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3359中国は見る(1954) 中国人が発明した日本の饅頭

中国人发明的“日本馒头”

2014-12-09 15:51:08  来源:辛子IN日本

近年、日本に旅行でやって来る中国人観光客がますます 多くなり、中国語ネットで日本の食べ物や買物について の写真や紀行文もますます増えている。 例えば、日本 のお菓子に関する文章・写真も、ツイッターなどで何度 も読んだことがある。 これらの日本のお菓子を紹介す る時、みな同じ日本の言葉を使っているーー和菓子。

“和菓子”という言葉は、明治初期が起源だという。文 明開化した当時の日本には、西洋のお菓子がどっと入っ てきた。 日本人はこれを“洋菓子”と呼んだ。“洋菓 子”に対して、日本人は 日本伝統で作られた お菓子を “和菓子”と呼んだ。

“和菓子”の中で、一番きれいで、みんなから喜ばれ、 いろんな形で、種類豊富な“饅頭”というものがある。 “饅頭”といっても、日本の“饅頭”は、中国の“饅 頭”とまったく違うものである。中国の饅頭には“餡” がない。  日本の“饅頭”には “餡”が入っている。  そのほとんどは“あずきの餡”であり、このあずき入 りの“日本の饅頭”を作った人は、700年前の室町 時代初期の林浄因という中国人である。

林浄因は北宋の詩人・林和靖の後裔で、日本の禅師・ 龍山徳見が元に参禅修行に行った際、弟子として連れ 帰った。 下総の国(千葉・茨城)出身の龍山徳見禅 師は、姓は千葉といい、鎌倉後期から南北朝時代にか けての禅僧である。 “徳見”はいみなで、“龍山” は道号である。 龍山徳見は13歳の時、鎌倉寿福寺 で出家、22歳の時、中国の天童山に参禅修行に行き、 彼の地で45年間、修行した。

1349年、70歳近くなった龍山徳見は、郷愁にか られ、博多へ行く 元の船に乗って 日本に 帰国した。  龍山徳見禅師と一緒に日本についてきたのが、中国人 の弟子・林浄因だった。

龍山徳見が日本に戻った時、日本は室町時代の初めの 頃で、足利尊氏の弟・足利直義の要請で、京都建仁時 の第35代の住職となった。 当時の日本の僧侶達は 結婚・酒・肉は許されず、精進料理しか食べられなか った。 僧侶達の食事改善のため、林浄因は、中国の 肉まんを参考とし、肉の代わりにあずきを使い、甘さ・ しょっぱさがちょうどいい新しい お八つを作った。  林浄因は、このお八つを“饅頭”と名付け、自分のお 八つの作業場を“饅頭屋”と呼んだ。

当時の室町幕府内部は、足利尊氏と足利直義兄弟の対 立により、時局は揺れ動いていた。 紛争に巻き込ま れるのを避けるため、林浄因は京都から遠くない奈良 に居住した。 林浄因のあずき饅頭は、主に寺の僧侶 向けに開発したものだから、主な販売対象は当然、奈 良の各寺の僧侶が対象だった。 奈良は日本でも有名 な仏教の都であり、当時の貴族階級の社交場所でもあ った。 だから林浄因のあずき饅頭は、僧侶達の間で うわさとなり広まっただけでなく、貴族の間でも大好 評だった。  というのは、林浄因のあずき饅頭が登場 する前の、日本のお八つは現在の煎餅のようなもので、 固くてもろかった。 当然、蒸上げて甘くて軟らかい あずき饅頭と比べることなどできなかった。

林浄因の“饅頭屋”が奈良にあったので、彼が作った 饅頭は“奈良饅頭”と呼ばれた。 奈良饅頭は僧侶や 公家・貴族の間で評判を呼び、その後、当時の後村上 天皇にまで食されるようになった。  “奈良饅頭”の おいしさを味あわれた天皇は大喜びで、林浄因を特に 寵愛され、自分の側近くにいた宮女を林浄因の妻とさ せた。 後村上天皇の寵愛に感謝するため、林浄因は 結婚式の日、特別に紅白二色の饅頭を造り客のお土産 とした。 今に到るも、日本人は結婚式や、なにか目 出度いイベントの時に、紅白の饅頭を贈る習慣が続い ているが、ここから始まったものである。

林浄因の“饅頭屋”は、その後、子孫が後を継ぎ、奈 良や京都でそれぞれ支店を開いた。1467年、京都 で応仁の乱が起こったため、戦乱を避けるため、“京 都の饅頭屋”は撤退、林浄因の子孫は、三河の国(現 在の愛知県東部)の塩瀬村の遠い親戚のところに移動 し、名前を“塩瀬”と改めた。 その後、林浄因の子 孫で紹絆という者が、中国に渡り、中国の宮廷で更に 多くのお八つの制作技術を学び、日本へ帰国した。  そして戦乱が 収まった京都で 新たに開業し、屋号を “塩瀬”とし、山芋を 原料とした"薯蕷饅頭”を売り 出した。

