1514 中国の三面記事を読む(644) 清末四大奇案【1】 楊乃武と小白菜 (2)
歴史の記録から見た「楊乃武と小白菜」
历史档案中的杨乃武与小白菜
2009-09-07 07:14:54 来源: 网易历史
拷問で無実の罪を着せられる
陳魯杭州府知事は事件の記録を読むと、調書を拳で叩き、“姦夫淫婦が夫を殺したに違いない!” 直ちに、楊乃武を呼び出し取り調べを行うが、まったく、楊乃武の言い分を聞くことなく、すぐ“焼けた鎖”の上にひざまずかせる残虐な刑罰を行った。 楊乃武の両膝は焼け爛れ、自供するしかなかった。 私と小白菜は庭を挟んで住んでおり、その後“ふざけているうち過ちを犯してしまいました” 8月24日、2人で葛家で“ふざけているところ”を、葛品連に見られてしまい逃げ出しました。 9月20日、小白菜に会ったところ、夫に折檻されたと言うのです。 私は、“愛する思いから、葛品連を毒殺しようという悪心を起こしました” 10月5日、“チャンスがあったら使いなさいと、砒素を小白菜にそっと渡しました” 9日、小白菜が砒素をリュウガン・スープの中に入れ、葛品連を毒殺したのです。
陳魯府知事は、砒素をどこから手に入れたかと追及した。 楊乃武は余杭から杭州へ来る途中、東郷の倉前鎮を通った時、薬屋の店先に“銭記愛仁堂”という看板が掛かっていたのを思い出し、つい口から出任せに、“杭州に用事があり、10月3日、倉前鎮を通った時、愛仁堂でネズミをやっつけるためだと言って、40文で砒素一包みを購入しました”と自供した。 陳魯府知事は、薬屋の主人の名前は何というのか訊ねた。 楊乃武はでたらめに“銭宝生”ですと答えた。
陳魯府知事は、今度は小白菜を尋問した。 彼女はまた刑罰を受けることを恐れ、前と同じ供述をした。 続いて証人が呼ばれた。 先ず沈喻氏が呼ばれ、楊乃武と小白菜の供述を聞かされたが、本当かどうか考えることもせず、息子の復讐に燃え、口からでまかせにウソを並べ立てた。“9日の午後、私が息子の服を着替えさせていた時、顔中血だらけで、全身黒かったんです。 それで嫁に問いただしたところ、楊乃武から砒素をもらい、息子を毒殺したことを認めました。 それで11日に、お上に申し出たのです” 陳魯府知事は、9日に息子が毒殺されたことを知ったのなら、どうして11日になって役所に届け出たのか? 不審に思わなかった。 それから王林と王心培を呼び出した。 二人は、8月24日、葛品連が妻を殴った時、楊乃武は葛家には来なかったこと、葛品連が死ぬ前に熱を出し病気だったことを知っていたが、楊乃武と小白菜がもう罪を認めたことから、二人のために弁明する必要はないと、これまた口から出任せに、ウソの証言を行った。
10月27日、陳魯府知事は、劉錫彤県知事に“銭宝生”を召喚し尋問するよう命じた。 実は“銭宝生”の本名は銭坦といい、もともと楊乃武に砒素など売ってはいなかった。 劉錫彤県知事は陳湖と沈彩泉を脅したり甘いことをいったりして手なづけた。 銭坦は楊乃武に砒素を売ったと認めるしかなかった。 この頃、劉錫彤県知事以下、みんな楊乃武と小白菜が無実であることがわかっていた。 しかし、みんな個人の都合から、誰一人正義を申し立てることなく、あまつさえ懸命になって偽証作りをした。
陳魯府知事は、銭坦の偽証を受け取ると、早々に最終決定を下した。 《大清律令》の判例に基づき、小白菜を“凌迟の刑”(人体を切り刻み死にいたらせる処刑法)に処し、楊乃武を“直ちに打ち首”とする旨、浙江の楊昌浚巡撫(民政・軍政長官)に報告した。
