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3449中国は見る(2040)竹久夢二の「青山河」(下)


梦二的“青山河”
2015-03-22 09:38:13 来源:知日·艺术篇 刘 雁

Photo夢二は、この絵に“青山河”という名を付けた。

“山”と“河”は、夢二の心の中では特殊な意味を持っていた。

1914年、31歳の夢二は、彼より 12歳年下の彦乃に出会

った。  2人は恋に落ちた。 しかし、彼らの真剣な恋は、父

親の強い反対にあった。  彦乃の家族に気づかれないよう

にするため、彦乃と夢二との手紙では、お互いに“山”と“河”

と暗号を使っていた。 彦乃は“山”、夢二は“河”だった。 

1920年、彦乃は肺結核で亡くなった。 山河はついに一緒

になることはできなかった。

その後、彼は榛名山を描いた。 彼と彦乃が肩を寄せ遠くの

榛名山を眺めている。 夢二は絵の右上に、“山は歩いてこ

ない。  やがて私は、帰るだろう” と書いた。

榛名山は、夢二の芸術のユートピアで、彼が帰って彼女と再

会する場所だった。


しかし夢二は結局、彼の学校を作り上げることができなかった。

1934年、50歳の夢二は長野県の八ヶ岳高原療養所で亡く

なった。   高原の空気でも彼の肺結核を治すことができなか

った。  夢二が夢にも戻りたがっていた榛名山と伊香保に帰

ることはできなかった。

Photo_2夢二と榛名山の 縁を記念するため、伊香保に夢

二記念館を建設した。 1981年5月の開館の際、

館長は当時まだ子供だった松沢緑さんに特別に

招待状を出した。 この時、彼女はもう82歳のお

ばあさんで、病気でベッドに横たわっており、出席

することはできなかった。   しかし彼女は、宵待草の種子を届

け、“この美しい花を満開にして下さい”との手紙が添えられて

いた。 しかし、それから3ヶ月後、彼女は亡くなった。

永遠に待つ宵待草のように、彼女も一生ついに夢二に会うこ

とができなかった。

彼女と夢二の手紙の原本が、今、記念館内に収蔵されている。

伊香保の夢二記念館には、収集家が収集していた《黒船家》

が寄贈され、それを榛名山で永遠に保存されている。  この

絵は今、夢二のその他の作品と一緒に、記念館本館の “黒

船館”3階に収蔵され、毎年夢二の 誕生日(9月16日)前後

の2週間、予約者だけに見学させている ―― 残念なことに、

私達は見学日を逃してしまった。  また、来年を待たねばな

らない。

全館、夢二の作品とゆかりのある資料1万6千件が収蔵され

ている。 大正時代の西洋風の“黒船館”のほか、メルヘン風

の “子供絵の館” には夢二の児童画を収集し、 木造和風の

“義山楼”の中には、明治、大正時代の 職人の手で作られた

ガラス製品などが、夢二のロマンあふれるしっとりした美しさ

と調和し見る人を魅了している。

館内にはまた変わった収集がある。    オルゴールというか、

むしろ初期のレコード・プレイヤーのようで、 レコードは金属

盤で、表面にいっぱい大きさが 一様でない穴が刻まれてい

る。  それは、固定された音符である。  いずれも明治・大正

年代の ドイツ、スイス、米国の舶来品だが、その音は依然と

して 澄んでいて人を引き付ける。 記念館では毎日、観光客

のために何度かオルゴールの生演奏をしている。   私達が

行った当日、最後に演奏した曲は、夢二が作詞し、多忠亮が

作曲した有名な曲“宵待草”だった。

Yoimatigusa待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな

今、伊香保一帯は“大正ロマンの森”と言われている。 夢二

記念館を出た後、友人は車で私を榛名山に連れて行ってくれ

た。  山道をぐるぐる回って、山頂に近ずき、紅葉のトンネルを

過ぎると今度は目にいっぱいの黄金色だった。  私達は山頂

から遠くの山を見渡した後、榛名湖畔へと下りて行った。  そ

こには、夢二の歌碑があった。

“さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさびしさかぎりなければ”

歌碑の後には、静かな湖水と暮れなずむ山々があった。

梦二的“青山河”
2015-03-22 09:38:13 来源:知日·艺术篇 刘 雁

他给这幅画起名“青山河”。

“山”与“河”,在梦二心中有特殊含义。1914年,三十一岁的梦二遇到了小他十二岁的彦乃,两人坠入爱河。然而,他们的挚恋遭到彦乃父亲的强烈反对。为避免彦乃家人发现,彦乃和梦二的通信互以“山”“河”相称,彦乃是“山”,梦二是“河”。1920年,彦乃死于肺结核。山河终究未能相伴。

此后他画了一幅榛名山,画上他与彦乃并肩眺望远山。他在画的右上角写下:

“山不会走来,我即将归去”。

榛名山,是梦二艺术理想的乌托邦,也是他要归去与爱人重逢的地方。

然而,梦二终未能建成他的学校。1934年,五十岁的梦二在长野八岳高山疗养院去世,高原的空气未能治愈他的肺结核,他也未能回到梦萦魂绕的榛名山和伊香保。

为了纪念梦二与榛名山的情缘,当地在这里建了梦二纪念馆,1981年5月开馆时,馆长特意向当年的小姑娘松泽绿发了邀请函。此时她已经是八十二岁的老人了,卧病在床,无法前来;但她寄来了一包宵待草籽,还附了一封信:“让这美丽的花儿盛开吧。”三个月后,她走了。

如同那永远在等待的宵待草,她一生也未能见到梦二。

她和梦二的通信原件,今天就收藏在纪念馆内。

听说伊香保要建梦二纪念馆,一位收藏家将自己收藏的《黑船屋》捐了出来,让它永远存放在榛名山下。这幅画如今就和梦二的其他作品一起,收藏在纪念馆主楼“黑船馆”的三层,每年梦二生日(9月16)的前后两周才可参观,而且需提前预约。——不幸,我们错过了参观日期,只能有待来年了。

全馆共藏梦二作品和关联物品一万六千余件,除大正时期西洋风格的“黑船馆”,童话风格的“子供绘之馆”收藏着梦二的儿童画,木造和风的“义山楼”里,是明治、大正时期的艺匠手工制作的玻璃工艺品,亦可算是梦二艺术理念的余音残响。

馆内还有一组别致的收藏,与其说是八音盒,不如说更像早期的手摇留声机,唱片是金属的,表面刻满大小、疏密不一的小孔,那就是固态的音符了。虽然都是明治大正年代的德国、瑞士、美国的舶来品,乐音仍清扬动听。纪念馆每天会为游客做几次现场演奏。我们到的这天,结束曲正是梦二做词、多忠亮谱曲的著名童谣“宵待草”:

等啊等,等到日暮也不见人
是宵待草的寂寥

如今,伊香保一带被称为“大正浪漫之森”。从梦二纪念馆出来后,友人驱车带我登上榛名山,盘旋林间山道,接近山顶时,红叶隧道变成满眼金黄。我们在山顶眺望远山后下至榛名湖畔,找到一块梦二的歌碑。

“不定的飞鸟与远去群山之青是无限的寂寞”。

歌碑后,是宁静的湖水和尽染的群山。

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