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2336 中国は見る(1236) 桜の木の下での思い ―――日本で暮らした経験から感じた 日本人の第二次世界大戦に対する認識(中)

 

樱花树下的彷徨 ——从在日生活经历看日本人对二战的认识  

 

 

みな“教科書”のせい?

 
日本に住んで最初の数年、私の日本語はまだ人と論争する

でにはなっていませんでした。 それに人の家に身を寄せ

ルバイトで生活している者にとっては、日本人と戦争の問

を話し合うことなど思いもよらぬことでした。 あの戦争の

残酷さは、いずれにしろ数十年前の事です。 私のような一

留学生にとってなんの必要もなく、日本人に悔しさをぶつけ

ることでもありません。 それに、私が働いていたのは清掃

やレストランでしたが、そこで知り合った日本人は親切でや

さしい人ばかりでした。 彼ら自身も手元は苦しく、一日中、

生活のため飛び回っていますが、私を親身になって助けて

れ気遣ってくれました。 私は日本の人々の親切さと品格

よさを感じました。  思えば初めて戦争について意見をぶ

つけ合ったのは、私が中国語の教室を開設したばかりの頃

でした。 

当時、日本の友達が、私にホームページを作って生徒を募

したらと親切に勧めてくれたのです。 私がネットで最初

生徒を受け入れた時、お祝いとして私達は一緒に食事を

しました。  そして話しあっているうち、うっかり戦争に話が

ってしまいました。  その人が中国の被害について無知

なことを知り、若くて気短じかだった私は、食事の時、 言う

べきではない南京大虐殺の話題を、強い口調でしゃべって

しまいました。 でもその時、その人から突然反撃されたの

です。   あなたはどうしてそれを知ってるんですか?  あ

なたにはどんな証拠がありますか? その当時、南京の人

口は30万もありませんでした!” 私が受けた抗日戦争の

教育について、初めて挑戦を受けました。 私はこの事実を

受け入れることができず、ただ憤然と出て行きました。  今

から思うと、あれは私達の教育と彼らの教育の最初の衝突

だったと思います。  でも、あれは衝撃の衝突でした。  私

にとっては衝撃の出来事、その人にとっても被害の程度は

恐らくかなりのものだったと思います。  教育の力のなんと

も大きいことか!  教育分野で、教科書は恐らく、なににも

増して強大な“核兵器”だと思います。

 

