1236 中国の三面記事を読む(526) インスタント・ラーメンはどのようにして開発されたか? (下) 「インスタント・ラーメンの父」は台湾系日本人
方便面之父是台湾裔日本人
2009-01-05 11:09:02 来源: 网易历史综合 网友评论 22 条 点击查看
インスタントラーメンの発明、不精な家族にとっては大いなる福音。
安藤百福(1910年3月5日―2007年1月5日)、台湾出身、のち日本に帰化。 本名:呉百福。 若い時、麺を改良し、現代的なインスタントラーメン作りに成功し、日清食品株式会社を設立した。
1910年、日本統治時代の台湾嘉義近くの樸仔脚(現在の朴子市)に生まれる。 両親を幼少期に亡くし、台南市で繊維問屋を経営する祖父母のもとで成長した。 1932年、22歳の時、父親の遺産を元手に、繊維会社の“東洋メリヤス”を設立した。 当時、メリヤスを扱う商社は少く、事業は規模を拡大して、1933年、大阪で日東商会を設立した。 安藤はメリヤス貿易や光学機器、精密機械の製造と、規模を拡大すると共に、彼は立命館大学専門部経済学科で勉強をした。
第2次世界大戦の空襲により、事務所や工場は爆撃されてしまった。 安藤は路線を変更し、百貨店や食品事業に乗り出した。 1948年、中交総社(現在の日清食品)を設立した。 大阪府南部の海岸に鉄板を並べ、海水を流して塩を作る独特な方法で、製塩事業を始めた。 同じ頃、安藤は正式に帰化し、完全に日本国民となった(厳格に言えば、日本統治時代の日本国の身分を延長するため、中華民国の身分を継承しなかった)
当時、厚生省(現在の厚生労動省)は、米国の援助物資―小麦粉を用いてパンを作り、パン食奨励運動を行っていた。 安藤はこのパン食奨励を不満に思い、小麦粉を原料とするなら、日本の伝統である麺類を奨励するべきだと、厚生省の担当者に提案した。 この担当者は、日本の供給体制にまだ問題があるから、安藤自身の力で開発したらどうかと薦めた。 しかし、当時の安藤には、他の事業に手を広げる資金的余裕がなかったため、計画はそのまま頓挫してしまった。
安藤は信用組合に援助を求め同意が得られた。 しかし1957年、この信用組合が倒産し、無限責任を負っていた理事長の安藤は自分の事業を売り払い借金を返済することになり、大阪府池田市の自宅だけが手許に残った。
安藤は自宅の庭に小屋を建て、そこでインスタントラーメンの研究を始め、1958年8月25日に、チキンラーメンを商品化することに成功した。 このラーメンは瞬く間にヒット商品となった。 同年12月、会社の商号を日清食品株式会社に変更、会社は順調に拡大していった。 1963年、日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所に上場することになった。
チキンラーメンが好評なのを見て、同様の模造製品を作る業者が沢山出てきた。 安藤はそのため、商標と特許を申請し、会社の信用を守ることに努めた。 日清食品は1961年、“チキンラーメン”を正式に商標登録し、1962年、インスタントラーメンの製造法の特許を得た。 そしてこの時、113社に対し警告が出された。 しかし1964年、安藤は特許の独占を止め、日本ラーメン工業協会を設立し、製造特許を公開譲渡した。
安藤は、アメリカ進出を考えた。 しかし1966年、アメリカに渡った時、彼は日本とアメリカでは食器に違いがあることに気付いた。 安藤はコップで食べるカップ麺を考えついた。 1971年9月18日、世界初のカップ麺“日清カップヌードル”を発売、日本以外の市場を開拓した。
1999年、安藤の業績を記念したラーメン博物館が池田市に設立された。2006年7月28日、記念館の設立6年半目の入場者は100万人を突破した。
2005年6月(95歳)の時、彼は“日清食品には若い経営者が育っており、経営を安心して任せられる。 私が元気なうちに引き継がせたい”との理由から、6月29日、取締役を退任、創業者会長に就任した。
