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1742 中国の三面記事を読む(763) 日本人はどうして  「支那から中国」  と呼び名を変えたのか? (上)

日本人如何称呼中国?从支那到改口中国(1)

2010-05-24 15:16:54 中国新

日中戦争や朝鮮戦争以降、日本人の口から“支那”という言葉が消え“中国”に変った。 ただ用語の変化といえばそれまでだが、これは無数の中国の軍民が血みどろになって戦った結果であり、中国の世界での地位の変化を如実に表すものである。

日中戦争の歴史の題材のドラマが、ここ数年国内の映画やテレビの重点作品となっている。 だが脚色者や演出者の中に、その時代に対する背景の知識不足があるため、ドラマの中に出てくる日本の侵略者が、しばしば“中国”という言葉を使っている。 これは歴史的事実に反している。 実際は、当時日本が中国を侵略していた時使っていた呼び方は軽蔑的意味合いを持った“支那”だった。

“支那”という言葉を言っても、日中両国の多くの人はもうわからないだろう。 しかし、20世紀前半の時代、気骨ある中国人がこの国恥の烙印を押された呼び方を聞いた時、耳障りでたまらないものだった。戦時中の日本の出版物を見ると、その中には“支那駐屯軍”、“支那派遣軍”、“日支関係”、“北支治安戦”といった用語であふれており、中国とまったく呼んでいない。 日本は満州国を統治していた時、現地の人々を“満州人”と呼んでいた。 中国が第二次世界大戦の戦勝国となるに至って、“支那”という言葉は日本の出版物の中で使用が禁止された。 呼称の変化は中国の国際的地位の変化を反映したものである。

“ブタのしっぽ(弁髪)”、“チャンコロ”から“支那人”へ

2000余年の交流の歴史を振り返れば、第二次世界大戦終了までの日本の、中国に対する態度は、①仰ぎ見る ②対等に見る ③高い所から見下ろす の3段階に分けられられる──唐代から宋代までの日本人は中国の文化、法令制度の全面的模倣、“大唐”に対しては一種尊敬・崇拝の感があった。 13世紀に日本軍は“神風”即ち台風のお陰で元の世祖の軍隊を打ち負かした。 朝鮮出兵では、明朝の大軍に負けたが、日本は朝野を挙げて中国に対しすでに野心を抱いており、対等に見ていた。 日清戦争で日本が勝った後、日本国内にはこれ以降、中国に対して約半世紀にわたり軽蔑的に高い所から見下ろすような、中国に対する様々な侮蔑の用語が続出した。

清朝時代、日本は中国を“清国”と呼んでいた。 日本語の中で“中国”という言葉は、日本国内の広島を中心とする本州西部地域にのみ使用されている。 例えば中国で使われている甲午戦争という呼び方を、日本ではずっと“日清戦争”と言っている。 北洋海軍も“清国艦隊”と言っている。 日本は戦争で勝った後、日本国内では“ブタのしっぽ”というあだ名で中国人を侮蔑した。 当時、華僑の男性や中国の留学生が街を歩いていると、日本の子供達がよくいたずらで弁髪を引っ張ったりし、大声で、“チャンコロ! ブタのしっぽ!”とからかった。 黒い制服を着た警察官は、見ても止めることはせず、声を張り上げて笑っているだけだった。

1912年、清朝が滅亡し中華民国が成立した。 日本人はもう“清国”と呼ぶことができなくなったが、正式の国号を使わず、ただ“支那”という言葉を使った。 “支那”は“秦”の近似音であるとか、或いは英文のCHINAの音訳で、この言葉自体には悪意はないという人がいるが、しかし“中国”が正式の国名であるのに、別名を使うこと自体、軽蔑の態度を表わしている。 民国が成立した後、日本政府は北京政府、南京政府に外交文書を渡す際、国際儀礼を無視して“支那共和国”としていた。 多くの“名士”達も日本は“日出ずる国”で、世界の中心だとしている。 “中央の国”という“中国”の名称を認めることができないとほのめかしていたのだ。

“支那”というこの侮辱的呼び方について、北洋軍閥政府と南京国民政府は長期にわたり我慢していた。 1930年5月になって、南京国民政府は中央政治会議の討論を経て、もうこれ以上我慢できないとし、“もし、日本側の公文書で支那といった文字を使用するなら、中国外交部は断固として受け取りを拒否”とやっと正式に命令を出した。同年年末から、日本政府は中国に対する外交公文書を、已むなく中華民国という国名を使用した。 しかし、その他の場所では依然として“支那”を使用していた。

