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歴史の記録から見た「楊乃武と小白菜」

史档案中的乃武与小白菜

2009-09-07 07:14:54 来源: 网易

拷問で無実の罪を着せられる

陳魯杭州府知事は事件の記録を読むと、調書を拳で叩き、“姦夫淫婦が夫を殺したに違いない!” 直ちに、楊乃武を呼び出し取り調べを行うが、まったく、楊乃武の言い分を聞くことなく、すぐ“焼けた鎖”の上にひざまずかせる残虐な刑罰を行った。 楊乃武の両膝は焼け爛れ、自供するしかなかった。 私と小白菜は庭を挟んで住んでおり、その後“ふざけているうち過ちを犯してしまいました” 8月24日、2人で葛家で“ふざけているところ”を、葛品連に見られてしまい逃げ出しました。 9月20日、小白菜に会ったところ、夫に折檻されたと言うのです。 私は、“愛する思いから、葛品連を毒殺しようという悪心を起こしました” 10月5日、“チャンスがあったら使いなさいと、砒素を小白菜にそっと渡しました” 9日、小白菜が砒素をリュウガン・スープの中に入れ、葛品連を毒殺したのです。

陳魯府知事は、砒素をどこから手に入れたかと追及した。 楊乃武は余杭から杭州へ来る途中、東郷の倉前鎮を通った時、薬屋の店先に“銭記愛仁堂”という看板が掛かっていたのを思い出し、つい口から出任せに、“杭州に用事があり、10月3日、倉前鎮を通った時、愛仁堂でネズミをやっつけるためだと言って、40文で砒素一包みを購入しました”と自供した。 陳魯府知事は、薬屋の主人の名前は何というのか訊ねた。 楊乃武はでたらめに“銭宝生”ですと答えた。

陳魯府知事は、今度は小白菜を尋問した。 彼女はまた刑罰を受けることを恐れ、前と同じ供述をした。 続いて証人が呼ばれた。 先ず沈氏が呼ばれ、楊乃武と小白菜の供述を聞かされたが、本当かどうか考えることもせず、息子の復讐に燃え、口からでまかせにウソを並べ立てた。“9日の午後、私が息子の服を着替えさせていた時、顔中血だらけで、全身黒かったんです。 それで嫁に問いただしたところ、楊乃武から砒素をもらい、息子を毒殺したことを認めました。 それで11日に、お上に申し出たのです” 陳魯府知事は、9日に息子が毒殺されたことを知ったのなら、どうして11日になって役所に届け出たのか? 不審に思わなかった。 それから王林と王心培を呼び出した。 二人は、8月24日、葛品連が妻を殴った時、楊乃武は葛家には来なかったこと、葛品連が死ぬ前に熱を出し病気だったことを知っていたが、楊乃武と小白菜がもう罪を認めたことから、二人のために弁明する必要はないと、これまた口から出任せに、ウソの証言を行った。

10月27日、陳魯府知事は、劉錫県知事に“銭宝生”を召喚し尋問するよう命じた。 実は“銭宝生”の本名は銭坦といい、もともと楊乃武に砒素など売ってはいなかった。 劉錫県知事は陳湖と沈彩泉を脅したり甘いことをいったりして手なづけた。 銭坦は楊乃武に砒素を売ったと認めるしかなかった。 この頃、劉錫県知事以下、みんな楊乃武と小白菜が無実であることがわかっていた。 しかし、みんな個人の都合から、誰一人正義を申し立てることなく、あまつさえ懸命になって偽証作りをした。

陳魯府知事は、銭坦の偽証を受け取ると、早々に最終決定を下した。 《大清律令》の判例に基づき、小白菜を“凌迟の刑”(人体を切り刻み死にいたらせる処刑法)に処し、楊乃武を“直ちに打ち首”とする旨、浙江の楊昌浚巡撫(民政・軍政長官)に報告した。

