1472 中国の三面記事を読む(628) 日本人の「三国志」好き――吉川英治考 (下)

日本人の三国文化:吉川英治と《三国志》 

日本人的三国文化:吉川英治与《三国志》

2009-08-13 15:42:52 来源: 网易

吉川英治以外にも、現代作家がいろいろな“三国志”の小説を書いている。 例えば時代小説家の柴田錬三郎の《三国志》、歴史小説家、陳舜臣の《秘本三国志》などがあるが、いずれも吉川英治の《三国志》に遠く及ばない。

Photo_3 吉川英治は1892年生まれ。 7歳の時に《十八史略》などの漢籍に触れ、10歳の時には雑誌の投稿に夢中になっていた。 だが、家が没落し、11歳で中途退学し、印刷工、ドックの船具工、象嵌職人、記者など様々な仕事をしながら独学で勉強に励んでいた。 聞くところによると、百科事典を50回くらい読み返したという。 34歳の時、《大阪毎日新聞》に《鳴門秘帖》を連載し、一躍有名にPhoto_4 なった。 論説家で小説家の木村毅氏(1894~1979年)は、彼を“フランスのデュマを超えた”と言った。 執筆50年、多くの“大衆小説”を書いて、1962年に亡くなった。 数学者で随筆家の岡潔氏は、“大東京が色褪せてしまった”と語った。 生前から全集は何度も出版されたが、最新版は講談社が1984年に出した“吉川英治全集”全58巻である。 編集責任者は彼の息子Photo_5 だった。 吉川英治の名前は読者の希望リストから消えることなく、代々読み継がれている。 特に社会に入った男性達に愛読された。 いつまでも衰えない人気という点でいうと、彼と肩を並べているのは大文豪の夏目漱石しかいない。 代表作の《宮本武蔵》は、米、英、仏、独などの国で翻訳出版され、たいへんよく売れている。 欧米人はこの本から日本人の哲学思想を探っているようだ。 吉川英治の《三国志》と羅貫中の《三国志通俗演義》を、それぞれ読み比べ、研究したら、きっと面白いと思う。 中国人と日本人の違いが、はっきりと余すところなくわかると思う。 吉川氏は、ほかに《新・水滸伝》を書いている。 1958年1月から、講談社の月刊《日本》に連載されたが惜しいことに未完のまま、ついに絶筆となった。 随筆《小説の題材》の中で彼はこう言っていた。 “《新・平家物語》を書き上げ、暇だったので、その夏は軽井沢で少年時代読み耽った《西遊記》を読み直してみた。 幻想の翼が羽ばたき、それはとても楽しかった” 彼は、《現代版・西遊記》を書くつもりだったに違いない。

Photo_6 吉川英治の《三国志》は今なお依然として人々の必読書になっている。 しかしここ数年の“三国志ブーム”は更に現代化している。 このブームは、最初は1983年のNHKテレビ局で放送された人形芝居《三国志》から始まった。 その後、コンピューターゲーム「三国志」が発売され、更にブームに火をつけた。 しかし“三国志”の戦闘は200年余り続くもので、人物も300人を上回り、コンピューターゲームでは思う存分楽しむという訳にはいかなかっPhoto_7 た。 それで特に大学生は、マンガ《三国志》を愛読した。 これは面白いだけでなく、コンピューターゲーム機の攻略に必要な資料を収集することができた。 このマンガの作者は横山光輝氏で、全60巻。 中央公論社は香港版「三国演義」のマンガを複製して出版した。 売れ行きはまあまあだった。 多分、日本人の好みに合わせた「中華料理」のようなものだったのだろう。

日本人が読む三国には、おのずと日本人の読み方がある。 こう言う人がいる。 《三国志》の最大の魅力は策士の活躍だ。 今日の日本企業の中で社長の多くが悩んでいるのが、このような策士がいないことである。 重大な方針を決定する時、幹部達に意見を求めても、だいたいが評論家のような答ばかりで、“私は成功率60%くらいあると思います”といった、“三国志”の策士達のように積極的に献策したり、論争、勧誘したり、首を切られるのもいとわないといった人を、現在の日本は必要としているのです。 日本人は《三国志》を、人生訓、処世術、成功訓、組織学、指導術、戦略論などとして読む。 特に経営者は座右の書としている者が多い。 わが国の《三国志通俗演義》は作られてから600年くらいになる。 日本人の読み方に倣って《三国志と人間学》、《三国志統一学》といった本を出版するのもよいのではないか。 

日本人的三国文化:吉川英治与《三国志》

2009-08-13 15:42:52 来源: 网易  0 手机看新

吉川英治之外,有一些代作家写有各三国志,如武侠小家柴田三郎的《三国志》、史小舜臣的《秘本三国志》等,但都不如吉川英治的《三国志》普及。

吉川英治生于一八九二年,七岁开始接触《十八史略》等籍,十给杂志投稿。因家道中落,十一岁辍学,从此干印刷工、修船工、画匠、者等种种营生,同自学不懈,据把百科事典读过五十来遍。三十四岁时在《大阪日新》上连载鸣门》,一成名。评论家、小家木村毅(一八九四~一九七九年)甚至认为法国的大仲。笔耕五十年,多数作品是故事新。一九六二年去世,使数学家、随笔家冈洁得大京都褪色了。生前身后,全集一再出版,最新版本是讲谈社一九八四年出吉川英治全集五十八卷,编辑是他儿子。吉川英治的名字不曾从者的书单上消失代人都爱读,尤其是走上社会的男子汉们。就久不衰一点来,能和他比肩的只有大文豪夏目漱石。代表作《本武藏》在美、英、法、德等国翻出版,颇为畅销,欧美人想从中探日本人的哲学思想。倘若把吉川英治《三国志》和罗贯中《三国志通俗演照来,加以研究,一定很有趣,中国人和日本人的差异会显现。吉川写有《新·浒传》,一九五八年一月始在讲谈社月刊《日本》上连载,惜其未竟,笔。在随笔《小材》中他说过写完《新·平家物》,有了空,于是个夏天在自少年代就耽的《西游》,得以展幻想的翅膀,其陶陶。他也曾打算写一部《代版·西游》来的。

吉川英治《三国志》至今仍是人的必读书,但近几年的三国志却更为现代化。起于一九八三年NHK电视台播放木偶《三国志》(此前播放过动画片),而后子游《三国志》上市,更推波助。不三国志历时二百多年,人物超百多个,玩子游不易掌握,以尽,所以,尤其是大学生,更喜看漫画《三国志》,不看起来津津有味,而且可以收集子游机攻略所需要的料。套漫画的作者是横山光,共六十卷。中央公社曾翻印香港版三国演漫画,似路平平,大概是因没有像《中料理》那改造得适合日本者的口味吧。

日本人三国自有日本人的法。有人这样说:《三国志》的最大魅力是士的活,在今天的日本企理所苦的就是缺少这样士。决定重大方,征求干部,得到的往往是评论家式的答,什认为成功率有百分之六十,而三国志们积极地献策、争劝诱,掉袋也不悔,正是今天日本所需要的。日本人把《三国志》成人生世方、成功法、组织学、领导术等等,尤其被经营者奉座右之。我的《三国志通俗演世有六百年了吧,而今似乎也不妨试试日本人的法,出版一些《三国志与人学》、《三国志的统筹学》之 (本文来源:网易 )

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1471 中国の三面記事を読む(627) 日本人の「三国志」好き――吉川英治考 (上)

日本人の三国知識:吉川英治と《三国志》 

日本人的三国文化:吉川英治与《三国志》

2009-08-13 15:42:52 来源: 网易

《三国志通俗演義》 日本で翻訳出版されてからほぼ300年

Photo 1689年~1692年にかけて、京都天竜寺の僧侶義轍、月堂兄弟が湖南文山の筆名で《通俗三国志》を文語体に訳し刊行した。 最初は上流階級で読まれていたが、その後、民間にも伝わり読まれるようになった。 これ以降、両国文化交流の良きにつけ悪しきにつけ、日本はずっと中国のこの古典文学作品を共有してきた。 中国の歴史で、日本人が一番詳しく知っているのは三国の時代であろう。 フランス文学研究家、評論家の桑原武夫(19041988年)氏は、20数回読み返したという。これは他の本では絶対なかったことだ。

主な翻訳本は次の通り。 立間祥介訳《三国志演義》(毛宗岡本、平凡社、1972年)、小川環樹、金田純一郎訳《全訳三国志》(毛宗岡本を主に弘治本を参照、岩波書店、1982~1983年)、村上知行訳《全訳三国志》(毛宗岡本、社会思想社、1980~1981年)など。

Photo_2 ところで一般の日本人が“三国志”という時は、羅貫中の《三国志通俗演義》のことではなく、また陳寿の《三国志》のことでもない。 吉川英治の小説《三国志》のことを指しているのだ。 吉川英治は“少年時代、久保天随の「演義三国志」(正式名称は《新訳演義三国志》、至誠堂書店、1912年)を夢中になって読んだ。 1939年~1943年にかけて、彼は《通俗三国志》などの訳本を基に、Photo 現代感覚で再創作し、中国の古典の名作を日本人好みの大衆小説に書き直し、《中外商業新報》に連載、その後、講談社から単行本として出版した。 これ以降、日本人が読む“三国志”はこの本となり、“国民文学”となった。 中国文学研究家の立間祥介氏は笑い話として紹介してくれた。 彼が《三国志演義》を翻訳した時、読者から原典に忠実でないと叱責する手紙が届いた。 吉川英治の話とまったく違うというのだ。 この読者は勇猛な張飛のような方らしい。 これからも分かるとおり、吉川英治の“翻訳”は原典《三国志通俗演義》とは全く違っていた。