当時の日本の侵略軍は中国の土地に足を踏み入れた場合、例えば、華北に駐屯する日本軍は、“北支那駐屯軍”と命名した。 盧溝橋事変後拡大した“北支那方面軍”は、その華中へ進撃する日本軍を“中支那派遣軍”と命名した。 1945年、中国侵略日本軍のトップの岡村司令官が降伏した時の肩書きは“支那派遣軍総司令官”だった。 戦後一部の中国人はこの言葉の国恥的表記に怒り、中国文書籍では、“華北方面軍”とか“中国派遣軍”に書き直した。 実のところ、“支那”という原語は改めることなくそのまま保留して置いた方が、人々に国恥をしっかり覚えることに役立つ。

国辱の言葉を耳にすると、愛国者はいつも涙を流した

20世紀初頭から日中全面戦争前まで、数十万の中国の留学生が日本の土地を踏んだ。 彼らが日本人の間を歩いていると、いつも人々が恨み言の中で“こいつはどうしてこんなにダメなんだ。 まるで支那のようだ”といったような言葉や、子供のけんかでも“お前はどうしてこんなにバカなんだ。 お前の親はきっと支那人だろう!”

当時の日本の社会では、“支那バカ”という言葉が普通に「ののしり語」として使われていた。 筆者は小さい頃、郭沫若の日本の夫人・郭アンナの自叙伝を聞いたことがある。 本名佐藤富子という看護婦が中国の留学生の郭沫若を好きになった時、進歩的だと豪語していた父親はすぐ立腹して──“お前はどうして支那のブタと結婚するんだ?”と言ったという。

日本人如何称呼中国?从支那到改口中国(1)

2010-05-24 15:16:54 中国新

抗日争和抗美援朝争之后,日本人的口中支那改成了中国然只是一个用化,却是无数中国民浴血奋战果,也是中国在世界上地位化的一个形象体

抗日争的材,是近些年来国内影视剧创作的一个重点。不由于一些编导者缺乏那个特定代的背景知中出的日本侵略者还经常使用中国词汇反了史事。其,当年日本在侵华时使用的称呼是蔑意味的支那

如今提起支那,中日两国多数人已很陌生,然而在20前期凡有血性的中儿女听到烈国耻烙印的称呼便会刺耳心。翻阅战战时的日本出版物,里面充斥着支那支那派遣日支北支治安对华根本不以中国相称。日本在伪满时期,当地人更只称呼洲人。直至中国成第二次世界大利国之后,支那在日本出版物中被禁用,称呼的化正反映出中国国地位的化。

豚尾奴清国人到称支那人

如果回首中日2000余年的交往史,截至二次大战结束前日本中国的度可以概括、平、俯三个──从唐代到宋代,倭人中国文化典章全面模仿,大唐有一的崇拜感;13即台的帮助打元世祖的军队,不明朝派大抗倭援朝获胜,日本朝野对华已有野心却是平;甲午争日本获胜后,洋三中国为时半个世蔑俯种种之称陆续呼之而出。

在清朝期,日本对华只称清国,日中的中国只是其本国以广岛为中心的本州西部地区的称呼。例如甲午争的称呼,日本一直称之日清,将北洋水清国舰队。日本在争中获胜后,洋三上又以猪尾巴蔑称中国人的号。当年华侨男子或中国留学生上街,日本小孩往往放肆地在后面扯子,口中喊:清国奴!豚尾奴!穿黑制服的警察看到后一般都不加制止,放声大笑。

1912年清朝亡而中民国成立,日本人不能再称清国,却不呼正式国号而只用支那。有人认为支那音,或是英文 China的音词汇原无意,然而在中国有正式国名却称号,本身就是度。民国成立后,日本政府向北京政府、南京政送外交照会都无而称支那共和国。其不少名流日本是日出之国,乃世界中心,寓意中央之国中国之称自然不能承

支那一侮辱称呼,北洋军阀政府和南京国民政府居然期忍受。直至19305月,南京国民政府经过中央政治会议讨论认为忍无可忍,才正式下令:倘若日方公文使用支那之文字,中国外交部可断然拒接受。从同年底起,日本政府在对华外交公文中被迫称呼中民国的国名,在其它合却仍一律称呼支那

当年的日本侵略踏上中国土地,扎于北的日定名北支那北支那方面,其中的日军则命名中支那派遣。直至1945年侵军头村宁次率投降,其头衔还支那派遣军总司令官后有些中国人于此的国耻标记,在中文籍中改译为北方面中国派遣,其保留支那不要改,反而更有益于人们记住国耻。

听到辱国之称,国者常常泪下

20初至中日全面争前,曾有数十万中国留学生踏上洋三。他一走到日本人中去,就常听到居民在抱怨中西怎做得这么糟糕,好象是支那式的,甚至小孩子吵架也你怎么这样笨,你父母肯定是支那人!

当年在日本社会,支那叭嗄”(しなばか,用支那鹿”),竟成通行的笔者小候曾听郭沫若的日本夫人郭安娜自述,位原名佐滕富子的女上中国留学生郭沫若,素称明的父──“你怎能和一个支那猪婚?

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