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2710中国の三面記事を読む(1067) 荘則棟と佐々木敦子の結婚秘話(中)

 

荘則棟と佐々木敦子の結婚秘話 鄧小平が結婚を許可

 

庄则栋与佐佐木敦子的传奇婚恋 邓小平批准结婚
2013
021019:23  来源:新民周刊

 

 

997
国際結婚ロマンス

 

荘則棟が離婚して間もなく、冬の大雪の日、テレビ・ドキュメンタリー

《卓球界の帝王・荘則棟 今いずこ》の撮影がスター  トした。 中国

ニュース社は多言語バージョンを作り、海外に 放送した。このテレビ

世界に何をみせたのか?   中国政治の開放か?  世

界チャンピオンの経歴か?  それとも悲劇に溢れた美し

物語か? このテレビ番組の中で、荘則棟は自分の口

で人々にこう語っている。 “人生はまるで円のようです。   

その初めが終りとなり、その終りがまた初めとなります。 

私は30年前に少年宮から出て行きましたが、今ま

少年宮戻ってきました。   これを後退だという人が

います。 いや! これは新しい初めなのです。  昔、

私は少年宮で卓球をしいました。  今 また、少年宮

でコーチをしています。 私から愛する卓球に自

分自身を発見しました。    今後、私はこの卓球の中

からたに私自身を見つけ出すつもりです”   は言

え、個人生活の中で、荘則棟は再び自分の愛情を見

けることができるだろうか?

 

一家離散”した荘則棟は、北京を離れ山西に行き、コーチと

なった。  正式のコーチではないので、彼には食事手当てが

かった。 1980年代、70元の給料で、毎月北京の親子に

50元を郵送し、残った20元はすべて食事代となった。    20

(約300円)で何が食べられようか? 

ある日、食堂で白髪混じりの太ったおやじが荘則棟を呼びと

た。“あんたは荘則棟だろう?” 彼がうなずくのを見て、お

やじは、もっともらしく、“食堂には決まりがあって、食べ終

った 弁当箱は 持ち出せないっていうのを、知っているか?” 