2007年1月5日、夕方6時40分頃、安藤は急性心筋梗塞のため、大阪府池田市の市立池田病院で亡くなった。 享年96歳だった。
安藤は自分の健康の秘訣は、毎週1回のゴルフと毎日必ず食べるチキンラーメンだと語っていた。
彼自身は、日本即席食品工業協会会長、安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長などを務めた。1996年には、立命館大学名誉博士となった。
方便面之父是台湾裔日本人
2009-01-05 11:09:02 来源: 网易历史综合 网友评论 22 条 点击查看
方便面的发明,对于懒惰一族绝对是个天大福音。
安藤百福(1910年3月5日—2007年1月5日),台湾裔日本人,本名吴百福,青年时曾改良面条,制成现代化的方便面,并创办日清食品株式会社。
1910年出生于日治时期台湾嘉义附近之朴子脚(今朴子市)。自幼父母双亡,在台南市由经营布料批发店的祖父母照顾之下成长。1932年,22歳的安藤百福以父亲的遗产为本钱,经营纤维公司“东洋莫大小”。当时,处理针织品的商社稀少,安藤的事业因此得以扩大规模,1933年他在大阪设立日东商会。安藤经营针织品贸易、光学机器和精密机械的制造,在公司扩大规模的期间,他同时就读于立命馆大学附属商专的经济科。
第二次世界大战中的空袭炸毁了安藤的事务所和工厂。安藤转换跑道,开始经营百货商店和食品事业。1948年设立中交总社(现在的日清食品),在大阪府南部的海岸上排列铁板,用倒海水制造盐的独特方法进行制盐事业。同时,安藤正式归化,成为完全的日本国民(严格说来,为延续日治时期的日本国民身分,而不取得继承的中华民国身分)。
当时,厚生省(今厚生劳动省)得到了美国的援助物资—小麦粉来制造面包,并举行做面包、吃面包的奖励运动。安藤对这个吃面包奖表示不满,认为既然同样是以小麦作为原料,应该以日本的传统面食为奖励,并对厚生省职员进行质询。该职员表示,日本的供给体制尚有问题,可以以安藤自己的力量加以推广。但当时的安藤没有充裕的资金来进行其它事业,计划也就无疾而终。
安藤向信用合作社恳求援助并得到了同意。但1957年,此信用合作社倒闭,负担无限责任的理事长安藤被迫卖掉自己的事业偿还负债,只留下了位于大阪府池田市自宅。
安藤于是在自宅的庭园中建了小房以研究方便面,1958年8月25日,鸡味方便面(チキンラーメン)产品成功批发制作,方便面瞬时成为了受欢迎的商品。同年12月,变更商号为日清食品株式会社,会社顺利扩大事业。1963年,日清食品在东京证券交易所及大阪证券交易所上市。
由于方便面的广受好评,大量仿制业者出现,安藤因此致力于申请商标和专利,保持会社信用。日清食品于1961年正式登记“チキンラーメン”商标,1962年得到方便面的制造专利,并对113家仿制公司发出警告。但1964年安藤中止了专利垄断,设立日本拉面工业协会,转让并公开了专利。
安藤开始考虑进入美国,但在1966年赴美时,他注意到日本与美国餐具的不同。安藤产生了用纸杯来泡面的想法。1971年9月18日在世界首次发售纸杯面条“日清杯装方便面”,打开日本以外的市场。
1999年,纪念安藤业绩的拉面博物馆在池田市设立。2006年7月28日,纪念馆设立6年半后,入场者突破了100万人。
2005年6月(95岁),他以“日清食品已培育年轻经营团队,可放心托付经营。我想在自己还有活力之时进行交棒”的理由,在6月29日卸任取缔役,改任创业者会长。
2007年1月5日日本时间傍晚6时40分,安藤因急性心肌梗塞,于大阪府池田市的市立池田病院去世,享寿96岁。
安藤表示自己的健康秘诀是每周1次的高尔夫球和每日必食的鸡味方便面。
他本身亦是日本即食食品工业协会会长、安藤体育・饮食文化振兴财团理事长、汉方医药研究振兴财团会长、世界拉面协会会长、1996年成为立命馆大学名誉博士。









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