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2402 中国は見る(1282) 日本女性の愛情武士道 ④ 加藤登紀子編(Ⅲ) “肉食時代”の日本式愛(上)

 

新书《日本女人的爱情武士道》试读:“肉食时代”的日本式爱情

2012-04-15 23:54:07   辛子IN日本 


加藤登紀子の“自由武士道 1968年の赤い糸 

登紀子が卒業式ボイコットの座り込みデモに参加してから数

日後、親友から電話が掛かってきた。


登紀子、ある人があなたに会いたいんだって” そして電

で、彼女に会いたい人というのは、学生運動の指導者・藤

敏夫だと伝えた。 



藤本敏夫-----当時の学生達の間で、知れ渡っていた名前

だった。  1944年1月、甲子園で生まれた藤本敏夫は、当

は同志社大学 新聞学科  の学生で、“全学連” の委員長、

学生運動の中で  一、二を争う英雄的存在だった。  だから、

登紀子のような “スター学生” でさえ、藤本敏夫の名前を聞

いて、あこがれの気持を抱いていた。


藤本敏夫と初めて顔を合わせたその日、登紀子さんは白地

ピンクと青い花をあしらったミニスカートを穿き、なかなか

格好良いスタイルだった。 会った場所は登紀子の父・幸四

郎がやっているロシア料理店だった。 幸四郎のロシア料理

店は新宿の歌舞伎町にあり、店の名前“スンガリー”と

った。 “スンガリー”は日本語に訳せば、東北黒龍江を流

る“松花江”のことである。

Photo


現在の加藤登紀子さん

(写真は加藤登紀子事務所提供)

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当時の加藤登紀子
 

登紀子さんは、父の店“松花江”ロシア料理店でいくらも待

たないうちに、 一群の若者達が店に入ってきた。 その中

背が高くてやせている青年がいた。  黒のズボンに真っ

白い白いシャツ、 シャツの上の3つのボタンはかけないで

開けたまま、髪の毛はきれいに梳 いていた。  が額にば

らっと髪が垂れていて、顔に少し陰影を与え、全体的に顔

を立体的に見せていた。 



この人が、藤本敏夫さんかしら?”登紀子さんは、自分の

目が信じられず、ぼんやりしていた。 登紀子さんの印象で

は、学生運動の指導者達は、みな身体中、汗臭く、なりふり

かまわず、だらしがないやつらで、藤本敏夫のようにきちん

として、きれいで、なかなか格好がいい学生の指導者を見た

のは、登紀子さんは初めてだった。



藤本敏夫が、登紀子さんの向かいに坐り、お互いに簡単に

己紹介した後、藤本は単刀直入に聞いた。



次の学生集会に、歌いに来てくれませんか?”