吉川英治は“序文”の中でこう言っている。 “私は決して抄訳だとか抜粋だとかにするつもりはない。 新聞の連載小説にピッタリの長編小説を書いてみたい。 劉玄徳、曹操、関羽、張飛などの主要な人物に、自分なりの解釈と独創性を取り入れ書きたいのです。 随所に見られる原本にはない言葉、会話などは私の創作です” では、小説の書き出しを読んで見よう:

後漢の建寧元年のころ。 今から約千七百八十年ほど前のことである。一人の旅人があった。 腰に一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賎しげな容子がなかった。 

これこそ劉備だった。 この後、登場してくるのが鴻芙蓉という娘、それから劉備の母親。 この“親孝行”の劉備が母の大好きなお茶を買い求めていた時、“黄巾の乱賊”に捉まる。 張飛に助けられ、先祖伝来の家宝の宝剣を与えてしまう。 劉Photo_3 備の母は茶壺を放り投げて子を諭す。 劉備に漢の正統を再興するよう教え諭したのだ。 ある文学博士はこう言っている。 “三国志の世界は男達の世界である。 しかしその裏側は女の世界でもある” 吉川英治の《三国志》の中でも女の人が舞台に登場する。 全巻は「桃園の巻、群星の巻、草莽の巻、臣道の巻、空明の巻、赤壁の巻、望蜀の巻、図南の巻、出師の巻、五丈原の巻」全十巻、最後に“扁外余録”がある。

Photo_4 吉川英治は言う。“孔明が死ぬと、執筆の興味と気力が一気になえてしまい、どうしようもありません” 彼に限らず、ほとんどの日本の“三国志”は、“星落秋風五丈原”(土井晩翠の名詩。 哀感に満ち日本人の諸葛孔明に対する感情の基調となっている)でピタッと終っている。 これについて中国文学研究家の中野美代子氏は、“中国人は張飛が好きで、日本人は孔明が好きなんです”と言っている。 彼女はこうも言っている。 “「妖怪に近い」(魯迅の言葉)孔明は、日本人のあいまいさに合い、少し神秘的な雰囲気があるところが好きなんです” 諸葛孔明は中学・高校生の「英雄人物」調査で9位にランクされているという。 長い間、諸葛孔明の業績は日本人の忠誠と孝行に対する考え方、道徳教育に大きな影響を与えてきた。 

日本人的三国文化:吉川英治与《三国志》

2009-08-13 15:42:52 来源: 网易  0 手机看新

们读到了这样篇:后建宁元年。距今一千七百八十年前。有一个旅行者。除腰佩挂一之外,褴褛不堪,但唇眉清,更双眸慧,两丰腴,时时隐含微笑,之,无猥之相。就是刘

本文摘自:《日下   作者:李  出版:上海人民出版社 

《三国志通俗演》在日本翻出版已三百余年了。

一六八九年至一六九二年,京都天寺僧人义辙、月堂兄弟以湖南文山的笔名用文言体日文成《通俗三国志》,刊行于世,先是在上社会,随后在民众也流传开来。从此,无两国文化交流是好是坏,日本一直与中国共有部古典文学作品。于中国史,大概日本人最熟知的就是三国代吧。法国文学研究家、评论家桑原武夫(一九四~一九八八年)他反复读了二十多遍,读别从未有的。流行的本主要有立祥介《三国志演》(据毛宗本,平凡社一九七二年),小川环树、金田一郎《全三国志》(以毛宗主,参照弘治本,岩波店,一九八二~一九八三年)、村上知行《全三国志》(据毛宗本,社会思想社,一九八~一九八一年)等。

,一般日本人三国志,并不是罗贯中的《三国志通俗演》,更不是寿的《三国志》,那是指吉川英治的小《三国志》。吉川英治少年久保天随的演三国志(全称是《新三国志》,至店,一九一二年),一九三九年至一九四三年他依据《通俗三国志》等本,用代感觉进行再造,把中国的古典名著改写成日本人所喜闻乐见的大众小连载于《中外商》,再由讲谈社出版行本。从此以后日本人三国志就大抵是国民文学了。中国文学研究家立祥介讲过:他翻了《三国志演》,有者来信斥他不忠于原典,因跟吉川英治的完全不一者很有点猛张飞,但由此可,吉川英治的是和原典《三国志通俗演》大不相同的。

吉川英治在我并不做略或摘抄,而要把它写成适合于笔的报纸连载。刘玄德、曹操、羽、张飞等主要人物,都加上自己的解和独来写。随的原本上所没有的句、会等也是我的点描。于是,我们读到了这样篇:

建宁元年。

距今一千七百八十年前。

有一个旅行者。

除腰佩挂一之外,褴褛不堪,但唇眉清,更双眸慧,两丰腴,时时隐含微笑,之,无猥之相。

就是刘。后面出有一个叫鸿芙蓉的姑娘,有刘老太太。孝行的刘备为买所嗜好的茶叶,遭遇黄巾乱,多亏张飞搭救,便以家,惹得刘老太太摔教子,教他立志再兴汉统。某文学博士三国志的世界是男人的世界,但背后有个女人的世界。在吉川英治《三国志》中女人都跑到前台来。全分桃园、群星、草莽、臣道、空明、赤壁、望蜀、南、出、五丈原十卷,最后有一卷篇外余

吉川英治孔明一死,呵笔的致和气力顿时都淡弱了,无可奈何。是他,几乎所有日本制三国志都是到星落秋五丈原(土井翠的名,充满伤感,构成日本人对诸葛亮的感情基)便戛然而止,可能造成了中国文学研究家中野美代子所中国人喜欢张飞而日本人喜孔明。她还说近于妖)的孔明更符合日本人避免明确性、有点喜神秘气氛的特。曾有过调查葛亮是中学生心目中的第九位英雄人物。多少年来,葛亮的事迹日本人的忠孝念、道德涵有极大影响。

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1415 中国の三面記事を読む(608) 周作人の死

周作人の死:公安機関に2回 自死要望書を提出

周作人之死:两次呈文公安机关请

2009-05-26 14:22:44 来源:

3 50年代末から“文革”直前まで、仕事の関係で、私は周作人と頻繁に連絡を取り合っていた。 1952年8月、人民文学出版社が周作人にギリシアと日本の古典文学作品の翻訳を依頼した。 1958年11月、出版社は私に日本文学の執筆・翻訳の依頼を担当させると共に特殊任務を命じた。 周作人と銭稲蓀の翻訳者を押さえよ。 日本の古典文学作品は余人ではだめだということだった。 その当時、二人は出版社の別枠の特別翻訳者と見なされていた。

1949年から“文革”までの17年間、周作人の生活は単調だが安定したものだった。 彼は毎日机に向かって翻訳していた。 唯一の楽しみは、彼と同様零落した数少ない友人がたまに訪れ雑談することくらいだった。 その中でも親しかったのが、同じく文化漢奸(売国奴)のレッテルを貼られた銭稲蓀だった。 

2 周作人はいつも月ごとに出版社に原稿を渡していた。 当時、出版社は月々、原稿料として200元を前払いしていた。 1960年1月から400元に上がった。 しかし、1964年“四清運動”(政治、経済、思想、組織の歪みを正す社会主義教育運動)が始まると、9月から、原稿料が400元から200元に減らされた。 幸い、長らく病気だった奥さんが亡くなったところだった。 さもなければ医療費の支払いで彼は困るところだった。 だが周作人にはわかるわけがなかった。 この減額は実はあらしの前ぶれだった。 

1966年、情勢は急転直下変わった。 出版社の業務も麻痺状態に陥った。 当時の“革命”が取った措置の一つが、その年の6月から周作人の原稿料をストップすることだった。 収入源を断たれ、周家は周作人の長男・周豊一夫妻の給料に頼ることになった。

8月22日、紅衛兵の一群が八道湾の周家にやってきた。 周家の母親の位牌を壊していった。 24日早朝には、紅衛兵が家中をすべて差し押さえ、周作人を庭の大きな楡の木の下に引っ張って行き、ベルト、棒で引っぱたいた。 周家の母屋の後方に建てられた母屋に平行する建物“トラの尾”という大部屋を、その夜、紅衛兵がこの部屋を占領して泊まり、周氏一家を監視した。 周作人らはやむなく、“トラの尾”の建物の軒下で縮こまるほかなく、3日3晩を過ごした。 幸いに昔からいる家政婦が、彼らに簡単な食事をそっと届けに来てくれた。

雨が降り出してきたので、周作人の長男の嫁・張菼芳が思い切って紅衛兵に会いに行き、“いつまでも外にいられません。 どうにか落ち着ける場所を下さい”と頼んだ。 こうして、周作人はやっと自分の風呂場の中で寝ることを許された。 間もなく、周作人の長男の周豊一は“右派のレッテル”はとれたが、北京図書館の“牛小屋”(強制労働)に閉じ込められた。 半月後、張菼芳は老人の惨めな姿を目の当たりにして、座視するに忍びず、紅衛兵に頼みこみ、雨漏りしている小さい炊事場の北隅に舅のため、あちこちから寄せ集めた板でベッドを作り、その上に周作人を横に寝かせた。

