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中国中央公文館 日本人戦犯の供述書を初公開
中央档案馆首次公布 日本侵华战犯亲笔供词
2014-07-04 11:29:00 来源: 重庆晨报(重庆)
盧溝橋事事件(1937年7月7日)77周年が間もなく訪れるに当
たり、中国中央公文館は 3日から、公式サイトで 旧日本軍の戦
犯45人の裁判での 供述書 (中英文での要約、供述書の原文と
中国語訳)をこれから毎日発表するという。
報道弁公室の 記者会見で、 “中央公文館には、
旧日本軍戦犯の保存記録(主に紙質、写真、実物、
録音、映画の5種類を含む) の調査、審査、処理したものを収集
している”
李明華副館長によると、1000人 あまりの戦犯の供述書の日本
語の原文と当時の中国語の訳文の資料全部で約18万ページに
上るという。
犯が裁判で、自分が中国で犯した犯罪の供述書で
ある。 毎日1人の戦犯の供述書を発表するので、
計画としては45日間で完成する予定だ。
李明華副館長によると、この戦犯の供述書から、一般の人々は、
中国侵略の旧日本軍が犯した 数々の犯罪 ( 侵略政策の推進・
計画、細菌兵器・毒ガスの 製造、生体実験、都市での虐殺、資
産略奪、慰安婦強制、強姦、住民退去など)を はっきり見ること
ができる。 “これらの犯罪は国際基準や人道主義の原則に違
反し、激怒させるものだ”
李明華副館長は更に、“今回公表する45人の戦犯の供述書は
もとのままのものだ。 ただ、供述書の中で被害女性の名前は仮
名処理をした。 これは人道主義に基ずくもので、このような処理
は記録の真実には影響しない。 当事者と後代の権益を保護す
るものだ” と述べた。
の犯罪については全責任を負う”と述べ、その場
で ひざまずいて罪を認めた。
重大犯罪:
1942年1月、唐山一帯で田浦大佐に、“約800戸の家屋の掃討、
焼却と1千名の中国農民の殺戮” を命じた。
1942年4月、“河北豊潤田官営で、八路軍を虐殺した。 河北省
遵化県魯家峪で洞穴を攻撃した時、毒ガスを使い、八路軍の幹部
以下約百人を 惨殺した。 また、魯家峪近くの村に避難した 235
人の中国農民には野蛮な方法で惨殺した (その中には 妊婦の腹
を切開した)。 焼却した家屋は 約800戸、玉田へ引き渡す捕虜の
うち、5人を殺害した。 女性達を百名あまり暴行した”
1942年9~12月、“遷安、遵化などの地を 無人地帯にするため、
同地区の住民を全部強制移動させた。 同地区で焼却した家屋は
1万戸以上に達し、強制的に 移動させた 人々は 数万以上に上り、
惨殺者も多数に達した”
1942年10月、“灤県潘家戴荘の1280人の農民は、銃殺、刺殺、
斬殺、生き埋めなど野蛮な方法で、集団殺戮を行い、全村の 800
戸の家屋を焼却した”
1942年、日本軍の占拠地区に、“全てに慰安所を設置し、約60
人の中国女性を誘拐し、慰安婦にした”
1944年11月、“私が歩兵部隊に林県南部地区を侵略するよう
命じた後、この地から撤退すると同時に、防疫給水班が、3つか
4つの 村落で コレラ菌をまいた。 その後、私は、「林県内で
100人以上の 中国人が、コレラにかかり、死亡人数多数」 との
報告を受けた。 その後、また長路県の某村で、“同村の約300
戸の家屋を焼却し、この村の660人の中国農民を、銃殺、刺殺、
燃殺など、きわめて野蛮な方法で虐殺した。 その他、この侵略
中、私の部下はまた全部で30人の捕虜を殺害した”
1945年春、“懐慶の 村落で、この村の農民 約500人を殺害し、
全村600戸の家屋を焼き尽くした”
“中国を 侵略中、私個人の 記憶だけで、5470人の 中国人を
殺害し、中国人の家屋 18229戸を 焼却、破壊した。 その実
際の数字はこれ以上だと思う”
国家公文局ウェブサイトによると
鈴木啓久。 1954年7月の供述によると、彼は1890年、福島
県生まれ。 1934年、中国の東北に来て、中国侵略戦争に参
加した。 歩兵第28連隊補佐、1945年4月、陸軍中将となり、
第117師団長となる。 同年8月31日に吉林で捕虜となり、改
造(思想を改める)後、1963年に釈放されて日本に帰国する。
鈴木啓久は帰国後、釈放されて日本に帰国した戦犯で 組織す
る“中帰連”に加入し、中日友好の宣伝に奔走した。 1982年
に死去。
日本人戦犯の裁判
1950年~1956年の間、中国は相前後して撫順、太原の両
