしよう? 学校を卒業できなかったら、友達や先生に顔向けできないではないか? 彼女の異常に、ジョーンズ教授が気付き、そのいきさつを知ると、教授は涙ぐんだ。 なんていい学生なんだ。 芸術の生命力がどこにあるんだろう? きっと潘玉良のような芸術を愛し、芸術を命と見る者の粘り強いガンバリ精神にあるんだ。

“あなたはすぐ治療を受けなさい。 画家が目が見えなくてはしょうがないでしょう?” 教授はすぐに、クラスのみんなと自分を含め寄付を集めると、彼女を励まして言った。 “これは募金でも同情でもありません。 これは芸術を助けるため、芸術をする人の目を助けるためのものです。 受け取りなさい!” 潘玉良は、みんなの心配に感謝しながらも、強烈な民族的自尊心から、みんなに面倒をかけてはいけない、と思いためらっていた。 双方がそうやって譲らないでいる時、「欧州現代画展」選出委員会からの賞金を受け取った。 同封の手紙には、「潘玉良女士、あなたの油絵《裸女》が三等に選ばれました。 賞金5千リラを贈ります」とあった。 この賞金は、正に急場の助けとなった。 彼女は飢餓に打ち勝ち、順調に卒業試験を通り、間もなく卒業という時に、潘玉良は欧州視察に来た母校の劉海粟校長と偶然に出会った。 異国での再会に彼女はとても喜び、老校長を抱きしめた。 しばし言葉も出ず、ただ目から涙がこぼれ落ちた。 次の日、彼女は校長を学校へ案内し、彼女とクラスメートの画室を見せた。 ジョーンズ教授は、校長に潘玉良のことを褒めちぎった。 異国の教授とクラスのみんなが自分の生徒を高く評価しているのを見て、劉校長は誇らしく感じた。 即座に、劉海粟校長は玉良に辞令を書き、彼女が帰国したら上海美術絵画研究室主任兼指導教官に任命することにした。

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838中国の三面記事を読む(263)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ②

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

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14 その夜、潘玉良は、何度も寝返りを打ち眠れなかった。 潘贊化が疑われる危険を冒し、自分の名誉を気にすることなく、彼女を引き取ってくれ、しかも部屋を譲ってくれたことに対して申し訳ない気持で一杯だった。 自分のこの思い切った決断が、彼女の一生を変えたばかりでなく、中国に世界的な芸術家を生むことになるなど思いもよらないことだった。 彼女はただ怡春院に、二度と戻りたくない18 ことだけ考えていた。 心正しい潘大人が彼女を助けてくれたなら、大人になんとしてもしっかり報いたいという気持で一杯だった。 なんとも言えぬ暖かいものがこみ上げてきて、興奮して、どうしても眠れなかった。 思い切って起きだし、上着を羽織り、机に向かい明かりをつけた。 紙を見つけると、そこに、小さい時から好きで慣れ親しんだハスの花を描いた。

22 一夜の間に、光が潘玉良の生活を明るく照らすようになった。 彼女は自分が一挙に頼るべきものが出来、期待をもつことが出来、普通の生活が出来るように感じた。 この思いは、潘贊化が“新編高級小学教科書”を彼女に渡し、手を取るように字を教えてくれた時、更に強く感じた。 彼女は何も求めてはいなかった。 ただ、潘大人の側で使用3 人として毎日大人のお世話をし、彼の教えを受けることできるなら満足に思えた。 だから潘贊化が彼女を身請けし、実家に戻し自由の身にさせると知ると、彼女は天国から地獄に

落ちたような絶望感を感じた。 この無慈悲な世界4 に、彼女には身内はなく、彼女の心の中では、潘大人だけが身内のように思えた。 彼女の生活を導く明るい希望で、いつしか潘大人は彼女の唯一の人となり、彼なくしてはどうしようもなくなってしまった。 そこで、彼女はま5 た彼に家に置いてくれるよう頼んだ。 その時も、彼女の包み隠しのない話が、潘贊化の心を揺り動かした。 彼が玉良の心をわからない筈がない。 彼は彼女より12歳年上で妻もいる。 彼はこの聡明で心やさしい娘を苦しめたく8 なかった。 しかし、街中うわさが広まり、デマが飛び交っていた。 世論が彼らの運命を結びつけてしまった。

