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3070 中国の三面記事を読む(1177)“支那”という言葉はどこから来たのか?

 

支那”这个词儿是怎么来的

2014年02月21日 11:34 来源:端木赐香

 

支那 日清戦争 

 

支那”は唐時代、インドが中国に対して呼んだ呼称。 中国の

唐時代の僧侶がインドに来て仏教を学んだ時、この 言葉もよく

使い、自分の訳した経典の上に、“支那の某地の某人これを訳

す”と記した。

 この頃、“支那”はトレンディーな言葉だった。  日本の古代の

学者は、中国を“漢土” と呼ぶ習慣を “支那” と改めたほどだ。 

トレンディーな言葉は次第に流行語となり、更に大衆の 言葉と

なるに至った。

 

およそ明治の頃、日清戦争で、中国が 惨敗したのと 同じ頃、

“支那”という言葉には軽蔑の意味合いが込められるように

なった……

 

支那”という言葉は、どこから来たのか?

 

端木賜香

 

今日になっても中国人は、“支那”という 2文字が嫌いである。 

この字の中には、ほかの文字にないなんとも言えぬ意味合い

込められているからである。 特に中国人にとって我慢でき

いのは、“支那”という言葉が、日本政府や日本人の口から

われる時である。

 

実際のところ日本人も“支那”という言葉の由来は知らないの

である。  1878年、日本人の大河内輝声が、彼の漢字の先

生(中国人)に、この問題を教えてもらったことがある。  先

は、“昔、インドが中国の皇帝に上奏した時、中国の皇帝を

那の皇帝と呼んだことに始まる。   中国が唐時代の時だとい

う。 その事は《佩文韻府》に書かれている”と答えた。

 

この中国の先生の話によると、“支那”は唐時代、インドが中

を呼んだ 呼称で、現代 日本の 学者・実藤恵秀氏の 考証では、

中国の唐時代、僧侶が インドに行き、仏教を学んだ時、このよ

うな言語習慣も学び、自分の訳したお経の上に、“支那の某地

の某人が訳した”と記したのだという。  実藤恵秀氏によると、

この時、“支那”はモダンな言葉だった。   たぶんモダンな言

だったから、日本の古代の 学者が 中国を漢土”と呼んでい

習慣を改め“支那”と呼ぶようになったのだという。   実藤恵秀

氏の分析によれば、これから流行を求め、新奇なことをしようと

したことが伺えるという。

 

モダンな言葉が、しだいに流行語となり、更に大衆にまで使わ

るようになった。   一般的に使われるようになったのは、大体明

治になってからだという。

 

日清戦争が勃発した頃、日本で竹柴其水の歌舞伎舞台本《会津

産明治重》が出版された。 舞台の、日本に住んでいる

国人がいた。  その妻は日本の女だった。   舞台の中で何度

“支那”という言葉が使われ、その上、“支那”という言葉には、明

らかに軽蔑の意味が込められていた。

 

戦争は、大清帝国の散々な負けだった。   それ以降、日本人は

いっそう中国を 蔑視するようになり、軽蔑の 意味合いを含む“支

那”という言葉は、日本大衆の言葉となっていった。

 

不幸なことに、日本人が中国をバカにし始めた頃、中国も日本

新しい目で見始めるようになった。 1896年、中国の第1陣の日

本留学生が張之洞により中国から送り出された。 この学生達は

留学できない 危険を冒しても、 張之洞に対する叩頭の侮辱を拒

否したものの、しかし 日本の街で 日本人から受けた侮辱には我

できなかった。  日本の子供達から、ややもすると彼らの 後ろ

から“ブタのしっぽ” とか “ブタ野郎”、 時には“日本勝った、支那

負けた”と嘲られた。   最初の留学生13人の留学生は、最終的

には、4人が退学して帰国した。 最大の理由は、“ブタのしっぽ

といったののしりに我慢できなかったのである。  魯迅が日本に

留学していた時、多くの学生は弁髪を 頭の上に 載せており、帽

子を かぶった姿は、魯迅から“富士山”と呼ばれた。   比べてみ

ると、“支那”はまだ礼儀正しい方だった。

 