直接あの戦争に行っていない日本人にとって、特に戦後生ま

れの日本人にとって、あの戦争に対する認識は、完全に歴史

教育から生まれたものです。 考えて見れば、中国も小さい

から成人するまで、映画を見たり、歴史を勉強したり、記念館

を見学したりして、どのくらい生々とした抗日戦争の教育を受

けたことか。  これらの教育が、私達のあの戦争に対する認

識を形成しました。 でも、私がこうした認識を持って、日本社

会に入った時、日本側の別の違う“認識”に出会いました――

つまり異なる教育結果の衝突です。  あるいは、教育結果と

いうより、むしろ、“無教育”の結果と言えるかもしれません。 

多くの日本人は、あの戦争についてあまりわかっていないの

です。    というより、アジアの国にもたらした災難について、

あまり知らないのです。

 
第二次世界戦争終了前、普通の教科書は政府が編纂し作

成していました。  現行の教科書検定制度は、1947年に

制定された学校教育法に基づいています。  いわゆる教科

書検定制度とは、複数の民間出版社が編纂した教科書を、

文部省がこれらの教科書内容について審査を行い、 問題

がなければ、教科書として出版が許可されます。

 
審査基準としては、教育基準の要求に沿うものであれば、出

版社は自分の考えと教育方法をその中に盛り込むことは自

です。  歴史教科書も例外ではありません。 1989年以

降、文部省の審査過程が大幅に簡素化され、各出版社の表

が拡大されるようになりました。  そのため不合格の教科

は少なくなりました。 では、そんなに多い教科書の中から、

学校はどうやって教科書を選ぶのか?   一般的には、公立

校なら、学校所在地の 都区、市、町、村の教育委員会が

決定します。 私立学校は各学校が独自に決定します。

 
以上の教科書制度から容易に見て取れるように、それぞれの

学校、それぞれの時期によって、使用する教科書が異なりま

す。 回りにいる日本人に戦争教育について聞いた中で、私

はこの点を確認しました。 一般的に、学校の歴史教科書の

中で、戦争はその他の歴史事件と同様、記述されています。 

8月15日は、“終戦記念日”で、“敗戦記念日”ではありませ

ん。   陸軍軍人の東條英機は“大悪党”となっていますが、

全体的には、日本はドイツのように国民全体で謝罪を受

れる歴史教育とはなっていません。  地域別では、広島、

長崎の戦争教育は比較的徹底しています。  広島出身の

30歳ぐらいの女性によると、彼女は学校の歴史教科書の

中で、あの戦争が中国などアジア国に大きな被害をもたら

したことに触れていたと言っています。   それと日本軍の

侵略行為の写真も載っていたということです。    その上、

教科書以外に、広島は原爆の恐ろしさを訴えると同時に、

日本がアジア各国に侵略したとの教育も行い、みんなに

戦争はとても恐ろしいものだということをしっかり覚えさせ、

平和を守るようにしているそうです。  しかし、この女性が

東京の大学に入った時、彼女の回りの人が受けた戦争教

育はまったく違うもので、中には、“右寄り”のものもあった

そうです。

 
2004年、中国社会科学院近代史研究所の提案のもと、日

中韓三国の学者30人が集り、三国近代史の編纂に着手し

した。 2005年、“東アジア三国近代史”が、日本で出

されました。 日本各界の評価意見はさまざまでした。 

評価する人は、“この本は、各国の自己中心の歴史記述を

し、比較的、客観的にアジアの近代史を記述している”と

います。 批判する人は、“この本の編纂はもともと中国

提案であって、日本の自由主義の歴史観とは相容れな

いものだ”と言っています。

 
中国は歴史教科書問題についてとても敏感ですが、しかし、

一般の日本の学生にとっては、歴史は試験の難関突破の

科目に過ぎません。   教科書の内容について深く追及す

ることはありません。問題はどうやらここにありそうです。 

以前、私のところで中国語を学んだ若い女性が何人かい

ました。     彼女たちは、無邪気で、かわいく、元気です。 

しかし、ある時、彼女たちが興奮気味に、彼女たちがオー

ストラリアに留学した時、そこで第二次世界戦争の歴史資

料を見た時の話をしてくれました。  彼女たちはびっくりし

たそうです。   彼女たちのやさしく穏やかなおじいさん達

がそんな事をしたなんて、想像もできなかったと言います。

彼女たちは、“どうしてこんなことを? 本当にびっくりしま

した!”と、ただしきりに繰り返していました。


留学、旅行、仕事、国際結婚など、国際交流がますます発展

している今日、もっと多くの若い日本人が、このような“びっく

り”を感ずることでしょう。 このような“びっくり”が、次世代の