1913年、潘玉良と潘贊化は、陳独秀の立会いの下、正式に結婚し、夫婦となった。 新婚の夜、玉良は張姓を潘姓に変えた。 一つには自分の夫に対し感謝の気持を表すため、二つ目は自分の新生活のスタートとするためだった。

結婚後間もなく、潘玉良は夫に従い、この辛い思い出の地10 に別れを告げ、上海に赴き新居を構えた。 新しい生活が始まった。 彼女はまるで春の季節、ヒナのツバメが、明るい陽の光の中、飛び立つ練習をしているかのようだった。 

二人は漁洋里というところの一軒家に落ち着いた。 漁洋里は上海のありふれた通りで、道幅は狭く、家並みは低く、住んでる人の多くは中下層の知識人が多かった。 雑誌《新青年》は、ここで誕生した。 二人が住んでいる所の庭は狭かった。 灰色のレンガを積んだ低い塀が箍のよう6 に取り囲んでいた。 古い建物は2階と1階が曲尺のように繋がっており、その直角で空いている場所にはクスノキが高く伸びていた。 その根元にはクスノキの花の残骸が積もったままとなっており、そこからかぐわしい匂いが漂っていた。

7 潘玉良は、数日の時間をかけて必要な生活用品を買い求めたり、部屋の中を片付けたりした。 玉良の手により、小さな家はきれいになった。 彼女はまた、自分の思いのこもったあの“ハスの花”を、箱の中から取り出し、寝室の壁に飾った。

潘玉良の勉強を中断しないため、仕事に忙しい潘贊化11 は、彼女のために教師を雇った。 先生は、毎日午前三時間は授業の時間、午後は練習問題を行った。 彼女はむさぼるように勉強した。 その勉強ぶりは先生を驚かせた。 ある日、彼女は何気なしに、隣の家の洪野さんの家の窓辺を通った時、洪さんが絵を描いているのが目に入っ12 た。 それ以降、彼女はしばしばこの窓辺に立ち止まり、黙って眺めるようになった。 いつも静かにそっとしていたけれど、そのうち洪さんに見つかってしまった。 洪野さんは当時、上海美術専科学校の色彩学の教授だった。 潘玉良の模写した習作を見て、彼は信じられないように玉良を見直した。 それはどうしても正規の教育を受けていない人の習作ではなかった。 絵を教えるという返事を聞い13 て、彼女はとても喜んだ。 それからは、家事の合間、潘玉良は洪教授から絵を教えてもらうことになり、彼女の芸術への苦難の道が始まった。 潘玉良は生まれつき聡明で、ガンバリ屋だったので進歩も早かった。 洪野先生は潘贊化への手紙の中で次のように誉めている。 “----私はあなたにうれしい報告をします。 私はあなたの13 奥さんを正式に私の学生とし、無料で美術を教えています。-----彼女は美術の感覚がものすごく鋭く、感受性も豊かです”

1918年、夫と先生の激励の下、潘玉良は上海美術専科学校を受験した。 沢山の受験生に混じって、彼女は落ち着いて絵筆を振るい、順調に答案を書き上げた。 洪野先生が彼女に成績はいい出来だと言った時、彼女はとても喜んだ。 彼女は、自分の努力で人から認められたのだと思った。

しかし、合格発表の時、彼女は合格者リストを何度も探したが、自分の名前を見つけられなかった。 これは当時の教務主任が、美専が絵のモデルの件で問題となり、社会から攻撃を受けたことがあったので、妓楼出身の女性の入校を受け入れたら、学校の看板に傷をつけると考え、潘玉良を合格させなかったのだ。 希望に胸を膨らませていた潘玉良は、この理由を知り打ちのめされた。 彼女の顔はその瞬間蒼白になった。 よろよろとしながら、家へ戻る途中、彼女には泣く気力さえなかった。 芸術は真実であり、厳粛なものである。 しかし規則、基準を設ける人達は真実でなく、理解の乏しい人達が多い。 社会という世論、旧道徳の擁護者は、一本の目に見えない縄のように、芸術の首をきつく縛っており、1920年代の中国を歩きにくくしていた。

