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3448中国は見る(2039)竹久夢二の「青山河」(上)

梦二的“青山河”
2015-03-22 09:38:13 来源:知日·艺术篇 刘 雁

 

Photo竹久夢二、本名は竹久茂次郎、“大正ロマンの代名詞”、 

“漂泊の抒情画家”と言われる日本の明治・大正時代の 

有名な画家、挿絵家、詩人であり歌人である。  彼の作 

品のいわゆる 純芸術作品、技法など 独特な 美意識は、 

中国の豊子愷にも影響を与え、中国近代早期の児童画 

を生み出した。    彼の作品は当初、民間で人知れず脚光を浴びており、 

今も依然として日本美術界に重要な影響を与えている。

  

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竹久夢二と彼の恋人

 

 

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竹久夢二紀念碑の歌碑

 

 

 

だいぶ前、友達と日本に“紅葉狩”に行く約束をし、いっしょに紅葉を求めて

群馬県伊香保まで行ったことがあった。 なんとそこには、夢二紀念館があ

った。 もう何年も前に、私が出版社に勤めていた時、劉檸の《竹久夢二の

世界を辿る》 という 作品を出したことがあり、 夢二は 大正、昭和の時代に

人気があった 画家、詩人で、“大正ロマンの代表” と言われ、 その画風は、 

中国の豊子愷にも影響を与え、中国近代早期の児童画を生み出したという 

ことを知っていたので、この偶然の出会いに、是非行ってみたいと思った。

  

この夢二紀念館は1981年に建てられたもので、伊香保の町の狭い林道を  

下りていったところに、記念館の 小さい建物があり、その中には小さい庭が 

あった。  ちょうど晩秋の頃で、小道や池には落葉がいっぱい敷き詰められ 

ていた。  秋の日差しの中、木には赤や黄色、緑の葉っぱが色華やかに美 

しさを競い、庭の静けさを一層引き立てていた。 日本各地にあるほかの夢 

二美術館と違い、伊香保紀念館にはここだけの謂れがある。

  

1911年、28歳の夢二が有名になって間もなくの頃、よく各地の読者から手 

紙が届いた。  その日、彼は伊香保からの手紙を受け取った。  手紙を書い 

たのは、松沢緑という12歳の女の子だった。 彼女は手紙の中に、こう書い 

ていた。 

 

“去年の秋、伊香保で先生に お目にかかりました。  私はまた、先生の絵が 

見たいです”

 

彼は、緑という女の子に返事を書きました。

 

“あなたのかわいい手紙、読みました。 あなたが伊香保で見たというのは、 

私ではありません。 その人が私だったらよかったのに、残念です。 私は 

あなたに会えるのを楽しみにしています”

 

伊香保は7世紀の《万葉集》にも出てきます。 明治時代には温泉で有名な 

町となり、徳富蘆花、与謝野晶子などの文豪が、よくここに滞在しました。  

でも、夢二は一度も行ったことがありませんでした。

 

それから8年後、すでに名声を天下に轟かしていた夢二が、初めて伊香保を 

訪れました。  夢二は、この四季がはっきり分かれ、山と川に囲まれたこの場 

所を気に入りました。  ここで、夢二は彼生涯の傑作《黒船家》を描きました。  

また、ここで新しい芸術のアイデアも浮かんだのです。

 

1930年、夢二は伊香保の榛名山にある湖畔に仕事部屋を作り、《榛名山美 

術研究所宣言》を発表し、“生活と芸術を一体化させる運動を始める”と宣言し、 

榛名山産業美術学校を 設立し、木工、陶芸、染色、ガラスなど多くのクラスを 

設け、青年に 自然の中で、手作業で、芸術を創造し、日常の生活の中から芸 

術霊感を得させようとした。

 

彼の呼びかけは多くの反響を呼んだ。 島崎藤村、有島生馬、藤島武二なども 

続々と宣言に署名した。 ちょうど関東大地震の後の世界大恐慌の時期だった 

が、群馬県の名士達も次々と寄付を行った。

  

