1.元北朝鮮美人工作員キム・ヒョンヒ訪日 大騒動となる
2.元北朝鮮美人スパイ・キム・ヒョンヒ訪日 大韓航空機爆破犯
1.前朝鲜美女特工金贤姬访日引起一片混乱
时间: 2010-07-22 02:34
2.原朝鲜美女间谍金贤姬访日曾造百人死亡空难
2010-07-21 11:01:07 来源: 大河网
1.元北朝鮮美人工作員キム・ヒョンヒ訪日 大騒動となる
1987年、大韓航空機爆破事件の実行犯元北朝鮮工作員の金賢姫(キム・ヒョンヒ:48歳)が日本を訪問し、大騒ぎとなった。
キム・ヒョンヒは7月20日早朝4時、日本政府のチャーター機に乗って羽田空港に到着した。 空港には100人あまりの取材陣が待っていたが、キム・ヒョンヒは飛行機から降りるとすぐに滑走路で待っていた専用車に乗り込み長野県軽井沢にある鳩山元首相の別荘に向かった。 日本のメディアは6~7機のヘリコプター、20数台の車とオートバイを出動させて、キム・ヒョンヒの乗った車を追いかけた。 日本政府は飛行機の着陸以降、キム・ヒョンヒの行動を隠密にし、10台の車を動員させ、マスコミとの接触をできないようにした。 キム・ヒョンヒが乗った車の窓にはカーテンが掛けられ、外から中の様子を見ることができなかった。
キム・ヒョンヒは日本を4日間の予定で訪れた。 7月20日には、鳩山元首相の別荘で拉致被害者の田口八重子さんの兄と長男に対面することになっている。 田口さんは北朝鮮でキム・ヒョンヒに日本語を教えていた。 キム・ヒョンヒは去年3月、釜山で田口さんの長男と顔を合わせており、その時、“私があなたに(北朝鮮で田口さんにならった)料理をご馳走する”と言っていた。
キム・ヒョンヒは7月21日、拉致被害者の横田めぐみさんの両親と対面する。 キム・ヒョンヒは去年5月、“北朝鮮で横田めぐみさんに会ったことがある”と言っていた。 去年11月、彼女はNHKの取材の中で、“横田めぐみさんの両親と会った時、私が知っていることを直接お話したい”と述べていた。
日本のテレビは一日中、7月20日のキム・ヒョンヒが羽田に到着した画面と鳩山元首相の別荘前の厳戒態勢などの内容を繰り返し放送していた。 これは、メディアがキム・ヒョンヒが来日中、日本人の拉致問題で新しい情報があるのではないかと期待しているからである。 しかし、多くの専門家は“キム・ヒョンヒから新しい内容は得られない”と見ている。 日本政府は、“韓国政府の要求で、来日中のすべての日程は極秘扱いとする”としている。 ただ、《日本の入国管理法》で、“1年以上の懲役の判決処分を受けている場合、日本への入国はできない”規定になっており、キム・ヒョンヒは入国拒否の対象となっているが、しかし今回、“特例措置”で入国許可が下りた。
キム・ヒョンヒの宿泊場所が鳩山元首相の別荘内ということも、非常な関心を集めた。持たれた。 キム・ヒョンヒとの連絡係り中井洽拉致問題担当大臣は、“ホテルだと、一般の人に迷惑をかけることになる。 鳩山元首相は以前、民主党拉致問題対策本部長を務めたことがあり、この問題に対してたいへん関心を持っている。 この別荘は林間にあり、警備するにも大変都合がいい”と述べた。
2.元北朝鮮美人スパイ・キム・ヒョンヒ訪日 大韓航空機爆破実行犯
1988年当時のキム・ヒョンヒ
この上品で物静かな中年女性が、かって若くてきれいな頃、日本語、中国 語、英語、韓国語を流暢に話し、かつて100人もの人を死亡させた大韓航空機爆発犯のスパイだったなんて信じられますか? 彼女こそキム・ヒョンヒ。 北朝鮮三大美人スパイの一人なのです。 1987年、120人が死亡した韓国旅客機遭難事件の犯人です。また、南北朝鮮のスパイを題材とした映画の源でもあります。 彼女がまた人々の前に現われ、彼女の様々なニュースが新たに伝えられることになりました。
訪日後、真っ先に鳩山元首相別荘に向かう
韓国メディアが7月20日報道したところによると、1987年、大韓航空858便爆破事件の主犯とされた元北朝鮮工作員のキム・ヒョンヒ(48歳)が20日に日本に到着、その後、鳩山元首相の別荘に向かった。