厳しい生活をしている荘則棟は、信じないわけにはいかない。 

翌日、昼飯を食べに出かけた。 荘則棟が弁当箱を取りに行

と、ずっしりと重い弁当箱で、危うく 手から落としそうになっ

た。 開けて見ると、中には肉や卵がいっぱい入っていた。 彼

が弁当箱を見てみると、上に荘則棟の名前が書いてあった。

おやじが、油で汚れた手で荘則棟にたばこを渡しながら、“あ

んたは昔、ここに試合に来た。その時、あんたは世界チャンピ

オンを取った時だったが、いつも、ご飯を食べ終わると、ほか

の人は口を拭いて帰っていったが、あんただけは、食器の片

けを手伝ってくれたり、炊事場の中まできて私と握手してく

れ、少しも大チャンピオンぶったところがなかった。 当時のあ

んたを思い出して、ちょっとなんとも 言えない気持になってな

……”    荘則棟自身も、こんな変動する人生を経験するとは、

思いもしなかった。



荘則棟の2度目の恋は、その苦難に満ちた時代に始まった。 

これはまた珍しい國際的恋だった。 やさしくて賢い日本女性・

佐々木敦子さんが彼の生活に入ってきた。 当時の国際卓球

盟の会長、中日友好協会副会長だった荻村伊智朗が縁結

びの神となった。

荘則棟は最初に山西に行き、その後、北京少年宮の コーチと

った。 その間、2人の日本人が、ずっと荘則棟を探していた。 

それが、以前、試合場で荘則棟のライバルだった荻村伊智朗と、

ほかにもう一人、卓球ファンの佐々木敦子さんだった。 荻村

荘則棟が山西に行ったことを知ると、日本卓球チーム連続

回、山西省を訪問した。 卓球は名目で、本当は荘則棟に会

ことだった。



荘則棟によると、彼と佐々木敦子さんが知り合ったのは、19

71年、名古屋の藤久観光ホテルのロビーだったという。 当

時、中国卓球チームは世界選手権大会を2回中断した後、再

世界大会に選手を参加させた。 佐々木敦子さんは中国語

が話せ、荘則棟の“ファン”として、彼と一緒に写真を撮った。 

その後、佐々木さんは中国卓球チームについて、新幹線に乗り

名古屋から大阪に行く途中、二人はまた出会い、新幹線で長時

間話し合うことができた。 それ以降、二人は良き友達となった。 

その後、佐々木さんは、荘則棟に4枚にも及ぶ手紙を送った。 

内容は、中国が懐かしいこと、先生、学友への思いと共に、それ

となく荘則棟への好感や崇拝の気持ちを述べたものだった。 



それともう一度、荘則棟が中国青年卓球チームを 引き連れ日

を訪問したことがあった。 佐々木敦子さんは、それを知ると、

またすぐに彼に会いに行った。   荘則棟はとても喜び、彼女に

特別に花束をプレゼントした。 しかし、それから13年、会えな

くなるとは、二人とも思いもしなかった。



丸13年が過ぎた。 荘則棟は 波乱万丈の生活を送っていた。

佐々木敦子さんはその時も、まだ独身だった。 佐々木さんは

荘則棟の過去のすべてを知っていた。 もちろん彼が離婚した

ことも知っていた。 彼女は荻村先生から、荘則棟が山西で鈕

琛という人と共同執筆した35万字の《闖と創》という本のことも

知っていた。   荘則棟が山西に来る前、山西の卓球チーム

30数年来、全国大会で“最低レベル”だった。 荘則棟が山西

に来た後、彼が責任を負って訓練した女子チームが、間もなく

第37回世界卓球選手権に 出場する 中国ナショナルチーム

友好試合を行った時、なんとナショナルチームは何度も山西

ームに負けてしまった。   その後、ナショナルチームに入っ

管建華は 6試合独、世界チャンピオンの 曹燕華を含む

一流選手を打ち負かした。  荻村は佐々木さんを北京市少年

に荘則棟を探しに向かわせた。



ある日の午後、荘則棟は子供達と訓練をしていた。電話のベル

が突然鳴り響いた。 よく知っている声だった。 “荘則棟さんい

らっしゃいますか?”  “私ですが……” “私、佐々木敦子です” 

この声は、前は遥か遠くに聞こえたが、今は近くに聞こえた。 

この声はまるでタイムスリップしたかのように、二人を13年前に

引き戻したかのようだった。 荘則棟は急いで訓練所から少年

の入り口に向った。 門の外には、眼鏡をかけた丸顔の日本

女性・佐々木敦子さんが立っていた! 13年ぶりの再会だった。 

佐々木さんは、荘則棟に心に思っていたことを吐き出した。 “長

い間、ずっとあなたのことを思っていました” 荘則棟も自分の

を語った。“この10年ばかり、私の人生いろいろあ、世の中

変転を実感しました!”



だいぶ経ってから、荘則棟と佐々木敦子さんは一冊の本を書い

た。 荘則棟は心の独白という形で、この心の経緯を書いてい

る。 彼はこう書いている。 “ 深夜、私がひっそりと静まり

かえった小さな部屋の中で独りぼっちでいると、孤独で心細く、

とても落ち着けませんでした。 生活の重荷を背負い、裸足で

懸命に歩きました。 私は人生の苦しみ、辛さ、しょっぱさ、

酸っぱさを味わい、人生の晴、曇り、順調、不調を悟りました。

今、私は炭のようです。 熱を発することはできても、光はあり

ません。 誰か私にぶつかると、黒くしてしまいます。 この土

地で、“黒”くなるのを平気でいられる人がいるでしょうか! 

しかし、敦子さんは日本人です。13年間会えなかったけれど、

私を忘れず、私に関心を持ってくれ、私の行方を尋ね回ってく

れました。 今日、とうとう私を探し出しました。 私は心の

底から感激しています。 今日、敦子さんはあまり話をしませ

んでしたが、時々、同情の目を投げかけてくれ、別れる時には、

名残り惜しげな風情を見せ、私の心さざ波が立ちました。 

この数年の私の寂しさ、干からびた心の中は、潤いのある春雨

を望んでいました! 孤独な心、どれほど私を理解してくれ、

私を助けてくれる友を待っていたことか! 私が行く先々、人

々は古い友人への礼儀と尊敬をするだけです。 私は自分の考

えを抑えることができなくなりました。 佐々木敦子さんは中

国まで私に会いにきてくれました。 周のすべてが私の思い

を掻き立てました。 ここは、私に以前、好運をもたらしたと

ころだからです…… 

 

