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新书《日本女人的爱情武士道》试读:发生在日本的“文化大革命”

2012-04-11 08:31:51    辛子IN日本 

 


1962年、18歳になった登紀子さんは東京大学文学部に

入学し、東京大学の“演劇研究会”に入部した。 “演劇研

究会”のメンバー達は発声を訓練するだけでなく、よくいろ

いろな舞台劇を練習し、定期的に公演を行った。  いつも

演で、登紀子さんに回ってくる役柄は、 おばあさんばか

りだった。  これは青春真っ只中の登紀子さんにとっては、

憂鬱なことだった。  でも、登紀子さんを更に面白くさせな

かったことは、毎回の “演劇研究会”の公演活動では、女

性がいろんな雑用をするだけでなく、“母親”のように男子

学生の面倒を見なければならないことだった。 そのため、

1年後、登紀子さんは“演劇研究会”から退部した。



演劇研究会”を退部した登紀子さんは、余暇時間には父

ロシア料理店でアルバイトをして小遣いを稼いだ。  あ

る日、父の幸四郎さんが、突然登紀子に対してこう言った。

なあ、全日本アマチュア歌手大会というのがあるんだが 

これに、お前を申し込んだ。 フンフン歌っているのをたま

聞いているけど、悪くないと思う。 試してごらん” 