元々、藤本は登紀子が学友達と一緒に座り込みデモした新

報道の写真を見て、すぐ登紀子の友達に電話をかけ、登

紀子さんに連絡を取り、学生達の抗議活動の際、歌で応援

してもらうつもりだった。



藤本の要求に対して、登紀子は即座に拒否した。  登紀子

拒否の理由は、 “政治に迎合し、歌を歌うことはしたくあ

ません。 それに、歌やダンスといったこんな楽しい催しを、

政治といっしょにすることはよくないし、 批判すべきことだ

思います。 要するに、自分の歌を政治の手段にはしたく

いし、 自分の歌という職業、 政治目的を含むいかなる影

も及ぼしたくないんです ”と言った。



登紀子さんは、自分の拒否理由をいろいろしゃべった。  向

かい側に座っていた藤本は、 ただ静かに聞いているだけで、

なんの反駁もせず、またなんの意見も言わなかった。 ふだ

ん人々の群れの中に立って大声で演説し、高い声で声を張

上げている学生指導者の姿とは、   まるで別人のようだっ

た。  登紀子が自分の拒否理由を滔々と述べ終った後、藤

本は登紀子さんを見ながら笑って、“わかりました” といった

だけで、この話はこれで終った 



これは本当にうまい終り方でした” 35年後、登紀子さんは

回想録 《い月のバラード》の中で、藤本敏夫との初めての

出会いを振り返り、こう語った。 



その日の最初の出会いで、登紀子さんは藤本が要望した学

運動での歌の応援の願いを断ったが、 しかし 、登紀子さ

んと藤本、 それと他に何人か一緒に来た学友達とは、 話し

が弾み、一群の若者達は父・幸四郎の “松花江” ロシア料

理店で、飲みかつ大いにしゃべりあった。  ウォッカをたくさ

ん飲んだ後、ずっと静かだった藤本が立ち上がり、 “場所を

変えよう。 今日は酔うまで飲むぞ” と言った。



そこで、みんなは次々と立ち上がり、“戦場”を変え、新宿

ゴーゴー喫茶に向かった。  ゴーゴー喫茶は、60年代の

頃、 日本で非常に流行った一種のバーで、いろんな種類の

値段の手頃なアルコール類やスナック菓子を提供し、しかも

そこで楽団の演奏にあわせて飲んだり、踊ることができたの

で、当時の若者達によく利用されていた。


ゴーゴー喫茶の中でも、藤本はずっと豪飲状態を続けていた。 

どんな酒でも飲んだ。  だが終始乱れることなく、酔態も見

なかった。 その上、騒々しい人の群れの中にあっても、藤本

は一人静かに、 ただ自分の世界にいた―― 藤本のこれら

べてを見て、登紀子さんは、彼が一般の人とは違うことを感じ

ていた。 



みんなは、ゴーゴー喫茶でほとんで徹夜で騒いだ後、また登

紀子の家に戻り、お茶漬けを食べた。  その時には、窓の外

は、空が白々と明け始めていた。  登紀子さんは、藤本と何

人かの学友を近くの駅まで送り、  学友達を一番電車に乗せ

校に戻らせようとした。   駅で、学友達は登紀子さんにキ

ンと手を振って別れたが、 藤本だけは、駅に着いたら、最

に電車の車両に潜り込み、ひと言も言わず、“さようなら”

の言葉さえおっくうそうにしていた。 藤本の後ろ姿を見な

ら、登紀子はちょっと気が抜けたような感じがした。 “これで、

もう会えないかもしれない。だから、「さようなら」 も言わなか

ったんだわ”



だが、3日目の午後に、登紀子の電話が突然鳴った。 電話

を取ると、相手からの声が聞こえた。 “会いましょう”



なんと藤本からの電話だった! 登紀子さんは思いもかけな

いことに驚いた。  電話を置くと、一も二もなく着を羽織る

と家を飛びだした。



慌ただしく藤本が電話の中で約束した代々木喫茶店に駆け

けると、藤本はまだ来ていなかった。 登紀子はお茶を頼

み、一人で2階に行き藤本を待っていた。  夕方5時からず

っと夜9時まで、 4時間もずっと待ち、 喫茶店の終りの別れ

の曲が流れるまで待ったが、依然として藤本の姿はない。 

喫茶店の店員達が明かりを消し始めたのを見て、登紀子さ

んも立ち上がらなければならなくなった。  非常に がっかり

して帰ろうと、  階段の曲がり角のところまで行ったところで、

白のシャツに黒いズボンの若い男が駆け上がってくるのが

見えた。



藤本君!”登紀子さんは喜んで大声で叫んだ。


新书《日本女人的爱情武士道》试读:“肉食时代”的日本式

爱情

2012-04-15 23:54:07   辛子IN日本



加藤登纪子的“自由武士道”:1968年是一根红线 



上篇试读地址:新书《日本女人的爱情武士道》试读:发生在

日本的“文化大革命” 



登纪子参加抵制毕业典礼的静坐示威之后没过几天,便接到

位老友打来的电话,说:

登纪子,有人想见你。”并在电话中告诉登纪子说,想见她

的人,是学生运动领袖藤本敏夫。 



藤本敏夫-----在当年的学生们中,这是个十分响亮的名字。

 19441月出生于日本关西甲子园的藤本敏夫,当时是同志

社大学新闻系学生,反帝“全学连”的委员长,学生运动中数

一数二的风云人物。   因此,就连登纪子这样的“明星学生”,

在听到藤本敏夫的名字之后,都会心生敬仰。 



与藤本敏夫第一次见面那天,登纪子身穿白底起粉红和蓝色

花的迷你短裙,显得十分俏皮可爱。 见面的地点约在登纪

子父亲幸四郎开的俄国料理店。幸四郎的俄国料理店位于新

宿的歌舞伎町,幸四郎为其取名为“スンガリー”,“スンガリー”

翻译成中文汉字,就是流淌在东北黑龙江的那条美丽的“松花

江”。



现在的加藤登纪子(本图片由加藤登纪子事务所提供,特此感

谢)

当年的加藤登纪子



登纪子坐在父亲开的“松花江”俄国料理店里等了没多久,就

见一群年轻人走进了店里,其中一位高高瘦瘦的青年, 黑色

便裤上套着一件洁白的白衬衣,衬衫最上面的三颗纽扣全敞

开着, 梳理得一丝不苟的头发,有一小绺不经意地搭拉在额

头上,给脸部增加了些许阴影度, 令整个面部看起来显得很

立体感。



这个人,居然就是藤本敏夫吗?”登纪子呆了呆,有些不太

相信自己的眼睛。因为在登纪子的印象中,学生运动的领袖

们,都是些浑身臭汗、 不修边幅、 邋里邋遢的家伙, 像藤本

敏夫这样整洁干净、时尚帅气的学生领袖,登纪子还是第一

次看到。 



藤本敏夫在登纪子对面坐了下来,彼此简单自我介绍之后,

本便单刀直入地问:

下次的学生集会,你能来唱首歌吗?”



