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3052中国は見る(1696) “夫婦善哉”

 


日本巡り  大阪のおいしいべもの 夫婦善哉” 

 

游”在日本:大阪美食之“夫妇善哉” 

2014-01-24 15:47:19  辛子IN日本

 

 

南方と 北方では、祭竈節 (お正月の最終準備を開始する

日)が違う。北方では昨日の23日がそうで、南方では今日

24日がそうである。

 

この記事を郷里の南方の小年に送る。 “夫婦善哉”とは日

本式の甘い食品の名前で、もう一つは、日本式ラブストーリ

ーの話でもある。 

 

夫婦善哉 

 

大阪というと、美食が最大の特色である。 中国人は食べる

が大好きで、人にとって 食は 何より大事” と言います。 

大阪人 も  食べるのが 大好きで、“食い倒れ”  と 言います。  

“大阪人は、おいしいものにぜいたくして、財産をなくして、

布がからっぽになり、金を借りて 乗車券を買って家に 戻ろ

と、おいしいもののためには、惜しくない ことを” こう形容しま

す。 

 

大阪人が、このように 美食を求めるため、大通りから路地裏

まで、美食店が至る所にあります。   その中でも 有名なのが、

“日本の台所” と呼ばれている道頓堀です。 

 

道頓堀は、全長約2.5キロくらいで、有名な繁華街の心斎

と隣接しており、通り沿いには、いろいろな店が 所狭しと並ん

でいます。  大阪名物のタコ焼き、大阪焼から、いろんな特色

を持つ海鮮料理、フグ専門店まで、誰にも楽しめるおいしい食

べ物の看板がいっぱいあって、どれがいいのかわからないくら

いだ。 

 

Photo道頓堀川に沿って行くと、南側に17世紀に建

られた法善寺がある。 寺の前に、長さ80メート

ル、幅3メートルほどの、通称“法善寺横町”と呼

ばれる小道がある。   人通りの多い道頓堀から、

“法善寺横町”に入ると、まるで タイムトンネルに

入り、17世紀の江戸時代に戻ったようなる。 

 

Photo_2法善寺横町”には、有名な“夫婦善哉”という

本式甘味店がある。    この店の 創業は、明

16年(1883年)で、もともと は 店の名前は

福”と言い、アズキもちの専門店だった。 “御福”

日本最高のアズキ“丹波大納言” を原料とし、鍋で 8時間

た後、静かに一晩寝かし、アズキ一粒ごとに、糖分を いっ

0しみこませ、アズキの 粒を 柔らかく さ

いた。   一晩“置かれた ”アズキは、口に入った

時、甘いが しつこくなく、甘味が口中に広がった。

 

9店内の 壁には、有名人や芸人の署名が 沢山掛

られていた。  その中には、中国人にも知られ

いる名もあった。

 

アズキもちの日本語名 は“善哉” (ぜんざい)と言う。“善哉”は

もともと仏教用語だった。 その昔、一休禅師が初めてアズキ汁

もちを 食べた時、哉善哉”と言 ったのだという。  そこで、弟

子達も 師の言った 言葉を真似て、 アズキ汁のもちを“善哉”と

言ったので、そこから広く伝わったのだという。

 

Photo_3御福”は、一人分の “善哉”を 出す時、ほかの

店と違っている所があった。 一つのお盆に、一

椀に一つづつ入ったアズキ汁もちを、2椀で出す

のである。    一椀では 決して出さない。   最初

の頃、客達が 面白がって、: “なんやねん! どうして 2

すんや?” 訊いたところ、女将さんは、“これは夫婦なん

ん!” と笑って答えたので、“御福”のアズキ汁もちは、“夫婦

善哉” と言われるようになったという。

 

実は、このような販売方法は、大阪商人の頭の良さの明かし

で、1人分の大椀を、同じお盆の中に、2つの小さい椀に分け

て出せば、分量が多そうに感じるだけのことである。  このよ

うな“分量が多そうに感じさせる ” 販売方法と 夫婦善哉” と

いう このキャッチコピーが、“御福”の アズキ汁もちを一躍有

名にさせ、大歓迎されることになったのである。

 

Photo_4昭和15年(1940年)に、大阪生まれの小説家・

織田作之助が、 法善寺横町を 舞台に、彼の出

世作となる作品《夫婦善哉》を出版した。   この

小説は売れっ妓芸者の 蝶子と 放蕩息子の柳

のほろにが人生の話を描いたものである。

柳吉は化粧品問屋の大店の息子で、31歳の時、貧乏な家出

の芸者、20歳になったばかりの蝶子と知りあう。 2人が出

会って互いに引かれあい、結婚していた 柳吉は、女房と子供

捨てて駆け落ちする。   柳吉の父親は、蝶子が、自分の家

の金を 目当てに 柳吉を 誘惑したと思い、柳吉に対する 経済

援助をすて断ち切ってしまう。   これという 技術もない柳吉

は、引き続き芸者を続ける蝶子に依存するしかなかった。  し

かしそれからも、ぼんぼんの習慣が抜けず、蝶子が 汗水たら

し稼ぎ、少しずつ 蓄えた金を、こっそりと 持ち出し、酒食 遊楽

使って、すっからかんにしてしまう。

 

