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3178 中国は見る(1796)日本紀行 (24): 京都祇園祭ー日本の文化と精神 (下)

 

游”在日本:京都祇園祭—日本的气质与精神

2011-07-18 09:33:05 来源:唐辛子IN日本

 

 

 

2121:沢山の伝統的灯篭と欧米からの各種ブランド

店が渾然一体となっている。京都の 烏丸から河

町までずっと歩いていると、途中 たくさんの世

の有名ブランド店を 目にするに違いない。 

の外に、私たちのような一般の人でも買えるような、価格が

実用的な欧米ブランド店もある。 例えば河原町のイタリア

ナイテッド  カラーズ  オブ ベネトン  (UNITED COLORS OF BE

NETTON)、7月に入ると値下げバーゲンを始める。  私が大

きな店です。

 

2222:ユナイテッド カラーズ オブ ベネトンのすぐ隣は、

日本の風情ある和服店で、東西の 2つの格のま

ったく異なる店が、調和を取って 隣り合っています。

その向かい側の百貨店“高島屋” のショーウインド

ーには、日本の伝統的装い ―――夏の浴衣が飾られています。

 

2323:時間があって京都の民家を見たり、街を 行き

かう人をみていると、街の風格が、この京都に 住

んでいる人と旅行者の人々から作り出されている

ことが分かります。

 

最後に、この写真付きブログの標題に戻ります。 どうして京

の祇園祭が“日本の文化と精神”と言うのか?     ここで簡単

京都の“祇園祭”が、どうして869年から、千年後の今までずっ

と続いているかの時代背景を紹介しましょう。

 

1864年、京都に大きな政変が起きました。 日本歴史上、

門の変”或いは“蛤御門の変”と呼ばれます。   長州藩が勢力回

復を図り、兵を京都に出し、幕府軍と激戦を展開しました。   この

政変は京都に大きな損失を与えました。 京都全体が火の海にな

り、焼けた民家は 3万240戸あまりになり、動乱の中、また多くの

浪人が現われ、街頭で人を殺すことが 日常茶飯事のようになりま

した。 その時京都の悲劇的な状況と対照的だったのが、 幕府

の お膝元・江戸(今の東京)の“無血開城”でした。

 

京都の痛みは、これだけではありませんでした。  京都が政変

焼けて、ただ一面の荒野となった後、 明治天皇は 一言の言葉

なく京都を離れ、東京に向かい、それから二度と京へは戻って来

ませんでした。

 

当時、京都の人は、“天皇は東京の行宮に行くだけで、すぐに

って来られる”とみんな思っていました。  しかし実際は、天皇

はそれ以降、行ったまま戻ってきませんでした。  東京はそれか

ら日本の首都になり、政治・経済の中心になりました。  明治天

皇が東京に向かった後、すべての御用商人や貴族・大臣達も一

緒に付き従い東京へ移りました。  政変で焼けて何もかもなくな

った京都は、続いて天皇も失い、しばらく間、京都は活気を失くし、

希望もありませんでした。京都の“祇園祭”は、そのため 一度は

完全に中止されていました。

 

しかし、京都を女性に たとえるなら、“京都”という 女性は、やさ

しい外観とは裏腹に、その内側は反骨と反逆精神に満ち満ちて

いました。

 

明治維新となり、江戸が東京に改名され、文明開化の国都とな

った後、大きな傷を受けた京都は、再起不能の状態から立ち上

がり、東京より先に、琵琶湖の用水路開鑿、電灯、交通整備等

を含む京都復興の都市三大基本建設を始めました。そして、欧

米国家から西洋の先進技術を積極的に導入しました。 当時の

明治維新政府が、“神仏分離”の命令を発表したため、“祇園社”

も“八坂神社”と改名れ、多くいた神官と社僧も辞めさせられまし

た。 “このままいったら、京都人の精神的支柱である「祇園祭」

が、まったく人々の心から消えてしまう”と考えた、土田作兵衛と

いう京都の人が、“祇園祭のない京都は、存在意義がない”とし

て、積極的に奔走・呼びかけを行い、ついに明治5年(1872年)

に、中止となってから 8年となっていた“祇園祭”をまた復活した

のです。  復活した“祇園祭”は、もう過去の 病気を取り除くだけ

お祓いのイベントではなく、京都人の誇らしい伝統のりで

あり夏の風なりました

 

京都のこの歴史から、国都市そしてを問わず、最も恐ろし

い事、失敗ではないことがわかります。   失敗によって“捨

られ” “忘れられる” ということがよくありますが、最も恐ろしい

、失敗自暴自棄になることです。   人々は自分の相手

あるいは敵を探すことが好きです。  しかし、最大の相手と敵

自分自身であることをよく忘れます

 