キム・ヒョンヒは当日午前、日本政府が用意した飛行機で羽田空港に到着すると、直ちに長野県軽井沢の鳩山別荘に向かった。 キム・ヒョンヒがなぜ鳩山首相の別荘に向かったのか、それは鳩山元首相が以前、民主党拉致問題の責任者を務めていたからだという。
日本のメディアはキム・ヒョンヒの日本訪問を競争で取材しようとしているが、しかし具体的な日程は完全に秘密とされた。 日本政府は警護の関係で、彼女の訪問日程を公開することを拒否した。
訪日 日韓両政府が決定
日韓両政府の関係者は今月8日、“日韓両国政府は、1987年120人が遭難した大韓航空機の爆発事件の主犯、元北朝鮮工作員キム・ヒョンヒの今月訪日について協議した。 双方は参議院選挙後に具体的な日程を検討する”と発表していた。
キム・ヒョンヒは訪日後、1977年北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの両親と面会することにしている。 キム・ヒョンヒは北朝鮮で横田めぐみさんに会ったことがあると述べていることから、今回、直接会って横田夫妻に当時の情況を話すことにしている。 日韓両国政府は安全面からキム・ヒョンヒの訪日スケジュールについて非公開の方針を決めている。
キム・ヒョンヒの日本訪問は主に中井洽国家公安委員会委員長兼拉致問題担当相が担当することになった。 最初の予定では、5月に行う予定だったが、韓国海軍哨戒艇“天安”号沈没事件が朝鮮半島情勢を悪化させ、更に北朝鮮から韓国に亡命した黄長烨元北朝鮮労働党書記の暗殺計画が発覚したりで、韓国政府はキム・ヒョンヒの訪日に慎重な態度を取り、そのため、訪日予定が延期となっていた。
現在のキム・ヒョンヒ
彼女は大韓航空機爆破犯
キム・ヒョンヒは北朝鮮の若くて美しい女性スパイで、高官の娘だった。 父親は外国貿易関係のエリートである。 小さい頃、父親の転任で北朝鮮のキューバ大使館に行ったため、キム・ヒョンヒもしばらくの間キューバで生活したことがある。 キム・ヒョンヒは小さい頃から、金日成と金正日親子に死ぬまで変らぬ思想訓練を受け、学校の成績はよく、高校卒業する時には北朝鮮の外国語大学日本語学科に合格した。 しかし、卒業前に特務機関に目をつけられスパイに選ばれた。
キム・ヒョンヒは最初は外国語の先生になりたいと思っていたが、秘密裏に、スパイの訓練場所“東北里招待所”で格闘、射撃、爆破そして自決方法などの苦しいスパイ訓練を受けていた。 1984年、韓国は1988年のオリンピックの開催権を獲得した。 金正日は韓国大韓航空機を爆破して妨害することを決めた。 いろいろな選抜を経た末、金正日は日本語の流暢な老スパイ・金勝一とキム・ヒョンヒを選び、日本国籍の父娘の観光客とした。 そして中東に向かわせ、事前に綿密に計画したとおり、大韓航空858便に乗り、飛行機に9時間後爆発する装置をうまく取り付け、それからなんなく逃走した。
“死の飛行機”は9時間後、空中爆発し、120人全員が遭難した。
盧泰愚(ノ・テウ) キム・ヒョンヒの死刑特赦
飛行機事故発生後、国際刑事警察機構は直ちに調査に着手した。 警察は、“日本籍の乗客”“蜂谷真一”と“蜂谷真由美”の2人の容疑が強いと判断した。 この時二人はすでにバーレーンに逃げていた。 国際刑事警察はバーレーンへ赴いた。 捕まる前、2人は服毒自殺を図った。 警察がドアを壊して押し入った時、金勝一はすでに息を引き取っていた。 キム・ヒョンヒはまだ息があり、全力で緊急措置をとり、幸いに生き残ることができた。
その当時、盧泰愚(ノ・テウ)が韓国大統領に就任したところで、そのため国際刑事警察にキム・ヒョンヒを韓国に引き渡すよう努力した。
キム・ヒョンヒは最初、自分は日本へ密航し日本で生活していた密航者だと言っていたが、その後、刑務所で自殺しようとした。 しかし、韓国の取調べ官は残虐な刑罰を行うことなく、逆に彼女にやさしく対応した。 また彼女にテレビを見ることを許し、にぎやかなソウル市街へ自由に遊びに行かせた。