蘇州河のほとりで、潘玉良はがっかりして何をする気にもなれず、じっと立ち尽くしていた。 河の風が、彼女の髪を吹き抜けていき、疲れ切った顔は氷のように冷たくなっていた。 “なんで、なんで天の神様は、こんなに不公平なの? なんで人は私の過去を放って置いてくれないの? なんで真人間になるチャンスをくれないの?” 彼女は結婚したら、昔のことは遠くなり、新しい生活が出来ると思っていた。 ところが悪夢のあの頃のことが、しっかりと根を張っているのだ。 “玉良、玉良! 合格だぞ! 本当だ、劉校長ご自身が知らせに来てくれたぞ!” 洪先生の喜びの声が、彼女の瞑想を打ち破った。 彼女が振り返ると、劉海粟校長のやさしい笑顔が目に入った。 “本当です。 間違いありません” 劉校長は、彼女にお祝いを言った。 神様、神様が、彼女の呼びかけを聞いてくれたのだ。 彼女の目からたちまち涙がこぼれ落ちた。 しかし涙の中に笑顔があった。 

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837中国の三面記事を読む(262)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ①

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

来源: 中国江 网友评论 44  论坛

 

Photo_2 中国近代画史をひもとく時、伝奇的色彩の強い女性画家が目に入ってくるはずだ。 彼女は民国時代(1912年成立)初め、女性として新美術教育を受け画家となった典型的な人物だが、普通の人が想像できない気力と多くの犠牲を払い、自分の一生をかけて芸術を追求し実践した。彼女こそ有名な渡仏の画家・潘玉良である。 上海を起点として、潘玉良は2回、Photo_2 海を越えて異郷の地パリで厭きることなく、芸術活動に従事、50数年を過ごした。 彼女は孤児---半玉(妓女)------芸術の追求者---中国最高学府の教授---世界芸術界で認められた芸術家という波乱万丈の生涯を送った。 彼女の油絵の作品は中洋折衷で、色彩や線34_2 はほどよく描かれ、筆使いは洒脱で、なかなか気品があり、色彩は華やかで美しく、味わいあるものだ。 外国人の目からも、芸術の天分がある中国人と見られ、彼女の作品は何度もフランスの代表的なサロンに展示された。 またアメリカ、イギリス、22_2 イタリア、ベルギー、ルクセンブルクなどの国で個展を開き、フランスの金像賞、ベルギーの金の盾賞、銀の盾賞、イタリアロ-マの国際芸術金の盾賞など20数個の賞を受賞した。彼女はその数奇な一生の間に、2000件あまりの芸術作品を残したほか、心を揺さぶる数多くの感動的な物語を残した。

15_2 潘玉良、本当の姓は張である。 古い街(江蘇)揚州の貧しい家に生まれた。 一歳の時、父を失くし、二歳の時、姉を失くした。 八歳の時、互いに寄り添うようにしていた母親も、不幸にして世を去ってしまった。 生きる支えを失い、天涯孤独となった彼女は、母方の叔父さんに引き取られた。 ところがこの叔父さんは、賭け事が好きで、彼女が13の年に、賭けの返済のため、彼女を(安徽)蕪湖へ騙して連れ出し、県城にある怡春院に売り飛ばしてしまった。 そして半玉(未成年の妓女)となった。

9_2 何度も逃げ出そうとしたり、首を吊ろうとしたが、いずれも失敗した。 まだ小さい潘玉良は、次第に心を閉ざすようになった。 この呪うべき妓楼の中では、最初の日から人間としての自由はなかった。 ほかの女性たちと同様、おかみの金儲けの道具でしかなかった。 そういう中にあっても、彼女の心の中には、彼女自身説明できない希望が、胸の奥にいつもあった。“私はここから出て行く。 必ず出てみせる” 彼女は、毎日漠然とこう考えていた。 

8 17の年、潘玉良は顔かたちが美しく、なかなか垢抜けているということから、その名は遠くまで知れ渡り、蕪湖界隈では評判の名花の一人になっていた。 その年、税関の監督・潘贊化が蕪湖に赴任してきた。 土地の有力者達がお近付きのためと、特に玉良を呼び弦楽で興を添えようとした。 歓迎会の席上、玉良は琵琶を奏で、そして素晴らしいノドで《卜算子》という昔の歌を、抑揚をつけながら歌って見せた。

不是愛風塵,似被前縁誤。

花落花自有总赖东君主。 

去也终须去,住也如何住? 

