« 3035 中国の三面記事を読む(1173)中国の外交官 世界のメディアで「安倍批判」発信中 | Main | 3037中国は見る(1683) 米世論 「日米安保を維持」 急減 尖閣問題が影   »

3036中国は見る(1682) ルパング島に潜伏の最後の日本兵 死去


 

最後の日本兵 病死  ルパング島の密林に潜伏28年

 

日本“最后鬼子兵”病逝 曾躲进丛林顽抗28

2014-01-18 00:45  来源:中原网-郑州晚报

 

Photo


小野田寛郎

 

2日本のメディアの報道によると、16日午後、日本

軍少尉日本軍の “最後の投降兵” と呼ばれた

小野田寛郎さんが、東京の 病院で肺炎のため死去

した。  91だった。  第二次世界中、小野田

さん1945連合軍の投降命令を 無視し、フィリ

ピン・ルパングジャングルに潜伏し、ゲリラ戦を

け、30年間、頑強に抵抗を続けた。 

1974年3、元上官が 島を訪れ 改めて 投降命令を 読み上げ

後、小野田さんは、やっとルパング山中から下り投降した。 日本に

った後、彼は日本軍国主義の“英雄”として国民から歓迎された。   

 かしずっと  第二次世界戦の 影の中で生活していた彼には、

現代の生活社会の変遷理解して適応することができず  ――

特に日本憲法軍事行動に対する 制限について 理解するこ

とが できなかった。    ここ数年、彼はずっと東京で生活し、

日本各地の 小学校、中高校などに行って講演活動を行い、

争体験を語った。

 

連合軍の投降を無視してジャングルに潜伏

 

小野田寛郎さん、1922年3月19和歌山県海南市に生まれ

た。    1939年3月、彼は“田島洋行” から中国の武漢支店を派遣

され仕事していた。  1942年12召集され和歌山歩兵 第61

に入した。 その後、歩兵第218連隊に 転属した  1943

年 9月に 甲種幹部候補生となり、1944年 1月、久留米 第一陸軍

予備士官学校に卒業後見習士官となる。  9月に陸

軍中野学校俣分校に入、遊撃戦の教育を受ける。    11月に

卒業後フィリピンに派遣させられる。 小野田さんはフィリピンのル

バング島に派遣された 米軍上陸遊撃戦を展開する準備の

ためだった

 

1945年2月28日、米軍はルバング島に上陸した。 大部分の日

は投降戦死した。 小野田さんは残った達でチームを組

んだ。    の同僚と一緒にジャングルに隠れ、引き続き 頑強に

抵抗を 続けた。      1945年8月15日、連合軍の 共同作戦の下、

日本は無条件降を宣言した。    米軍は 投降した日を軍使

として各島に派遣し投降をびかけると同時に大量の 宣伝ビラ

撒いた。   しか小野田さん戦争終わってないと思い、

伝ビラうそだと見、ジャングル 深く身た。

 

山中に潜伏 28

 

毎日、小野田さんの兵士を連れてに登り、朝日に向か

敬礼し、それから引き続き戦闘を続けた。   彼は突然

れ、現地の農民を殺し、その後、山林に隠れ住んだ。  数十人の

農民が バナナの収穫をしていた時、なんの理由もなく彼らに銃

れた。 野田さんらは絶えず 移動する 戦略を取り、地元の人さえ

彼らを捕えることができなかった。   同一の場所に何日か滞在し

た後、彼らは必ず移動した。 彼らは現地住民の食物、ニワトリを盗

、水牛を殺し、野兎を捕えトカゲを食べた。  彼らは 乾バナナ

を 保存し、携帯用食品と していた。  1952年、 彼らの身内の手紙

日本の新聞、絶えずジャングルの中に置かれた。  彼ら人が

家族を思い、もしかした態度軟化し投降するのではないかと期

た。 しかし小野田さんは、これ彼らの意志をバラバラにしよう

との策略だと思い、”引き続き作戦続行、決して投降せず” と 頑なに

結論を出していた。

 