父親の話に、登紀子はビックリした。 その時、登紀子さん

はちょうど20歳だった。 思春期の初恋をしたころで、ま

明確な未来への目的もなく、心の中はまだ漠然としたまま

で、父親の 「歌手大会に参加し、もし優勝すれば、ヨーロッ

パ旅行ができる」 と言ったことが、 登紀子さんの好奇心を

きつけた。 そこで、歌の大会に積極的に参加する準備

を始め、チャンピオンになって、日本から“脱出”しヨーロッ

へ行こうと思った。 



しかし、登紀子さんは失敗してしまった。 初めてのアマチ

ュア歌手大会で、登紀子さんはフランスの伝奇的歌手・エ

ィット・ピアフの“メア・キュルパ”(夜は恋人) を歌った--

--この歌は大人の女性の熱烈な愛を歌ったものだった。  

曲が適切でなかったため、この大会では、登紀子さんは

4位だった----大会の審査委員は登紀子さんに、“あなた

のような子供っぽい顔で、どうしてエディット・ピアフの歌を

歌うんですか?” と批判した。

登紀子さんには、“流れに逆らう”という性格があり、“敗

ればまた立ち向かって”いく人で、最初の歌手大会の失敗

が、 逆に登紀子の闘志を奮い立たせ、来年は絶対に1位

を取ると決心をした。  そのため、登紀子さんは歌専門の

訓練センターに申し込み、 真剣に発声練習を行い、 自分

から楽器店に行きギターを買い、ギターの弾きかたを勉強

しだした。  

努力は報われる。 翌年の全日本アマチュア歌手大会で

登紀子さんは、願いどおり全勝し、順調にチャンピオンの

玉座に座ることができた。   これをきっかけに、大学2年

生の登紀子さんは、幸運にもレコード会社と契約し、プロ

歌手の道に歩み始めた。

契約してプロ歌手となった後、公演に忙しくて登紀子さん

まるまる2年間休学した。1968年になり、登紀子さん

東京大学に入って6年目の年、やっと規定の単位を履

修し、東京大学の卒業証書を受け取ることができた。 

1968年春、 登紀子さんが大学の卒業式に参加する前

後に、いくつかの事件が起こり、またこの春に出会ったこ

とが、それからの登紀子さんの一生の運命を変えること

となった。

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若い頃の加藤登紀子さん 《知床旅情》が 

日本及び東南アジアで大ヒット 

引き続き登紀子さんのラブ・ストーリーを語る前に、 ここで、

1968年の世界的環境の中での日本の学生運動を紹介し

しょう。 なぜかというと続いて登場する本書の男性の主

・藤本敏夫さんが、 日本の学生運動の指導的人物だか

らです。 



1966年初め、中国で、青年学生達の紅衛兵を先頭とする

文化大革命が勃発しました。 1968年になると、紅衛兵

はじめとする文革の武力闘争事件は激烈になりました。 

1968年1月、フランスの街頭に頭に人民帽を被り、胸に

沢東バッジをつけた“フランス紅衛兵”が突如現れました。 

この年の5月、フランスは全国を巻き込む“5月革命”の学

運動が爆発しました。 これと同時に、コロンビア大学をはじ

めとする米国の学生達もキャンパス内で、民主を求め、ベト

ナム戦争に反対するデモ活動が始まり、何度も警官隊と

しく衝突を繰り返しました。 1968年10月2日、第19回オ

リンピックがメキシコで間もなく開催されるという10日前、メ

キシコ政府は大量の軍隊と警察をトラテロルコ広場に派遣し、

民主と自由を求め、抗議デモを行っていた学生達を鎮圧した。

 この鎮圧で、約300人が死亡、約2000人が負傷し、200

0人あまりが逮捕され、トラテロルコ広場は血の海となり、メキ

シコの歴史上、有名な学生殺戮事件となった。  

 

1968年は、 世界を巻き込む学生運動が、伝染病のように

広まり、日本の学生の間にも感染していった。 日本は中国

のような“全国、上から下まで真っ赤”という文化大革命の

うにはならなかったが、しかし60年代に入ると、日米安保条

約の問題、沖縄返還問題、ベトナム戦争反対、そしてキャン

パス内の民主化、授業料値上げ反対などを巡って、学生

動は連続してひっきりなしに続いた。 1968年になると、欧

米や中国など各国の学生運動の影響を受け、  日本の各

学の学生自治会の連合体である “全学連” が、異なる信条、

異なるセクトの各学生グループをいっしょに集め、 全国的な

学生運動を展開し、“全学共闘会議”と呼んだ。   要するに、

学部やセクトを超え全学生が共に戦おう”という意味である。 

略して“全共闘”と呼んだ。 



写真資料:60年代末の日本版“文化大革命”---学生達の

全共闘”時代

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1968年は“全共闘”の学生運動のピークだった。 当時、

本の大学 165校が紛争に巻き込まれ、70 のキャンパスが

学生達によりバリケードなどで強行封鎖されていた。  中国

の文革中の紅衛兵のように、日本の学生達も授業は受けず、

喜び勇んで学生運動に身を投じていた。  “全共闘”の学生

指導者の多くは、マルクス・レーニン主義を崇拝する左翼分

子で、そのため、当時、中国で発生した文化大革命を、これ

ら共産主義を理想とする左翼学生達のあこがれであり、

には毛沢東崇拝者が沢山おり、これらの学生達は東京大学

の校門に赤いペンキで、“帝大解体、造反有理”のスローガ

ンを書き、そのスローガンの真ん中には、毛沢東の肖像を掛

けていた。 


1968年初め、東京大学で有名な“東大紛争”が起った。


東大紛争”の直接の原因は、東京大学医学部の学生達が、

インターン制度”に抵抗して引き起こしたものだった。 当時、

医学部の学生は、卒業した後、大学の付属病院で無給で1年

間、実習しないと、医師の受験資格を得ることができなかった。 

このインターン制度は、 事実上、病院の労働力の空白を埋め

るためのもので、言葉を換えて言うと、病院は一年間、学生に

金を払わず、ただ働きさせるということである。  このような明

らかに学生の労働力を搾取することに対しては、 当然、 学生

達から反発があり、学生側を代表する青年医師連合”が、大

学の付属病院側に“自主研修計画”を提出し、病院側に、この

“自主研修計画”を基準として、新たに合理的な実習制度を制

定するよう求めた。



病院側責任者は、学生達の“自主研修計画”を受け取ったも

のの、棚上げにしたまま、まった無視する態度を取った。 

この時、厚生省が“登録医制”を創設した。 この“録医制”