しかし、そうなっても蝶子は 怒った後も、相変わらず柳吉を棄

ることなく一緒にいい夫婦になりたいと思っている。 蝶子は、自

分の手で柳吉の家族に、経済援助がなくても、彼女に柳吉の面

倒をみる腕があり、柳吉と 一緒に 財産を作ったことを見せつけ

たいと思っているからである。 

 

蝶子は、そのため毎日 苦労していろいろな 芸者の仕事に励み、

少しづつお金を貯めている。   そして柳吉と一緒にかみそり店

を開いたり、関東煮のお店を出したりするが、しかしすべて失

に終わる。 最後に、蝶子と柳吉は、喫茶店をオープンし、生活

が軌道に乗ろうとした時、柳吉の父親が亡くなったという 知らせ

が伝わってくる。 蝶子は息子の嫁として、柳吉の父親の葬儀に

出席しようとするが、拒否される。   柳吉の家は死んでも、彼女

を息子の嫁と認めようとしなかった。 意 気消沈した蝶子は、部

屋を閉め、ガス栓を開く……。

 

自殺が未遂に終った蝶子が、病院から家に戻り、引き続き喫茶

店をオープンする。柳吉も父親の葬式の後、また蝶子の側に戻

ってくる。 そして蝶子に、“おばはん、おいしいもの食べに行こ!”

と言い、夫婦は揃って 道頓堀を歩き、 法善寺横町の夫婦善哉”

に入って行く。     目の前の対のアズキもちを見ながら、蝶子は、

これは、一人より、夫婦 2人の方がいいと言ってるのとちゃいま

すか?”と言う。

 

織田作の《夫婦善哉》という小説の中で、この甘物屋“御福”の店

名を“夫婦善哉”に変えている。 その後、小説《夫婦善哉》は、映

画となり大評判を呼び、“御福” も一躍 大人気店となり、店名もご

く自然に“夫婦善哉”と改名されました。

 

Photo_51955年、《夫婦善哉》は映画となり、一大センセー

ションを巻き起しました。  1963年、また映画化さ

れ、《新・夫婦善哉》という題でした。

 

Photo_62013年8月、《夫婦善哉》3回目は―――

4週連続のテレビドラマとなりました。

 

Photo_7現在、“夫婦善哉”のアズキ汁もちは、良縁ハッ

ピーのシンボルとなっています。 夫婦のむつま

じさ、幸せな愛情を求める男女が、もし“法善寺

横町”に行ったら、絶対に“夫婦善哉”のアズキ

汁もちを食べないといけません。   またこの対

になった2杯の“善哉”は、2人が別々に食べて

はいけません。 それぞれが、それぞれの 1人

分を食べるのです。 そうすれば、すばらしい願

いがかない、心で考えていることが成就できます!

 

 

游”在日本:大阪美食之“夫妇善哉” 

2014-01-24 15:47:19  辛子IN日本

 

据说南方北方的过小年,时间是不同的。北方23号过小年,即

昨天;南方24号过小年,即今天。

 

这篇文章送给家乡南方的小年。“夫妇善哉”是一道日式甜食

的名字,也是一个日本式情爱小说的故事。 

 

夫妇善哉 

 

说起大阪,美食是它的最大特色。中国人讲究吃,说“民以食

为天”。 而大阪人讲究吃, 说“食い倒れ”,直译过来就是

“吃瘫倒”。形容大阪人见到好吃的简直不顾一切,即使吃到

破产、吃到钱包见底、吃到甚至要借钱买电车票回家,都在所

不惜。

 

既然大阪人如此追求美食,于是大街小巷的美食店遍布。这其

中最有名的,当然首推号称“日本厨房”的道顿堀。 

 

道顿堀全长仅约2.5公里,与著名的繁华街心斋桥毗连相邻,沿

街密布 各色店铺,从大阪名吃章鱼烧、大阪烧,到各具特色的

海鲜料理、河豚 专卖店,沿街各类雅俗共赏的美食招牌令人目

不暇接。 

 

沿道顿堀川向南有一座建于17世纪的法善寺。寺前有一条长 80

米、宽3米的石板小道,称为“法善寺横町”。穿越熙熙攘攘的

道顿堀人流,步入“法善寺横町”,宛如 步入了时光隧道,返

回到了17世纪江户时代的日本。 

 