1965年、彼らはラジオ盗んで手に入れ、ニュースの 国際関係の

を聞いていた。 しかし、彼らは ずっと世界の変化を認めること

はなかった。 彼ら 依然として元のままで、農民を殺し、を 焼却し

 のようにして、彼らは 第次世界大戦が 終わった、小野

さん陸軍中野学校で 野外の サバイバル訓練を受けたこともあ

り、なんと国の山で原始人のようにこっそりと 28間、暮らし

続けた

 

官 自ら島に上陸 投降を呼びかける

 

1974年2月20日、小野田さんは山中で偶然日本の冒険・鈴

紀夫さんに出会った。   鈴木さんは小野田さんに、日本本当

に投降し、戦争は とっくに終わったことを 伝えた。  小野田さんは

直属の上官の命令があれば投降するとあくまで言い張った。 鈴木

さんは、彼の上官の命令を持って帰ると約束し、帰国すると、あらん

かぎりのを使い、小野田さん上司谷口義美氏を探し出した。 

谷口さん今は、改名し、本屋さんになっていた。 1974年3月、小

野田さんついに自ら 島にやって来た 元上官谷口義美少佐から

投降命令を受け取り、中古の 軍服を着て、ルパング島の 警

頭し、人々深く 頭を下げながら、鄭重に 歩兵銃を 地べたに置き、

“私は小野田少尉です。 の命令投降に参りました と述べた。

 

小野田さんは 30年にわたる 戦闘中、兵士や警察、農民など併せ

130人ほどの フィリピン人を 殺したり ケガさせた。 フィリピン人

の多小野田さんを刑務所に入れ、法に 照らして罰するべきだ

主張 しかし、日本政府調停に乗り出し、当時のフィリピン

のマルコス大統領の罪を問わないこととし、52歳の 小野田

んの日本への帰国を許し

 

帰国後 も 軍国主義の亡霊を死守

 

1974年3月12日、彼は二人の同僚の遺品と一緒に日本に帰国し

た。   戦争が終わって 30年後に、小野田さんは ついに 日本に帰

ってきた。  行く先々で、熱烈歓迎され、日本の“英雄”の精神シン

ボルになった。   彼は多くの活動・特に日本の右翼の退役軍人の活

動に参加した。   始まり軍歌が歌われ際には、小野田さん

は 興奮して涙を 流しいたという。

 

小野田さん多くのメディアの取材を受けた際、百人以上がケガ

ったり、少なくとも30人の罪のない農民が殺され家庭が壊された

ことについてどう思うかと聞かれて、小野田さんは、断固として、自分

間違っていない。 作戦中にあって、この人たちの死亡に 責任

を負うことない。 彼は自分遊撃のリーダーであり、普通

闘状況の制約を受けることはない。 必ず自分活路を探す必要が

あった。 彼の顔恥じ入った表情かった。 彼の自叙伝はベス

トセラーになった。 書名は《たった一人の30年戦争》である。

 

1974年3月、小野田さんは軍刀フィリピン提出し、正式に投

 

 

 

 

日本“最后鬼子兵”病逝 曾躲进丛林顽抗28

2014-01-18 00:45  来源:中原网-郑州晚报

 

小野田宽郎

 

据日本媒体报道,当地时间16日下午,原旧日本陆军少尉、被称作

日军“最后的投降兵”的小野田宽郎因肺炎在东京的一家医院去世,

终年91岁。二战期间,小野田于1945年躲入菲律宾卢邦岛的丛林中

进行游击战,并无视盟军的投降命令,负隅顽抗和藏身30年。直到

19743月原上司来到岛上重新宣读 投降命令后,他才从卢邦岛

山中走出投降。 回到日本后,他被当作日本军国主义的“英雄”受

到国人欢迎,但始终活在二战阴影中的他,完全无法理解和适应现

代生活和社会变迁——特别无法理解日本宪法对于各类军事行动的

限制。近年来,年迈的他一直在东京生活,并远赴日本各地的小学、

中学等演讲,讲述战争的体验。

 

无视盟军投降令躲进丛林

 

小野田宽郎1922319日出生于日本和歌山县海南市。1939

3月,他被派到“田岛洋行”位于中国武汉的分店工作。 194212

被征召入和歌山步兵第61联队,后分配到步兵 第218联队。19

439月成为甲种干部候补生,19441月 进入久留米 陆军预备

士官学校。8月毕业后成为士官勤务见习士官。   9月进入陆军中

野学校二俣分校,接受游击战训练。   11月毕业后被派往菲律宾。

小野田被派到一个菲律宾的小岛——卢邦岛,准备在 美军登陆后

开展游击战。

 