紅衛兵は周家の生活水準を決めた。 年取った家政婦は15元、周作人は10元とした。 彼らは米穀食料販売店に、周の家族には雑穀(米、麦以外の穀類。 トウモロコシ・コウリャン・粟・豆類など)を買うことだけ許すと命じた。 周作人は歯がよくないため、13度の食事は臭豆腐とトウモロコシ粉スープを飲むことしかできなかった。 栄養状態がよくないことと、また昼間暗い部屋に監禁されているため、彼の両足は見る間にむくんできた。

9、10月に、周作人は書き上げて置いた“上申書”を張菼芳に渡し、紅衛兵にかくれて派出所に2回届けさせた。 二回の“上申書”は、いずれも短く、内容はほとんど同じだった。 内容は、「共産党は従来から革命の人道主義を重んじています。 私はすでに80歳を過ぎています。 これ以上寿命を延ばしても、家族にただ負担をかけるだけです。 公安機関にお願いします。 私が睡眠薬を飲み“安楽死”できるよう特別に許可して下さい」 彼は失意のどん底の中で、かすかに希望を持っていたのかも知れない。 駐在所の人民警察が彼の問題を取り上げてくれることを望んでいたのだ。 しかし希望の望みは達成できず、“死を賜ることを許可して下さい”の“上申書”は届けたものの、梨のつぶてだった。

1967年5月6日朝、張菼芳はいつも通り舅の便器の交換とお湯も用意して出勤した。 この日の午後2時過ぎ、母屋の後方に建てられた建物の西端の近所の人が、偶然ガラス窓を通して中をちょっと見た。 老人が板の上に腹ばいになったまま微動だにせず、姿勢も不自然だった。 彼はちょっとおかしいと感じ、急いで張菼芳に電話をかけ、彼女に学校から戻って来るよう伝えた。

張菼芳が急いで家に帰ると、82歳の周作人はすでに全身氷のように冷たくなっていた。 どうやら、周作人は用を足そうとした時、突然発病したようで、靴さえ履くのも間に合わないまま急逝していた。 その当時の状況の下では、家族は遺体を病院に送り死因を調べることなど不可能で、ただ戸籍を抹消するしかなく、火葬して事をすまし、骨箱さえ持ち帰ることができなかった。

《周作人回想――知堂先生》から抜粋:河南大学出版社 (本文出所:新華ネット 作者:文潔若)

周作人之死:两次呈文公安机关请

2009-05-26 14:22:44 来源:   204 手机看新

50年代末直到文革前夕,由于工作系,我曾与周作人有过频繁的系。19528月,人民文学出版社始向周作人稿,他翻希腊及日本古典文学作品。195811月,出版社指派我负责日本文学的稿、翻工作,同,向我交代了一特殊任周作人及二位翻译别人不能任的日本古典文学作品。当,他在出版社算是制外的特约译者。

1949年到文革止的17,周作人的生活虽单调平淡却是定的。他天伏案翻,唯一的趣是偶和寥寥无几并同他一潦倒的来访的友人扯一通。其中,密的就是也戴了文化奸帽子的

周作人是按月向出版社交稿。当,出版社按月他稿200元,19601月起,增加到400元。但1964四清动开始,从9月起,他的稿又从400元减200元。好在他那久病的老伴已去世,否付医药费来困。周作人哪里知道,次的减半,其就是暴的兆。

1966年形直下。出版社的业务陷于瘫痪。当革命措施之一,就是自当年6月起,停付周作人的支稿酬。这项经济来源断后,周家就靠周作人子周丰一夫的工持。

822日,一群红卫兵冲八道湾周家,了周母的牌位。到了24日早晨,红卫兵索性把房子统统查封,并将周作人拉到院中的大榆树下,用皮、棍子抽打。周家的后罩房正老虎尾巴”——即正房后身加盖的一大屋子,当天上一批红卫兵就占这间屋子,以便监视周氏一家老少。于是,周作人只好蜷在后罩房的屋檐下,就这样过了三天三夜。幸而他们还有个老保姆,做了点简单的吃食,悄悄地送来。

及至下起雨来,周作人的大儿媳菼芳便硬着皮去找红卫兵。她央求也不能老呆在露天底下呀,好歹个安身的地方吧。这样,周作人才被允睡在自家的澡堂里。不久,周作人的子周丰一作摘帽右派,被揪回北图关进牛棚。半个月后,菼芳目睹老人的凄苦,于心在不忍,就向红卫兵求了情,算是在漏雨的小厨房的北角老公公拼西凑搭了个板床,在上面。

红卫周家定了生活准:老保姆是15元,周作人是10元。他向粮店打了招呼:只允周家人粗粮。周作人因牙口不好,一日三餐只能就着臭豆腐喝点玉米面糊糊。由于营养不良,又黑白日囚禁在小屋里,他的两条腿很快就浮了。

九、十月,周作人曾两次交给张菼芳写好的呈文,叫她背着红卫兵交派出所。两份呈文都很短,内容差不多,大意是:共党素来是最究革命人道主的。鄙人已年八旬,再延寿命,也只是徒然家人添担而已。恳请公安机,恩准鄙人服安眠,采取一途。也他在万念灰中,存着幸心理:希望地派出所的民警将他的问题反映上去。但希望是落了空,准予呈文交上去后,就石沉大海。

196756日早晨,菼芳照例公公倒了桶,他准了一瓶水,就上班去了。一天下午两点多,住在同院后罩房西端的居,偶然隔着玻璃窗往里看了看。只老人板上一,姿很不自然。他感到不妙,便赶电话给张菼芳,把她从学校喊了回来。

菼芳奔回家后,发现82的公公身早已冰凉。看光景,周作人是正要下地解手猝然病的,鞋都来不及穿就溘然逝了。在当的情形下,家属不可能把体送到医院去明死因,只好匆匆口,火化了事,骨灰匣都没敢拿回来。

摘自:《回望周作人——知堂先生》 河南大学出版社 (本文来源: 作者:文)

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1410 中国の三面記事を読む(606) 張愛玲が大陸から離れた理由(5)【完】

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易  143 手机看新

月が明るいのは誰のため?

6 張愛玲は人気の頂点から見向きもされないという、大きな落差に見舞われた。 “異端小説”の評判が、ずっと影のようについて回り、彼女を困惑させた。 《秧歌》、《赤地之恋》を書き上げ、彼女は自分の作家としての才能が歳月と激しく変わる時代に衰え、その上“政治に関わらない”と主張していた自分が、“恐ろしい”政治に近付き、落ち込んでしまったことに気付いた。 彼女は“周囲の目から逃げることができない” またこのような“孤独の抑鬱状態”に我慢できず、現実的に妥協しようとした。 しかし、彼女は自分の作品の吸引力がすでに限界になったこと、香港でも彼女の前途がないと考えるようになった。 そこで環境を替え、彼女に面倒と不快を感じさせるところから遠く離れようと決心した。

14 当時、米国の駐香港領事館の文化専門員のリチャード・マッカーシー氏が、彼女のアメリカ移民の保証人になった。 1955年秋、35歳の張愛玲は“プレジデント・クリーヴランド号”に乗って香港を離れアメリカに向った。 また“難民名義”で米国の永住者となり、ロサンゼルスに住むことになった。 彼女は20数歳で上海文壇に華々しくデビューした。 しかし、米国での数年間は続けざまに原稿の返却という目に遭い、生計のためテレビドラマを書いていた。 彼女はラジオドラマ《荻村伝》を書いたり、《紅楼夢》の脚本、アンリモーパッサンの西洋小説の書き直し、英文小説《北地臙脂》を出版したりした。 香港の親友・宋淇が勤めていた香港の映画会社の依頼で、張学良のシナリオ《少帥伝奇》を書くため、彼女は1961年、台湾に行き資料を収集し、最終的に原稿だけは完成した。 張愛玲が数十年隠遁生活を送った中で、二つの重要な仕事を行った。 一つは胡適、劉半農から“蘇州方言文学の第一傑作”といわれる《海上花列伝》の中国語版と英語版の翻訳を行ったことで、この方面の空白を埋めたこと。 もう一つは、10年に亘り《紅楼夢》の研究に力を尽くし、(紅楼夢)は創作であって、自伝ではない。 書き直しや遺稿などの7つの問題を提起し、24万字の《紅楼夢》を書き上げ、1977年台湾で出版した。 張愛玲はこの時期、彼女の最後の小説《同学少年都不賎》を書いた。 長いこと埋もれていたが、26年後にやっと台北の皇冠出版社から出版された。

2 非難を浴びた二つの小説を、張愛玲はずっとそれらの運命に関心を持っていた。 1957年3月、彼女は(《秧歌》)に引き続き《赤地之恋》を英文に翻訳し、タイプ原稿をニューヨークの出版社に送った。 CBSは《秧歌》をシナリオに書き直し、テレビドラマを作り放送して、張愛玲に原稿料1440ドル(1ドル360円固定で換算:約52万円相当)を支払った。 1968年、彼女は香港の友達の宋淇に依頼し、台北の皇冠出版社と契約を交わし、《秧歌》と《赤地之恋》を再版した。

