1400 中国の三面記事を読む(597) 昔撮った天安門記念写真のリメークが評判となる(下)
変遷:私は北京の天安門が好きです
变迁:我爱北京天安门
2009-06-28 19:31:15 来源: 中国青年报(北京)
李暁莉、張宝玲、張宝 1972年撮影
李暁莉、張宝玲、張宝 2001年撮影
毛联裕と母親 1969年撮影
1972年、成長盛りの楊浪と母親が天安門東南の長安街付近で記念写真を撮った。 “あの当時、誰か北京を離れたり、地方から戻ってくると、必ず天安門に行って写真を撮ったもんです。 その時、私はまだ部隊におり、この写真を撮ったのは帰省したときか出張でしょう。 あの頃、私の母はまだ河北保定幹部学校で働いていたので、休暇を取って会いに来てくれたんです。 だから私の父は私達を連れて天安門広場に行ったんです。 私の父はソ連製のキエフのカメラを持っていて、写真を撮るのが好きで、自分でフィルムを水洗いしたり、写真を拡大したりしてました。 だから私は写真を撮ることにずっと興味を持っていました” 楊浪の母親の記憶の中には、“兵隊にいく前に、私達は特に天安門広場を選んで行きました。 その時、水を持ち、ミカンとパンを買って、一家で記念碑の下に座ってご飯を食べました。 息子に革命烈士の歴史をしっかり覚えさせ、部隊でへこたれないよう、息子に教育するためでした”
毛联裕 2009年撮影
(前列)段離、段若英(後列)段续、王鳳英 1972年撮影
段離、段若英 2009年撮影
応左娃、章錦芳、応代娅、応徳毅 1958年撮影
応左娃、章錦芳、応代娅、応徳毅 2009年撮影
王婷婷 1982年撮影
1982年の北京天安門の記念写真に、女の子婷婷が両手をポケットに挿し込み、片足が前でもう一方は後ろにひねり、得意げなポーズ、かわいいと書き込んであった。 これは白黒写真だが、彼女の得意げな表情から、私は彼女がその当時流行っていたピンク色の長ズボンを穿いていたようで、その腕白なポーズは大人が彼女に教えたものではないと思った。 27年後、婷婷は同じ位置に立ち、昔の写真に近い同様の姿勢をと頼んだが、顔にためらいが見て取れ、一瞬の間、彼女は彼女ではなかった。
王婷婷 2009年撮影
黒明さんが集めた写真の中に、東北の6歳の女の子・耿楚涵が少し緊張して手を後ろに組んで天安門に立っているのがあった。 それは彼女が1986年初めてお父さんと北京に来た時のもので、“あの時は、天安門で撮ったほか、動物園でも一枚撮りました” 2003年に耿楚涵は鞍山師範を卒業後、自分の考えで北京で仕事を探すことに決めた。 彼女は今、ネット会社で働いている。 月収は3、4千元、1000元は家賃で取られ、1000元は食事代、交通費、通信費などに出るので、残りはいくばくもありません。 でも、彼女は実家に戻って生活するつもりはありません。 “私達の地元の発展は遅く、帰っても働き口が見当たりません。 国有企業の従業員の多くはリストラされ、私の父も母も30年余りボイラー工場で働いてましたが、数年前制度が変わり、個人企業に売られてしまいました。 数千人の従業員が勤続年数を買い取られました。 父は1968年の上山下山(大学卒業生が農山村に行って働く)の古い知識青年で、その当時生産科の課長でした。 2002年に勤続年数が買い取られる時、全部で2万元ほどでした。 今は、アルバイトをして生計を立て、老後と医療は自分でなんとかしないといけません。 母もそうです。 幸い私の家は子供は私一人ですから、そんなに大変ではありません” 耿楚涵はもう北京で自分の家庭を持っている。 旦那さんは東北のお百姓さんです。 “北京の家は本当に高くて、まったく買えません。 北京の戸籍は家より更にむずかしい。 家は金があれば買うことができるが、北京の戸籍は買いたくても買えません”
