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"ピンポン外交"の立役者・荘則棟氏死去 

 さようなら、愛するピンポン玉

"乒乓外交"功臣庄则栋去世 再见,我心爱的乒乓球
2013
021109:35    来源:杭州日报     

0_2当時、荘則棟が米国のコーエン選手に杭州

の絹織物 (西湖の風景が描かれていた)を

プレゼントした。

2_2

1961年、荘則棟 第26回世界卓球選

 手権・男子シン  グルスでチャンピオンと

  なる。    

1_2
功労祝賀会で、周恩来総理が荘則棟と

  乾杯する。



記者 張磊 概略紹介



10日午後、国際卓球連盟の徐寅生名誉主席はツイッターで、

癌と長年戦っていた卓球の名将・荘則棟氏が逝去したと沈痛

な発表を行った。 “ 彼は我が国の卓球に、大きな貢献をした!

1971年、名古屋で行われた世界卓球選手権大会の時、彼と

米国の コーエン選手が友好的な接触をし、各方面の関心を呼

んだ。 間もなく、毛沢東主席が、中国が 米国の卓球チームを

中国に招待することを決定した。 ピンポン外交に、世界は驚い

た。 荘君、ご冥福をお祈りします!”



このツイッターは、あっという間に数千件ものアクセスがあっ

た。 ツイッター上の、荘氏の病死に関するニュースは30万

近くにまで達した。 春節の休み中でもあり、中国卓球チーム

のコーチや選手達も、うわさを聞いて自分からネットを通じて

哀悼の気持ちを伝えた。


蛇年の第1日目、“中米ピンポン外交”の重大な事件の証人者・

荘則棟氏が亡くなったことは、人々に残念な思いと哀惜の念を

抱かせた。



荘氏 癌と長い闘病生活



国家体育総局卓球・バドミントンセンター事務室の劉威副主任

は10日夜、長年ガンと戦っていた卓球の名将・荘則棟が同日

17時06分に北京佑安病院で亡くなった、享年73歳だった

ことを発表した。



劉威副主任によると、春節の数日前、病院から荘則棟氏の病状

について危篤との知らせがあったことを明かした。


Photo_2荘則棟氏は、2008年に悪性の直腸癌に罹って

いることがわかった。 調べた時には、すでに癌

の末期だった。 北京、上海、河北など、いくつ

の病院を5年にわたり 治療を続けていたが、病

状は回復することなく、次第に肝臓と肺にまで転

移していった。



荘則棟氏を5ヶ月あまり治療に当った鄭医師によると、“荘さ

んが来たばかりの時、良い肝臓は8分の1 しかありませんで

た。 彼は尊厳のある安楽死を望んでいました。 しかし、私

達医者はそうすることができません。 決してあきらめません”


荘則棟氏は自分の病状をよく分かっていて、今月初めには、卓

球界の人が重症病棟に見舞いに来ると、彼は、“病魔と最後の

一戦をしている”と話していました。


荘則棟は“ピンポン外交”の立役者


荘則棟氏はナショナルチーム時代、中国に世界チャンピオン

8つをもたらした。  彼は第26、27、28、31回の世界卓球

選手権に相次いで参加した。 そのうち3回で、男子シングル

スのチャンピオンとなり、中国初の 世界卓球選手権3連覇”

の光栄を獲得した。 また男子団体で4回チャンピオンとなり、

男子ダブルスでも一回世界チャンピオンとなった。



当時の中国国内の試合で、荘則棟氏は全国卓球選手権大

会の男子シングルスでも“3連覇”を達成した。 中国男子ピ

ポン界で、シングルスの“3連覇”達成は高度なもので、今

まで荘則棟氏しかいない。 もし、金メダルの獲得率で比べ

るなら、荘則棟氏は4回の試合で金メダルを3つ取った。 

このように高い“確率”は王勵勤(参加試合8回で、金3つ)