日本の歴史教育を改善する原動力となることをひたすら願う

ばかりです。



一般の日本人の戦争に対する見方


知らない人同士では、日本人は普通、あの戦争について話し

合うことはありません。  たとえ話したとしても、口先だけのゴ

マカシに過ぎません。    知り合った日本人の中で、普通の人

の場合、あの戦争でのおわびの気持ちは単純明快です。 

しかし知識層や社会的に地位の比較的高い日本人の、あの

戦争に対する認識には複雑ものがあります。


年齢層でいうと、若い人は一般的にあの戦争にあまり関心

ないし、特別な見方もありません。 でも中年以上の日本

となると、一般的に自分なりの独自の見方を持っていま

す。    清掃の時知り合った東さんのように、自分から戦争

のことを言い出し 、深くお詫びをした人は、 10数年の間、

この方だけです。 大多数の日本人は心にお詫びの気持

は持ちながら、内気な性格から、うまく表現できなかったり、

表現方法が分からないのです。


ちょっと特筆すべきことがあります。 一部の日本人の中に

は、あの戦争は日本のため、アジア国家のために戦ったの

と思う人が間違いなくいることです。 つまりヨーロッパ列

強をアジアから追い払うためだというのです。  それだった

ら、彼らは本来、中国などアジア国家と団結し、共にヨーロ

ッパ列強に対抗すべきなのに、逆に侵略を始め、アジア国

の人民に苦痛と災難をもたらしたことを率直に認めるべ

きです。  長年、私が日本人と接触する中で、戦争の正当

性を強調した人は一人だけいました。彼は以前、私の生徒

でした。  彼は中国料理、中国の文化が好きで、特に江南

の文化が好きでした。   私達は、いっしょに呉越の方言つ

いての本を作ったことがあります。 私がこの文章を書くま

で、私達はそれまで戦争の問題に触れたことはありません

でした。  でも、私は何度か彼が“右翼”と自称するのを聞

いていました。   その時は、私は彼が冗談を言っているの

だと思いました。  というのは、彼が中国文化についてとて

も興味を持っており、中国人についても友好的だったからで

す。    この文章を書くため、私は彼にメールを送りました。 

返信メールの最初に冗談っぽくこう書いてありました。 “あ

なたの質問を見て、あなたが共産党の歴史教育をしっかり

受けていたことがわかりました。  あの戦争は、日本と日本

国民の存亡に関わる戦争でした。  当時、日本は黙ったま

ま滅びるか、武器を取って戦うかの選択に迫られました。

日本は戦争に敗れはしましたが、しかし日本人の精神は敗

けていません。 戦後、日本を建設する力に変わりました、

云々……

 

  樱花树下的彷徨 ——从在日生活经历看日本人对二战的认识  

  
 

 

                                  都是“教科书”惹的祸? 

在日本最初的几年,我的日文还无法与人辩论。而寄人篱

下,靠打工维持学习生活的我, 也没有想到过要和日本人切

磋战争问题。那场战争再残酷,毕竟是几十年以前的事了。

    我一个留学生没有必要,也不可能咬牙切齿地对碰到的每

个日本人都去声讨一番。而且,我打的工大都是清扫和饭店。

在这里碰到的日本人既纯朴又善良。 虽然他们自己也手头拮

据,整天为生活奔忙,却给了我那么多无私的帮助和关心,让

我深深体会到日本劳动人民的朴素而优秀的品格。 还记得第

一次关于战争问题的冲突是在我开办中文学校的时候。 当时,

一位日本朋友热心地教我制作网页招收学生。 当我成功地从

网上招收到第一名学生的时候,我们一起吃饭庆贺。  谈着谈

着,一不小心就谈到了战争。  当发现对方对中国的被害的无

知时,年轻气盛的我慷慨陈词, 把不适于在吃饭时间讲的南

京大屠杀的话题摆到了桌面上。 却被对方冷冷地反击:“你怎

么知道的?你有什么证据?当时南京城的人口还不到三十万

呢!”    我所受的关于抗日战争的教育,第一次受到了挑战,

我无法接受这样的事实,只有愤然离去。   现在想来,那是我

们的教育和他们的教育的第一次冲撞,那是一种令人震惊的

冲撞。我撞得头破血流,对方可能也受伤不轻。教育的力量是

多么强大啊! 而在教育领域里,教科书也许就是一种力大无

比的“核武器”。 

 对于没有直接参加那场战争的日本人,特别是对于战后

生的日本人来说,对那场战争的认识就完全来源于历史教育。

想想我们从小到大,看电影,上历史课,参观纪念馆,受到了

少生动形象的抗日战争教育。   这些教育就形成了我们对那

战争的认识。 但当我抱着这些认识,走进日本社会的时候,

遇到了来自对方的另一种“认识”——也就是另一种教育的结

的冲击。也许,与其说是“教育结果,”更不如说,是“不教育”

结果。 很多日本人对那场战争不太了解。对亚洲国家所造成的

灾难更是所知无几。 

 