10 創作という共通の話題により、張愛玲はを米国で親友に出会い、彼女の孤独で寂しい生活に転機をもたらした。 その人は米国の急進的な左翼作家、ハリウッドのシナリオ・ライターのフェルディナンド・ライハーFerdinand Reyher)氏である。彼はマック・ダウウェル文芸(Mac DowellColony)の集まりで張愛玲に出会い、彼女の才能を非常に気に入った。 張愛玲は《秧歌》の英訳本をライハー氏に渡し、彼の意見を伺いたいと言った。 ライハー氏は読んだ後、“あなたの文章がこんなにきれいで、上品だとは思わなかった” 張愛玲は彼に、この小説は“反共文学”だと言われたことを話した。 ライハー氏は、“しかし政治的観点と芸術は、何の関係もありません”と言った。 共通の趣味と関心が、二人の気持ちを急速に近づけた。 1956 年8月14日、36歳の張愛玲と65歳のライハー氏はニューヨークで婚礼を挙げた。 二人は11年間共に生活したが、ライハー氏は心臓病で亡くなった。 その年、バークレイのカリフォルニア大学の中国研究センターは張愛玲をこのセンターの高級研究員に採用し、彼女に“中国共産党専用用語”の研究を担当させた。 このしようもないポストで26年間仕事を続けた。この間、彼女はまったく小説を書かなかった。

9 張愛玲の晩年は皮膚病に悩まされ、うつうつとして楽しみもなく、独りぼっちで門を閉ざし、来客も断る寂しい日を送っていた。 若い時の張愛玲は自分の才能や仕事に自信を持っていた。 しかし、晩年の彼女は人生に屈服し、この世界にも屈服していた。

1995年9月8日の夜、張愛玲はロサンゼルスのウェストウッドのマンションで逝去した。

この日は中秋節で、白く光る月光が、遠く異国の地にいる孤独な魂をやさしく慰めていた。 

12_2 彼女の遺体は1週間後、警察に発見された――“広々とした大広間のきれいな絨毯の上に横たわっていた。 テーブルの上に、広げられた原稿用紙とペンがあった” 同時に彼女が自分で書いた遺書も見つかった。

“1、個人の品物は香港の宋淇夫妻に渡してください。 2、いかなる葬式も行わないでください。 遺体を火葬にして、骨灰はどこか広々とした荒野にまき散らしてください”

彼女の遺言状の執行者の林式同先生は彼女の遺体を919日の明け方、ボイジャー霊園で火葬にした。 張愛玲には子供がいなかったので火葬の時、身内の出席は誰もいなかった。 生前の希望に従い、彼女の遺骨は氷のように冷たい太平洋上に撒かれた。 

張愛玲の死去により、また世界のメディアの注目を集めた。 中国国内の各新聞・雑誌も大々的に報道した。 張愛玲の小説は急遽出版され、張愛玲“語録”も飛ぶように売れた。 “張愛玲ブーム”が80年代に継いで起こり、再度中国大陸を席巻した。 この世に比類なき才女の“死”はメディアと読者の中に甦った。

張愛玲の75年の人生は、世の中の矛盾の輪廻を味わったといえる――熱狂と寂寞、はでやかさと物寂しさ、大きな喜びと大いなる悲しみ。 正にこのようなことを予言したような言葉が《金鎖記》の中にある。 “30年前の月はとっくに沈んでしまい、30年前の人も死んでしまった。 しかし30年前の物語はまだ続いている……”

《文学と歴史の精華》2005年第11 作者:継増 (本文出所:網易歴史 作者:継増) …から抜粋

月亮为谁而明

张爱玲从大大紫到冷落凉,形成了巨大反差。的名声始像一个影一的跟随着她,使她困惑不已。写完《秧歌》、《赤地之恋》后,她感到自己的写作才情已被月和幻的代所消磨,而且她发现标从未及政治的自己,竟然已靠近、陷入了可怕的政治。她无法逃避周窥视,忍受不了这种孤独的始向现实。她感到自己作品的吸引力已很有限了,香港似乎也没有她的前途,便决心更换环境,来麻和不快的地方。

的美国香港文化专员·麦加充当了她移民美国的担保人。1955年秋,35张爱玲乘克利夫总统离港赴美。又以身份成美国的永久居民,住在洛杉。她二十几就在上海文横空出世,但来美国的几年里却连连遭到退稿的命运,不得不靠写一些电视剧谋生。她也曾写广播《荻村》,改编过楼梦》,改写莫泊桑、亨利的西方小,出版英文小《北地胭脂》。香港友宋淇所在的香港影公司约请,写学良的本《少帅传奇》,此她1961年曾去台湾收集料,但最只完成文字稿。张爱玲几十年居生活中,做的最重要的两件事,一是将被胡适、刘半文学的第一杰作的《海上花列》翻译为版和英文版,填方面的空白;二是历时10年致力于《楼梦》的研究,提出是作而不是自、改写与稿等7个问题,写成24万字的《楼梦梦》,1977年在台湾出版。张爱写了她最后一篇小《同学少年都不》,封26年后才由台北皇冠出版社出版。

于受到非的那两部小张爱玲一直注着它的命运。1957年3月,她继续把她的《赤地之恋》翻成英文,并把打印稿寄往纽约出版。哥广播公司将《秧歌》改写成本,制作成电视剧目中播出,付给张爱玲稿酬1440美元。1968年,她委托香港朋友宋淇与台北皇冠出版社签订合同,重印了《秧歌》和《赤地之恋》。

对创作的共同言使张爱玲在美国遇到了知音,她孤寂的生活来生机。个人就是美国激的左翼作家、好莱坞编剧甫德南·雅,他在麦克道威艺营的一次聚会上遇到了张爱玲,十分欣她的才张爱玲把《秧歌》英本拿给赖雅,希望得到他的指正。没想到,你的文章写得那漂亮,文笔又是如此美。张爱玲告篇小曾被成是反共文学雅指出可是政治点和艺术并没有什必然共同的志趣和心使他的感情快速升温。1956年8月14日,36张爱玲与65雅在纽约举行了婚礼。他共同生活了11年后,雅因心病去世。就在一年,柏克莱的加州大学中国研究中心邀请张爱玲担任中心的高研究她的任是研究中国共词汇,并在个无奈的位上工作了26年。,她没有写一个字的小

张爱年受皮病的折磨,她郁郁寡,孤身一人闭门谢客的冷清日子。年轻时张爱玲有着自本,可是年的她却屈服了人生,也屈服了个世界。

1995年9月8日张爱在洛杉西木公寓逝世。

一天是中秋,皎的月光慰着一缕远在异国他的孤魂。

她的体一星期后才被警署发现——“地躺在空的大中精美的地毯上,桌子上有一沓铺开的稿和一支未合上的笔。同时发现自己立下的嘱:一,所有私人物品留香港的宋淇夫;二,不行任何葬礼,将体火化,骨灰撒到任何空荒野。

她的行人林式同先生将她的体于9月19日清晨在惠捷墓园火化;张爱玲没有留下后代,火化也没有一个人到。遵照愿将她的骨灰撒在了冰冷的太平洋中。

张爱玲的逝世再次引起世界媒体的嘱目,国内各大刊都作了重要的道。张爱玲的小加速出版,张爱玲的语录而走,张爱80年代起之后再度席卷中国大世才女的来在媒体和者中的

张爱玲75年的人生月里,可以说经历了世矛盾的——热闹与寂寞,浮凉,大喜与大悲。也正因如此,才有了张爱玲在《金锁记》里的言:三十年前的月亮早已沉下去,三十年前的人也死了,然而三十年前的故事没完……”

摘自:《文史精2005年第11 作者:于 (本文来源:网易 作者:于)

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1409 中国の三面記事を読む(605) 張愛玲が大陸から離れた理由(4)

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易  143 手机看新

11 張愛玲は手紙を受け取った後、とても感激した。 2月20日、胡適に返事を書いた。 彼女は手紙の中に、“あなたのお手紙を受け取りました。 とてもうれしく光栄に思います。 あなたが《秧歌》をこのようによく読んで下さり、感謝しております。 あなたはこちらの評論界の《秧歌》に対する反応についてお尋ねになりました。 二つの批評がありました。 いずれも反共方面から見たもので、物語の中味についてはまったく見ていないものです”

Photo これが張、胡の最初の手紙のやりとりだった。 これ以前、二人は会ったこともなかった。 しかし、張愛玲は胡適という五四新文化運動の重要人物を早くから尊敬しており、特に胡適が評論し紹介した《紅楼夢》と《海上花列伝》は、少女時代の張愛玲が夢中になって読んだ入門作品で、これが彼女が後に書くことになる“紅楼夢――張愛玲の評語”の叙述、表現に大きな影響を与えた。 後日、張愛玲が米国に定住した時、胡適を二度訪問したことがあった。 胡適も張愛玲の住まいを訪ねたことがあった。 彼らは忘年の交わり(年齢を超越した付き合い:注:胡適は1891年生まれ、張愛玲は1920年生まれ、年の差29歳)を行った。

