« 3414中国は見る(2006)安倍首相の本心は“反米”? | Main | 3416中国は見る(2008)李克強首相 「日中関係 正しい歴史認識を」 »

3415中国は見る(2007)戦前にいた 自立した日本人女性

 

北村兼子:パイロットになりたいと思わない記者はいい女とは言えない

 

北村兼子:不想当飞行员的记者不是好女人  

2015-03-04 10:13:31  来源辛子in 日本

 

Jianzi_2パイロットになりたいと思わない記者はいい女

とは言えない”北村兼子が、もしこのような記

事の見出しを見たら、恐らく不機嫌になるだろう。 

なぜなら北村兼子から見れば、“人”を“男と女”

に分けるのは、性差別で、いわゆる “WOMAN(女性)”とい

う呼び方は、女性への侮辱だと見ているからだ。

 

北村兼子は、1903年、大阪の漢学者の家に生まれた。 小

さいときから 儒学を学び、漢詩を愛読した。   1920年代に、

普通の日本女性が良妻賢母の教育を受けていた時、北村兼

子は大阪外国語大学英文科を卒業して、関西大学の法律学

部に入り、法律学を専攻した。  当時の日本は、すでに普通

選挙を実施していたが、男性のみに限られ、女性には 参政

権はなかった。 

 

自由人権思想の影響を受けていた兼子は、本当の男女平等

は、選挙での男女同権を実現することだと思っていた―――

女性も政治に参加する権利があり、投票権を持つ権利がある

べきだ。  そのため兼子は法律の条文を改正し、根本的に女

性の政治への法律上の権利を取るべく努力しようとした。 こ

理想を実現するため、兼子は法律を専攻し、その成績はず

抜けて素晴らしかった。 ここでその後日本の政界で活躍す

る多くの男性と知り合いになった。

 

関西大学で勉強中、兼子はその素晴らしい才能で、大阪“朝

日新聞”の社会部記者になった。   当時、女性が記者に就く

ことはまだ非常に珍しかった。   兼子の書く記事は目を見張

らせるものがあり、人目を引く有名人となった。

 

当時、世界女性解放運動の影響を受け、日本にもさまざまな

女性団体が現れた。 しかし兼子は、これらの女性団体のや

り方を軽蔑していた。   例えば、大阪の婦人連合会“矯風会”

が積極的に 廃娼運動,禁酒禁煙運動を行っていたが、これに

対して兼子は、“私は遊び人は好きではないが、廃娼には賛

成できない。  なぜかというと悪がにくいからといって禁止

るというなら、 それでは、あなたに 口臭があるから といって、

あなたの呼吸を停めろというのと同じ理屈ではないだろうか?”

と批判し、 “人間の本能は、教育を通して 矯正 できるもの

ではない。     娼妓というものは「誤った制度の罪」”だと論じ、

女性の政治への参加と立法権を獲得し、根本的に女性差別

の制度を撤廃してこそ、男女の不平等をなくすことができると

見ていた。

 

日本政府が当時推進していた“家庭節約奨励政策”について

も、兼子は容赦なく批判した。

 

ただ女性の勤勉・節約が崇拝されるだけなら、これは謀殺に

ほかなりません。 人類の生活そのものが浪費です。 浪費を

取り除いたら、人類はもう終りです! 浪費する場所があるか

らこそ、実入りがあり、利益も上がるのです。  家庭の収入が

増えなければ、家庭の出費を減らすしかありません。 それは

男の恥です。 このような恥を恥と思わず、逆に妻に生活の出

費を節約するよう強制することは、厚顔無知というものです”

 

兼子の記事は論鋒鋭く、徹底的な“現場主義者”で、夜の世界

の女性の心も理解したり、時には自らバーのウエートレスをや

ることも厭わなかった。   “朝日新聞”の社会部記者にいたわ

ずか2年間に、《ひげ》など5冊以上の評論集を出版した。

《文藝春秋》の創始者・菊池寛は、“女性として彼女には、と

も優れた雑学の知識がある。 露骨で、赤裸々な論述方法は、

普通の女性にとって、ある種「解消剤」となるものだ”など数々

の称賛が寄せられた。

 