ある時、取調べ室で、検察官が“中国語”で彼女に日本に渡った時、使っていたテレビのブランド名は何だと聞いた。 彼女はその時うっかり口をすべらしてしまった。“杜鹃(ホトトギス)です!” “杜鹃”はその当時の北朝鮮唯一生産していたテレビのブランドだった。 キム・ヒョンヒはついに秘密を漏らすようになった。 長い抑圧が彼女に隠すことを放棄させた。 キム・ヒョンヒは、“私はキム・ヒョンヒです。 ピョンヤンで生まれました。 大韓航空858便事件は私が命令によってやりました!”と話し出した。
1990年、韓国の裁判所はキム・ヒョンヒに死刑の判決を下した。
1991年のある日、刑務所の係官がキム・ヒョンヒに刑務所の中のテレビニュースのチャンネルを開けて見せた。 盧泰愚韓国大統領がキム・ヒョンヒの特赦を発表し、そして即日釈放された。
釈放された後、キム・ヒョンヒはずっと韓国情報部の保護下で著述や講演に従事していた。 その後、《いま、女として - 金賢姫全告白》の手記を出版して、韓日両国でベストセラーとなり、その後、映画にもなった。 1997年12月、キム・ヒョンヒはその当時、彼女の調査に当たっていた元国家安全企画部員と秘密里に結婚し、今、韓国で“普通の主婦”の生活を送っている。 しかし、1987年の飛行機事故遭難者の家族の抗議と爆発事件自体の複雑性などから、キム・ヒョンヒにとっては、“普通の女性のような生活”は恐らく永遠の夢だろう。
- 时间:2010-07-22 02:34
1987年参与实施了大韩航空爆炸事件的前朝鲜女特工金贤姬(48岁)访日造成了日本一片混乱。
金贤姬7月20日凌晨4时乘坐日本政府专机抵达东京羽田机场。机场有100多名采访记者等候,但金贤姬一出飞机就立刻乘坐在跑道等候的专车前往位于长野县轻井泽日本前首相鸠山由纪夫的别墅。日本媒体出动了6~7架直升飞机、20多辆轿车和摩托车,捕捉到了金贤姬乘坐的车辆。但日本政府从飞机着陆开始就将金贤姬藏了起来,他们调动其他10辆轿车,使金贤姬无法和舆论进行接触。金贤姬乘坐的轿车还配备有窗帘,因此从外面无法看到内部的情况。
金贤姬将对日本进行4天3夜的访问,将于7月20日在前首相鸠山由纪夫的别墅内同绑架受害者田口八重子的哥哥和长子见面。田口在朝鲜教会了金某日语。金某去年3月曾在釜山同田口的长子见过面,她还说:“我亲手给你做(在朝鲜向田口学的)料理吧。”
金贤姬预计将在7月21日同绑架受害者横田惠的父母见面。金某去年5月曾说“在朝鲜曾经见过横田惠”,去年11月她在NHK的采访中说:“我希望能够同横田惠的父母见面,将我知道的情况直接告诉他们。”
日本电视台一天反复播放着7月20日金贤姬到达日本机场的画面和前首相鸠山由纪夫别墅前的严密警戒态势等内容。这是因为媒体非常关心金贤姬在访日期间能否提供被绑架到朝鲜的日本人的最新信息。但大多数专家分析说“我们从金贤姬这里得不到新内容”。日本政府说明称:“应韩国政府的要求,所有的日程都属于绝密。”虽然根据《日本入境管理法》有关“禁止被判处1年以上徒刑·监禁的外国人入境日本”的规定,金贤姬属于禁止入境对象,但当天她获得了“特殊入境”的许可。
金贤姬下榻的地点定在了前首相鸠山由纪夫的别墅内,对于这一背景人们也非常关心。从中联系金贤姬访韩的绑架问题担当相中井洽介绍说:“住在宾馆有可能连累普通人。”前首相鸠山由纪夫过去曾担任过民主党绑架问题对策总部部长一职,对这一问题也非常关心,他的别墅还有树林茂密的休养地,非常适合警备工作的展开。
2.原朝鲜美女间谍金贤姬访日曾造百人死亡空难
2010-07-21 11:01:07 来源:大河网
1988年时的金贤姬
看看这个优雅而沉静的中年女人,你能想到她曾经是一个年轻漂亮,会说流利日语、中文、英语、韩语,曾经制造100多人死亡的韩国航空公司客机爆炸案的间谍吗?她就是金贤姬,朝鲜三大美女间谍之一,是1987年造成120人死亡的韩国客机空难的凶手,同时也是朝韩之间所有间谍题材电影取材的灵感源泉。随着她再次走进人们的视野,关于她的种种消息再次浮出水面。