No4 張愛玲の二冊の“異端”小説《秧歌》、《赤地之恋》の評判について、中国国内と海外では、はっきりと異なる2種類の基調が見られた。 中国国内で長い間、張愛玲を封じ込める状況があったのと比べ、海外の研究作業は逆に活発だった。 1961年、張愛玲と直接話し合ったことがある文学史家、米国のコロンビア大学の夏志清教授が英文著作――《中国近代小説史》を出版し、初めて張愛玲を文学史に取り上げ、しかも41頁もの紙幅を使って彼女を評価した。 小説史の中の序言で、“百Photo_2年を隔てて《秧歌》、《赤地之恋》を読むと、私は張愛玲が現 代で最も重要な作家であり、五四以来の優秀な作家であると確信する” この英語版の《中国近代小説史》は80年代初めに香港で中国語に翻訳され大陸に入り、張愛玲の名前と彼女の作品(銭鍾書、沈従文、林語堂、路などの作家を含む)は、“出土文物”のように歴史の地表に浮かび上り、見る間に人気が出て、大陸で最初の“張愛玲ブーム”が起こった。 

同じ観点から見ているのが、劉登翰編集主幹の《香港文学史》で、この本の中では、“実際には、張愛玲の作品の中に、反共と親西洋の直接的言論は見当たらない。 が、彼女の政治に対する嫌悪感と逃避的態度が見受けられる。 もちろんこの小説の創作の初志は知るよしがないが、しかし当時の歴史状況の中で、彼女が非難を受けるのは避けられなかった。 これが、彼女がその後大陸の各種文学の中で、場所が与えられなかった理由である。 実際に今日の立場に立って見ると、《秧歌》と《赤地之恋》は、建国初期の誤りと一般庶民と知識人が傷められている描写があり、その後の大陸の作家の“伤痕文学”と比較すると、明らかにずっと温かさがあった。 ただ当時は、新中国が成立したばかりの時で、この二つの小説はあまりに刺激的だったかもしれない。 こうして見ると、この二作品を覆った深い霧は、当時の東西冷戦の結果と見ることが出来る”(《香港文学史》、人民文学出版社1999年版)

台湾の有名女流作家の龍応台氏は、《淡淡とした歌――張愛玲の《秧歌》評論》という本の中で、“この薄い頁の《秧歌》は、私達の記憶の中でもっと尊敬されるべき地位につけるべきです。 張愛玲の中で沢山の人々によく知られた作品――たとえば《半生縁》――これは、ただ人をうっとりさせるだけの恋愛小説で、深みのある作品ではありません。 しかし、淡淡とした《秧歌》は、これは絶対に「世界レベル」の芸術作品です” 龍応台氏は同時に、“《秧歌》のテーマは典型的な宣伝材料である。 しかし作者は、人間性の成熟した理解で深みを与え、作者の手法がこの作品に独立自主路線の芸術的生命を吹き込んだ。 《秧歌》は土地と共に生きた人々の挽歌であり、張愛玲は中国の農民のために伝記を書いたといえる” 

これらの評論は共通して述べている。 それはすなわち、張愛玲が“紅楼夢スタイル”のように、40年代の上海の街の古い家庭の伝奇的なストーリーを語るのと比べて、《秧歌》と《赤地之恋》は明らかに“異種”に属している。 題材にしろ、言葉の使い方にしろ、大きく違っている。 もし張愛玲の以前の小説が、書きなれた作品というなら、この2作品は全く新しい土地改革の時期の農村生活を“一心に考えた”もので、前者は彼女が自由に人物の運命や行き先を書くことができたが、後者は“真実”を記録する物語を展開するだけで、その社会的方向を判定する力はなかった。 この“一心”に創作した2作品が、張愛玲の運命と創作生活を“真っ二つに断ち切る”ことになるとは思いもしなかった―――40年代と50年代の張愛玲は、はっきりと一線が画されているのがわかる。 40年代の張氏の小説は、好評を博し推賞する人が多かった。 しかし50年代以降の張愛玲は冷遇され、あまつさえ基本的に否定された。 評論されることも少なくなり、出版する時もこの2作品は除外された。 学者がこう指摘している。 “張愛玲の50年代前後の作品を分けてはいけない。 もし彼女が書いた旧時代の市民と知識女性の作品を、今日の中産階級の生活の理想的な先駆者と追認するなら、この部分の作品と新社会の農民を書いた血涙の書を切り離すことは、前者を高く持ち上げ、後者を低く評価するもので、それでは張愛玲を私達が作った狭い籠に閉じ込めることと同じだ……”(復旦大学郜元宝:《張愛玲とその他を再び論ず》)

実は、張愛玲は典型的な小市民作家で、党の作家・プロレタリア作家ではない。 そのため、彼女は丁玲、周立波のような政治的立場と思想の自覚があるはずがなく、彼女がこのような重大な題材を扱った時も、まだ党の一連の政策に対する理解と研究が不足しており、主流のイデオロギーの言葉や創作の基本についても認識がなかった。 このような基本は作家に、ただ作品の“芸術的真実だけでは不十分”で更に“本質的真実”に注意しなければならず、また上層部が社会世論と創作思想について提唱しているのが何かを理解しなければならなかった。 しかし、その当時彼女にこういうことを教える人がいなかった。 彼女はただ、自分の頭の中に従来からあった理解と方法で、彼女が知ることもなかった、しかし彼女が心を打たれたものを書いた。 張愛玲は農民のことをよく知らなかっただろう。 しかし彼女は、農民を非現実的に書くつもりはなく、彼らに同情を寄せて書いた。 彼女は40年代、あの手馴れた小市民の生き生きした生活を描いたが、今度は自分のよく知らない解放初期の農民が生きる糧とした典型的環境を的確に描いてみせた。 彼女が求めたのは自由、真実、平穏な人生だった。 これは彼女の作品の一貫した考え方だった。 しかし評論の枠組みが、正常軌道から外れた時、判断の基準に偏向が生じる。 張愛玲が“一心”に書いた土地改革の小説は、当時の主流の認識と知識の中では“異端”として際立ってしまった。

张爱玲收到信后自然非常兴奋,于2月20日胡适写了回信,她在信中收到您的信,真的高到极点,在是非常的幸。最使我感的是您把《秧歌》看得那……里的批《秧歌》的反。有两篇批,都是由反共方面着眼,于故事本身并不怎注意。

、胡的第一次通信,在此以前他并不认识。但张爱胡适位五四新文化运的重要人物早就佩服,尤其是胡适点推介的《楼梦》和《海上花列》,成少女张爱心研的启蒙作品,这对她以后形成的楼梦——张爱玲句式的叙述格影响极大。后来张爱玲到美国定居曾拜访过两次胡适,胡适也到的寓所回访过。他忘年交。

张爱玲和她的两部《秧歌》、《赤地之恋》的反,国内外形成截然不同的两。与国内期以来封锁张爱玲的状况相比,海外的研究工作却很活。1961年,曾与张爱玲当面交谈过的文学史家、美国哥大学夏志清教授的英文著作——《中国代小史》出版,张爱玲第一次被写入文学史,而且用41的重要篇幅来价她。在小史的序言中还说隔百年《秧歌》、《赤地之恋》,更使我深信张爱玲是当代最重要的作家,也是五四以来最秀的作家。本英文版的《中国近代小史》80年代初在香港被翻成中文入大后,使张爱玲的名字和她的作品(包括钱钟书、沈从文、林堂、路翎等一批作家),像出土文物浮出史地表,并迅速走,形成大第一次的张爱

持相同点的是刘登翰主的《香港文学史》,中写道:上,在张爱玲的文章中,很找到反共和西方的直接言,而且不感受到她政治的一种厌恶度。固然两部小作初衷已不得而知,但在当史情境中,她是很难躲避要受到指也是她后来在大诸种文学中,找不到位置的原因。实际上,站在今天的立上看,《秧歌》和《赤地之恋》建国初期的那些失,以及平民和知分子受的描写,和后来大作家的痕文学相比是要温和得多。只是在当,在新中国成立之两部小就未免分地刺眼了。由此看来,蒙在两部小之上的这层,同只能看作是当时东西方冷果。(《香港文学史》,人民文学出版社1999年版)

台湾著名女作家龙应台也在《一支淡淡的歌——评张爱玲〈秧歌〉》篇文章里本薄薄的《秧歌》在我记忆中就应该有一个尊的地位。张爱玲的炙人口的作品——譬如《半生——只是引人入的言情小而已,没有什深度可言。但淡淡的《秧歌》,却绝对是一部世界艺术品。龙应台同时认为《秧歌》的材是典型的宣传资料,但是作者人性的成熟的了解了它深度,作者的技巧予它独立自主的艺术生命。《秧歌》是一个与土地共生死的人的一支挽歌,是张爱中国民立的一个小

评论表达了一个意思。即与张爱玲以楼梦句式娓娓叙述40年代的上海城市旧家庭的奇故事相比,《秧歌》和《赤地之恋》然属于异数。无材内容、格都有了很大的不同。如果说张爱玲以前的小驾轻就熟之作,那后者全新的土改期的村生活的用心思考;前者她能任意铺陈,把握安排人物的命运和走向,而后者只能是记录故事的景,却无力判它的社会取向。不曾想,用心作的两部小,却使张爱玲的命运和作生涯”——40年代与50年代的张爱渭分明。于40年代的氏小如潮,推崇有加;而50年代以后的张爱玲却莫冷落,甚至基本否定。评论很少及,出版也把两篇小排斥在外。有学者指出:张爱玲50年代前后的作不可分割。如果把她写旧代市民和知女性的作品追认为今天中产阶级生活理想的前,将部分文字与后来写新社会民的血泪之割裂来,抬高前者,低后者,那就无异于将张爱在由我制造的狭……”旦大学郜元宝:《重评张爱玲及其他》)

张爱玲是典型的小资产阶级的作家,而不是党的作家,无产阶级的作家;因此,她不可能有丁玲、周立波那的政治立和思想悟,她在驾驭这样重大材的候,缺乏党的一系列政策的了解和研究,缺乏主流意态话语律的把握。这种规律和要求告作家:只注意作品的艺术是不的,要注意,明白高层对于社会舆论作思想提倡的是什。然而当并没人告些。她只是按照自己固有的理解和方法写她并不熟悉、然而却触她灵魂的西。张爱玲也并不熟悉民,但她从来不准民写成空洞的符号,而是在他身上注了全部的同情。她写活了40年代那些熟悉的小市民的灵魂,也写活了自己并不熟悉的解放初期的民,以及他们赖以生存的典型境。她求的是自由、真而平的人生。是她作的一思想。但当评论框架脱离正常道的候,判断的准便生偏移;张爱玲和她用心写出的土改小也便成在主流意识视野中的

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1408 中国の三面記事を読む(604) 張愛玲が大陸から離れた理由(3)

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易 

143 手机看新

“血涙の書”がどうして“悪い作品”になったのか?

