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4006中国は見る(2544)飛騨という場所(下)


那个叫飛騨的地方
October 04, 2016  来源:辛子IN日本
2度目にまた飛騨高山に行ったのは、夏の時です。 高山の町を夜、散歩した時、ちょうど納涼夏まつりをやってるのにぶつかりました。 まつりの司会者が、みんなに舞台に上がって歌を歌うよう呼びかけていました。 そこで私は勇気を出して舞台に上がり、ちょうど覚えたばかりの日本語の歌《時の流れに身をまかせ》を歌いました。 私は舞台の下の日本人が私の日本語の歌をわかったのかどうかは知りませんが、しかし好意の拍手が沢山聞こえました。 そして高山産の大きなスイカ一個を賞品に貰いました。 私は今、その大きなスイカをどうやって食べ終わったのかを思い出せません。 いずれにしろ、お腹いっぱい食べお腹がぱんぱんになったと思います。 スイカ好きにとって、スイカでお腹がはちきれそうになることはとても楽しい事です。
 
 
その後、何度も飛騨地方に行ったことがあります。 飛騨牛を食べたり、宮川の朝市で唐辛子を買ったり、有名な高山祭りを見に行ったり、古川の白壁、青瓦、泳いでいる魚を見に行ったり、世界遺産の合掌づくりとそれに寄り添うような大きな緑の田んぼを見てきた。 ある年、私がまた飛騨に行った時、合掌村のある食堂で食事をしていた。 食堂の女主人は、たいへん話好きな日本の奥さんで、私が食事をしている時、この奥さんはずっと私に、彼女が山に山菜を採りに行って、大きいサルに出会った時のことを話し続けた。 その奥さんは、
 
 
“その日、俺は山の中で山菜を採ってたんです。 下を向いてずっと採ってて、とうとう袋がいっぱいになったんで、なんとなく頭を上げたら、俺から1尺もしないところに、俺よりも大きいサルがいて、じっと俺を見ているのよ。 その時は、びっくりしてしゃべることも出きなかった。 摘んだ山菜は、全部地べたに落としてしまった。 その時、心の中では、一つの考えしかなかった。 今日でおしまいだ......”
 
 
店の奥さんは、“その大きいサルは、ずっととがめるように、厳しい目付きで俺をずっと長いこと見てたけど、とうとうひと言も言わずに、あっという間に立ち去った。 危機一髪で助かったということだ”
 
 
“しかし、それ以降”店の奥さんは、“俺は、毎回また山に山菜を採りに行く時、山に入る前には、必ず先ずお辞儀をして、山の谷に向かって大声で、「すみません、お邪魔します」って言うのさ。 山を出る時も、必ず後ろを向いてお辞儀をし、大声で山に向かって「ありがとうございます」”と話した。
 
 
この店の奥さんは更に、“この世界、最も恐ろしい動物は、大きいサルではなく、大きいツキノワグマがでもなく、人です”と言った。 私は奥さんの話に賛成です。 そして考えます。 “人はなぜ恐ろしい動物に変わったのか。 主な理由は、人は記憶があるけれど、忘れやすいからです。 新海誠の映画《君の名は。》のように、人と人の間で、お互いに相手をしっかり覚え、生活の中で発生したそれらの温かみを受けたことをしっかり覚えていれば、この世界は心の柔軟な記憶から、愛に満ちた力に変わるはずだ。 しかし、記憶が消えてなくなり、すべて受けた記憶が拭い去られたら、かって愛し合った人さえも、見知らぬ人となり、会ってもわからなくなる。 忘れるということは、人類に同じ失敗を繰り返させ、救うことができない恐ろしい生物に変えてしまうことだ。
 