法善寺横町”里,有一家极有来头的日式甜品老铺“夫妇善哉”。

这家创业于明治 16年(1883年)的甜品店,原来的店名叫“御

福”,是一家红豆年糕专卖店。 “御福”选用日本最高级的红

豆“丹波大纳言”做原料,用烧锅闷煮 八小时之后,再静置一

晚上,好让每一颗红豆都饱蘸糖份,并同时保持 红豆颗粒的完

整与 柔软弹性。经过一晚 “酣睡” 的红豆,入口时甜而不腻,

甘美沁润。

 

店堂内的墙壁上,挂满了名人或艺人的签名,其中有些艺人相比

中国观众也很熟悉

 

红豆年糕的日文名字叫“善哉”(日文发音:ぜんざい)。“善

哉”原是佛家弟子的用语。据说当年日本的一休禅师在第一次品

尝过红豆年糕汤之后,连声称道“善哉此汁”。于是弟子们也就

师云亦云,将红豆年糕汤称为“善哉”的说法,便由此流传开来。

 

御福”出售的一人份“善哉”,与别处有所不同:两碗一模一样

的红豆年糕,成双成对地盛在 同一个托盘里,决不会单独卖出一

碗。 刚开始时,食客们感觉奇怪,问店老板娘:“咦!怎么是两

碗呢?”  老板娘便 笑着答道:“这是一对儿夫妇呢!”  于是,

“御福”红豆年糕店里的“夫妇善哉”就这样传开了。

 

其实,这样的销售方法,不过是大阪商人的一种精明而已:将一

人份的大碗,分两个小碗盛在同一托盘里,令人感觉分量更多些

而已。但这种“令人感觉分量更多”的销售方法,再加上“夫妇

善哉”这个讨巧的名字,“御福”卖出的红豆年糕果然远近闻名,

大受欢迎。

 

到了昭和15年(1940年),大阪出生的小说家织田作之助,以法

善寺横町为背景,写出了他的成名代表作《夫妇善哉》。这部小

说描写了能干的艺妓蝶子和浪荡公子柳吉之间的人生故事。 

 

大阪出生的小说家织田作之助

 

柳吉是化妆品批发商老板的儿子,31岁那年认识了贫寒人家出身

的艺妓、20岁的蝶子。两人相见倾心之后,已有家室的柳吉不惜

抛家弃女与蝶子私奔。柳吉的父亲认定蝶子是看中了自家的钱财

勾引了柳吉,因此断绝了对柳吉的一切经济援助。一无所长的柳

吉,只能依赖蝶子继续做艺妓养活自己。并且经常少爷习性发作,

将蝶子好不容易一点点积攒下来的血汗钱,偷偷拿出去吃喝玩乐

挥霍一空。

 

但即使这样,蝶子在生过气之后,依旧不曾放弃想要和柳吉一起

做一对长久好夫妻的愿望。因为蝶子希望能用自己的行动证明给

柳吉的家人看:即使没有一分钱经济援助,她也有能力让柳吉过

得很好,并有能力和柳吉一起置下一番家业。

 

蝶子为此 每天辛苦地 赶赴各种艺妓场子,一分一厘地克俭存钱。

并和柳吉一起先后经营过剃刀店、关东煮小吃店和水果店,但都

以失败告终。最后,蝶子和柳吉一起开了家咖啡店,就在生活刚

走上正轨时,传来柳吉父亲去世的消息。蝶子想以儿媳身份去给

柳吉父亲送葬,但遭到拒绝,柳吉家至死不承认她这个儿媳。心

灰意冷的碟子,将自己关在屋子里拧开了煤气……

 

自杀未遂的碟子从医院回家后继续经营咖啡店,柳吉也在父亲葬

礼之后,重新回到蝶子身边。  并对蝶子说:“领你去吃好吃的,

走吧!”夫妻俩沿着道顿堀一直走到法善寺的“夫妇善哉”。看

着成双成对摆在眼前的 红豆年糕汤, 蝶子道:“这是想告诉说:

比起一个人,还是夫妇两个人更好么?”

 

织田作之助在《夫妇善哉》这部小说中,将甜品店“御福”的店

名改为“夫妇善哉”。后来小说《夫妇善哉》被改编成电影并大

获好评,小店“御福”也因此一炮走红,店名也就顺其自然地改

名为“夫妇善哉”了。 

1955年《夫妇善哉》被拍成电影,引起轰动。   1963年,又再次

被翻拍成电影,取名为《新·夫妇善哉》 20138月,《夫妇善哉》

第三次被翻拍---这次拍成了四集的电视

 

如今,“夫妇善哉”的红豆年糕,已经成了良缘美满的象征。想求

得夫妻和睦、爱情甜蜜的男女,如果去了“法善寺横町”,记得一

定要去品尝“夫妇善哉”的红豆年糕。不过要记住:成双成对二碗

一人份的“善哉”是不可以两个人分食的,只可以各吃各的一人份,

才能求得美好圆满、心想事成哦!

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