楊昌浚巡撫は、この事件を慎重に取り調べるため、黄岩、鄭錫滓の二人を余杭県に密かに派遣した。 劉錫彤県知事は、事前にこの情報を知り、二人を盛大な宴会を設け、ねんごろに歓待したばかりか、次々と賄賂も贈った。 そのため二人は、楊昌浚巡撫に連名で、“事件の内容は確実なものであり、冤罪はなく、度を越した取り調べもない”と報告した。楊昌浚巡撫は、調査した者とされる側が共同で“密偵訪告”の結論を書いたことに気づかず、そのまま刑部省に報告した。 各級の官吏達が、人命をいいかげんに扱っていたことが、これからもよくわかる。
杭州府の「3裁判」の再審
刑部省は調書を受け取り、再審を始めた。 同治13年(1874年)4月、楊乃武は獄中で“抗弁書”を書いた。 小白菜が拷問を受けたため、自分が濡れ衣を着せられたこと、自分もまた同じくひどい刑罰を受け、拷問に耐え切れず嘘の自白をしてしまった経過を詳細に明らかにし、なんとかこの“抗弁書”を姉の葉楊氏(楊菊貞)の元に送り届けた。 葉楊氏は使用人の王阿木とそのいとこの王和尚に、楊乃武の“抗弁書”を北京の都察院(行政監察院)に提出させた。 都察院は型通りに、この“抗弁書”を楊昌浚巡撫に送り、この事件の再調査を命じた。
楊乃武は“抗弁書”の中で、陳魯府知事が拷問で自白を強要したと告発していたのに、楊昌浚巡撫は、陳魯府知事にこの事件の再審を命じた。陳魯府知事は再審の時、また楊乃武の言い分を許さず、ただ極刑で脅そうとした。 楊乃武は、陳魯府知事にこの事件の名誉回復を期待するのは無理な相談だと悟った。 また肉体の苦しみを受けないよう、罪を認めるしかなかった。 小白菜も尚更供述をひるがえすことはできなかった。 陳魯浚巡撫は、第一審通りの結果で、楊昌浚巡撫に報告した。
この年の9月、楊乃武は再度、訴状を書いた。 楊乃武の妻の詹氏が、人に頼んで北京の歩兵統領役所に訴え出た。 歩兵統領役所は朝廷に上奏した。 慈禧太后(西太后)は初めてこの事件を知り、勅諭を下した。“楊昌浚巡撫が自ら厳しく審問せよ” 楊昌浚巡撫は事態が大きくなったことを知り、錫光湖州府知事に彼に代わって再審するよう頼んだ。 なぜかというと、西太后は彼ら漢人の役人を信用していないことを知っているからで、満州族の役人が再審すれば、西太后の信任が得られるし、万一、再審に問題があっても、自分は責任を逃れられると思ったからだ。
錫光湖州府知事がちょうど再審を開こうとした矢先、同治13年(1874年)12月5日、同治帝が病死し、光緒帝が即位した。 大葬があったため、すべての政務はストップしてしまい、錫光湖州府知事は湖州府に戻り喪に服していた。 翌年(1875年)2月12日から再審を開始した。今回の再審は後の文芸作品で書かれている“3裁判の再審”である。
今度の取り調べでは拷問はなかった。 楊乃武、小白菜は揃って供述を翻した。 これまで、何度も酷い刑罰で自白を強いられたことを話した。銭坦も劉錫彤県知事から脅され楊乃武に砒素を売ったことを認めた経緯を話した。 錫光府知事はどうしたらよいか分からず、楊昌浚巡撫に話し、指示を仰いだ。 楊巡撫は、“これまで何度も朝廷に、この事件は確実で間違いないと報告を上げていた。 今回もしこれを否定したなら、自分が以前行ったことを否定するのに等しい。 将来に影響することになる。 そこで「審理したがはっきりすることができなかった」ということで朝廷をごまかそう”と考えた。
酷刑下冤上加冤
杭州知府陈鲁听了案卷后,一拳击在案卷上,说:“奸夫淫妇谋害亲夫!”立即传审杨乃武,根本不容他分辩,即施“跪火练”酷刑。杨乃武双膝被烧焦,只得招供:自己与葛毕氏同院居住,后“调戏成奸”,八月二十四日二人在葛家“房内玩笑”,被葛品连撞见,自己逃走。九月二十日,见到葛毕氏,她说被丈夫责打,自己“恋奸情热,起意把葛品连毒死”。十月初五日将砒霜“密交葛毕氏收藏,嘱她乘便下手”。初九日,葛毕氏把砒霜和入桂圆汤内,毒死葛品连。
