1516 中国の三面記事を読む(646) 清末四大奇案【1】 楊乃武と小白菜 (4)完
歴史の記録から見た「楊乃武と小白菜」
历史档案中的杨乃武与小白菜
2009-09-07 07:14:54 来源: 网易历史
刑部省 北京の裁判で冤罪を晴らす
胡瑞瀾長官は以前10月30日、西太后の詔書を受けてから、いい加減に裁判を行い、事件をあいまいに終わらせようとした。 彼は今はもうあまり恐れていなかった。 というのは“銭宝生”(銭坦)が11月12日に突然死んでしまったからだ。 なんで死んだのか、今なお未解決のままである。 検証しなかったからだ。 胡瑞瀾はホッと一息ついたのも束の間、思いがけなくまた12月14日、詔書を受け取った。 今度は一大事、情勢が悪いと感じた。 こいつらが北京へ行って何をしゃべるかわかっていた。 しかし、天子の命令とあらば、手の施しようがなかった。
光緒2年4月末、刑部省は先に楊乃武の砒素購入の件を尋問することにした。 呉玉琨、楊恭治、詹善政らが皆、楊乃武が10月3日から6日まで南郷に行っており、砒素を購入することはあり得ないと証明した。 愛仁堂の店員の楊小橋、銭坦の母親の銭姚氏も楊乃武が砒素を買ったことはないと証言した。 小白菜も真実の情況を話し、拷問の下、楊乃武に罪を着せたことを認めた。 また沈喩氏も取調べの中で、息子は“丹毒”の病気にかかっていた。 毒殺されたかどうかはわからない。 ただ検死を願い出ただけですと事実を語った。 王林、王心培も、葛品連は死ぬ前に病気にかかっていた。 毒に当ったのかどうかは分からない話した。
刑部省は、検死した沈祥を取り調べた。 沈祥は、自分はまだ見習いの検死官で、葛品連が一体なんで死んだのか、彼自身もよく分からない。針を抜いた時、トウサイカチの水で拭かなかったこと、沈彩泉が自分に砒素にやられたと言わせたことなど本当のことを述べた。
刑部省は再審結果を西太后に上奏し、葛品連の死体が入った棺と劉錫彤県知事、沈彩泉などを北京へ呼び寄せ、棺を開けて検死するよう願い出た。 9月17日、西太后の同意を得て、楊昌浚巡撫に直ちに実行するよう命じた。
海会寺で棺桶を開け検死を行う
光緒2年11月20日、劉錫彤県知事、沈彩泉及び葛品連の死体が入った棺桶が北京へ護送されてきた。 死体の棺桶は北京朝陽門外の神路街の海会寺境内に止め置かれた。
刑部省は先ず、劉錫彤県知事に尋問した。 彼はトウサイカチの水で針を拭かなかったことを認めたが、これは彼が検死役人ではないから責任は問えない。 他の事も一切認めなかった。 次に沈彩泉を呼び出した。 彼は銭坦をいかにおどし、楊乃武が砒素を買ったことにしたかの経緯を証言した。 傍らにいた劉錫彤県知事は官界の決まりもなんのその、こぶしを挙げて沈彩泉に殴りかかり、裁判所は混乱し、尋問は続けられなかった。
この事件はもう再審する必要はなくなった。 しかし、葛品連が病死かそれとも毒殺か、最終確認する必要があった。
12月9日、刑部省は海会寺で棺桶を開け検死を行った。 この日、刑部省の満州族、漢族の尚書、侍郎と証人ら全員が、海会寺に集まった。開棺の前、劉錫彤県知事に棺の封印を確認させ、刑部省の検死役人が棺を開けた。
棺桶を開けると、死臭が鼻をついた。 死んでからすでに3年が経ち、身体の皮と肉はもう腐ってなくなり、骨しか残っていなかった。 老練な検死役人は骨が黄白色であるのを見て、すぐに“病死です”と断言した。 劉錫彤県知事は、これが自分の将来と一家の生命、財産に関係することなので、あきらめきれず、いくつかの骨を指差し“青黒いじゃないか”と言った。 検死役人は、“外側の青黒いのはかびです。 骨を折って見れば中は黄白色です。 もし、毒にやられたのなら、中も青黒くなっています”と言った。
劉錫彤県知事はなおも棺おけの中を細かく見ていたが、実際は何もわからなかった。 新任の皂保刑部尚書が、彼にほかに何か言いたいことがあるかとたずねた。 その時になって、劉錫彤県知事はやっと帽子を取り、刑部省の各官の前に跪いて、“確かに毒ではなく病死です”と認めた。
光緒3年2月16日、皂保刑部尚書が筆頭となって上奏し、詳細に全事件の経過を述べ、結論として、“本事件は劉錫彤県知事が毒死と誤認し、小白菜を拷問し、そのため小白菜がでたらめな供述をし、楊乃武が逮捕され、そして楊乃武がウソの供述をしたため、銭坦が召喚され、彼がまた偽証をし、小白菜、楊乃武が死罪という無実の罪を着せられることになった。 その結果、陳魯府知事のいい加減な取り調べ、楊昌浚巡撫のおざなりな判決、胡瑞瀾長官もよく調べもせず上奏するなど、何度も裁判がいいかげんに行われたことは、全て劉錫彤県知事が軽々に服毒死との検死報告を信じ、冤罪を引き起こしたことは明らかである”
数人の刑部官達は冤罪が形成された原因を検討した。 楊乃武と劉錫彤県知事はいずれも、この事件の前には二人の間には些かも個人的恨みはないと言っている。 本事件発生後、劉錫彤県知事が楊乃武をゆすっていることもなかった。 11日朝、沈喻が裁判に訴え出た。 12日、楊乃武を取り調べ終わった後、すぐ上司に楊乃武の挙人の資格剥奪を求めている。 この間、中断はない。 もし楊乃武に金を要求するつもりがあれば、数日はかかる筈だ。 金が取れなくなってから、上司へ報告するはずだ。 このことから、劉錫彤県知事は汚職官吏ではなかったことが実証された。 では、劉錫彤県知事は楊乃武と小白菜の不倫が許されなかったのだろうか? 刑部官達は、何度も調書と人証尋問内容を読んだが、彼らが不倫していると証する者はいなかったし、判決の中でも、姦通だったとする指摘はなかった。 それでは、各級の官吏達はどうして一致協力してこの冤罪事件を作り出してしまったのか?