楊昌浚巡撫は、この事件を慎重に取り調べるため、黄岩、鄭錫滓の二人を余杭県に密かに派遣した。 劉錫知事は、事前にこの情報を知り、二人を盛大な宴会を設け、ねんごろに歓待したばかりか、次々と賄賂も贈った。 そのため二人は、楊昌浚巡に連名で、“事件の内容は確実なものであり、冤罪はなく、度を越した取り調べもない”と報告した。楊昌浚巡撫は、調査した者とされる側が共同で“密偵訪告”の結論を書いたことに気づかず、そのまま刑部省に報告した。 各級の官吏達が、人命をいいかげんに扱っていたことが、これからもよくわかる。

杭州府の「3裁判」の再審

刑部省は調書を受け取り、再審を始めた。 同治13年(1874年)4月、楊乃武は獄中で“抗弁書”を書いた。 小白菜が拷問を受けたため、自分が濡れ衣を着せられたこと、自分もまた同じくひどい刑罰を受け、拷問に耐え切れず嘘の自白をしてしまった経過を詳細に明らかにし、なんとかこの“抗弁書”を姉の葉楊氏(楊菊貞)の元に送り届けた。 葉楊氏は使用人の王阿木とそのいとこの王和尚に、楊乃武の“抗弁書”を北京の都察院(行政監察院)に提出させた。 都察院は型通りに、この“抗弁書”を楊昌浚巡撫に送り、この事件の再調査を命じた。

楊乃武は“抗弁書”の中で、陳魯府知事が拷問で自白を強要したと告発していたのに、楊昌浚巡は、陳魯府知事にこの事件の再審を命じた。陳魯府知事は再審の時、また楊乃武の言い分を許さず、ただ極刑で脅そうとした。 楊乃武は、陳魯府知事にこの事件の名誉回復を期待するのは無理な相談だと悟った。 また肉体の苦しみを受けないよう、罪を認めるしかなかった。 小白菜も尚更供述をひるがえすことはできなかった。 陳魯浚巡は、第一審通りの結果で、楊昌浚巡撫に報告した。

この年の9月、楊乃武は再度、訴状を書いた。 楊乃武の妻の詹氏が、人に頼んで北京の歩兵統領役所に訴え出た。 歩兵統領役所は朝廷に上奏した。 慈禧太后(西太后)は初めてこの事件を知り、勅諭を下した。“楊昌浚巡撫が自ら厳しく審問せよ” 楊昌浚巡撫は事態が大きくなったことを知り、錫光湖州府知事に彼に代わって再審するよう頼んだ。 なぜかというと、西太后は彼ら漢人の役人を信用していないことを知っているからで、満州族の役人が再審すれば、西太后の信任が得られるし、万一、再審に問題があっても、自分は責任を逃れられると思ったからだ。

錫光湖州府知事がちょうど再審を開こうとした矢先、同治13年(1874年)12月5日、同治帝が病死し、光緒帝が即位した。 大葬があったため、すべての政務はストップしてしまい、錫光湖州府知事は湖州府に戻り喪に服していた。 翌年(1875年)2月12日から再審を開始した。今回の再審は後の文芸作品で書かれている“3裁判の再審”である。

今度の取り調べでは拷問はなかった。 楊乃武、小白菜は揃って供述を翻した。 これまで、何度も酷い刑罰で自白を強いられたことを話した。銭坦も劉錫県知事から脅され楊乃武に砒素を売ったことを認めた経緯を話した。 錫光府知事はどうしたらよいか分からず、楊昌浚巡に話し、指示を仰いだ。 楊撫は、“これまで何度も朝廷に、この事件は確実で間違いないと報告を上げていた。 今回もしこれを否定したなら、自分が以前行ったことを否定するのに等しい。 将来に影響することになる。 そこで「審理したがはっきりすることができなかった」ということで朝廷をごまかそう”と考えた。