 在二战结束之前,一般教科书是由政府编写制作的。现行

的教科书鉴定制度,是根据1947年制定的学校教育法来制定

的。  所谓的教科书鉴定制度,就是由若干个民间出版社编写

教科书,然后由文部省对这些教科书的内容进行审核, 如果

没有问题,那么该教科书就允许出版。 作为审查标准,就是

要符合教育基准的要求,而出版社有将自己的想法和教育方

法融入其中的自由。 历史教科书也不例外。 在1989年后,由

于文部省的审核过程大幅简化,扩大了各出版社的表现余地,

所以很少出现不合格的教科书。  那么在那么多教科书中,学

校是怎样选择教科书的呢?  一般来说,如果是公立学校,是

按照所在学校的市,丁,村的教育委员会来决定的。   而私立

学校则是各校自己决定。 

 由以上的教科书制度不难看出,各个学校,各个时期所使

用的教科书是不同的。 在询问周围的日本人的战争教育的过

中,我证实了这一点。   比较普遍的是,在所学的历史教科

书中,战争只是和其他历史事件一样被记述。    815日,是

“休战纪念日”,而不是“战败纪念日”。 陆军的东条英机好像

是个大坏蛋”,但是总体来说, 日本没有像德国一样让全体

国民接受谢罪的历史教育。  在地区上,广岛,长崎的战争教

育比较彻底一些。 一位广岛出生的三十岁左右的女士说,她

在学校学的历史教科书中,提到那场战争给中国等亚洲国家

带来了极大的灾难。还有日军侵略行为的照片。  而且,除了

教科书以外,广岛在宣传原爆的可怕性的同时,也作了日本

对亚洲国家的侵略的教育,让大家记住战争是多么的可怕,

祈愿和平。 但是那位女士在东京上大学时,却发现她周围的

人所受的战争教育却完全不同,有些还很“偏右”。 

 

2004年,在中国社会科学院近代史研究所的提议下,日中

韩三国学者30人参加了三国近代史的编写。2005年,“东亚

国近代史”在日本出版发行。日本各界褒贬意见各有。褒者

为此书摆脱了各国自我中心的历史记述,比较客观地记述了

亚洲的近代史。贬者认为,编写此书原本是中国的提议,是对

日本自由主义历史观的抗争等。 

 

 虽然我们对历史教科书问题非常敏感,但对于一般的日本

学生而言,历史也许只是一门考试时要过关的科目,对教科书

的内容没有很多追究。但是问题却偏偏出在了这里。曾有几位

年轻的日本姑娘在我这儿学习中文。她们是那么的天真,可爱,

充满朝气。可是,有一次她们激动地告诉我,她们去澳大利亚

留学时,在那里看到了二战时的历史资料。她们着实吓了一跳。

她们做梦也没有想到那么慈祥而彬彬有礼的祖辈们会干了那样

的事情。她们只是不断地重复着一句话,“怎么会这样?真是

太吃惊了!” 

在留学,旅游,工作,国际婚姻等国际交流日益发展的今天,

一定有更多年轻的日本人会感受到这种“吃惊”。      但愿这种

吃惊”会成为改进下一代日本历史教育的一种原动力。 

 

                                      普通日本人对战争的看法 

 

对不太熟悉的人,日本人一般不会谈对那场战争的看法。即

使谈了,也只是表面文章。 在所接触的日本人中,越是普通的

民众,对那场战争所怀的歉意表达得越单纯明白。 而知识层次

和社会地位比较高的日本人,对那场战争的认识也比较复杂化。 

就年龄层次而言,年轻人一般不太关心那场战争, 对那场战争

也没什么特别的看法。 而中年以上的日本人一般有自己独特的

看法。 像清扫时遇到的东先生一样自己主动提起战争,并深深

表示歉意的在十多年中我就遇到这一位。 而大多数日本人是心

怀歉意的,却由于内向的性格而无法表达或表达得不完全。 

 

 值得一提的是,确实有一部分日本人觉得那场战争是为日本,

也为亚洲国家而打的。 就是说是为了把欧洲列强赶出亚洲而打

的。 尽管如此,他们也直率地认为本来应该团结中国等亚洲国

家,共同对付欧洲列强的日本, 却反过来赶起了侵略的勾当,

给亚洲国家的人民带来了痛苦和灾难。 在那么多年我和日本人

的接触中,强调战争的正当性的也许只有一位。 他曾是我的学

生。 他喜欢中国菜,喜欢中国文化,特别喜欢江南文化。我们

还一起编写过一本关于吴越方言的书。 在我写这篇文章之前,

我们从来没有谈到过战争问题。 但我记得有几次他自称是“右

派”,那时我想他一定是在开玩笑, 因为他对中国文化十分感

兴趣,对中国人也很友好。 因为写此文,我用电子邮件采访了

他。 回信的的第一句就半开玩笑地说,一看我的问题,就知道

我受共产党的历史教育颇深。 他认为那场战争是关系到日本和

日本人民存亡的战争。 当时日本面临着是保持沉默灭亡,还是

拿起武器战斗的选择。 虽然日本战败,但是日本人的精神没有

败,并化作了战后建设日本的力量,云云…… 

 

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