また、この中間には微妙なものもあった。 梁啓超には、“支那少

年”という筆名がある。    彼は自分の 著作 《李鴻章》 の表紙に

“支那の怪傑”という題箋を付けていた。 黄興は雑誌を創刊した

時、雑誌名を《20世紀の支那》と名付けた。 日本留学の 学生は、

自分の 国籍を 書く時、“中国”と書くか、“清国” と書いたが、“支

那”と書いたのも沢山いた。 彼らにとっては、“支那”は けなし言

葉では なかった。   しかし、郭沫若、郁達夫などは、小説の中で、

“支那”を取り上げ心を痛めていた。 特に郭沫若は、自分の自伝

小説《行路難》の中で、“私達は 「支那人」と聞くだけで、ドキッとす

る”と書いている。郭沫若は、"日本人は 「支」という時、わざと 眉

間にしわを寄せ、「那」という時、わざと鼻音で長く引っぱって言う”

と書いている。

 

郭沫若は、私達も眉間に皺を寄せ、鼻音を延ばして日本を“倭国”“倭人”

と呼ぶのを忘れている――後漢の光武帝は日本の国王に“倭奴王”という

称号を贈っていた。 お互い挨拶をしなかった。 30年河東、30年河

西(人生60年、30年間は苦しくても、三途の川を渡れなければ、後の三

十年間は幸せである)今の日本は、中国を負かしただけでなく、帝政ロシ

も打ちち負かした。 それからアメリカのパールハーバーを襲った。 たい

したもんではないか?

 

1930年に、南京の国民政府は、“日本がわが国を支那というの

に抗議する” と日本に抗議した。今後は、英語で中国を呼ぶとき

、“National Republic of China”、中国語では、“大中華

帝国”と呼ぶように。 もしそうしなければ、日本政府が送ってくる

公文書の受け取りを外交部は拒否する――鴉片戦争後、英国と

大清帝国が締結した条約には一条の規約があるだけだった。  

以後、英国を「夷」と呼ばないこと。これより前、イギリスの抗議に

ついて、中国は孫をあやすようにこう答えていた。 “昔から今ま

で、中国は、南蛮北 東夷西戎と呼んでいる。 舜や文王も大聖

人だが、孟子は舜を東夷の人と、文王は西夷の人と呼んでいる。

中国では、聖人でさえ、「夷」と呼ばれている。


日本人を孫のようにあやすわけにはいかない。 日本は真剣に

なって上から下まで中国の抗議について討論し始めた。

 

ある人は、支那以外、中国にぴったり合う呼び方はない。 らを

ご覧なさい。 といったり、と言ったり、また明と言ったり、日本

のように万世一系、天皇の血統のように正でない。 支那という

呼び方が、歴史上の 通称として いいと思う と述べた

 

また別の人は、彼ら中華民国言うことはできない。 なぜなら

“中”と“華”はあまりにも美しすぎる。 その上中華は昔から彼ら

周辺国に対し傲慢で蔑視した時の自称だ。 彼中華と言っ

たら、周辺はみな夷になる 更に大事ことは、中国と呼

んだら、それはまった 似合わないことだ。 彼らどこ中国だ 

と言う

 

あるは、法律的に言って、中国政府は自分の国名めるこ

とができる。しかしこのように習慣的にばれた呼び名を断

として拒絶したことは、ちょっと過激すぎる。 まさか英文Nat

ionnal Republic of Chinaの“Chinaは、“支那”ことでない

でしょうね

 

中国国名について、日本人が大騒ぎして、最後に改めたのは

日本政府だった。  だが民間は依然として支那と呼んだ。1940

になって、日本私達と共栄するため、もう支那と言うのはや

めようとう人が現れた。  そこでメディアまたひとしきり討論

が行われた。 だが結果はやはりうやむやになった。 1946

になり、日本は米国ソ連に負けた。 外務と教育部から相次

いで通知され、メディア、出版社、学校に支那という呼び方

は使用しないよう求め

 