最後に、京都の発展現代と伝統の 完璧な結合から、私

上海、北京などといった大都市の大規模建物取り壊

いました。  もし都市を女性にえるなら、都市の建物

取り壊しは、の整形に似ています。 整形した女は美

すが、もう以前のその女ではありません。 の美

さは、歳月と共に外見、面ともに磨くことです。  都市も同

様でべきです。

 

 

 

游”在日本:京都祇園祭—日本的气质与精神

2011-07-18 09:33:05 来源:唐辛子IN日本

 

21:成群成队的传统日式灯笼,与来自欧美的各类品牌专卖店和

谐地融汇在一起。从京都的烏丸一直步行到河原町,你会发现沿

途有许多世界顶尖级的名牌专卖店,除此之外,也有俺们这样的

平民百姓能够接受的、价格公道实惠的欧美品牌店,例如河原町

上这家来自意大利的 United Colors of Benetton,进入 7月之后

开始从降价打折,是唐同志很喜欢光顾的一个专卖店。

 

22:在United Colors of Benetton的贴隔壁,是一家十分日本风情

的和服店,一东一西两家风格 截然不同的店铺,十分和谐地紧贴

在一起。 而在它们的对面,日本的百货店“高岛屋”的时尚橱窗

内,正在上演日本传统服装---夏季浴衣和服秀。

 

23:有时间去看看京都的民居,观察街头来来往往的人流,会发

现:一个城市的气质,是由这个城市的居住者和往来的人群氛围

所决定的。

 

最后,回到这篇图文博客的标题 :为什么说 京都的祇園祭,是

日本的气质与精神”呢? 这儿简单介绍一下京都的“祇園祭”,

为何能从公元869年,千年来一直坚持至今的时代背景。

 

1864年,京都发生了 一场巨大的政变事件,在日本史上被 称为

禁门之变”或是“蛤御门之变”,想要夺回地盘的 长州藩,率

兵进军京都,与日本幕府军队展开激战,这场政变令京都损失惨

重:整个京都变成了火海,被烧毁的的民居有三万二百四十多户,

动乱之中,还出现 不少浪人武士,在街头 杀人斩首如家常便饭。

当时,与京都的悲怆形成鲜明对比的,是幕府据点江户(即现在

的东京)的“无血开城”。 

 

而京都的伤痛,还远不止如此。在京都因政变被烧杀得只剩下一

片荒野之后,明治天皇一声不吭地离开京都,前往东京,从此再

也没有回来。当时,每一个京都人都以为:天皇不过是去去位于

东京的行宫,马上就会回来的---但事实是 :天皇从此 一去不返,

东京从此成了日本的首都,政治经济的中心。明治天皇前往东京

之后,所有的御用商人和王公大臣们,也都跟随着一起转移到东

京,遭受政变被烧得一无所有的京都,紧跟着又失去天皇,一时

之间,京都变得死气沉沉,毫无希望。 京都的“祇園祭”,也

因此一度完全中止。 

 

然而,如果将京都 比喻成一个女人的话,那么 这个名叫“京都”

的女人,温柔的外表之下,充满了反骨和叛逆精神。在江户改名

为东京,成为日本明治维新,文明开化的一国之都后,遭受重大

创伤的京都,并没有从此一蹶不振,而是率先抢在东京前面,开

始了重振京都的都市三大基本建设:包括琵琶湖水道疏通、电灯、

交通整备等。并积极从欧美国家引进西洋的先进技术。当时日本

的明治维新政府,颁布了 一个“神佛分离”的命令, “祇園社”

也因此被更名为“八坂神社”,许多神馆和社僧都被罢免,眼看

如此下去,作为京都人精神支柱的“祇園祭”,将从此完全从人

们心中消失了,当时,在一位名叫土田作兵卫的京都人,意识到

没有祇園祭的京都,将失去存在的意义”, 为此,土田作兵卫

积极呼吁奔走,终于 于明治5年,即 1872年的时候, 将当时已

经中止了8年的京都“祇園祭”,重新复苏起来。    重新恢复的

祇園祭”,已经不再是过去纯粹去病 消灾的祭奠活动,而成为

令京都人自豪的传统祭礼和夏日风情诗。 

 

从京都的这段历史,可以看到:其实,无论是一个国家,还是一

个城市,还是一个人,最可怕的事情,并不是失败,以及因为失

败所带来的“被抛弃”和“被遗忘”,最可怕的,往往是失败之

后的自暴自弃。人们往往喜欢寻找自己的对手或敌人,但却常常

忘记:最大的对手和敌人,就是我们自己。

 

最后,从京都的发展,以及现代与传统的完美结合,还让我想到

现在上海、北京等这些大城市的大规模拆迁。如果依旧将城市比

喻成女人,那么,一个城市的拆迁,类似于一个女人的整容。整

容过的女人是美丽的,但却不再是过去的那个女人了。一个女人

的美丽是伴随着岁月一起内外兼修的,其实,一座城市也是一样。

 

 

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