は、医学部の学生が卒業後、病院で2年間実習すれば、

録医”の資格を得ることができるとした。 この“医師”

の資格を作り出した目的は、 これと正式の医師資格を持つ

医師を区別するためだった。 このような人為的に作られ

等級制度に対し、医学部学生達は怒りを爆発させた。 

登録医師”制度以前の“インターン制度”なんの違いもな

い、形式を変えただけで内容は変らないと反発した。 そこで、

東京大学医学部の学生達は、不合理な制度への抗議のため、

1968年1月29日から、無期限のストライキ突入した。


2月19日、医学部の学生がたまたま、病院の病棟で上田院

長に出会ったので、上田院長に団交するよう求めた。 上田

院長は病棟での団交は、患者に影響を与えるという理由で、

団交の場所を内科医局で行うよう提案した。 学生達はそれ

を受け入れた。 しかし内科医局でずっと待っていたが、上

田院長は現われなかった。 学生達は、上田院長にだまされ

たことを知った。 上田院長のこのペテンに学生達は非常に

激怒した。 そして、怒りにまかせ、その時居合わせた春美

健一医局長を捕まえ、翌日の朝まで軟禁した。 学生が自分

の指導教官を軟禁するなんて、とんでもないことじゃないで

すか? 東京大学側容赦なく、これに対して厳格な処分を

行った。 学生17名が処分され、そのうち4名が退学処分

となった。 しかし、処罰された学生のうち、1名は事件発

生当時、九州におり、東京にはいなかったにもかかわらず、

学校側は、処分が間違っていたのを知りながら、訂正を拒否、

誤りを押し通そうとした――ここに至り、学生達の積み重な

った不満が、ついに爆発し、怒った医学部学生達が東京大学

構内の安田講堂に座り込みデモを行い、3月28日の大学卒

業式を阻止しようとした。 



当時、人気歌手だった登紀子さんは、大学の卒業式前に、メ

ディアから電話を受け、彼女東大卒業式での現地取材を約

束した。 そのため、本来の正常な段取りでは、3月28日

当日、登紀子さんは卒業式のドレスを着ていくはずだった。 

それに卒業式の後、メディアの取材を受けることになってい

る。 しかし、一晩、あれこれ考えた末、3月28日の卒業

式当日、登紀子さんは、卒業式のドレスをやめ、セーターに

ジーパンという姿で、座り込みデモの学生の行列に加わった。

翌日、“歌手の加藤登紀子 学生と一緒に座り込みデモ”の

写真が、新聞と雑誌に大きく掲載された。 このニュースの

写真が、登紀子さんの一生を変えることになった。

 

新书《日本女人的爱情武士道》试读:发生在日本的“文化大

革命”

2012-04-11 08:31:51    辛子IN日本 


1962
年,18岁的登纪子考入东京大学文学系,并加入了东京大

学的“演剧研究会”, “演剧研究会”的成员们不仅要训练发

声,还经常排练各种舞台剧,并定期举行演出。 每次演出,登

纪子被派到的脚色, 都以扮演老太太居多---这对于正值青春年

少的登纪子而言,难免有些心情郁闷, 不过,让登纪子更郁闷

的是:每次 “演剧研究会”有公演活动,作为女孩子不仅要干

各种杂活,还得像个“母亲”一样照顾身边的男同学, 因此,

一年多之后,登纪子便退出了“演剧研究会”这个学生俱乐部。

退出“演剧研究会”的登纪子,业余时间便跑到父亲的俄国料

理店里打工挣零花钱,有一天,父亲幸四郎突然对登纪子说:

我说你啊,有个全日本业余歌手大赛,我已经帮你报了名,

听你偶尔哼哼几句,感觉还不错,去试试吧。” 

