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2128 中国は見る(1082) 瀬戸内寂聴訪問記 (上)

瀬戸内寂聴訪問記:中国はとても君子の国です

拜访濑户内寂听:中国是个十分绅士的国家

2011-06-20 09:33:52   辛子IN日本


昨日、京都の寂を訪れ、89歳と高齢尼僧作家瀬戸内

聴さんに初めてお会いした。

瀬戸内寂聴・旧名は瀬戸内晴美さん。 18歳ぐらいの、大学

教授の夫結婚した。   しかし自分より年下の夫の教え子を

好きにな、そのため家を出た。  家を出た後の瀬戸内晴美

最後好きになったその人は別れ、自立して出版社で働き始

めた。 1956処女作《女子大生曲愛玲》が新潮同雑誌

賞を受賞した。 その後発表した芯》は批判にあい、“子宮

作家”と呼ばれるようになる。 

それから1963になって、《夏の終り》が女文学受賞し、

やっと評判復活、文壇で作家としての地位を確立した。 

1992年出版の《花に問え、谷崎潤一郎賞を受賞 

の外、約10をかけて行った《源氏物語》の現代語訳でも、

瀬戸内寂聴さんのは知られている。  文部学大臣は瀬戸

内寂聴さんが、日本の文化に貢献したとして、文化功労者に

ぶと共に、彼女に日本最高栄誉である化勲章を授与した。

2005年、フジテレビはゴールデンタイムに女性を主人公にした

ドラマ《女の一代記を放送した。 日本の3人の傑出し女性

(越路吹雪、杉村春子、瀬戸内寂聴)の人生の物語で、瀬戸内

聴もその中の一人に入っていた。 《女の一代記》で瀬戸内

聴さんを演じたのは、宮沢だった。 

40を過ぎた頃、人生の多くの辛酸や感情の波瀾経験して

きた瀬戸内は俗世に嫌気がさし、“自ら枯れた”感覚を持ち

始め、人生の束縛から抜け出すことを渇望し、気の向くまま

浪を続けた。 47歳の、晴美は随筆“放浪について”の

一文中で、こう書いている:

出家して遁世することと放浪することが、の日夜のあ

こがれになり、私の心誘っています

晴美の将来には、2つの道が並んでいた。

放浪で生命えるか、それとも自分で生命を終え、徹底的

な解脱を図る道。

あるいは出家遁世して、鳳凰涅槃のように、“過去”を捨て去り、

“未来”に生きる道。

1973年、51歳の晴美は奥州平泉の中で得度し、剃髪

して尼さんとなった。  師は今春大僧正(有名作家今東

光)で、法名“寂と名付けられた。

出家前けるしかばね”