解消剤”と言われた兼子は、鋭い筆法のためゴシップ雑誌の

包囲攻撃を受けた。  いろいろなゴシップ雑誌が、兼子を“自

由奔放”だとか“不潔”だとかの記事を載せたり、毎日のよう

“朝日新聞”には、兼子の辞職を求める山のような匿名の投

が送りつけられた。  大きな世論の圧力のもと、1927年、

子は“朝日新聞”を辞職し、フリーライターとなった。

 

フリーライターとなった兼子は、独立して原稿を自由に書ける

ことから、ますます活動が活発になった。  1年半の内に《女

性記者廃業記》《私の政治観》など4冊の本を立て続けに出版

した。  また同時に、あちこちで講演を行い、普通選挙、女性

の参政権を呼びかけ、自分の将来の政治生活のため、積極的

準備を始めた。 

 

1929年、26歳になった兼子は、日本の女性代表として、

ルリンの第11回国際連盟女性代表大会に出席した。 大

で、兼子は上手な英語とドイツ語を使って、全世界に向か

て男女同権、女性の参政権についての講演を行った。 こ

時の国際連盟の会議で、兼子は一挙に国際社会が注目する

日本のメディア人となった。 大会が終わった後、兼子はヨ

ロッパ各国を歴訪、日本に帰った後、中国から招かれ奉天

訪問し、張学良将軍の家族から熱烈な招待を受けた。 そ

後、兼子は香港を経由して台湾にも行った。 台湾で林献

などの人たちとも親交を結んだ。  その後、兼子は新しい

《新台湾行進曲》の中で、台湾問題で日本の植民地統治に

いて鋭い批判を行い、このような“植民地から利益を搾り取る”

やり方に反感を覚えたと明確に表現した。  林献堂も特に序

文を書き、北村女史は“最もみがかれた理性、鋭い感性を持

った、本当の現代女性です”と絶賛した。

 

世界各地を縦横に旅行した中で、兼子は空中を飛ぶことに快

感を持ち、未来は“飛行の時代”と予言し、飛行機を操縦す

ことに猛烈な興味を抱き、自分で飛行機を操縦して日本か

ヨーロッパ大陸に行きたいと思った。 

 

1930年秋、26歳の兼子は、日本飛行学校の生徒となり、

年4月、みごとに単独飛行を成功させた。   その年の夏、

子は三菱航空機会社に注文して作らせた 飛行機が予定どお

り納品され、間もなく“ヨーロッパ大陸までの飛行”準備作業が

整い、出発2週間前という時、兼子は急性盲腸炎で入院した。 

手術後の腹膜炎のため、不幸にも死亡した。 享年27歳だっ

た。

 

北村兼子があまりにも短命なため、現代日本人の多くは、彼

女が誰なのか、まったく知りません。 しかし近代日本の歴

絵巻を開いて見た時、あなたは彼女の 大きな精神エネルギ

ーと、徹底的に生き抜いた「きゃしゃで愛くるしい女性を見

でしょう」 

 

北村兼子:不想当飞行员的记者不是好女人  

2015-03-04 10:13:31  来源辛子in 日本

 

不想当飞行员的记者不是好女人”—北村兼子若看到这样的文章标题,恐怕会要不高兴。因为在北村兼子看来,将“人”分为“男人与女人”,都是一种性别歧视,所谓“woman”所谓“妇女”,这种称呼都是对女性的侮辱。

北村兼子,1903年出生于大阪的汉学世家。从小精读儒学,熟记汉诗。在上世纪二十年代,普通日本女性还在接受贤妻良母教育时,北村兼子便已经从大阪外国语大学英文系毕业,并进入关西大学法学部主修法律。当时的日本,虽然已经实现普通选举,但只限于男性,女性没有参选权。深受自由人权思潮影响的兼子,认为真正的男女平等,就是要实现选举上的男女平权---女性也有权过问政治,也有权拥有自己的一张选票。因此兼子认为必须通过修正法律条文的方式,从根本上争取女性参选的合法权。为了实现这一理想,兼子选择主修法律并成绩优异。也因此结识了大批后来挑起日本政界大梁的男性学友。

在关西大学就读期间,兼子因出众的才华而成为大阪“朝日新闻”社会部记者。当时女性从事记者工作还十分罕见,而兼子又总是在文章中语出惊人,于是很快成为引人注目的公众人物。