父亲的话,吓了登纪子一大跳。那时候登纪子刚刚年满20岁,

正陷于青春期的初恋,对于尚无明确目的的未来,内心一片迷

茫,听父亲说参加歌手大赛若能获得优胜,便可以去欧洲旅游

一圈---- 这一条十分吸引登纪子的好奇心, 于是开始积极努力

地做参赛准备,希望能拿到冠军,便可以“逃出”日本到欧洲

去。 

但是登纪子失败了。第一次业余歌手比赛,登纪子演唱了法国

著名的传奇天后女歌星埃迪特·皮亚芙的一首 “七大罪状”----

这是一首表白成熟女人浓烈爱欲的激情歌曲,因为选歌不当,

这次比赛登纪子只获得了第四名----大赛评委批评登纪子说:

你长着这么一张孩子脸,怎么能唱埃迪特·皮亚芙的歌?” 

登纪子拥有一种“逆流而上”的个性,属于那种“越败越勇”

的人,正因为第一次歌手大赛的失败,所以反而激发了登纪子

的斗志,下决心第二年非拿到第一名不可。为此,登纪子特意

报名去参加专业的音乐培训班,认真练习换气与发声,并自己

跑到乐器店买了把吉他,开始学习吉他弹奏。 

功夫不负有心人,第二年的全日本业余歌手大赛,登纪子如愿

以偿大获全胜,顺利登上冠军宝座。因为这一契机,还是大学

二年级学生的登纪子,有幸与唱片公司签约,开始步入职业歌

手之门。 

签约成为一名职业歌手之后,忙于演出的登纪子整整休学了二

年时间,直到1968年,登纪子进入东京大学的第六个年头,才

终于修完规定的学分,获得东京大学的毕业文凭。1968年春天,

在登纪子参加大学毕业典礼前后所发生了一些事,以及发生在

这年春天一次邂逅,从此改变了登纪子一生的命运。

年轻时的加藤登纪子,以一首《知床旅情》唱红全日本和东南亚 

在继续叙述登纪子的爱情故事之前,这儿得穿插介绍一下1968

年的世界大环境和日本的学生运动,因为接下来要登场的本文

男主角藤本敏夫,是日本学生运动的领袖人物。 

早在1966年开始,中国就爆发了以青年学生红卫兵为先锋的文

化大革命,到1968年,以红卫兵为首的文革武斗事件越演越烈;