敦子さんが荘則棟に尋ねた。 “その後、あなたはどうして山

西から北京に戻ったんですか?” 荘則棟は答えた。 “最初、

市の体育委員会は少年業余体育学校へ移動させようとしました。 

体育系で犯した誤りのこともあり、北京市少年宮卓球クラス

コーチへの異動希望を出したんです” それが、この突然出

された要求が、拒否されなかっただけでなく受け入れられると

荘棟身もしなかった。北京市委員会によると、

さんの意見を参考にしました。 彼の専門技術を十分に発揮し、

大いに卓球に腕を振るってもらいたいです” そして関連部門

は特に、から比較的に近い部配属させた。 

荘則棟は敦子さんにこういうした。 彼が仕事に就任して

100日目に、国家体育運動委員会の李夢華主任北京市少年

宮に訪れ、荘則棟に対して“あなたは以前、国家のために

献した。党と人民はあなたを忘れることはない”と語ったと

話した。

 

庄则栋与佐佐木敦子的传奇婚恋 邓小平批准结婚
2013
021019:23  来源:新民周刊


异国婚恋书写传奇



就在庄则栋离婚后不久,在一个冬日的大雪天,电视片《乒坛坛

主庄则栋今安在》开拍了,随后,中国新闻社用多种文字版本向

海外发行播放。电视片向世界展示了什么?一个国家的政治开明?

一个世界冠军的经历?抑或是一个富有悲剧性的美丽故事?在这

部电视片中,庄则栋亲口对人们说:“人生的道路有时真像一个

圆,它的开始又是终结,它的终结又是一个新的开始。我是30

前从少年宫出去的,现在又回到了少年宫。有人说,这是倒退。

不!这是一个新的开始。过去,我在少年宫打球,现在又去少年

宫当教练,我曾在热爱的事业中找到我自己,今后,我将在这项

事业中重新找到我自己。”然而,在个人生活中,庄则栋会从重

新找到自己的爱情吗?



