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1743 中国の三面記事を読む(764) 日本人はどうして 「支那から中国」 と呼び名を変えたのか? (下)

日本人如何称呼中国?从支那到改口中国(2)

2010-05-24 15:16:54 中国新

かつて日本に留学した中国の有名な作家・郁達夫は小説《沈淪》の中にこういう場面を書いている。 中国の男子留学生が料理屋で、美しい日本の仲居に出会う。 “お国はどちら?”と聞かれた時、彼はどう言おうかと一瞬戸惑った。

──“日本人は中国人をさげすんでいる。 それはわれわれがブタや犬をさげすむのと同じだ。 日本人はみな中国人を「支那人」と呼んでいる。 この「支那人」なる3文字は、日本では、われわれが人をののしる時の「泥棒」よりもさらに聴きづらいものだ。 いま彼は花のようにきれいな女性の前で、「私は支那人です」と自認せざるを得なくなったのである。

“中国よ中国、お前はどうして強くならないのか!”

彼は全身震え始めた。 彼の目から涙がこぼれ落ちた。

自分の恥を素直に認めることには勇気が必要だ。 このような民族差別の中、20世紀前半の中国から出国した留学青年の大多数が日本に渡ったが、帰国後、そのうちの多くは革命の宣伝や抗日組織の先兵となった。 例えば一番早く中国共産党を組織した“南の陳独秀と北の李大釗”は、いずれも日本からの帰国留学生である。

清朝の滅亡後、日本当局は中国を分裂しようとする野心から、“歴史地理学者”にいわゆる考証をさせた後、“支那本体”は長城以南の18省だけ、“満蒙”、“回部”(新疆)とチベットはみな中国とは別だというデマを流した。 あのはげ頭の軍閥達が“満州国”や“蒙疆連合自治政府”を作り上げたのはこれを根拠にしたものである。 当時、日本の呼び方で、“支那人”は関内の中国人に限られており、東北地方の中国人に対しては決してそう呼ばず、“満州人”、“蒙古人”などと呼んでいた。 1931年、日本軍が東北全土を占領し、直ちに満州国を作った後、現地住民の中華民族の意識を消滅させるため、“中国人”という民衆に対しては軽い場合、びんたを食らわせるか、重い場合は逮捕し、強制的に“満州国民”と自称するよう命令した。 近年、国内で満州国時代のドラマを描く時、登場する日本の侵略者が、“お前達中国人”はどうのこうのと訓戒しているが、これを聞けば脚色者・演出者達の満州国の社会状況を理解してないことがよくわかる。

日本社会では“支那人”をはじめとして中国を蔑み、バカにする風潮が、盧溝橋事変を発端とした日中全面戦争開始直後頂点に達した。 当時、日本政府は中国に宣戦布告はしていなかった。 ただ、これは“支那軍膺懲のための“事変”だとし、国際的な戦争の法規を守らず、承認しようとしなかった。 この時、一部の熱狂的な軍国主義分子が“支那”の呼び方ではまだ言い足りないとして、チャンコロと呼んだ。 こうした中国侮蔑の空気に扇動された軍人達が中国の一般住民に対し大虐殺を行ったのである。 1950年代撫順戦犯収容所で改悛した日本の戦犯が、なぜ犯罪を犯したかの反省理由を述べた中でこう言っている。 “あの時、私達は中国人をまったく人と思っていませんでした。 まるで、豚や羊を殺すような感じでした……”

中国は戦勝者となり やっと敗者に呼称を変更させた

1945年8月15日、中国の人々は国恥から解放された日を迎えた。 各地の日本人はみな放心したように集まって《ポツダムの宣言》を受諾するという玉音放送を聞いていた。 中国人は3500万人が死傷(そのうち死者は約2000万人)するという代価を払って勝利し、これと同時に“支那”という中国侮蔑の言葉も終結に向かった。

日本の敗戦を境に、ニュース報道も変り始めた。 “重慶政権”、“支那軍”という伝統的呼び方から、“中国政府”、“中国軍隊”という正式名称に変った。戦後、中国から日本へ派遣された軍事代表団が東京に到着後、某メディアが依然として“支那”という言葉を使っているのを見つけ、戦勝国の立場からすぐに同盟国の米国占領軍に禁止するよう求めた。 米国占領当局は日本政府に命令を出した。 1946年6月6日、日本の外務省は各新聞、出版機関に対し、《支那の呼称を避ける件に関して》という通知を出した。 “以前、中華民国の国名として、常時使用していた「支那」という二文字は、今日から中国などという呼び名に改めること。 「支那」という言葉は、中華民国では極度に嫌われている。 戦後、中国から正式、非公式に過去何度も使用停止要求がでていることを考慮し、今後はその理由を詳しく訊ねることなく、一律に同国が憎悪する名称を使ってはならない”

この通知からは、どうしようもないという口ぶりがうかがえる。 “支那”という、中国人にとって屈辱的な言葉は、こうして日本の公開出版物から消えることになった。 しかし戦争期間中、国民党政府がいろいろ言ったのに日本には中国を尊重する気持ちがまったくなかったし、戦後の中国はまた内戦と極度に貧困の中にあったため、日本人はひそかに、“わが国は米国に負けたのであって、中国に負けたのではない”という言論が幅を利かせ、日常の会話の中では依然として“支那”という言葉が使われ続けた。

その後の歴史が証明しているように、“支那”という言葉は日本語の話し言葉から消えていった。 それは新中国の成立後、朝鮮戦争の勝利を勝ち取ったからだ。 中国が朝鮮に出兵し、“米国陸軍史上最大の惨敗”と米国メディアを驚かせた時、戦後ずっと米国に最敬礼していた日本人も非常に驚いた! 日本は過去の歴史を忘れ、かって軽蔑していた中国が甦ったことに、再び敬服の気持ちを抱くようになった。 “中国”という言葉が、こうして日本人の普通の話し言葉の中で使われるようになった。 戦後に生まれ成長した日本人のほとんどは、今、辞書を引かなければ、“支那──戦前、中国に対して使われた呼び方”という言葉を知らない。