当时,受世界妇女解放运动影响,日本也出现了各种各样的女性团体。但兼子对这些女性团体的做法嗤之以鼻。例如大阪妇联成立了一个“矫风会”,积极宣传废娼禁酒,对此兼子直言不讳地撰文批判道:“我虽然不喜欢嫖客,但也不赞成废娼。如果因为不好因为恶就必须禁止的话,岂不是与因为你有口臭就必须停止你的呼吸同理?”兼子认为“人性的本能是绝对无法通过教育进行矫正的”,认为娼妓现象是“错误制度的罪”,倡议只有通过女性参与政治,获取立法权,从根本上颠覆歧视女性的制度,才能彻底废除男女不平等。

对于日本政府当时所推行的“家庭节约奖励政策”,兼子也毫不留情地批判:

仅仅因为女性的勤俭就受到崇拜,这是一种谋杀。人类生活本身就是一种浪费。去除了浪费,人类也就终结了!只有在有浪费的地方,才会有富足与盈余。不靠增加家庭的收入,而靠削减家庭开支,这是男人的耻辱。对这样的耻辱都不认为是耻辱,反而迫使妻子节省生活开支的,则是厚颜无耻。”

兼子不仅文风犀利直白,无遮无掩,还是彻底的“现场主义者”,为体会从事色情行业女性的内心感受,甚至不惜亲自去色情酒吧做女招待。在担任“朝日新闻”社会部记者短短两年时间内,便出版了《胡须》等五本以上的评论文集。引来赞誉无数砖头无数。《文艺春秋》创始人菊池宽评价她“作为女性,她拥有太过分的杂学知识。露骨的、赤裸裸的论述方式,对于一般女性而言,有如某种解毒剂。”

有如“解毒剂”的兼子,因为过于犀利直白而遭到八卦杂志的围攻。各种八卦杂志大谈兼子的“放浪”和“不洁”,且每天都有成堆的匿名信投寄到“朝日新闻”,要求兼子辞职。在巨大的舆论压力下,1927年,兼子不得不离开了“朝日新闻”,成为一名自由撰稿人。

成为自由撰稿人的兼子,因为独立撰稿的自由反而更加活跃。并在一年半的时间之内,又连续出版了《女性记者废业记》《我的政治观》等四本文集,同时还四处演讲呼吁普选、呼吁女性参政权,为自己未来的政治生涯积极做准备。

1929年,年仅25岁的兼子,作为日本女性代表参加了在柏林举行的第11次联合国妇女代表大会。大会上兼子使用流利的英文和德文,面向全世界发表关于男女平权、妇女参政权的人权演讲。这次联合国会议,令兼子一举成为国际社会关注的日本媒体人。大会结束之后,兼子游走欧洲各国,回到日本之后又应邀访问了中国奉天,受到张学良将军全家的热情接待。之后,兼子又途经香港飞抵台湾,在台湾与林献堂等人成为亲交。在随后兼子的新书《新台湾进行曲》中,在台湾问题上对于日本的殖民统治进行了尖锐批判,明确表达自己对于这种“榨取殖民地利益”做法的反感。林献堂也特意为该书写序,高赞北村女史拥有“最被陶冶的理性、最为尖锐的感性,是真正的现代女性。”

在世界各地的纵横之旅中,兼子体验到空中飞行的快感,预言未来是“飞行的时代”,并对驾驶飞机产生了浓厚兴趣,下决心要自驾飞机从日本起飞并穿越欧洲大陆。1930年秋,26岁的兼子成为日本飞行学校的一名学员,并于翌年4月成功地完成单独飞行。同年夏天,兼子在三菱航空机会社订制的飞机也按时交货,眼看“飞越欧洲大陆”的准备工作一切就绪,就在临行前二个多星期,兼子因急性盲肠炎住院,并因手术后的腹膜炎而不幸去世,享年27岁。

北村兼子过于短暂的生命,令许多现代日本人完全不知道她是谁。但翻开近代日本的历史画卷,你会看到一位娇小的女子,以她巨大的精神能量,那么淋漓尽致地活过。

|

« 3414中国は見る(2006)安倍首相の本心は“反米”? | Main | 3416中国は見る(2008)李克強首相 「日中関係 正しい歴史認識を」 »

社会生活」カテゴリの記事