この学校建設のため、1932年、夢二はわざわざ欧米視察に出かけた。 旅の 

途中、彼は世話を受けた日本の友人のために、屏風絵を描いた。 絵の中には、 

憂えた目をしたやせた女性の裸が描かれていた。 背景には連綿と続く榛名山、 

そこに女性のからだが横たわっている。  夢二は手紙の中に、こう付け加えた。

 

“早く榛名山に戻りたい。 今頃、秋風がそこの木を動たしていることだろう”

 

 

梦二的“青山河”
2015-03-22 09:38:13 来源:知日·艺术篇 刘 雁

 

竹久梦二(Takehisa Yomeji)本名竹久茂次郎,有“大正浪漫的代名词”、“漂泊的抒情画家”之称的日本明治和大正时期的著名的画家、装帧设计家、诗人和歌人。他的作品打通了所谓纯艺术与设计、工艺等实用美术的边界,而且直接影响了丰子恺,催生了中国现代最早的儿童画。而他的作品借助于当年始于民间和不经意的商业传播,时至今日依然对日本美术有着极其重要的影响。

 

竹久梦二和他的情人
竹久梦二纪念碑的歌碑

 

前些日子,与朋友相约去日本“红叶狩”,一路追红追到群马县伊香保,意外看见附近有一个梦二纪念馆。几年前我在出版社任职时,曾出过刘柠的《逆旅:竹久梦二的世界》,得知梦二是大正、昭和时期广受欢迎的画家、诗人,被称为“大正浪漫的代表”,他曾直接影响丰子恺,催生了中国现代最早的儿童画。今日巧遇,当然要去看一看。

 

这座梦二纪念馆建于1981年,就在伊香保镇上,由一条狭窄的林间小径走下,便是纪念馆的几幢小楼,中间围着一个小小的庭院。时值深秋,小径、水潭早已铺满落叶,秋阳射下,树上红的、黄的、绿的一派斑斓,反衬出庭院的静雅。和日本各地其他六七座梦二美术馆不同,伊香保这个纪念馆独有来历。

 

1911年,二十八岁的梦二成名不久,常常收到各地读者寄来的信。这天他收到一封来自伊香保的信,写信的是十二岁的女孩子松泽绿。她在信里说:

 

“去年秋天,在伊香保见到了先生。我还想看先生您的画。”

 

他回信给绿说:

 

“你可爱的信,我拜读了。你在伊香保看见的该不是我。可惜啊,那若是我该多好。我愉快地等着见到你。”

 

伊香保早在七世纪就见诸《万叶集》,明治时期成为温泉名镇,德富芦花、与谢野晶等文豪常来此地盘桓,但梦二从未去过。

 

八年后,已经名满天下的梦二,第一次来到伊香保。 他爱上了这个四季分明、青山绿水的地方,在这里,他画出了一生最杰出的作品《黑船屋》,还萌生出新的艺术理想。

 

1930年,梦二在伊香保榛名山中的湖畔建起了工作室,发表《榛名山美术研究所宣言》,宣布“开始使生活与艺术结为一体的运动”,筹备榛名山产业美术学校,设木工、陶艺、染色、玻璃等多个班,让青年在自然山水间,由手工劳作进入艺术创造,由日常器物生发艺术灵感。

 

他的呼吁得到了广泛响应,岛崎藤村、有岛生马、藤岛武二等也纷纷在宣言上署名。虽然正值关东大地震之后的大萧条时期,群马当地的名士乡绅也都纷纷捐款赞助。

 

为了建这个学校,1932年他专程赴欧美考察,旅途中,他给承蒙照料的一位日本友人画了幅屏风,画中是一个目光忧伤的瘦削裸女,背景中连绵的榛名山,如同女子身形的投射。梦二在所附的信中说:

 

“只盼早日重返榛名山中,此刻,秋风大概正在拂动那里的树梢吧。”

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