"薯蕷饅頭”は口当たりが軟らかく、甘くて飽きない、 瞬く間に京都の超人気菓子となり、果ては"薯蕷饅頭” を売っているその通りを、人々は“饅頭屋町”と呼ぶ ようになった。 また室町幕府の八代将軍・足利義政 から"日本第一番の饅頭所林氏塩瀬”の額を贈られた。 

室町時代が終った後、百年近い戦国時代が始まった。  日本国内は戦乱が相継いだけれど、屋号の“塩瀬”の "薯蕷饅頭”の“日本第一”の名称は変更は していな い。 織田信長から、豊臣秀吉 そして徳川家康も"薯 蕷饅頭”の愛好者だった。 特に徳川家康は、出征の 前には必ず"薯蕷饅頭”を兜の中に大盛りにし、軍神 の供え物とし、勝ち戦さを願った。 だから"薯蕷饅 頭”は、"兜饅頭”とも呼ばれた。"薯蕷饅頭”が徳川 家康から好まれたため、その後、徳川家康が江戸で幕 府を開いた時、林浄因の子孫・塩瀬一族も饅頭屋の家 業ともども、全部江戸(現在の東京)へ引越した。

林氏・塩瀬家の"薯蕷饅頭”は、江戸幕府の各将軍か ら好まれただけでなく、皇室とも深い繫がりがある。  室町時代の初めから、その次の安土桃山時代、江戸 時代、そして明治天皇の東京遷都後の明治から大正、 昭和、そして現在の平成に到るまで、700年近く、 皇族の生活全般を管理する宮内庁が指定する“御用 菓子”となっている。 従って、塩瀬総本家作成の "薯蕷饅頭”は、皇室御用達の「菊の紋入り」使用の 許可を得る栄誉を得ている。

林氏・塩瀬家は江戸時代に饅頭の総本店を東京に移 した。 しかしその発祥地、奈良と京都の林氏一族 が残した痕跡を人々は忘れていない。奈良には、漢 国神社があり、その漢国神社には林浄因を記念して 建てた“林神社”がある。これは日本で唯一の“饅 頭神社”である。 今も毎年4月19日、“林神社” では“饅頭祭”を行っており、日本の 全国各地の “和菓子”業制作者が、四方八方から大量の紅白饅 頭を供え、林浄因が日本のお八つに貢献したことに 感謝している。 

《杭州日報》2007年5月の報道によると、19 86年、林浄因の第34代の子孫・川島英子さんが、 林浄因の生誕地・杭州にルーツを捜し求めに来た。  そして杭城の“柳浪聞鶯”公園内に“林浄因記念碑” を建てた。 碑には“日本の饅頭創始者”と刻まれ ている。  また、祖先の林和靖を記念すると共に、 特に杭州西湖の弧山に“浄因亭”を作った。 現在、 日本の林浄因の後裔は、毎年杭州の林浄因の碑の前 で祖先を祭っている。 お祭りの際は、季節のいろ いろの果物のほか、伝統の日本の紅白の饅頭も供え ている。 林家の後代達は、日本の奈良の“林神社” の饅頭祭りを始めとし、林浄因の生誕地の西湖のあ たりまで行って、お祭りを行っている。

中国人发明的“日本馒头”   

2014-12-09 15:51:08  来源:辛子IN日本

近年来到日本旅游的中国游客越来越多,在中文网站上介绍日本饮食与购物的图文也越来越多。比如说有关日式点心的图文,我就曾通过微信所推荐的公共账号多次读到过。这些不同的公共账号,在介绍日式点心时,都使用一个相同的日文词---和果子。 “和果子”这一称呼据说源于明治初期。当时文明开国的日本,涌入不少西洋点心,被日本人称为“洋果子”。针对“洋果子” 这一称呼,日本人将按日本传统制作方法所生产的点心,称为“和果子”。

“和果子”中最漂亮美观、最招人喜爱的,是形状各异、种类丰富的各种“馒头”---虽然被称为“馒头”,但日本的“馒头”与中国的“馒头”,意思是完全不一样的。中国的馒头没有馅,而日本的“馒头”不仅有馅,且大部分都是各种豆沙馅,而发明这种带豆沙馅“日本馒头”的人,则是在近700年前的室町时代初期,一位名叫林净因的中国人。

林净因据说是北宋诗人林和靖的后裔,是日本禅师龙山德见在中国元朝参禅修行时,收下的一名俗家弟子。出生于下总国(现靠近东京的日本关东一带)的龙山德见禅师,本姓千叶,是日本镰仓时代后期到南北朝时代的一位禅僧。“德见”是其法讳,“龙山”则是其道号。龙山德见13岁时在镰仓寿福寺出家,22岁那年前往中国天童山参禅修行,这一修就是四十五年。

1349年,年近七十的龙山德见思乡心切,于是乘坐上开往日本博多的元朝船只返回日本,跟着龙山德见禅师一起来到日本的,便有中国人俗家弟子林净因。

龙山德见回到日本时,日本正是室町时代初期。应征夷大将军足利尊氏的弟弟足利直义的拜请,做了京都建仁寺的第三十五代住持。当时日本寺庙的僧侣们不象现在这样是允许结婚喝酒吃肉的,只可素食。为了帮助僧侣们改善伙食,林净因参考中国肉包的做法,用豆沙代替肉馅,制作出了一种咸甜相宜的新式点心。林净因将这种点心取名为“馒头”,而自己做点心的作坊就称为“馒头屋”。