19681月,法国街头惊现头带解放帽,胸佩毛泽东像的 “法

国红卫兵”,这年5月,法国爆发了席卷全国的“五月风暴”学

生运动;与此同时,以哥伦比亚大学为首的美国学生们也开始了

要求校园民主、反对越南战争的游行示威活动,并多次与警察发

生激烈冲突;1968102日,就在第19届奥运会在墨西哥即

将举办的前十天,墨西哥政府派出大批军警镇压在特拉特洛尔科

广场抗议示威、要求民主自由的学生,在这场镇压中,大约300

多人死亡, 2000多人受伤,2000多人被捕,特拉特洛尔科广场

血流成河,成为了墨西哥历史上著名的屠杀学生惨案。 

1968
年席卷世界的学生运动风潮,如同传染病一般,也同时感染

到日本学生的头上。 虽然日本没有形成中国式 “全国上下一片

红”的文化大革命,但进入六十年代之后,围绕着日美安保条约

问题、冲绳归还问题、反对越南战争、以及校园民主化、反对学

费上涨等等,学生运动一直此起彼伏。 到了1968年,受欧美和

中国等各国学生运动的影响,日本各所大学的学生自治会的联合

体“全学连”,开始将不同信仰不同派系的各类学生团体汇集在

一起, 展开全国性学生运动,称为 “全学共斗会议”,也就是

全体学生共同战斗”的意思,简称为“全共斗”。 

资料图片:60年代末日本的“文化大革命”---日本学生们的“全共斗”时代

1968
年是“全共斗”学生运动的高峰,那年全日本有165所大学

卷入纷争,70所大学校园被学生们以路障筑垒的方法强行封锁。

就如同中国文革中的红卫兵一样,日本的学生们也不上课了,而

是兴高采烈地投身到学生运动当中去。“全共斗”的学生领袖,

不少是崇拜马克思列宁主义的左翼分子,因此,当时发生在中国

的文化大革命,令这些拥有共产主义理想的左翼学生们十分向往,

甚至还产生了不少毛泽东的崇拜者,这些学生们在东京大学的校

门上用红漆刷上标语:“帝大解体、造反有理”,并在标语正中

间悬挂上毛泽东的标准肖像。 

1968
年初,东京大学发生了著名的“东大纷争”事件。 

东大纷争”的直接起因,是由东京大学医学部的学生们抵抗

实习制度”引起的。当时,医学部的学生,在毕业之后都要到

大学附属医院无薪实习一年之后,才可以获得参加医师考试的资

格。这种实习制度,实际上是为了填补医院劳动力空白,换句话

说就是白给医院干一年活还不给一分钱。这种明显的剥削学生劳

动力的手段,自然遭到学生们的抵制,于是学生代表一方的“青

年医师联合”,给大学附属医院方提交了一分“自主研修计划”,

希望医院方能以这份“自主研修计划”为基础,重新制定一个合

理的实习制度。

医院方负责人虽然收下了学生们的“自主研修计划”,但是束之

高阁, 根本采取无视态度。 而这时候,日本厚生省通过了一个

登陆制医师”制度,这个“登陆制医师”制度规定,医学院学

生毕业之后,在医院义务实习二年,可获得“登陆医师”资格,

而弄出这么个“登陆医师”资格,目的是为了将其与获得正式医

师资格的人区别开来。这种人为制造的等级制度,引发了医学部

的学生们的公愤,并认为“登陆医师”制度与先前的“实习制度”

毫无区别,换汤不换药。因此,东京大学医学部的学生们,为表

示对不合理制度的抗议,于1968129日开始,进入无限期

罢课中。 

2
19日,医学部的学生偶尔在医院病房遇见了医院的上田院长,

便要求与上田院长对话,上田院长以在病房对话会影响患者为由,

提出将对话地点改至内科医局,学生们答应了,但结果在内科医

局左等右等,上田院长一直不见人影,学生们这才知道上了上田

院长的当。上田院长的做法令学生们十分愤怒,并一怒之下抓住

当时在场的医局长春美健一,将其软禁到第二天早晨。学生软禁

自己的指导老师,这还了得?东京大学校方毫不含糊地对此事进

行了严格处分,在17名受到处分的学生当中,有4名被学校开除。

可是,被处分的学生当中,其中有一名在事件发生时,其人远在

九州,根本不在东京,然而,校方在明知处分有误时,仍坚持错

误,拒绝修正-----事情到此,学生们积累已久的怨气,终于彻底

爆发出来,愤怒的医学部学生们占据了东京大学校园内的安田讲

堂进行静坐示威,阻止并拒绝328日的大学毕业典礼。 

当时,作为人气偶像歌手的登纪子,在大学毕业典礼之前,就接

到媒体的电话,约好要去现场采访她的东大毕业典礼。因此,按

正常程序,328日那天,登纪子是应该穿上毕业典礼的礼服,

参加毕业典礼并接受媒体的采访的,但是在经过一个晚上的再三

思考之后,328日毕业典礼那一天,登纪子最终选择了脱下毕

业礼服,换上套头衫和牛仔裤,加入到了静坐示威的学生行列之

中。

第二天,“歌手加藤登纪子与学生一起静坐示威”的照片在日本

的报纸和杂志上大幅刊登了出来。而正是这张新闻照片,改变了

登纪子一辈子的人生

 

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