と同列に論じられないだけでなく、中国卓球界で多くの記録

を打ち立てた王楠(参加試合7回で金3つ)さえも荘の後塵

を拝するしかない。


荘則棟氏は1971年、名古屋の世界卓球選手権の時、“車

を乗り間違えた”米国の卓球・コーエン選手に示した友好的

な行為が、“ピンポン外交”の美話を開くことになった。



ピンポン外交”は中米関係の固い氷を打ち破るのに成功し、

アメリカのニクソン大統領の訪中を促進する役割を果たすこ

ととなった。  1972年、荘則棟を団長とする中国卓球代

団が、招待に応じ米国を訪問し、ホワイトハウスのバラ園で、

米国の卓球選手と 試合を行い、ニクソン大統領との会見

行われた。 “小さい球が大きい地球を動かした”ことは、20

世紀の東西外交史上のすばらしい 章となり、荘則棟氏

“ピンポン外交”の立役者となった。



小さなエピソード



荘則棟氏が手を伸ばした瞬間



1971年4月、名古屋での第31回世界卓球選手権の時、

則棟氏が米国選手に友情の 手を伸ばし、ここから中米卓球

選手の握手の序幕が開かれた。  当時の“破氷の動き”を回

し、荘則棟氏は、彼は “一瞬、思想闘争が頭に浮かんだ”

と語った。



中国卓球チームが宿泊しているホテルから試合会場まで、

車で約15分くらいかかった。  その日、中国チームは訓練

に行こうとしていた。 車が動きだそうとした時、スポーツウェ

アを着た若い男が、突然跳び上がってきた。 この車は中

チームの専用車だったため、私達は奇妙に思った――この

見慣れぬ人は誰なのか? 彼が後ろを向いた時、私達は彼

背中の3つの英文字が目に入った――USA。   車の中

国代表チームは、全員ビックリした。彼はなんとアメリカ人で

た。



バスが動きだし後、車内はしんと静まりかえりました。 みん

な誰も話をしませんでした。 1950年の朝鮮戦争(抗米援朝

戦争)以降、ラジオからは、“雄々しく勇ましく、意気揚々と、鴨

緑江を渡り……米帝のオオカミを打ち負かそう”と一日中放送

されていました。    1959年、私達が国際試合に参加する時、

不文律のようなものがありました。 

誰かと握手するにしても、アメリカ人とは握手しない。 誰かに

贈り物するにしても、アメリカ人には贈り物はしない。 要する

に、アメリカ人とは、付き合わないということでした。



沈黙が10分くらい続きました。  私はその時、彼と話すべき

かどうか? 考えていました。   私はただのスポーツ選手です。 

しかも、これから世界卓球選手権に参加するのです。 周恩来

総理は 私達に 「 友情第一、試合は第二 」 とおっしゃいました。 

でも、それを「敵国」のスポーツ選手に対しても行っていいのだ

ろうか?”



私はその当時、中国卓球チームでの立場は特别でした。 

指導者が接見してくれ、試合などの活動は、私を参加させて

くれます。 大体、うまくいったら表彰を受けられ、しくじったら、

せいぜい批判されるだけ、あまり追及されることはありません。 

そのアメリカ人に向かって見た、 彼はスポーツ選手であって、

政策を行う米国政府の役人ではない。 

この時、私は彼に言葉をかけることを決めた。 それだけで

はなく、私は杭州の絹織物(西湖の風景が描かれていた)を

選んで彼にプレゼントした。 中国は儀礼之国だからだ……”



こうして、荘則棟氏はあの米国のスポーツ選手に友情の手を

伸ばした。 彼は意識してなかったが、この伸ばした手が、

しい時代を開いた。



"乒乓外交"功臣庄则栋去世 再见,我心爱的乒乓球
2013
021109:35    来源:杭州日报   


当年,庄则栋送给美国运动员科恩的礼物,是一块杭州织锦。  

 

1961年,庄则栋在第二十六届世乒赛上获男子单打冠军。   

 

庆功会上,周恩来总理向庄则栋碰杯敬酒。



记者 张磊 综述



昨天下午,国际乒联终身名誉主席徐寅生发了一条微博,沉痛宣

布,罹患 癌症多年的乒乓球名将庄则栋逝世了,“他为我国乒乓

球运动做出了很大贡献!1971年在日本名古屋世界乒乓球锦标

赛期间,他与美国选手科恩的友好接触,引起各方关注。不久,毛

泽东主席决策,中方邀请美国乒乓球队访华。乒乓外交,震惊世

界。小庄,一路走好!”