もし文字が多くなくっても、見るときは誤読という問題が生じる。 しかし、黒明さんの立場に立ってみれば、時空を超えた2枚の写真が同じ場所に置かれた時、このような対比自体こそ人々に間違いなく真実の姿を提供することになるものだ。 この写真は形(数量と思いやり)に現れた時、圧倒的多数の中国人はその中から共鳴と力を感じ、彼の4×5in判カメラが捉えた、別の人物、環境などの対象の変化を見つめた、どれからも感動と衝撃を受けられると、黒明さんは信じている。
(本文の出所:中国青年報 )
变迁:我爱北京天安门
2009-06-28 19:31:15 来源: 中国青年报(北京) 跟贴 72 条 手机看新闻
李晓莉、张宝玲、张宝刚1972年摄
李晓莉、张宝玲、张宝刚2001年摄
毛联裕和母亲1969年摄
1972年,风华正茂的杨浪和母亲在天安门东南侧的长安街边拍了张合影。“那时不管谁离开北京,或者从外地回京,肯定都要去天安门照张像。当时我还在部队,拍这张照片好象是回来探亲,还是出差?那时我妈还在河北保定的干校劳动,她特意请假回来看我,所以我爸就带我们去了天安门广场。我爸有一台苏联的基辅相机,他喜欢摄影,自己冲洗胶卷和放大照片,所以我对摄影一直也很感兴趣。”在杨浪母亲的记忆里:“浪浪当兵走之前,我们特意选择到天安门广场,当时带了水,买了桔子和面包,一家人坐在纪念碑下吃的饭,就是为了让儿子记住革命先烈的历程,到部队不要怕苦怕累,想让儿子受受教育。”
毛联裕2009年摄
(前排)段离、段若英(后排)段续、王凤英1972年摄
段离、段若英2009摄
应左娃、章锦芳、应代娅、应德毅1958年摄
应左娃、章锦芳、应代娅、应德毅2009年摄
王婷婷1982年摄
在一张注明1982年北京天安门留念的老照片上,小姑娘婷婷双手插兜,脚丫一前一后地拧着,一副得意、可爱的小样儿。这是一张黑白照片,但透过她志得意满的神情,我却似乎看得见她正穿着一条当年让我痴迷的粉红色长裤,那个顽皮的姿势大约也不是大人教她摆出来的。27年后,婷婷在同样的位置上,按着老照片摆出近乎同样的姿势,脸上却是一种难以看清的躲闪,好似那一瞬间她不是她。
王婷婷2009年摄
在黑明搜集的老照片里,6岁的东北姑娘耿楚涵有些紧张地背着手站在天安门前,那是1986年她第一次跟爸爸来北京,“那次除了在天安门照了一张像,还在动物园照了一张。”2003年耿楚涵从鞍山师范毕业后,便自作主张地跑到了北京找工作。她现在就职于一家网络公司,月收入三四千元,除去1000元房租,1000元吃饭,交通、通讯等开销,所剩无几。但她从没打算回老家生活:“我们当地的发展很慢,回去工作更不好找。很多国有企业的职工都下岗了,我爸妈工作了30多年的锅炉厂,好几年前就改制卖给了私人,几千名职工一次性买断工龄。我爸是1968年上山下乡的老知青,当年还是生产科的科长,2002年买断工龄的时候,总共才给了两万多块钱,现在全靠打工谋生,养老和医疗也要靠自己。我妈也是。幸亏我家就我一个孩子,压力还不是很大。”耿楚涵已经在北京建立了自己的小家,先生是东北老乡。“北京的房子实在是太贵了,根本买不起。北京户口比房子更难实现,房子有钱还可以买到,北京户口想买都没地方买。 ”
如果没有更多的文字,观看总是存在误读的。也许按照黑明的设想,当跨越时空的两张照片被并置时,这种对比本身便为人们提供了一种可能的观察方式。黑明相信,当这组照片被规模(数量和体量上)呈现时,绝大多数的中国人都能从中感受到共鸣和力量,就像他一次次从4×5相机的另一端凝视着人物、环境等表象下的变化,一次次所受到的感动与震撼。
(本文来源: 中国青年报 )
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