酷刑下冤上加冤

杭州知府陈鲁听了案卷后,一拳在案卷上,奸夫淫妇谋夫!立即传审杨乃武,根本不容他分,即施跪火酷刑。乃武双膝被焦,只得招供:自己与葛氏同院居住,后调戏成奸,八月二十四日二人在葛家房内玩笑,被葛品,自己逃走。九月二十日,到葛氏,她被丈夫打,自己恋奸情,起意把葛品毒死。十月初五日将砒霜密交葛氏收藏,嘱她乘便下手。初九日,葛氏把砒霜和入桂圆汤内,毒死葛品

陈鲁砒霜自何而来?乃武想起从余杭到杭州,经过东乡仓,曾有一家药铺门口挂着钱记爱仁堂的招牌,随口供因有事去杭州,十月初三日路过仓,在仁堂捏称毒鼠,用四十文,得砒末一包。陈鲁问药店老板叫什名字,乃武胡是叫宝生

陈鲁审问氏,她惧怕再受刑,所供同前。接着传证人,先氏,她听到乃武和葛氏的供后,也不得考是真是假,只是腔仇恨要儿子仇,因而信口河、胡八道:初九那天下午,我儿子衣服,流血,黑,盘问,她承乃武她砒霜,毒死我儿子,十一日我便陈鲁也不想想,初九就知道自己儿子被毒死了,何以十一日才?王林和王心培,他心里明白:八月二十四日葛品连责打妻子,乃武并未来葛家;葛品死前发烧,确有病情,但他俩见杨乃武和葛氏都已承,何必再,遂也信口雌黄,作了伪证

十月二十七日,陈鲁令刘传讯宝生实则他叫坦,根本没有卖过砒霜给杨乃武。刘让陈湖和沈彩泉威逼利坦只得承认卖砒霜给杨乃武。此,自刘彤以下,大家都知道乃武与葛氏是冤枉的,但各自出于个人目的,不无一人,且都竭力作伪证

陈鲁接到坦的伪证后,草草定案,根据《大清律例》罪:葛迟处乃武立决,上浙江巡抚杨昌浚。

昌浚此案慎重起,派黄岩县郑锡滓到余杭微服私访。刘彤事先得消息,盛宴款待,重重贿赂,二人竟名回复杨昌浚,称案情确,无冤无?也没留意调查者和被者居然共同写访结论,于是上刑部。各官吏草菅人命,可一斑。

杭州府三堂会

刑部接到案卷后,正在核。同治十三年(1874)四月,乃武在中写了详细揭露了葛氏受刑后攀自己,自己亦在酷刑下屈打成招的经过,并法将送到自己姐姐叶()手中。叶家中佣工王阿木和其堂弟王和尚,携乃武的到京都察院呈。京都察院按例行公事,将此发还杨昌浚复查此案。

乃武在中控告陈鲁严刑逼供,但昌浚却令陈鲁复审此案。陈鲁复审时,根本不许杨乃武分,只是用重刑威吓,乃武知道,寄希望于陈鲁平反此案,无异于与虎皮,免再受皮肉之苦,只得再次招;葛氏更不敢翻供。陈鲁仍照原审结果,上报杨昌浚。

年九月,乃武再次写了呈,由其妻詹氏托人上京师步军统领上告。步军统领上奏朝廷,慈禧太后第一次知道案子,降旨:昌浚司严讯昌浚发现事情大,决定湖州知府光代为复审,因他知道慈禧太后们这人封疆大吏不信任,希望由一位人官员复审,一是取得慈禧信任,二是万一发现复审问题,自己可以任。

光正要复审,同治十三年(1874)十二月五日,同治帝病死,光位。国有大,一切政均要置,光赶回湖州府奠哭灵,直到第二年(1875)二月十二日才继续复审复审后来文作品中所描三堂会

审讯没有刑,乃武、葛氏双双翻供,刑逼供之事;坦也出刘彤如何威逼他承认卖砒霜给杨乃武之经过光不知如何是好,昌浚。心想:以前次上朝廷,都称案情确切,若次否定了,等于否定了自己以前所,会影响前程,因而以未能搪塞朝廷。     (本文来源:网易 作者:余)

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