若得山花插满头,莫去。 

【風塵(娼妓)など好きでなった訳ではない。 すべて運命なのです。

 浮世のよしなきことは すべてあなたにおまかせします

 いずれ自由になるにしても それまで籠の中

 花をいっぱい頭に挿す そんな暮らしがしてみたかった】

 

歌は二回繰り返された。 切々とした中に幸福と自由を求める、歌の調べが部屋中に響き渡った。 

9 潘贊化は、元々は桐城(安徽省桐城県)の才子で、若い頃、日本に留学し、早稲田大学を卒業し、その後、孫中山に従って辛亥革命にも参加し、反封建、反圧迫運動にも加わった風雲児だった。 思いがけず、今日の宴会で、このような哀切極まりない節回しを聞き、目の前のこの妓楼の女性をしげしげと見ないではいられなかった。 暫くたってから、彼は玉良に声をかけた。 “今のは誰の詞ですか?” 玉良は深くため息をつくと、“私と同じ運命の人が作ったものです”と答えた。

10 潘贊化は、また訊ねた。 “私が聞きたいのは、その人は誰?” 玉良は独り言のように、“南宋の天台営妓の厳蕊です”と答えた。 潘贊化は、うなずくとじっと彼女を見つめた。 “ほう、なかなか学があるな” 誉められて玉良は、恥ずかしそうに顔を赤くし、“大人、私は学問などしたことありません” 潘贊化は思わず、“ホーッ”と声を上げ、“惻隠の情”が湧き上がった。 “惜しい、まことに惜しい!” このわずか数分の短い会話を、商工会議所会長は意味ありげに聞き、心の中で思いを巡らせていた。

23 その晩、潘玉良は、顔中笑顔のおかみさんと会長にムリヤリ車に乗せられ、潘贊化総督への贈り物として、潘家の屋敷へ送られた。 総督大人にちゃんとお仕えするようにとのことだった。 彼女が恐る恐る潘贊化の部屋の近くまで行くと、潘大人は、意外にも彼女を送り返そうとした。 そして彼女の面子を立てるため、翌日、一緒に景色を見に行くことを約束し、おかみには“金子”を包んで渡した。 そのため、行った目的を果たさなかったにもかかわらず、怡春院に戻った時、怒鳴られずに済み、 12 潘玉良はホッとした。 長いつらい日々の夜にあって、彼女は、初めて男性の優しさといたわりに触れた。 翌日、彼女は、約束どおり潘贊化と一緒に美しい蕪湖の景色を見に出かけた。 潘贊化が熱心に“名所旧跡”の説明をしてくれているのを、彼女はまるで別世界にいるように感じていた。 自分の身分の低さを忘れ、世間の人々の冷たい目と差別のことも忘れていた。 まるで夢のようだった。 このような情景は、彼女の奥深く眠っていた願いそのものではないか? 敬慕と愛慕の情が、玉良のまだ蕾のままだった少女の気持を一気に花開かせた。

Photo_4 夜が、人の気持にかかわりなくまたやって来た。 潘玉良は、潘大人が車夫に命じる声が耳に入ってきた。 “張姑娘をお送りしなさい”  “戻るの?” 彼女はハッとした。 おかみと会長が言いつけた仕事がまだ済んでいない。 このまま戻ったら永久に戻れないだろう。 戻っておかみ達に苦しめられるより、ここは潘大人に頼むしかない。 そしてこれは、彼女が助かる唯一の道だった。 考えが決まると、玉良は、潘贊化の目の前の地面に跪き、涙をためた目で懇願した。 “大人、お願いです。 私をお宅において下さい” 彼女のこの振る舞いに、潘贊化は驚いた。 彼は、このもの静かな娘に同情と憐れみを感じていたが、妻ある身として、そんな考えはまるでなかった。 潘贊化の困惑した目を見て、玉良は勇気を奮って、“あの人達は、私をエサにして潘大人をわなにかけようとしています。 もし私を気に入ったとしたら、きっと値段の話になります。 品物が首尾よくうまくまとまればいいのですが、もしダメなら、あなたを妓女と遊び税関業務を疎かにしているとして、あなたの名誉を傷つけようとするでしょう! あなたが私を戻せば、あの人達は、私を能無しと言って、ゴロツキを呼んで私をメチャメチャにします。 私は、大人が立派な方だと存じています。 私をお側に置いたら迷惑が掛かるでしょう。 でも私もしょうがないのです!” この話に、潘贊化は厳しい顔付きになった。 彼はもう何も言わなかった。 その夜、自分の寝室を玉良に与え、自分は書斎で寝た。

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