出家、“生きているけど死んでいる

聴さんは、“出家とは生きながら死ぬこと”といっている

剃髪して尼なった寂聴さんは、在、京都嵯峨野の寂庵の

庵主で、僧位は僧である。

1:これは昨日の京都寂庵の入り口の前です。 

毎月第日曜日、寂聴さんは京都の寂庵で

話の開いています。 日本の全国

各地からファンたちが、2ヶ月前から往復はがき

申し込み、それから抽選で当った200名が、この毎月一

回の聴さんの「法話」に参加することができるのです。  

も「法話」のはがきで申し込んだのですが、抽選で外

ました。 でも、特別に庵から招待戴き幸い

にも寂庵に入ることができ、「話のの後聴さん

の応接一人聴さんとお会いし、一緒に向かい

合い、京都のお菓子を戴きながら、およそ一時間半

ほど雑談しました。

2:この閑静な小道の奥が、聴さんの応接です

Photo_3


Photo_43:私が寂庵にお邪魔するちょっと前、

作家林真理子さん私の好きな

ジャーナリスト・池上彰さん、中国の

人がよく知っている谷村新司さん達が、それぞれ

この同じ場所に座って、瀬戸寂聴さんとお話さ

れたという。

Photo4:聴さんとの記念写真。 寂聴さんは

の名刺の“唐辛子”という3文字を見て、嬉し

くてたまらないようでした 彼女が20年余り

前、中国を訪問した時、中国の巴金氏彼女に食事

招待たのですが、それはそれはかったと話された~

さんによると“あの料理にはたくさんの唐辛子

が入っていて、とてもかった” という。

拜访濑户内寂听:中国是个十分绅士的国家

2011-06-20 09:33:52   辛子IN日本

昨天去了京都的寂庵,第一次见到了89岁高龄的日本著名的尼僧作家濑户内寂听。

濑户内寂听原名濑户内晴美,大约18岁左右的时候,与做大学教授丈夫结婚,但却爱上了比自己还小的丈夫的学生,以致离家出走。

离家出走之后的濑户内晴美,最终还是与爱上的那个人分手,后来自立加入小说社团,1956年发表了处女作《女大学生?曲爱玲》获得新潮同人杂志奖。后来发表的一部《花芯》遭人攻击,并被带上“子宫作家”的帽子。一直到1963年,另一部小说《夏の终り》获得了女流文学奖之后,才重振名声,确立了其在日本文坛的作家的地位。1992年的出版的《问花》,获得谷崎润一郎奖。除此之外,花费近10年时间翻译的《源氏物语》的白话文译,也让濑户内声名远播。日本文部科学大臣为表彰濑户内对于日本文化所做出的贡献,评定她为日本文化功劳者,并为她颁发了日本国家级最高荣誉认证的日本文化勋章。

2005年,日本富士电视台在黄金档播出人物传奇片《女之一代记》,描写现代日本的三位杰出女性的人生故事,濑户内寂听也是其中一位。《女之一代记》里的濑户内寂听,由日本著名演员宫泽理惠扮演。

40多岁的时候,历经无数人生酸苦与情感波折的濑户内,越来越厌倦俗世,她开始有一种“自我苍老”的感觉,渴望摆脱人生的枷锁,去做性情所至的自我流放。47岁那年,晴美在随笔“关于放浪”一文中,这样写道:

出家遁世与放浪,现在成为我日夜的憧憬,挑逗着我的心。”

当时摆在晴美眼前的未来,有二条路:

或者在自我放浪中任生命终结,或自己动手结束生命,彻底解脱;

或者出家遁世,如同凤凰涅磐一般,令“过去”死去,让“未来”重生。

1973年,51岁的晴美在奥州平泉中尊寺得度,削发为尼,师从今春听大僧正(即日本著名作家今东光),赐法号“寂听”。

出家前,虽活尤死;

出家后,虽死尤活。

寂听称自己的出家,是“死去的活着”。


削发为尼的寂听,现为京都嵯峨野寂庵的主持,僧位为僧正。

1:这是昨天京都寂庵的大门前。每个月的第三个星期日,寂听在京都寂庵举办法会,日本全国各地的寂听粉丝们,须要提早二个月先写明信片申请,然后再通过抽签,抽到前200名的,才能参加寂听每月一次的法会。

虽然我申请参加法会的明信片抽签时落选,但还是很特别地收到了来自寂庵的邀请,荣幸地走进了寂庵,并在法会后在寂听先生的会客厅内得以单独与寂听先生见面,两个人坐在一起,一边吃京都的泡芙,一边闲聊了近一个半小时。

2:这条幽静的小道尽头,就是寂听先生的会客厅

3:就在我去寂庵之前不久,日本的另一位名作家林真理子,还有我非常喜欢的日本新闻媒体人池上彰先生,以及中国观众N熟悉的谷村新司,都分别坐在这个相同的位置上,拜访过濑户内寂听先生。

4:与寂听先生的合影。寂听先生看到我名片上“唐辛子”三个字,乐不可支。说她二十多年前去访问中国的时候,中国作家巴金请她吃饭,那个辣呀~~寂听说“那些菜里放了许多唐辛子,辣得我好痛苦。”



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