1945228日,美军在卢邦岛登陆,大部分的日本士兵 不是投

就是战死。   小野田把剩下的人分成小组,同三名同僚一起隐

入丛林,继续顽抗。 1945815日,在盟军的联合打击下,日本

宣布无条件投降。  美军派出由已投降日兵充当的军使赴各岛劝

降,同时撒下大量的传单。 但小野田认定战争没有结束,传单在

骗人,于是躲进了丛林深处。

 

 

落草为寇野外生存28

 

每天清晨,小野田带着三名士兵爬上山峰,对着旭日敬礼,并 继

他的战斗。 他会突然出现在村落,射杀当地农民,然后躲入

山林。 几十个农民在收成香蕉时,无端地被他们残酷枪杀。    

小野田等人保持着不断移动的战略,甚至连当地人都无法将他们

捕获。 停留在同一个地点几天之后,他们就会移动。 他们偷窃当

地 居民的食物,偷鸡,杀水牛,捉野兔,吃蜥蜴,他们甚至将保存

晒干的香蕉充当干粮。  1952, 他们亲人的家书与日本当时的报

纸,不断地在丛林里出现,希望他们三人念及家人,或许会软化态

度出来投降。     然而,小野田仍然认为这是瓦解他们意志的策略,

固执的他得出结论:继续作战,永不投降。

 

1965年,他们偷到一台收音机,听到了新闻里关于国际关系的报

导,然而,他们始终不肯承认世界的改变。他们依然故我,枪杀农

民,烧毁稻谷。就这样,他们在第二次世界大战结束后,小野田凭

借在日本陆军 中野侦察学校受过 野外生存训练,竟在 异国的山

林荒野中像原始人一样秘密地生活了28年。

 

老上司亲自上岛将其劝降

 

1974220日,小野田在山里偶然遇到日本探险家 铃木纪夫。

后者告诉小野田,日本真的投降了,战争早已结束。小野田则坚持

必须有指挥官的命令才会投降,并要将保存良好的 军刀亲自交给

天皇。  铃木 承诺会带着他的队长的命令归来,并在回国后费了九

牛二虎之力才找到了小野田的老上司谷口义美。原来谷口已经改

名并成了书商。 19743月,小野田终于接受了亲自上岛的谷口

义美的投降命令,身穿半旧日本军服,来到卢邦岛警察局,他向人

们深深地鞠了一躬后,郑重地把步枪放到地上,说:“我是少尉小野

田。我奉上级的命令向你们投降。”

 

小野田在30年的战斗中共打死打伤了 130名菲律宾人,包括士兵、

警察和平民。    许多菲律宾人主张把小野田关进监狱,并绳之以

法。  但是,由于 日本政府的 斡旋,当时的 菲律宾总统马科斯赦

免了他,并允许已经52岁的小野田返回日本。

 

回国仍死守军国主义阴魂

 

1974312日,他与两名同僚一起回到日本。 三十年之后,小

野田终于回到了日本,所到之处,受到热烈欢迎,成了所谓日本

“英雄”精神的象征。 他参加许多活动,特别是日本右翼退伍军

人的活动。每当典礼开始,旧军歌被唱起时,小野会激动得流泪。

 

他接受过无数次媒体访问,当被问到如何看待上百个受伤、至少

30个无辜 死亡的农民与 破碎的 家庭时,他坚定 认为 他没有错,

他身处于作战之中,不必为这些人的死亡负责。他坚称自己是一

位游击队长,不受任何一般战斗状况的约束,他必须为自己寻找

活路。 他脸无愧色,他的自传甚至成了畅销书,书名是:《绝不投

降,我的三十年战争》。

 

19743月,小野田把军刀交给菲律宾军方,正式投降。

 

|

« 3035 中国の三面記事を読む(1173)中国の外交官 世界のメディアで「安倍批判」発信中 | Main | 3037中国は見る(1683) 米世論 「日米安保を維持」 急減 尖閣問題が影   »

経済・政治・国際」カテゴリの記事