妻离子散”的庄则栋,离开北京去山西当教练。因为不算正式

教练,他没有伙食补贴,上世纪80年代,只有70元的工资,每

月要给北京的母亲和孩子寄出50元,剩下的20元钱全部用来吃

饭。20元能吃到什么? 一天,食堂的一位头发花白的胖老头叫

住了庄则栋:“你就是庄则栋?”胖老头见他点点头,煞有介事

地说,“食堂里有规矩,吃完饭不准带走饭盒,知道吗?”已经

是战战兢兢生活的庄则栋能不相信吗?第二天吃午饭,庄则栋去

拿饭盒,沉甸甸的饭盒差点儿脱手落在地上,打开一看,里面装

满了肉和鸡蛋,他看看饭盒,上面写着庄则栋的名字。老头用油

腻的手递给庄则栋一支烟:“你过去来这打比赛,那会儿你刚得

了世界冠军,每次吃完饭,人家抹抹嘴都走了,只有你,帮我们

收拾碗筷,你还到厨房里跟我握了握手,一点儿没有大冠军的架

子。想起当年的你,心里有说不出的滋味,……”庄则栋自己也

没想到,他的人生会经历这样的大起大落。



庄则栋的第二次婚恋,就是始于那个艰难的年代。这是一段奇特

的跨国婚恋,一位温柔贤惠的日本姑娘佐佐木敦子开始走进他的

生活,当年的国际乒联主席、中日友好协会副会长荻村伊智郎先

生,担当了月下老人。



庄则栋先到山西,后来又到北京少年宫任教,其间有两个日本人

一直在寻找庄则栋,这就是当年赛场上庄则栋的老对手荻村伊智

郎,还有赛场上的女球迷佐佐木敦子。荻村得知庄则栋去了山西,

曾力促日本乒乓球队连续三次访问山西省,打球是假的,寻找庄

则栋是真。



据庄则栋透露,他与佐佐木敦子的相识是在1971年名古屋的藤久

观光旅馆的大厅。当时中国乒乓球队在中断了两届世界锦标赛之

后,重新派队参加世界大赛。佐佐木敦子会讲中文,作为庄则栋

的“粉丝”,与他拍了一张照片。之后,佐佐木敦子又跟随中国

乒乓球队,登上了新干线列车,在名古屋去大阪途中,他们再次

相遇,而且在列车上进行了长时间的交谈。从那以后他们算是好

朋友了,后来佐佐木敦子还给庄则栋写了一封长达4页的信,表

达了她怀念中国,怀念老师、同学的深情,同时在信中她也隐隐

约约表达着对庄则栋的好感和崇拜。



还有一次,庄则栋带领中国青年乒乓球队访问日本,佐佐木敦子

得知后又在第一时间去看他。 庄则栋非常高兴,还专门送给她

一个花篮。然而,他们谁也没有想到,从此一别就是13年。



整整13年过去了,庄则栋的生活跌宕起伏,而佐佐木敦子那时还

是单身一人。 佐佐木敦子知道他过去的一切,当然也知道他已经

离婚了,她还从 荻村先生那里了解到,那些年庄则栋在山西和一

个叫钮琛的球友一起写了一本书《闯与创》,全书35万字。庄则

栋来山西前,山西的乒乓球30多年来是全国比赛的“垫底货”,

庄则栋来山西后,他负责训练的女队和即将参加第37届世乒赛的

中国队打友谊比赛,结果是中国队几次败在山西队手下。 后来进

中国队的管建华一人就独胜6场,打败了 世界冠军曹燕华在内的

一流选手。荻村让佐佐木敦子去北京市少年宫找庄则栋。



一天下午,庄则栋正在带小朋友训练,电话铃突然响起,一个熟

悉的声音:“庄则栋在吗?”“我就是……”“我是佐佐木敦子。”

这声音曾经那么遥远,如今却近在咫尺,这声音仿佛穿越了时空,

让他们又回到了13年前。庄则栋急忙从训练房向少年宫大门口走

去。 门外,站着一位戴着宽边眼镜的圆脸庞的日本女子,正是佐

佐木敦子!时隔13年重逢后,佐佐木敦子向庄则栋说出了心里话:

这么多年,一直想来看你。”    庄则栋也说出了自己的心声:

近十年来,我的人生道路崎岖坎坷,真是折翅方知沧桑之道呀!”



多年以后,庄则栋和佐佐木敦子合著了一本书,庄则栋 用心灵独

白的方式记载了这一段心路历程。他这样写道: 深夜我在沉寂的

斗室里茕茕孑立,形影相吊,心里很不平静。  背着生活的重负,

赤裸着双脚吃力地跋涉着。 我品尝着人生的苦、辣、咸、酸,领

悟着人生阴、晴、圆、缺的风光。 现在,我是一块炭,只能发点

热而没有光,谁碰上我,会沾上黑。 在这块土地上,有谁不怕沾

上“黑”呢!然而,敦子女士是日本人,13年未见并没有忘记我,

却在关心着我,打听我的下落。 今天终于找到了我。我从心里加

倍地感激。今天,敦子女士的话很少,却不时投来同情、怜悯的

目光,分手时恋恋不舍的情韵,激起我心湖中的涟漪。这几年在

我那寂寞、干涸的心田里,多么希望有一场滋润的春雨啊!一颗

孤独的心,多么希望遇上理解我、帮助我的知己啊!我想到哪儿

去了,人家也许是出于对老朋友的礼貌和尊敬罢了。可是我无法

控制自己的思绪。佐佐木敦子到中国来看我,好像周围的一切都

激起了我的无穷思念,因为这里曾给我带来好运……



佐佐木敦子问庄则栋:“后来你是怎么从山西回到了北京的?”

庄则栋告诉她:他先是被分配到市体委一所少年业余体校,他提

出:鉴于在体育系统所犯的错误,加之人事关系上的不便,希望

能予调换到北京市少年宫担任乒乓球班的教练。连庄则栋自己也

没料到,这个冒昧提出的要求不但没有遭到拒绝,反而得到了理

解。北京市委表示:“庄的意见可以考虑,应该充分发挥他的一

技之长,让他心情愉快地去工作。”并特意关照有关部门最好分

配他到离家较近的单位。庄则栋又告诉她,在他上任工作的第一

百天,时任国家体委主任李梦华来到北京市少年宫,对庄则栋说:

你过去为国家立过功,党和人民不会忘记你。”

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