原来,藤本在看到登纪子与同学们一起静坐抗议的新闻报道

片之后,马上打电话联系登纪子的朋友, 希望认识一下登

纪子,并想请登纪子去为学生们的抗议活动唱歌助威。



面对藤本提出的要求,登纪子想也没想,便开口拒绝了。  登

子拒绝的理由是:不愿意为了迎合任何一种政治口号而歌

唱, 而且, 将唱歌跳舞这么快乐的活动,与政治混为一谈是

不可取的、值得批判的。登纪子告诉藤本说:总之,不希望自

己的演唱成为一种政治手段,更不喜欢自己的演唱事业,受

到任何包含政治目的的影响。 



登纪子说了许多自己的拒绝理由,坐在对面的藤本只是安静

聆听着, 不做任何反驳, 也不发表任何个人意见,简直与

平时站在人群中心大声发表演讲,高声呼吁呐喊的那个学生

领袖判若两人。在登纪子滔滔不绝终于说完自己所有的拒绝

理由之后, 藤本看着登纪子微微一笑,  只开口说了二个字:

“是啊。”便就此结束了这个话题。 



这真是一种绝妙的结束方式。” 35年后,登记子在回忆录

《蓝月亮叙事曲》里,追忆与藤本敏夫第一次见面的情形时,

这样说道。 



那天的第一次相见,虽然登纪子拒绝了藤本提出的给学生运

演唱助威的请求, 但是,登纪子与藤本、 还有另外几位一

起来的同学们却依旧谈得十分投缘,   一群年青人在父亲幸

四郎的 松花江” 俄国料理店里边喝边聊, 在喝下不少伏特

加之后,一直显得十分安静的藤本站起身来,说: 走吧,换

个地方,今天要喝个一醉方休。” 



于是一群人纷纷起身转换“战场”,去了新宿的一家GOGO

茶店。“GOGO喫茶店”是六十年代末在日本十分流行的一种

酒吧, 提供各类价格公道的酒水与快餐小吃,并且还可以跟

现场的乐队演奏边喝边跳,因此很受当时年轻人的青睐。


GOGO喫茶店里,藤本一直保持着豪饮状态,可以,无论多

少酒喝下去,藤本都始终方寸不乱,醉态不露, 而且,即使身

处喧哗的人群之中, 藤本也可以一个人安静地沉醉在只属于

己的世界里--- 藤本所表现出来的一切, 都令登纪子感到

他如此与众不同。 

一群人在GOGO喫茶闹了近乎一个通宵之后,又去登纪子家吃

了一回茶泡饭,这时窗外的天空开始泛出清晨的鱼白色了。 登

纪子将藤本和几位同学送到了家附近的电车站、  让同学们搭

清晨的第一班电车返回学校。 在电车站,同学们都与登纪子

客气气地挥手告别,只有藤本一言不发, 连“再见”二字也懒

得说,便飞快地第一个钻进了电车车厢里。 看着藤本头也不回

的背影,登纪子有些怅然若失,心想:“这以后也不会再见面了,

所以,就连说‘再见’的必要也没有了吧。”



可是,到了第三天下午时分,登纪子的电话突然响了。 刚拿起

话筒,就听到电话那头有个声音在说:

见个面吧。”

居然是藤本打来的电话!登纪子说不出的意外与惊讶,搁下电

话之后,二话没说,便穿上外套飞奔出了家门。



匆匆赶到跟藤本在电话里约好的代代木喫茶店时,藤本还没到,

登纪子要了杯饮料, 一个人上了喫茶店的二楼等着藤本,等啊

等啊等, 从傍晚五点一直等到晚上九点多,整整等了藤本四个

多小时,等到喫茶店都开始播放晚安告别曲了, 依旧不见藤本

的身影。 眼看着喫茶店的店员们都开始动手关灯了,登纪子不

得不站起身来, 无比失望地准备离去, 刚刚走到楼梯的拐角,

看到一个身穿白衣黑裤的年轻人也正朝楼上走来。



藤本君!”登纪子万分惊喜地喊道。

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