当时的室町幕府内部,因为足利尊氏和足利直义俩兄弟的彼此对立而时局动荡,为避免卷入纷争,林净因选择在离京都不远的奈良居住。林净因这款豆沙馒头,主要是为寺庙里的僧侣们而开发的,因此主要的销售对象自然以奈良各大寺庙的僧侣为主。奈良是日本著名的佛教之都,是当时日本的贵族阶层主要的社交场所,因此,林净因的豆沙馒头,不仅在僧侣们之间获得口碑,在贵族阶层之间也大受好评。因为,在林净因的豆沙馒头出现之前,日式点心大都是类似于现在的仙贝一类的米饼,又硬又脆的米饼,当然无法与在蒸熟之后变得又甜又软的豆沙馒头媲美。

因为林净因的“馒头屋”地处奈良,因此他制作的馒头便被称为“奈良馒头”。奈良馒头在僧侣和公家贵族之间获得好评,后来又被人推荐给了当时的后村上天皇。品尝到“奈良馒头”美味的后村上天皇大喜过望,对林净因宠爱有加,甚至将自己身边的宫女赐给林净因为妻。为感谢后村上天皇的恩宠,林净因在大婚之日,特意制作红白双色馒头款待各方。至今,日本人在迎娶新娘或是有什么喜庆活动时,都仍保持着的赠送红白馒头的习俗,便由此而来。

林净因的“馒头屋”后来由其子孙继承,在奈良和京都各开有分店。1467年,京都发生应仁之乱,为躲避战乱,“馒头屋”撤离京都,林净因后人躲避到三河国(现爱知县东部)一个叫盐濑村的远方亲戚家居住,并改姓为“盐濑”。后来林净因的子孙中,有一位叫绍绊的,远渡中国并在中国宫廷潜心学习到更多的点心制作技术,学成回到日本后,在战乱平定后的京都重新开业,立屋号“盐濑”,制作销售用山芋为原料的“薯蓣馒头”。

薯蓣馒头口感松软,甜而不腻,很快成为京都的超人气点心,甚至连薯蓣馒头作坊的那条街,都被人称为“馒头屋町”。并获得室町幕府第八代将军足利义政的赠匾,上书“日本第一番本馒头所林氏盐濑”。

日本的室町时代结束之后,开始进入近百年的战国时代,虽然日本国内战乱不断,但屋号“盐濑”的薯蓣馒头的“日本第一”之称却从未变更过。从织田信长,到丰臣秀吉,再到德川家康,全是“盐濑”家薯蓣馒头的爱食者。尤其是德川家康,每次出征之前,都要将薯蓣馒头盛放于武士的头盔之中敬供军神,祈求胜仗,因此,薯蓣馒头又被称为“头盔馒头”(日文汉字写为“兜馒头” )。因为薯蓣馒头深受德川家康的喜爱,后来德川家康前往江户建立幕府政权时,林净因的后代盐濑一族,便连同整个馒头屋的家业,也悉数全部搬到了江户(即现在的东京)。

林氏盐濑家的薯蓣馒头,不仅深受各代幕府将军的喜爱,与日本皇室也有极深的渊源。从室町时代开始,一直到后来的安土桃山时代、江户时代,并直至明治天皇定都东京之后,从明治到大正,再至昭和以及现在的平成,近700年来,都是专门管理日本皇族生活起居的宫内厅所指定的“御用点心”。因此,盐濑总本家制作的薯蓣馒头,曾享有允许使用日本皇室菊纹家徽的殊荣。

尽管林氏盐濑家早在江户时代就已经将馒头店总部搬去了东京,但在它的发源地奈良和京都,林氏家族所遗留的痕迹却从未被人遗忘。在奈良有一座汉国神社,汉国神社内有一座专门为纪念林净因而建的“林神社”,也是日本唯一的一座“馒头神社”。至今每年的4月19日,“林神社”都会举办“馒头祭”,日本全国各地的“和果子”点心制作业主,都会从四面八方献供大量的红白馒头,以感怀林净因为日本点心业所做出的贡献。

据《杭州日报》2007年5月的新闻报道记载:1986年,林净因的第34代传人川岛英子,前往林净因的诞生地中国杭州寻根问祖。并在杭城“柳浪闻莺”公园内建立了“林净因纪念碑”。碑刻款落为“日本馒头制作创始人和始祖”。此外,还为了纪念老祖先林和靖,特意在杭州西湖的孤山建“净因亭”。现在,在日本的林净因后裔,每年会前往杭州的林净因碑前祭祖。祭祖时除了各种时令水果,也会摆放传统的日式红白馒头---林家的后代们,将始于日本奈良“林神社”的馒头祭,延伸到了林净因诞生的西湖边。

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