その結果、知識階層に変化が起こり、もう支那と呼ばなくなった。 

しかし、一般の人々の間では駄目で、日本人の言葉の中では、

支那という言葉が残っていた。 その後、1949なると、日本

人は支那を忘れ、新しい言葉――“中共”に言い換えるようになっ

 実藤恵秀氏によると、“これは日本新聞界が中国共産党

統治する呼称を用いたもので、嫌悪と意味合い含ま

ている”……と指摘している。

 

まったくイヤになる。 どこに行ってしまったのだろう

 

 

支那”这个词儿是怎么来的

0221 11:34    来源:端木赐香

 

支那 甲午战争 

 

支那”当是唐时印度对中国的称呼。中国唐代僧侣到 印度学佛,

也学了这种语言习惯,在自己所译的佛经上,往往标上一个“支

那某地某人译。” 这个时候,“支那”是个 时髦的词汇,日本一些古

代学者遂改掉称中国为“汉土”的习惯而改叫“支那”。 时髦用语慢慢

变成流行用语,进而变成大众用语。 具体时间大约是在明治之后。问题

出在甲午战争,中国惨败的同时,“支那”一语里也明显含了 轻蔑的意

味……

 

支那”这个词儿是怎么来的

 

端木赐香

 

直到今天,还有中国人不喜欢“支那”两字。  盖因这两字里面,

包含了诸多中国文字才能蕴含的比别种文字更丰富的不可言说只

可意会的意味。特别让中国人不能容忍的是,“支那”两字往往

更多的出自日本政府及其国民之口。

其实日本人也不知道“支那”的原出处。1878年日本人大河内辉

声曾向他的汉文老师、一个中国人请教过这个问题。  对方回曰:

“大抵为天竺国上奏中华皇帝时,称之为支那皇帝而起者,于中

华则为唐之时,其事见于《佩文韵府》。”

 

按这位中国老师所言,“支那”当是唐时印度对中国的称呼。 当

代日本学者 实藤惠秀考证,中国唐代僧侣到印度学佛,竟也学了

这种语言习惯,在自己所译的 佛经上,往往标上一个“支那某地

某人译。” 实藤惠秀言,这个时候,“支那”甚至是个时髦的词

汇。 可能正是由于时髦,日本一些古代学者遂改掉称中国为“汉

土”的习惯而改叫“支那”。 据实藤惠秀分析,这其中估计有追

求时尚标新立异的嫌疑。

 

时髦用语慢慢会变成流行用语,进而变成大众用语。具体时间大

是在明治之后。

 

问题出在甲午战争时期。甲午战争一爆发,日本出版了竹柴其水

的剧本《会津产明治重组》,剧中有一个侨居日本的中国人,其

妻是日本女人。剧中多次出现“支那”一语,而且,“支那”一

语里明显含了轻蔑。

 

战争的结果,大清失败得很惨,从此日本人更加蔑视中国,含有

轻蔑之意的“支那”遂成为日本大众语言。

 

不幸的是,正当日本人开始看不起中国时,又恰是中国开始对日

本刮目相看之际。1896年,中国第一批留日学生被张之洞送出国

境。虽然这批学生冒着留学不成的危险坚决拒绝了张之洞要求他

们面见自己之时必需叩头的侮辱,但是走在日本的大街上,他们

受不了来自日本人的另一种侮辱:日本孩子动不动在他们身后骂

“猪尾巴”和“豚尾奴”,甚至还喊“日本胜利,支那败北”什

么的。首批十三个留日学生,最终有四个退学回国了,最大的原

因就是受不得“猪尾巴”之骂。当然受不了,因为看着实在象猪

尾巴。鲁迅留学日本时,好多学生都把尾巴弄头顶上,再戴个帽

子,被鲁迅称作了“富士山”。相形之下,“支那”还算是客气

的。

 