5この2冊の小説は香港で発表された後、大陸の評論界の注目を引いた。その当時に出版された同類題材の《太陽照在桑乾河上》、《暴风骤雨》などの長編小説と比べ、作者の政治的背景、それと作品の反映内容と主流傾向には大きな違いがみられた。 それ故、彼女の作品は大陸の新しい文学概念と評論の枠組みに入れられた時、人々はすぐその“異端”を発見した。 作品の中の党の土地改革運動のマイナス面を書いたことに我慢ならず、そこで厳しい批判を加えた。 40年代に上海で《万象》の編集責任者で張愛玲の小説を発表しことがある柯霊は、“私は率直に言って悪い作品だと思います……決して小説の政治的傾向からではありません……《秧歌》と《赤地之恋》の致命傷は虚偽にあり、描写されている人、事、情、環境、すべて正しいようだが実はそうではない”(柯霊:《遙寄張愛玲》)。 この観点は“真実性”への疑問を通して小説を否定したもので、影響は大きく、中国国内の研究界の普遍的な見方を代表するものとなった。 あなたはどう思いますか? 作者は精一杯“真実”を主張しているのに、(中国の)世論はこの根本のところで“偽り”と言っています。 その差はこのように大きく開いています。

 

これらの評論は張愛玲の強烈な反響を引き起こした。 彼女は米国の詩人・ロエイホー(瑞菏に対して不平をこぼした “私は出版社を相手にしないといけないわ。 上海が陥落した時、本を書きました。 戦争が終わったら、売国奴になってしまいました! 香港に来て、私は中国の新しい社会が出来た後、見たいくつかの事を書こうと思ったのに、評論はそれを反共文学と論じました! これはお世辞ですか。 私は声が出ません。 あるいは、私自身感じた以上の事を書くことができないのでしょう。 たとえ私は彼らが私に何をしろと望んでいることを知ってたとしても、それは本当に苦痛です。 私にはアメリカンドリームなどないし、いかなる主義に対しても好き嫌いはありません!”(王玲:《她从海上》)

困惑の中、1954年秋、張愛玲は遠く米国にいる胡適に《秧歌》を郵送し、彼女の最も崇拝する学者に、この本を彼が以前《海上花列伝》を評したように、“平淡で自然に近く”間違ったところを指摘してほしいと頼んだ。 胡適はこの本を受け取ると、案の定、細かく読んだ上、3ヶ月後手紙を返した。

愛玲女史:

2 105日付お手紙とあなたの小説《秧歌》、ありがとうございます!

 

長い間あなたにお手紙を差し上げなかったこと、どうぞお許し願います。

 

あなたのこの《秧歌》、私は注意深く2回読み返しました。 私は、この本が大変文学的価値がある作品だとわかりとてもうれしく読みました。 あなたが自分で述べられているように“平淡で自然に近く”読み、私はあなたがこの方面ですでにみごとな境地に達していると思っています!

 

Photo この小説は、初めから終わりまで、書いているのは“飢餓”です――あなたはこれ以前《飢え》という書名を思い付いていたかも知れない。 書くのがとても上手で、本当に“平淡で自然に近い”巧みな腕前を持っています。

 

あなたが、月香が家に戻った後の最初の食事を“濃いかゆ”(稠粥)と書いたのは、とても感動的でした。 それから都市からやって来て、空腹が我慢できない顧先生が、町から持ち帰ったものを人に隠れてこっそり食べている状況を書いているのには、とても感心させられました。 私が一番感心したのは、彼が家を出て卵の殻を捨てるところとナツメの種の一段です。 それと“これまでゴマ焼餅を食べる時、カチカチとものすごい音がするのに気がつかなかった”という一段。 このいくつかはよいと思う人がいるかも知れません。

次に阿招がなぐられるところは、読者が読んですぐに理解できないのではないかと危惧します。

 

あなたは人情を書くのがうまく、“平淡で自然に近い”境地に達しています。 たとえば131―132頁の「綿入れの掛け布団」や、175、189頁の「綿入れの上着」は、とても成功しています。 189頁の「綿入れの上着」のところは本当によく書けており、感動しました。

“平淡で自然に近い境地”はとても貴重で、読者はそれを高くかっています。 《海上花列伝》は長く埋もれていた良い例です。 あなたのこの小説は出版の後、どんな評論を受けましたか? 私に少しご紹介下さい。 

あなたの英語の本、今後、必ず注意しております。

 

中国語版できましたら、2、3冊ご郵送下さい。 友達に紹介したいと思います。 

作品の160頁に“彼のお父さんは今年80になります。 私は81になりました”と205頁の“68だ”は違いすぎます。 ちょっとした誤りでしょう。 76頁の“布団の中でロウソクをつけた”は、カットした方がいいでしょう。 

以上申し上げましたのは、文芸作品を書いたことがない人間のたわごとです。 どうかお笑いにならないで下さい。 あなたの10月のお手紙の中で、“だいぶ前、あなたの書かれた《醒世姻縁》と《海上花列伝》の考証を読み、印象が深く残っています。 その後、この2冊を探して読みました。 それ以来、何度読んだか分かりません。 大変、教えられるところが多かったと思っています”――私はこの言葉を読み、またあなたの小説を読んで、本当にうれしくてたまりませんでした!

 

もし、私がこの二つの小説を考証したおかげで、あなたがこの《秧歌》が生れたのなら、私はとても満足です。

 

あなたはこの小説の前、どんな本を書きましたか? もし都合がよければ、私は読んでみたいと思います。

 

まずはこれにて、

胡適 敬上

一九五五、一、廿五 陰暦正月初二

《張愛玲 胡適之を回想する》から引用。 台北皇冠出版社1976年5月版)

血泪之何成了坏作品

两部小在香港表以后,引起了大陆评论界的注意。与那前后出版的同类题材的《太阳照在桑干河上》、《暴风骤雨》等篇小比起来,无是作者的政治背景,是作品反映的内容及主流向上,都有着很大的不同。所以,当她的作品入大新的文学念和评论框架的候,人便发现它的,忍受不了作品当中于党的土改运示,于是严厉的批。40年代曾在上海担任《万象》主过张爱玲小的柯灵评论说我坦率地认为是坏作品……并不因的政治……《秧歌》和《赤地之恋》的致命在于虚假,描写的人、事、情、境,全都似是而非。(柯灵:《遥寄张爱玲》)。该观点通过对疑来否定小,影响巨大,代表了国内研究界的普遍看法。你看,作者竭力舆论却在个根本点上虚假。差距如此之大。

 

评论引起张爱烈的反响,她曾美国人瑞菏抱怨我得跟控制着出版的力量打交道。我在上海陷的期写作,束,我成一个奸!到了香港,我想写我在中国新社会建立之后所到的一些事,评论把它成反共文学!是恭我不能出声,或者,我不能写超我自身感受的事,即使我知道他希望我做什,那真是很痛苦,我没有美国梦,我任何主都没有好(王蕙玲:《她从海上来》)

 

在迷茫和困惑中,1954年秋,张爱玲寄了一本《秧歌》给远在美国的胡适,她最崇拜的学者能指点迷津,希望有点像他《海上花》平淡而近自然。胡适接读这后果然看得仔,3个月后回了一封信:

 

玲女士:

 

谢谢你十月五日的信和你的小《秧歌》!

