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3421中国は見る(2013)東京の公園緑化(上)

 

東京の公園緑化 広場でのダンス禁止 中国 見習うべき

 

日媒:东京公园重绿化拒绝广场舞 值得中国借鉴

2015-03-10 08:44:00 环球网

 

 

日本新華僑報3の記事:タイトル“東京の公園「緑化」 

中国 見習うべき”によると、日本では、緑地は 街の“オア

シス”というだけでなく、街の 浄化や安全弁としての役割も

果たし、人々の共の“精神的休息所”となっている。 “共

”とは、みんなが やって 来て休める所という 意味であり、

一人勝手に“休む”場所ではない。 後者のような勝手を許

したら、前者の人々の場所はなくなり “公園”じゃなく“私園”

となり、“広場”ではなく、“小園”となってしまう。 このような

考えは、現在の中国も見習うべきである。

 

東京は国際的大都市として、日本の人口の4分の1が集中

している。 しかも地方からどんどん集ってくるので、緑を保

つことが都市計画の重要目標となっている。  公共資源が

極めて厳しい状況の中、東京は“緑地こそ都市活性化のエ

ネルギー”と考え、各地区の空き地に公園を造り、できる限

り人々に“活力”を与えようとしている。

 

緑地被覆率”とは、ある地区の緑地の総面積に占める割合

ことで、街の緑化を量る重要指標となっている。 日本人は

“緑地被覆率”を人が自然を存分に受けられる指標と見てい

る。 日本の“緑地被覆率”は66%で、フィンランド、スウェー

デンに次ぎ、世界第3位となっている。  わずかの土地でも

高い東京の一人当たりの緑地面積は3.01平方米となって

いる。 それでも東京の人は不満に思っている。 東京をもっ

と“花のある都市”にすべきだと思っている。

 

東京は中国の北京、上海などの都市の悠久な歴史と比べる

ことはできないが、数々の物語はある。  徳川幕府が統治し

た江戸時代、人口の流動性は高くなかった。  江戸(現在の

東京)の人々の家はとても自然があった。 上級の人々の庭

には、手入れのされた盆栽が置かれ、庶民の庭には野菜畑

があった。  19世紀中頃、日本は 近代化に踏み出し、 各地

から人々が続々と上京し、家が だんだんと込みだし、緑地は

だんだん少なくなっていった。

 

真っ先に“公園”の要求を出したのは、日本に居住していた外

国人だった。    彼らは犬を連れ歩いたり、公園で遊ぶ習慣を

本でもやろうとした。 でも、ぬかるんだ狭い路地をあちこち

探し回っても、適当な場所はなかった。 1866年、イギリスの

駐日大使が 日本政府に対し、在日外国人のため 公園を作る

よう正式に要求書を提出した。 承認が得られ、貿易港の神戸

に済んでいる外国人のため加納町公園、海岸公園、前町公園

どの休憩場所を設けた。 横浜、札幌などにも山手公園、横

公園などの公園を作り、これらの公園が日本の都市の公園

の前身となった。 

 

明治維新後、日本政府は世界と付き合うため、欧米の国々に

い、緑地制度を取り入れた。  1873年、太政官(明治初年

の最高官庁)布告第16号で、近代都市公園の設置が決まっ

た。    この布告に基づき、東京に上野公園、芝公園、浅草公

園などが設置された。

 

1889年、日本最初の都市計画、“東京市区改正設計”が発

表された。 同計画に基づき、東京に49ヶ所の公園が作られ

た。 総面積は330ヘクタールとなるもので、最終的に清水

公園、白山公園などの小公園と総合的な大公園ー―日比谷

園が作られた。

 

第一次世界大戦後、日本経済は急速に発展し、人口も ます

ます増えていった。 農村から多くの人が東京に出てきて“新

市民”となった。      郷土への思いが緑地願望へと繋がった。 

初めての都市では、鬱蒼とした 緑は胸の不安を慰めてくれる。 

こうした 場所がないと、 貧しい人々は、街で 酒を飲み騒ぎを

起し治安を乱し、街の秩序安全に重大な影響を及ぼす。 “緑

地”は、市民心理に関わる社会問題となり始めた。

 