另外,这中间或许还存在些微妙的因素。梁启超有个笔名,叫作

“支那少年”。  他在自己的著作《李鸿章》的封面上,还写有

“支那之怪杰”的题签。黄兴创办一份杂志,取名乃是《二十世

纪之支那》。  至于留日学生,在填自己的国籍时,有填“中国”

的,有填“清国”的,更有不少填“支那”的。  对于他们来讲,

“支那”好象不是贬义词,可郭沫若、郁达夫等人的小说里,又

是一提“支那”就痛心。特别是郭沫若同志,在自己的自传小说

《行路难》里说:“我们单听着‘支那人’三字的声音,便觉得

头皮有些吃紧”。郭描述曰:日本人说“支”的时候,故意把眉

头皱起来,说“那”的时候故意鼻音拉作一个长顿。

 

郭沫若忘了,咱也可以皱着眉头、拉着鼻音叫他们“倭国”、“倭

人”的——东汉光武帝还给人日本国王一个“倭奴王”的称号来着。

之所以没有这样礼尚往来,我估摸着是心虚,三十年河东三十年河

西:现在的小倭不但打败了大中国,还打败了大沙俄,后来更是偷

踢了美国人的卵子珍珠港,人家有牛的资本不是!?

 

时间到了1930年,南京国民政府终于向日本抗议了:抗议你们叫我

们支那。     以后凡英文,请叫我们“National Republic of China

中文需叫“大中华帝国”。否则日本政府送过来的公文俺们外交部

拒接——政府估计想不起来了,鸦片战争后英国和大清国签订的条

约里专门规定有一条:以后不需叫俺夷!之前人家抗议,我们都哄

孙子似的回答人家:南蛮北狄东夷西戎。自古至今,中国都是这样

称呼的。况舜与文王都是大圣人,孟子都说“舜,东夷之人也,文

王,西夷之人也”。你瞅瞅,在中国圣人都被人叫作夷呢。

 

日本人倒不会如此哄孙子,他们认认真真上上下下讨论起中国的抗

议来了。

 

一个说:除了支那,中国没有合适的称呼,你看看他们,一会儿唐,

一会儿宋,一会儿明的,那像咱们,万世一系,天皇血统始终是纯

正的。支那这么一个称呼,正好作其历史上的通称嘛。

 

一个说:不能叫他们中华民国,因为“中”和“华”太美丽了,而

且中华自古以来就是他们对周边国家傲慢鄙视时的自称。叫他们中

华,就是鄙视周边列国为夷狄啊。更关键的是,叫中国,也是名不

符实啊。他们哪里是中国啊(笔者忍不住插评一句:丑女起名叫美

丽,此乃内政啊)。

 

有人说,从法理上言,中国政府可以决定自己的国名(忍不住再插

评一句:丑女起名叫美丽,不算犯法啊),但是如此坚决拒绝习惯

称谓,似乎有些过激,难道英文称呼“Nationnal Republic of china的“China就不是“支那”吗?(最后插评一句:确实是)

 

有关中国国名,日本人 吵吵了一阵子,最后改嘴的 只有日本政府。

民间仍然叫咱支那。到了1940年,日本想和咱共荣,所以再次有人

提倡,不要再叫人家支那了,影响感情。于是新闻媒体又是一通讨

论,结果还是不了了之。再到1946年,日本被美国苏联打得服了劲

儿,其外务部和 教育部遂相继 发出通知,要求新闻媒体、出版社、

学校再也不要支那支那的叫了。

结果,知识阶层发生变化,不再支那了。可百姓不行,或者说,日

本人口语之间,还要支那两句的。再后来,1949年,日本人忘掉了

支那,改换了一个新词——“中共”。    日本学者实藤惠秀指出,

“这是日本新闻界用于称呼中国共产党统治的名称,含有又讨厌又

轻蔑的意味”……

 

真是讨厌,这都跑到哪儿去了!

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