陈鲁追问砒霜自何而来?杨乃武想起从余杭到杭州,经过东乡仓前镇,曾见有一家药铺门口挂着“钱记爱仁堂”的招牌,随口供认:“因有事去杭州,十月初三日路过仓前镇,在爱仁堂捏称毒鼠,用钱四十文,买得砒末一包。”陈鲁问药店老板叫什么名字,杨乃武胡说是叫“钱宝生”。
陈鲁又审问葛毕氏,她惧怕再受刑,所供同前。接着传证人,先传沈喻氏,她听到杨乃武和葛毕氏的供词后,也顾不得考虑是真是假,只是满腔仇恨要为儿子报仇,因而信口开河、胡说八道:“初九那天下午,我给儿子换衣服,见七窍流血,浑身发黑,盘问媳妇,她承认是杨乃武给她砒霜,毒死我儿子,十一日我便报官。”陈鲁也不想想,初九就知道自己儿子被毒死了,何以十一日才报官?再传王林和王心培,他们心里明白:八月二十四日葛品连责打妻子,杨乃武并未来葛家;葛品连死前发烧,确有病情,但他俩见杨乃武和葛毕氏都已承认,何必再为他们申辩,遂也信口雌黄,作了伪证。
十月二十七日,陈鲁令刘锡彤传讯“钱宝生”,实则他叫钱坦,根本没有卖过砒霜给杨乃武。刘锡彤让陈湖和沈彩泉威逼利诱,钱坦只得承认卖砒霜给杨乃武。此时,自刘锡彤以下,大家都知道杨乃武与葛毕氏是冤枉的,但各自出于个人目的,不仅无一人为他们伸张正义,且都竭力作伪证。
陈鲁接到钱坦的伪证后,草草定案,根据《大清律例》拟罪:葛毕氏“凌迟处死”,杨乃武“斩立决”,上报浙江巡抚杨昌浚。
杨昌浚审此案时,为慎重起见,派黄岩县候补知县郑锡滓到余杭县微服私访。刘锡彤事先得消息,盛宴款待,重重贿赂,二人竟联名回复杨昌浚,称“案情确凿,无冤无滥”。杨昌?也没留意调查者和被查者居然共同写“密访”结论,于是上报刑部。各级官吏草菅人命,可见一斑。
杭州府三堂会审
刑部接到案卷后,正在复核。同治十三年(1874年)四月,杨乃武在狱中写了“供辩”,详细揭露了葛毕氏受刑后攀诬自己,自己亦在酷刑下屈打成招的经过,并设法将这份“供辩”送到自己姐姐叶杨氏(杨菊贞)手中。叶杨氏让家中佣工王阿木和其堂弟王和尚,携杨乃武的“供辩”到京师都察院呈递。京师都察院按例行公事,将此“供辩”发还杨昌浚复查此案。
杨乃武在“供辩”中控告陈鲁严刑逼供,但杨昌浚却令陈鲁复审此案。陈鲁复审时,根本不许杨乃武分辩,只是用重刑威吓,杨乃武知道,寄希望于陈鲁平反此案,无异于与虎谋皮,为免再受皮肉之苦,只得再次招认;葛毕氏更不敢翻供。陈鲁仍照原审结果,上报杨昌浚。
这年九月,杨乃武再次写了呈词,由其妻詹氏托人上京师步军统领衙门上告。步军统领衙门又上奏朝廷,慈禧太后第一次知道这案子,降旨:“交杨昌浚司亲提严讯。”杨昌浚发现事情闹大,决定请湖州知府锡光代为复审,因为他知道慈禧太后对他们这批汉人封疆大吏不信任,希望由一位满人官员复审,一是取得慈禧信任,二是万一发现复审有问题,自己可以开脱责任。
锡光正要复审,同治十三年(1874年)十二月五日,同治帝病死,光绪帝继位。国有大丧,一切政务均要搁置,锡光赶回湖州府设奠哭灵,直到第二年(1875年)二月十二日才继续复审。这次复审即为后来文艺作品中所描绘的“三堂会审”。
这次审讯没有动刑,杨乃武、葛毕氏双双翻供,讲出历次严刑逼供之事;钱坦也讲出刘锡彤如何威逼他承认卖砒霜给杨乃武之经过。锡光不知如何是好,请示杨昌浚。杨心想:以前历次上报朝廷,都坚称案情确切,若这次否定了,等于否定了自己以前所为,会影响前程,因而以“未能审出结果”的话搪塞朝廷。 (本文来源:网易历史 作者:余刚)
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