東京の当時の都市計画は、こうした彼らの要求を満足させな

った。  そのため、1919年日本政府は、《都市計画法》を

発表し、土地の区画整理制度が導入された。  その後、土地

区画作業に当たっては、用地の3%以上を公園用地とする

規定が定められた。

 

 

日媒:东京公园重绿化拒绝广场舞 值得中国借鉴

2015-03-10 08:44:00 环球网

 

本新华侨报39日文章,原题:日本公园“绿地”概念值得中国学习 在日本,绿地不仅是点缀城市的“花瓶”,还是城市的净化器与安全阀,是居民共同的“精神休憩地”。所谓“共同”,就是大家都来休息的地方,又不是每一个人可以“任性”休息的地方。允许了后者的存续,就会失去前者的存在,“公园”就会变成“私园”。“广场”就会变成“窄园”。这样的理念,值得当今中国借鉴。

东京作为国际大都市,集中了日本四分之一的人口,而且还有来自地方的民众源源不断流入,却始终把保有绿色作为城市规划建设的一个重要目标。在公共资源极度 紧张的情况下,东京始终坚持“绿地是城市活力之源”的信念,利用各种城市缝隙建起各种公园,最大限度为民众补充“活力”。

绿地覆盖率”是指某个地区内绿地占总面积的比例,是衡量城市绿化程度的重要指标。日本人认为,“绿地覆盖率”就是人能够享受自然的机率。日本的“绿地覆盖率”为66%,仅次于芬兰、瑞典,名列世界第三。在寸土寸金的东京,人均绿地面积也达到了3.01平方米。即使是这样,很多东京人还是不满意。他们认为,东京应该成为“花园城市”。

东京虽然与中国的北京、上海等城市的悠久历史没法比,但也是个有故事的地方。在德川幕府统治的江户时代,由于人口流动性不高,江户(现在的东京)民众的房子都非常自然。上层人士的院子里往往有各种剪裁精美的盆栽,下层民众则干脆弄上一块菜地。直到19世纪中叶,日本大踏步向近代化迈进,各地老百姓纷纷“上京”,房子开始越住越挤,绿色也越来越难见到。

最先提出“公园”要求的是来日本居住的外国人。他们将遛狗、逛公园的习惯也带到了日本,可是找来找去,居然只能在泥泞的窄巷小路左躲右闪,实在没有好地方。1866年,英国驻日本大使正式向日本政府提出为在日外国人开辟公园的要求。得到批准后,居住在通商口岸神户的外国人设立了加纳町游园、海岸游园、前町游园等休闲场所;横滨、札幌等地也设立了山手公园、横滨公园等公园。这些公园成为日本城市公园的前身。

明治维新后,日本政府为了全面与国际接轨,开始借鉴欧美国家公园绿地制度。1873年,太政官(日本当时处理政务的最高机构)发布第16号公告,开始设置近代城市公园。根据该公告,东京设置了上野公园、芝公园和浅草公园等。

1889年,日本第一个城市规划“东京市区改正设计”出台。根据该规划,东京规划了49处公园,总面积达330公顷,最终建成了清水谷公园、白山公园等4处小公园,以及一个综合性的大公园——日比谷公园。

第一次世界大战后,日本经济快速发展,人口也越来越多。很多从农村奔向东京的“新市民”,对于乡土的依恋感转化为对绿地的渴望。游走在陌生的城市里,他们需要一片片绿色来缓和心灵的不安。由于很难找到这种地方,有些贫困民众便开始在大街上酗酒闹事,扰乱治安,严重影响了城市秩序。“绿地”开始成为一种涉及市民心理的社会问题。

东京当时的城市设计已经无法满足他们这一要求。为此,日本政府1919年颁布了《都市计画法》,引入了分区规划和土地区划整理制度。其后,确定了土地区划工作中必须保证3%以上的用地为公园用地的规定。

 

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