这条微博短短时间被转发上千条,而微博上关于庄则栋病逝的

消息达到了近30万条。 正在放假过春节的中国乒乓球队的教

练员和运动员们闻讯自发地通过网络寄托哀思。



蛇年第一天,见证“中美乒乓外交”重大事件的庄则栋的去世,

让人们倍感遗憾和惋惜。



他与癌症抗争多年



国家体育总局乒羽中心办公室副主任刘威昨晚确认,患癌症多

年的乒乓球名宿庄则栋于当日17时06分在北京佑安医院去世,

享年73岁。



刘威表示,春节前几天,院方已就庄则栋的病情再次下达了病

危通知单。



庄则栋于2008年被查出患有恶性直肠癌,一经查出已是癌症

晚期,虽经北京、上海、河北等多家医院长达5年的辗转治疗,

病情仍未得到有效控制,逐渐转移到肝部和肺部。



为庄则栋进行了5个多月治疗的郑医生透露:“庄老刚来的时候,

仅剩1/8的好肝。他是想有尊严地安乐死,但我们医生不能这么

做,决不放弃。” 庄则栋对自己的病情也了然于胸,本月初乒乓

球界人士前往重症病房探望时,他甚至说出了“与病魔最后一搏”

这样的话。



他是“乒乓外交”亲历者



庄则栋在职业生涯中共夺得过8个世界冠军。他曾先后参加第26、

27、28、31届世乒赛,三次获得男子单打冠军,成为我国首个在

世乒赛上荣获 “三连冠”的乒乓球运动员,并四次获得男团冠军,

还曾获得过一次男双世界冠军。


在当时的国内赛场,庄则栋也是全国乒乓球锦标赛的男单“三连

冠”。 在中国男乒领域,达到单打“三连冠”高度的,仍然只有庄

则栋一人。如果比起夺金率,庄则栋四届比赛三夺金牌,如此高

的“命中率”不仅是王励勤(参赛八届,三次夺金) 无法相提并论,

就连频创多项 中国乒坛纪录的王楠 (七届参赛,三次夺金) 也

只能甘拜下风。



庄则栋在1971年日本名古屋世乒赛期间,对于“搭错车”的美国

乒乓球运动员科恩的一个友好举动,开启了一段 “乒乓外交” 的

佳话。



乒乓外交”使中美关系成功破冰,为时任美国总统尼克松访华

起到了促进作用。1972年,以庄则栋为团长的中国乒乓球代表

团应邀 回访美国,在白宫玫瑰园同美国球手比赛,并受到了美

国总统尼克松的接见。 “小球转动大球”成为20世纪东西方外

交史上最经典的一章,而庄则栋也成为“乒乓外交”的关键人物。



知道一下



庄则栋伸手瞬间



1971
4月,在名古屋第31届世乒赛期间,庄则栋将友谊之手

伸向了 美国运动员,由此 拉开中美乒乓球运动员握手的序幕。

回想当年的 “破冰之举”,庄则栋曾经回忆说,他在瞬间经过了

一番思想斗争——



从中国乒乓球队下榻的酒店到比赛馆需要15分钟车程。那天,

中国队去训练,在车启动的刹那,一个穿着运动服的年轻人突

然跳了上来。因为这是中国队的专车,所以我们非常奇怪——这

个陌生人是谁?在他转身的时候,我们看到了他背后的三个英

文字母——USA。车上的中国代表团成员都愣住了,他竟然是一

个美国人。



汽车启动后,车内鸦雀无声,大家谁也不敢讲话。自1950年抗

美援朝战争开始,喇叭里 整天广播的都是‘雄赳赳,气昂昂,跨

过鸭绿江……打败美帝野心狼’。从1959年我们参加国际比赛,

那时就有一个 不成文的规定 : 跟谁握手都不能跟美国人握手,

送给谁礼物都不能送美国人。总之,不能跟美国人有任何往来。

沉默持续了10分钟。我当时考虑,要不要理他? 我想,他只

是一名运动员,而且在我们参加世乒赛前,周恩来总理曾向我

们提出‘友谊第一,比赛第二’。但拿它对待‘敌国’的运动员是

不是合适?



我当时在中国乒乓球队的位置比较特殊,领导接见、进行表演

等活动一般都派我参加。一些事情,做对了会受到表扬;做错了,

最多也就是批评批评,不会太追究。面对那个美国人,我觉得他

无非就是一名运动员,并不是决定政策的美国政府官员。这个时

候,我决定要跟他打个招呼,不仅如此,我还选了一块杭州织锦

作为礼物送给他,咱们是礼仪之邦嘛……”



就这样,庄则栋向那名美国运动员伸出了友谊之手。他没有意识

到,这一伸手,开启了一个新的时代。

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