 
だから、映画《君の名は。》の中で、繰り返し組紐が出てきます。 女の子の三葉が頭に赤い組紐をつけています。 これが絶えず代わる代わるのシーンに出てきます。 恐らくなにか深い意味があるのでしょう。 人は忘れやすいので、記憶を呼び起こす繋ぎが必要です。 それを日本語で書くと“絆”、中国語では“覊絆”と言います。 “絆”と“覊絆”の源は、山や海、青空と白雲、すべての自然です。 この語源のきずなを繋いでいるのが、代々伝えられてきた記憶です。 伝統の習慣の伝承、少年時代の思い出、日常生活の思い出などです。 忘れないためには、これらをいっしょに繋ぐことしかない。 記憶の呼びかけの中から、愛を見つけ、自分を見つけることができると思います。

 
那个叫飛騨的地方
October 04, 2016  来源:辛子IN日本
 
 
第二次再去飛騨高山,则是夏天的时候。记得夜晚在高山的街头散步时,恰好遇到有露天的纳凉晚会,晚会的主持人邀请大家上台去唱歌。于是我就壮着胆子登上了舞台,唱了一首自己刚刚学会不久的日文歌《時の流れに身をまかせ》。我不太清楚台下的日本人是否听懂了我的日文歌,但是我得到了充满善意的掌声,还赢得了奖品:一个高山产的大西瓜。我现在已经想不起来我是如何将那么大一个西瓜吃完的,总之,相信一定吃得很饱很撑。对于一个热爱西瓜的人而言,被西瓜撑破了肚子那也是件极为快乐的事。
 
 
后来,又去过很多次飛騨地区。去吃飛騨牛,去买宫川早市的辣椒,去看著名的高山祭,去看古川的白墙青瓦、游鱼戏水,去看世界遗产合掌造,以及与合掌造相依为伴的大片大片的绿色田野。有一年,我又去飛騨时,在合掌村的一家乡土食堂吃饭。食堂的女店主,是一位非常喜欢讲故事的日本太太。我吃饭的时候,这位店主太太一直都在跟我说话。告诉我她去山上采野菜时,遭遇大猿猴的经历。那位店主太太说:
 
 
“那天我正在山里採野菜,低着头採啊採,终于採满一围兜的时候,无意中抬了一下头,发现就在离我不到一尺远的地方,有一只比我大许多倍的大猿猴,正一动不动地盯着我。我当时吓得话都说不出来,採摘的野菜全部掉落在地上,心里当时只有一个念头:今天死定了......”
 
 
店主太太说:那大猴子一直十分责怪地很严厉地盯了她很久之后,终于一言不发地转身离去了。最后的结果总算是有惊无险。
 
 
“但是打那以后,”店主太太说:“我每次再去山上採野菜时,进山之前,一定先鞠躬,对着山间的空谷大声说:对不起,我来打扰了。离开的时候,也一定要记得回头鞠躬,大声对着山间说谢谢。”
 
 
这位店主太太还说:这个世界上,最可怕的动物,不是大猴子也不是大黑熊,而是人。我很赞成店主太太的话。并且想:人之所以会变成可怕的动物,一个主要原因,是因为人虽然有记忆,但却也容易遗忘。就像新海诚的电影《君の名は。》一样,当人与人之间,彼此记住对方,记住生活中发生过的那些温暖的点滴,这个世界会因为内心柔软的记忆而变得充满爱的力量。然而,当记忆消失,所有发生过的点滴被抹去时,就连曾经相爱的人之间,也会形同陌路,对面不相识。遗忘,常常令人类重蹈覆辙,变成无药可救的可怕生物。
 
 
所以,我想电影《君の名は。》里,反复出现组纽、出现女孩三叶系在头上的红色头绳,这些不断交替的镜头,也许另有一番深意吧。因为人类容易遗忘,所以需要有呼唤记忆的连结,那便是日文所写的“絆”,中文所写的“羁绊”。“絆”与“羁绊”的源头,是高山大海、蓝天白云,是所有的自然。而连结这一源头的纽带,则是世代相传的记忆:传统习俗的传承、童年时代的回味,日常生活中的点滴。只有将这些串在一起,人们才不会容易遗忘,才能在记忆的呼唤中,找到爱,找到自己。

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