 

你恕我这许久没你写信。

 

本《秧歌》,我仔看了两遍,我很高能看见这本很有文学的作品。你自己有一点接近平淡而近自然的境界,我认为你在个方面已做到了很成功的地

 

本小,从到尾,写的是饥饿——你曾想到用《饿》做名,写得真好,真有平淡而近自然致功夫。

 

你写月香回家后的第一稠粥,已很人了。后来加上一位从城市来忍不得饿先生,写他背人回来的西的情形,真使我很佩服。我最佩服你写他出蛋壳和核的一段,和从来没注意到?穴小麻?雪吃起来夸嗤夸嗤,响得那么厉一段。几段也许还有人容易欣

 

下面写阿招挨打的一段,我怕得一就能了解了。

 

你写人情,也很致,也能做到平淡而近自然的境界。如131132写那条棉被,如175、189写的那件棉,都是很成功的。189写棉的一段真写得好,使我很感

 

平淡而近自然的境界是很得一般者的赏识的。《海上花》就是一个久被埋没的好例子。你本小出版后,得到什么评论?我很想知道一二。

 

你的英文本,将来我一定特留意。

 

中文本可否你多寄两三本来,我要介绍给一些朋友看看。

 

中160他爹今年八十了,我都八十一了,与205六十八相差太似是小。76在被里点着蜡,似乎也可

 

以上,是一个不曾做文艺创作的人的胡你不要笑。我了你十月的信上很久以前我你写的《醒世姻》与《海上花》的考,印象非常深,后来找了两部小来看,些年来,前后不知看了多少遍,自己以得到不少益”——几句,又了你的小,我真很感

 

如果我提倡两部小的效果生了你一本《秧歌》,我也应该十分意了。

 

你在本小之前,写了些什么书?如方便,我很想看看。

 

匆匆敬祝平安

 

胡适敬上

 

一九五五、一、廿五?穴旧元旦后一日?

 

(引自《张爱胡适之》,台北皇冠出版社1976年5月版)

 

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1407 中国の三面記事を読む(603) 張愛玲が大陸から離れた理由(2)

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易 

143 手机看新

土地改革の小説で何を書いたのか?

3 張愛玲は香港に着いた後、アメリカ新聞処に勤め英文の翻訳を担当した。この時、彼女は生計の道の仕事を終えた後、しばらくの間放置していたペンを取る気になった。 というのは、江蘇省北部の農村で土地改革に参加した時自ら体験したことが彼女を励まし、そのとき新しく知り合った“農村の友達の笑い声と涙”が彼女にやめるにやめられなくさせたのだ。 そこで彼女は一気に2冊の長編小説《秧歌》と《赤地之恋》を書き上げた。 それぞれ1954年7月と10月に香港の雑誌《今日世界》に掲載した。

 

Photo この二つの土地改革を反映した題材の小説は、作者が当時江蘇省北部の農村の土地改革の作業に参加した時、見聞したことを基に創作したものである。 彼女は“自序”の中でこう述べている。 “《赤地之恋》で書いたものは実在の人の本当にあった出来事です。 しかし、小説は結局小説で報道文学ではありません。 私は本当の名前と一部の地名を隠したのと、それからたくさんある小さい出来事をある程度一緒にしたり、更に取捨選択したりと構成しました。 写し出された場面はあまりにも広大で、今日の大陸の全貌を表現することはできません……でもできるかぎりその時の雰囲気を復元できたと思います。 私は、読者の方々がこの本を読んだ時、多少でも真実の生活の息吹を嗅ぐことができたらと望むだけです” また《秧歌3_2 の“あとがき”の中で、作者は強調して言っている。 “《秧歌》の中の人物はすべて虚構ですが、書かれている事はすべて確かな根拠があるものです” “真実”を裏付けるため、張愛玲は小説の中に、当時の《解放日報》、《人民文学》などの新聞雑誌に掲載された共産党幹部の“自己批判”や、天津の“飢餓難民救済所”、華東の“凶作状況”などの材料を引用した。

このような“真実”の原則によって、小説の中では、いくつかの社会問題、土地改革の中の“行き過ぎ”現象、幹部の“腐敗”行為などに触れた。 たとえば、《赤地之恋》は農村幹部の残酷な闘争、地主、中農さえも見逃さなかった。 人物を通じて、“古い地主はみんな清算した。しかし共産党がもう新しい大地主になってんじゃないか? その上、前よりもっと貪欲で、更に力を持ってる”、“幹部は確かに腐ったのが沢山いるし、生活もひたすら快楽を求めている”としゃべらせている。 《秧歌》では何度も農民の“習慣的に、眉をしかめたり,笑ったりする表情”に触れている。 土地改革工作隊長の農民に対する見方は、“農民か。 もともと立ち後れているんだ。 彼らの心の中がどのくらいバカか、あんたは知らないんだ。 ただ目の前の利益だけ見て、善悪がわからないんだ……木の葉が落ちても、頭を打ち破られるんではないかと心配するんだから” 土地改革に伴って、“この頃、大きい事件が起きようとしていた。 増産節約運動が“三反運動”(党・政・軍の汚職・浪費・官僚主義の三つに反対して起こされた綱紀粛正運動)に変質していき、これら機関の幹部は真っ先にその矢面にたち、誰もが不安だった” その頃、拡声器から声が流れていた。 “自白を拒否した頑固分子はもう銃殺された。 みんな早く告白せよ!”

 

秧歌》が書いているのは食糧不足と貧乏である。 1人の小さい女の子が空腹でずっと泣いています。 彼女の父(金根)がやさしい声で、“お前のお母さんはもうすぐ帰って来る。 食べるものを持って来るから”  作品はこう書いている。 “子供のお母さんは上海に出稼ぎに行っている。 彼女は数ヶ月前に手紙で、仕事を辞め、戻って農作業をすると言ってきた――金根は今、田を分配されている。 土地改革後、家族はとても生活が苦く、すべて彼女の送金に頼っていた……” 農村へ行き実際の生活を体験している作家の顧岡を書いている。 食料不足のためこっそりと町へ茶たまごを買いに行き、村の入口まで歩いくると、突然“荒涼とした野原の至る所にひもじい目が見える。 卵の殻をどこに捨てるのもまずい” 一人の子供が偶然、顧岡が扉の後に隠れて卵を食べているところにぶつかってしまった。 顧岡は“卵をその子に上げないわけにいかなかった” 《秧歌》はもう一人重要な人物“王同志”を書いている。 作者は王同志の口を借りて、“俺達は失敗した”と言わせている。 王同志は積極的に融通のきかない土地政策を推進していた。 しかし決して民衆の苦しみを知らないわけではなかった。 そこには彼自身の苦しみもあった。 彼の原則は彼の盲目性と同じに強烈だった。 しかし、彼は原則と人情の両方を考え、偽りと誠実の間でバランスをとろうとした。 これは文章の中で作り上げた幹部の典型的一例である。

 

これらの描写と対応するような、多くの明るい場面もある。 たとえば《赤地之恋》の冒頭、土地改革工作隊が村に入り荷馬車の上に座って激しく声を張り上げ高らかに歌います。 “東方紅、太陽が上がり、中国に毛沢東が現われた……” 熱意あふれる若い人達が、胸に農民の貧しさを救う気高い感情を抱いて“乱れ荒れ果てた”原野に入ってきました。 《秧歌》の中では更に、農村の婚礼を濃密にきめ細かく描写している。 人々が花嫁に歌を歌わせる。 “花嫁の金花はついに立ちあがり、テーブルの角に斜めに寄りかかり、また体を後ろ向きにして、壁に向っていた” “冬のクラス”で習った《八路軍行進曲》を1曲歌った。 人々の“もう一曲”の喚声と拍手の中、花嫁はまた“ヘッララ、ヘッララ、空にきれいな雲が出て、道には紅花咲き乱れる。 中朝人民の力は大きく、米国兵を打ち負かす……” 喜びとにぎやかな光景が描かれている。 工作隊が人々に収穫はどうですかと訊ねると、譚おばさんが喜んで言う。 “今年は良いですよ! 貧乏人は解放されました! 今は昔とは違います! もし毛主席がいなかったら、私達には今日のようなことはありません。 革命党がもし来てくれなかったら、私達貧乏人はいつまでひどい目にあっていたかわかりません!” 作者が補足して言っている。 “譚おばさんは共産党と革命党をよく分かりません。 彼女はずっと共産党を革命党と呼び、時には国民党と呼んでました。 しかし、彼女のようなこの年齢で、この誤りは情状酌量の余地があります” 作者はこれらのシーンと人物を描写した時、内心“新鮮と喜び”の気持ちに満ちていた。 “張愛玲式”の筆遣いが随所に見られた。

土改小写了些什

 

张爱玲到香港后,供于美国香港的新闻处担任英文翻。在此期,她除了完成用于生的工作任,便想拿起她置了一段时间的笔。因村参加土改的切身感受激励着她,新结识村朋友笑声和眼泪使她欲不能。于是她一口气作了两部篇小《秧歌》和《赤地之恋》,分于1954年7月和10月在香港《今日世界》志刊登。

 

两部反映土改材的小,是作者根据当参加村土地改革工作的所闻创作的。她在自序《赤地之恋》所写的是真人真事,但是小说毕竟不是道文学,我除了把真正的人名与一部分的地名去,而且需要把多小故事叠印在一起,再经过剪裁与组织。画面相当广,但也不能表今日的大全貌……而是尽可能地制当的气氛。我只希望候,能多少嗅到一点真的生活气息。在《秧歌》的里,作者又强调《秧歌》里面的人物然都是虚构的,事情却都是有根有据的。了印张爱玲在小里收集引用了当的《解放日》、《人民文学》等刊上公的共党干部的自我检讨、天津的民救华东荒状况等材料。

 

这样,按照的原,小里即触及到一些社会问题,如土改中的象,干部的等。如《赤地之恋》写村干部残酷斗争地主也不放;通人物老的地主清算光了,但共党是否已成了新的大地主了呢?而且前更婪,更有干部的确有多已腐化了,生活也一味追求享受。《秧歌》多次提到习惯的那眉半微笑的神情。土改工作队长对农民的看法是民嘛,本来就是落后的。他心里有多糊涂,你都不知道,就只看眼前的一点利益,常常不好歹……叶子掉下来都怕打破了伴随着土改,这时候却又酝酿着一个大暴,增产节约动蜕三反运些机的干部正是首当其冲,人人自危。那些日子,广播喇叭里喊着:抗拒坦白的固分子已枪毙了,大家赶快坦白!