访日先见鸠山由纪夫
据韩国媒体7月20日报道,被韩国认定为1987年大韩航空858客机爆炸案主犯的原朝鲜特工金贤姬(48岁)20日抵达日本,随后前往日本前首相鸠山由纪夫的别墅。
报道称,金贤姬当天上午乘坐日本政府提供的飞机抵达羽田机场,之后直奔位于长野县轻井泽的鸠山由纪夫别墅。据分析,金贤姬之所以访问鸠山由纪夫别墅,是因为鸠山由纪夫曾担任日本民主党绑架问题负责人。
虽然日本媒体竞相采访金贤姬的日本访问,但具体日程一直被保密。日本政府以护卫为由,拒绝公开她的访问行程。
访日由日韩政府促成
日韩政府相关人士本月8日曾透露,日韩两国政府当时商议了1987年造成120人罹难的大韩航空公司客机爆炸案主犯、原朝鲜特工金贤姬在本月访日一事。双方计划在参院选举后就具体日程进行探讨。
金贤姬访日将与在1977年被朝鲜绑架受害者横田惠的父母见面。由于金贤姬称在朝鲜遇到过横田惠,估计此次会面将会向横田父母叙述当时的情况。日韩两国政府正在考虑从安全角度出发不公开金贤姬的访日行程。
金贤姬访日一事主要由日本国家公安委员长兼绑架问题担当相中井洽促成。最初计划使其在5月成行,但由于韩国海军警戒舰“天安”号沉没事件一度使朝鲜半岛局势恶化,加之又发生了朝鲜特工暗杀叛逃到韩国的前朝鲜劳动党书记黄长烨计划暴露等事件,韩国政府一度对金贤姬访日一事表现出谨慎态度,因此其访日行程被延期。
现在的金贤姬。
她曾制造韩国大空难
金贤姬曾经是朝鲜年轻貌美的女特务,高干子弟。父亲为外贸事务高级官员。小时候因父亲调任朝鲜驻古巴大使馆,金贤姬在古巴生活过一段时间。金贤姬自幼也受到对金日成金正日父子至死不渝的坚定思想训练,从小功课表现杰出,高中毕业时也考上朝鲜外语大学的日语系,但是未毕业就被特务机关给盯上而获选为特工。
金贤姬起初只是立志当个外语老师,却秘密进入了训练特工的地方“东北里招待所”接受搏击、射击、爆破甚至是迅速自我了结等艰苦特工训练。1984年韩国取得1988年的奥运主办权。金正日决定炸毁韩国“大韩航空”班机来加以干扰。经过千挑万选,金正日特别选中了日语流利的老特务金胜一与金贤姬假扮成一对日籍观光父女,前往中东,经过一连串的缜密事先规划,搭上“大韩航空858班机”,并巧妙地在飞机上安置9个小时后才会爆炸的装置,然后从容脱逃。
“死亡班机”果然在9个小时后于空中引爆解体,并造成全机120人罹难。
卢泰愚特赦她的死刑
空难发生后,国际刑警组织立刻介入调查。警察发现,登记为“日籍乘客”的“蜂谷真一”与“蜂谷真由美”两人嫌疑很大。此时他们已顺利逃往巴林。国际刑警赶往巴林,进门前两人迅速服毒自尽。等警方破门而入时,金胜一已气绝,而金贤姬一息尚存,经全力抢救得以幸存。
当时卢泰愚正寻求当选韩国总统,因此努力让国际刑警引渡金贤姬回到韩国。
金贤姬开始说她自己是偷渡到日本讨生活的偷渡客,后又下定决心要在监狱自尽。不过韩国侦讯人员并没有使用酷刑,反而很温和对待她,允许她看电视,到繁华的首尔市区随意逛逛
有一次在侦讯室,检察官用“中文”询问她偷渡去日本后所使用的电视品牌为何,她一时说溜了口:“是杜鹃!”而杜鹃是当时朝鲜唯一生产的电视品牌。金贤姬终于穿帮了。长久的压抑使她完全放弃了隐藏。金贤姬只能说:“我叫金贤姬,出生在平壤韩航858班机案子是我奉命干下的!”
1990年,韩国法院判处金贤姬死刑。
1991年的一天,狱官让金贤姬打开囚室里的电视新闻频道。韩国总统卢泰愚宣布特赦金贤姬并即日起获得释放。
在被释放之后,金贤姬一直在韩国情报部门保护下从事著述和讲演。其后来出的题为《现在,作为女人》的手记,在韩日两国都成为畅销书,后又被拍成电影。1997年12月,金贤姬与当时曾参与她的调查工作的原韩国安企部官员秘密结婚,现在韩国过着“普通主妇”的生活。但由于1987年空难遇难者家属的抗议和爆炸事件本身的复杂性,对金贤姬来说,“像普通女人一样生活”恐怕永远都只是一个梦。 (商综)