地に、旧日本軍の戦犯、1109人を拘留した。
全国人民代表大会常務委員会の決定により、最高人民法院は
1956年に、罪を悔いたり、反省を表明した拘留中の 1017人
の戦犯に対して、相前後して3回に分け、起訴を免じ、釈放する
と発表した。 職位が高く、犯罪が比較的重い 45名の戦犯につ
いては、最高人民法院の特別軍事法廷で裁くことにした。 法廷
は 45人の 戦犯の犯罪事実、 犯罪の内容、 反省の態度により、
それぞれ8年~20年の有期懲役の判決を下した。
中央档案馆首次公布 日本侵华战犯亲笔供词
2014-07-04 11:29:00 来源: 重庆晨报(重庆)
在卢沟桥事变77周年即将到来之际,中央档案馆自3日起首次在其官网陆续全文公布45名受审日本侵华战犯的亲笔供词,包括笔供的中英文内容提要、笔供原文和译文等。
中央档案馆副馆长李明华在3日国新办新闻发布会上介绍说:“中央档案馆收藏了这些侦查、审查、处理日本战犯的档案,主要包括纸质、照片、实物、录音、电影五种。”李明华说,1000多名战犯笔供的日文原文和当时的中文译文资料共约18万页。
此次在互联网上公布的正是45名受审判战犯对自己侵华罪行的笔供档案。李明华表示,他们将每天公布一个战犯的笔供,计划45天完成。
李明华说,从这批战犯笔供中,公众可以清楚地看到侵华日军犯下的累累罪行,包括策划推行侵略政策、制造细菌武器、施放毒气、进行人体活体试验、屠杀及掠夺资财、毁灭城镇、强征慰安妇、强奸妇女、驱逐和平居民等。“这些罪行违反了国际准则和人道主义原则,令人发指。”
李明华表示,此次公布的45名战犯笔供属原貌展示,仅对笔供中涉及的受性侵犯女子的姓名进行了虚化处理。“这是出于人道主义的考虑,这样的处理既不影响档案的真实和使用,也保护了当事人及其后代的权益。”据新华社
铃木启久在1956年对日本战犯的审判中称“对此罪行负全部责任”,并当场下跪认罪。
铃木启久笔供内容提要(中文)
重要罪行有:
1942年1月,在唐山一带命令田浦大佐“扫荡,烧毁了约有800户的房屋,并屠杀了1千名中国的农民”。
1942年4月,在河北丰润田官营“大力的虐杀了八路军,在鲁家峪攻击洞穴时使用毒瓦斯惨杀了八路军干部以下约一百人,”又将“逃至鲁家峪附近村庄避难的235名中国农民用野蛮的办法惨杀了(将其中的妊妇剖腹了),烧毁房屋约800户,将往玉田送交的俘虏中杀害了5人,强奸妇女达百名之多”。
1942年9—12月,为把迁安、遵化等地“变为无人地带,即强制该区的居民全部迁移”。“在该地区烧毁的房屋达一万户以上,强迫搬走的人民达数万以上,被惨杀者也甚多”。
1942年10月,“对滦县潘家戴庄1280名的农民采取了枪杀、刺杀、斩杀及活埋等野蛮办法进行了集体屠杀,并烧毁了全村800户的房屋”。
1942年,命令日军盘踞地区“皆设有慰安所,并引诱约60名的中国妇女任慰安妇”。
1944年11月,“我命令步兵部队侵略林县南部地区后,在撤出该地区之同时,由防疫给水班在三、四个村庄散布霍乱菌,因此后来我接到‘在林县内有100名以上的中国人民患霍乱病,死亡人数也很多’的报告”。之后,又在长路县某村“将该村约300户的房屋烧毁,并将该村的660名中国农民以极野蛮的办法虐杀了,即枪杀、刺杀、烧杀等极惨暴的方法”。“另外,在此侵略中,我的部下又共杀害了30名俘虏”。
1945年春,在怀庆一村庄“将该村庄的农民杀害了约500人,将全村600户房屋烧掉了”。
“在侵略中国期间”,“只我个人的记忆即杀害了5470名中国人民,烧毁和破坏中国人民的房屋18229户,其实际数字很(可)能还多”。
据国家档案局网站
据铃木启久1954年7月笔供,他1890年生于日本福岛县,1934年到中国东北参加侵华战争,任步兵第28联队长辅佐,1945年4月任陆军中将,第117师团长。同年8月31日在吉林被俘,经改造后1963年释放回国。
铃木启久归国后加入了由释放归国的日本战犯组织起来的“中归联”,奔波于中日友好宣传。1982年去世。
链接>
审判日本战犯
1950年至1956年间,中国先后在抚顺、太原两地关押了日本侵华战争罪犯1109名。
根据全国人大常委会的决定,最高人民法院于1956年先后分三批对在押的1017名罪行相对较轻、悔罪表现较好的日本侵华战犯宣布免予起诉并立即释放,对职务较高、罪行较重的45名日本侵华战犯向最高人民法院特别军事法庭提起诉讼。法庭根据45名战犯的犯罪事实、犯罪情节和悔罪表现,分别判处了8年至20年有期徒刑。
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