《秧歌》写到饥饿贫穷。一个小女孩饿得直哭,她父(金根)柔声就要回来了,她带东西来吃。作品写道:孩子的在上海帮佣。她几个月前就写了信回来,她要辞工回来——金根在分到田了。自从土改以后,当家里人就很苦,全靠她在外面寄回来……”写下生活的作家顾冈,因为饥饿偷偷茶叶蛋,走到村口,突然发现荒凉零乱的野地到伸出了饥饿的眼睛,蛋壳哪儿都不合适;一小孩无意中撞见顾冈躲后吃蛋,顾冈不得不把蛋献出来。《秧歌》写了一个重要人物王同志,作者借王同志之口。王同志极推行僵硬的土地政策,但并非不得民疾苦:那里面就有他自己的痛苦;他的原性跟他的盲目性一样强烈,但他又想在原和人情两方面,在虚和真搞平衡。是所塑造的干部典型之一

 

些描写相对应的,多属于光明的景。如《赤地之恋》开头,土改工作队进村坐在大上激情高唱着:,太阳升,中国出了个毛泽东……”一批情洋溢的年人,怀抱拯救贫穷的豪情开进零乱荒的原野。《秧歌》里还浓重而细腻地描写了村的一婚礼:人们让新娘子唱歌,新娘子金花于站了起来,斜倚在桌子角上,又把身子背去,面,唱了一首在冬学班上新学的《八路军进行曲》;在人再来一个的喊声和掌声中,新娘子又唱起了嘿啦啦嘿啦啦,天空出彩霞呀,地上开红花呀,中朝人民力量大,打了美国兵呀……”团欢乐热闹的景象。工作队问起老百姓收成怎么样大娘高在好呢!人翻身在跟从前两样喽!要不是毛主席,我哪有今天呀?要不是革命党来了,我们穷人受罪不知道到哪年啊!作者充道:大娘把共党与革命党有点搞不清楚,她一直称共革命党,有候甚至于称国民党。但是在她这错误似乎情有可原。作者在描绘这景和人物的候,内心充和欣喜之情,张爱玲式的笔触随

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1403 中国の三面記事を読む(600) 張愛玲が大陸から離れた理由(1)

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易

7_2  張愛玲は1940年代の上海グランドで有名なベストセラー作家だった。 人々が彼女を愛し夢中になったのは、この頃、出版された恋愛小説からだった。 ところで、50年代以降の彼女の作品と経歴について知る人は少ない。 特に彼女が売れに売れていたのに、上海が解放された時、突然、香港と米国に向い、それから二度と帰って来なかった。 これは一体なぜなのか? 彼女が大陸に別れを告げた前後、何があったのか?

張愛玲はなぜ上海を離れたのか?

2_2 張愛玲、本名:張瑛瑛、筆名:梁京、1920年9月30日に上海の官吏の家庭に生まれた。 彼女の祖父の張佩綸は有名な清の官僚で、祖母は文華殿大学士の李鴻章の娘だった。 1939年、張愛玲は極東地区一番の成績でイギリスのロンドン大学に合格したが、その後ヨーロッパの戦争のため、香港大学で勉強することになった。 1942年上海に戻り、23歳の時、小説《沉香屑――第一炉香》を発表、一躍脚光を浴び、一年後には10作品が入った小説集《伝奇》を出版、当時の上海ひいては中国文壇の輝けるスターPhoto_3 となった。 1944年、汪兆銘政府の宣伝部政務次長兼《中華日報》総主筆の胡蘭成と結婚した。 彼女は上海で家庭を持ち、仕事をし、出世を果たした。 しかし、上海解放後、彼女は香港とアメリカに向った。 それはなぜだったのか?

張愛玲は解放後の上海を深く見つめていた。 だが、彼女はずっと新中国の敷居の外をうろうろしていた。 その当時、夏衍が上海の文化面の仕事を担当、主管し、新たな刊行物・新聞の00 設立に当っていた。 張愛玲と何度か一緒に仕事したことがある龔之方などが張愛玲に彼らの《亦報》に原稿を書くよう誘った。 こうして、張愛玲は“梁京”という筆名で、1950年3月から1951年2月まで《亦報》に小説《十八春》を連載した。 この都市の上流社会の家庭を描いた小説は大きな反響を呼んだ。 張愛玲が持っていたものは依然として古いストーリーだった。

1950年7~8月の間、夏衍の手配の下、張愛玲は上海文芸代表団に従って江蘇省北部の農村の土地改革の仕事に参加した。 この2ヶ月の密着した生活は、彼女と中国大衆の距離が一番近付いた過程であると共に、“彼女自身”から一番遠ざかった時期でもあった。 だから、彼女はいたたまれぬ思いに悩んだ時期でもあった。 彼女が見たのは、“貧しくて立ち後れた生活”、“行き過ぎな闘争”で、当時求められていた“英雄を書き”、“土地改革を礼賛”とは大変かけ離れていた。 彼女は書くか、書かないか、書くとしたら何を書くかで、しきりに迷っていた。 友人が彼女に聞いた。 “プロレタリアの話、あなた書けるの?” 彼女は、“できない。 おばさん達のことだったら、少しはわかるけど” “一般的にいわれる“記念碑”的作品は私には書けない。 試してみるつもりもない”と認めていた。(《何を書くか》から引用、《張愛玲文集》第4巻)。 これには時代が要求するものと自身の状況の間の克服できない矛盾が現われている。 ここに彼女の中国から離れれたいという考えが芽生え始めている。

張愛玲が上海を離れることになった一番の直接的要因は、抗日戦争時代の新聞紙上に、彼女が日本の“第3回大東亜文学家大会”に参加したという名前が載ったことである。 “私自身はこれまで釈明することなど考えもしなかった。 しかし、この一年来あれこれ取りざたされ、まるで文化漢売国奴)になったみたい。 自分でもまったくわけがわかりません。 私が書いた文章はこれまで政治とは関係ないし、いかなる手当ももらったことがありません……”(張愛玲:《〈伝奇〉増訂本序言》) 彼女がかつて漢の胡蘭成と結婚したことがある、“漢とまったく同じだ”と言う人もいた。 実は彼女、1946年6月に胡蘭成とと離婚している。 《海派》新聞は、はっきりと貧しさのため米国兵の“ジープ女”になったと書いた……これらの批判は張愛玲の心の中の悩みとなり、彼女に「人言可畏」(人のウワサは恐ろしい)と「政治の圧力」を感じさせるようになった。

Photo_4 夏衍は張愛玲の才能を高く評価し、彼女を上海市の第1回文化代表大会に参加させた。 ほかの人達はみなレーニン服を身につけていたのに、彼女だけは旗袍(チャイナ・ドレス)を着て、みんなとアンバランスだった。 彼女一人ぽつんと立っている反逆者だった。 彼女は新社会と相容れないことを感じていた。 しかし、自分を変えるつもりはなかった。 創作と政治上のいろいろの要素を考えた時、彼女の唯一の選択は“離れる”ことだった。 張愛玲が上海を離れる前、黄河路カールトンアパートに独りで住んでいた。 夏衍は文華映画会社に移っていた龔之方に頼んで、彼女に上海にそのまま残るよう勧めたり、彼女と有名な映画監督・桑弧との“親密交際”を取り持とうとした。 しかし、張愛玲はただ頭を横に振るだけで、“たぶんこの事は可能性はないでしょう”彼女は中国を出る決意を決めていたのだ。

彼女がその時対外的に発表していた理由は、“戦争のため中断していた学業を続けたい”だった。 1952年7月、32歳の張愛玲は単身、大陸を離れて香港に向った。 彼女の人生の軌跡と文学生活はどう変わっていったろうか?

张爱玲告

2009-06-24 04:35:58 来源: 网易  143 手机看新

张爱玲是上个世40年代上海火的高作家。人们对她的崇拜和痴迷,主要是来自期她表的言情小;而她50年代以后的作和经历鲜为人知。尤其是正当她大大紫的候,随着上海的解放,她却突然去了香港和美国,从此再也没有回来。究竟是?在她告的前后生了什

张爱何离上海

张爱玲,原名瑛瑛,笔名梁京,1920年9月30日生于上海的一个官宦家庭。她的祖父是著名的清朝御吏,祖母是文殿大学士李鸿章之女。1939年张爱玲曾以远东地区第一名的成考取英国敦大学,后因欧洲事就于香港大学。1942年回到上海,23岁时以小《沉香屑——第一炉香》一炮走,一年后出版了包括10部作品的小集《奇》,成上海乃至中国文上的一耀眼的明星。1944年与任汪政府宣部政兼《中主笔的胡婚。她迹在上海,事在上海,家庭在上海,然而上海解放后她却去了香港和美国。

张爱玲注着解放后的上海,但她始徘徊在新中国的门槛外。当夏衍接管并主持上海的文化工作,重新组织创办刊物报纸。曾与张爱玲几度合作之方等人便约请张爱的《亦》写稿。这样张爱玲便以梁京笔名,在1950年3月至1951年2月的《亦》上