朝鮮戦争の勝利は、日本を驚かせただけでなく、中国の軍隊が米軍との戦争で勝ったというニュースは、東北の日本戦犯収容所に伝わった時、ソ連から護送され中国に対しまだ服従していなかった戦犯達をもビックリさせた。 強者を崇めるこうした連中が、これ以降、続々と自分の罪を認め、改造を受け入れるようになり、中国の力を認識するようになった。

馬はたくましければ乗られ、人は弱ければ馬鹿にされる。 力と武力が制圧する世界では、強くないと人からバカにされる。 第次世界大戦が終わるまで中国は日本から長い間、国名を正式に扱われず、蔑称で呼ばれていた。理由は上記の通りである。 日中戦争と朝鮮戦争以降、日本人の口から“支那”という言葉が消え、“中国”に変った。 ただ用語の変化といえばそれまでだが、これは無数の中国の軍民が血みどろになって戦った結果であり、中国の世界での地位の変化を如実に表すものである。

日本人如何称呼中国?从支那到改口中国(2)

2010-05-24 15:16:54 中国新

曾留学日本的我国著名作家郁达夫在小《沉》中也写一个面:一个中国留日男子在餐里遇到一位美的日本女侍。听到国是哪里询问时,他上欲言又止──

原来日本人轻视中国人,同我们轻视猪狗一。日本人都叫中国人作'支那人''支那人'三字,在日本,比我们骂'贱贼'还难听,如今在一个如花的少女面前,他不得不自认说'我是支那人'了。

'中国啊中国,你怎大起来!'

他全身起抖来,他的眼泪又快下来了。

知耻近乎勇。在这种民族歧面前,20上半叶中国出国留学的青年大多数去了日本,回国后却有众多成了宣革命和组织抗日的先。例如最早组织成立中国共党的(独秀)北李()”,也都是国的留日学生。

清朝亡后,日本当局出于分裂中国的野心,以其史地理学家行所后又言,支那本部只有城以南的十八省,回部”(新疆)和西藏都不在其范之内,那些光头军阀们炮制洲国蒙疆自治政府恰恰以此根据。在当日本的称呼中,支那人又只限于内的中国人,对关外的中国人则绝不以此相呼,而称洲人蒙古人等。1931年日侵占全北并随即建立伪满后,当地居民的中民族意敢于自称中国人的民众轻则打耳光、重抓捕,令他自称是洲国人。在近年国内有些描写伪满时期的电视剧中,出的日本侵略者还训戒居民中国人如何如何,一听便知是编导者不了解伪满时的社会状况。

日本社会上以支那人重要志的侮、蔑华风潮,在以变为发端的全面侵华战始后展到点。当日本政府并没有对华,只称是一次暴支,不承也不遵守任何国际间争法。此一些狂国主分子称呼支那尤嫌不足,又称中国人”(“之意,由豚尾奴展而来)。受这种的日本人,自然会放手中国和平居民行大屠1950年代在抚顺战犯管理悔的日本犯通反省,追思犯罪的原因根本没有把中国人当成人,感到如同屠宰猪羊一……”

中国成为胜利者才迫使战败者改口

1945815日,中国人民迎来了洗刷日国耻的一天,各地的日本人大都如考妣地集合收听了接受《波茨坦宣言》(即要求其投降)御音。中儿女以3500万人(其中死亡2000多万人)的代价利,同也使支那一辱之称走向了终结

日本自战败起,其新闻报始改支那类传统称呼,出中国政府中国军队的正式称号。后中国派日本的事代表到达京后,发现某些媒体中仍出支那上以战胜国身份要求盟国占领军禁止,美国占当局就此向日本政府出命令。194666日,日本外省向各新出版出《于避免支那称呼事宜》的通知称:往昔通常使用'支那'二字作民国之国名,今日改用中国等称号。'支那'之称素民国所极度厌恶者。国代表曾多次正式及非正式要求停止使用该词,故今后不必细问根由,一律不得使用国所憎之名称。

个通知出无可奈何的口气,支那一使中国人极感屈辱的名词毕竟从此在日本公出版物中消失。不,由于争期国民党政府多表战败者心中并没有确立起尊重,后的中国又仍于内和极度困之中,日本人私下常有是被美国打的,并没有败给中国的言,日常口头习惯仍使用支那

后来的明,支那在日的口表述中消失,在于新中国成立后取得的抗美援朝争的利。中国敢于出兵朝,并使美国舆论惊呼遇到美国陆军史上最大的败绩后普遍美国礼膜拜的日本人不能不深感震惊!他们对过去数典忘祖而一度蔑的神州古国重新生了敬佩之感,中国就此真正成日本人平的口头语言。后出生和大的日本人,如今大都只有字典才知道:支那──系以往中国的称呼

抗美援朝争的利,不了日本本土,当中国军队对的捷报传北的日本犯管理所,那些从苏联递来而对华表示不服的也都低下了袋。些一向只崇尚者的人,就此才纷纷表示服罪并愿意接受改造,并不能不重新认识中国的力量。

善被,人弱受欺。在充满强权迫的世界上,不自就要受人侮。二次大战结束前中国的国名在日本期不被使用而冠以辱称,原因也在于此。抗日争和抗美援朝争之后,日本人的口中支那改成了中国然只是一个用化,却是无数中国民浴血奋战果,也是中国在世界上地位化的一个形象体

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