もちろん、刑部省の官吏達は理解することができなかった。 封建専制統治の制度下では、中世紀特有の法制の非科学的で、不健全さがあり、各役所の役人達の素質の悪さ、無知蒙昧でただ拷問で自白を迫り、ひたすら人命を軽んじていた。 また地方の行政のやり方はいい加減で、役人同士お互いがかばい合っていた。 このような社会で、このような官吏が裁判をするのだから、冤罪、誤審は必然的なことだった。
最終的処分は次のようになった。 沈祥は“杖刑80、懲役2年”、劉錫彤県知事は、“免職、黒龍江へ行き、罪を償う”、陳魯府知事、鄭錫滓、楊昌浚巡撫、胡瑞瀾長官は皆免職となった。 沈彩泉は“杖刑百、2千里外流罪”、沈喩氏は“杖刑百、懲役4年”、王心培、王林、沈体仁は“杖刑80”となった。
冤罪事件の発生から、大清国の法律にひとかけらの公正さも見出すことが出来ない。 最終処分で突然手品のように“公正”が飛び出した。 だが、この“公正”は何と言ったらいいかわからないものだ。 これは楊乃武と小白菜の処分を見れば分かる。 もともと、彼らには名誉を回復すべきだ。 しかし、刑部省の官吏達は依然として、“原因なくして事は起きない。 何故他の人が無実の罪じゃなくて、お前たちだけが無実なんだ?”この言葉は、劉錫彤、陳魯、楊昌浚、胡瑞瀾全員に言われた。刑部官達は今もってこのような見方をし、楊乃武に対し次の処分を行った。 “小白菜と不倫の確かな証拠はなかったが、一緒に食事し、勉強を教えるとは「疑いを避ける」(男女7歳にして席を同じうするなかれ)を知らなすぎだ。 また、何春芳が葛家でふざけていたと事実無根のことを言ったのは、自分の罪を脱がれるため、陥し入れようとしたものであり、獄中にいるものが無実の人を誹謗するもので、法律に背くものである。 杖刑百とする。 すでに挙人を免じられているが、それについては審議はしない” 楊乃武は“杖刑百、挙人の資格は剥奪”となった。小白菜はというと、“楊乃武と夫を毒殺を企んだとのウソの供述をしたことは、刑を恐れたものであるが、楊乃武と一緒にいたことは「嫌疑を避けなかった」もので、余計な批判を招いてしまった。 密通の証拠はないものの、婦道の道を守らなかったものであり、杖刑80に処する”
陳湖、銭坦と劉錫彤の子はすでに死んでおり、処分はなかった。 しかし、刑部省は銭坦がなんで死んだかは、調査しなかった。 それが本事件の一大手落ちである。 葛品連の死体は北京近郊に埋められた。
この冤罪事件は、西太后の下、10回ほど詔書が往復し、やっと無罪となった。
楊乃武は裁判のため、財産はすっかりなくなり、養蚕で暮らしを立てた。1914年9月、股間に悪性の腫れ物ができ、病気が治らないまま死んだ。 余杭県城西門外の新廟前に埋葬された。 享年74歳だった。
小白菜は余杭に戻ったが、独りぼっちで、失意のどん底に落ち込んだ。余杭県城南門外、石門塘の准提庵で出家し、法名“慧定”という尼になった。 庵の中にはお参りに来る人もなく、ニワトリやブタを飼って、暮らしを立て晩年を過ごした。 彼女は1930年亡くなった。同じく享年74歳だった。 墓は余杭県東門外文昌閣の側にある。
(本文出所:網易歴史 作者:余剛)
刑部京审洗沉冤
胡瑞澜先前接到十月三十日慈禧太后的上谕,草草审了两次,没有动刑,想敷衍一下。他现在不太害怕了,因为“钱宝生”(钱坦)于十一月十二日突然死去,因何而死,至今是个悬案,死无对证。胡瑞澜长出了一口气,但没想到又接到十二月十四日的上谕,这才感到大事不妙,虽然知道这批人到北京会说些什么,可面对圣旨,又束手无策。
光绪二年四月底,刑部先审讯杨乃武买砒霜之事,吴玉琨、杨恭治、詹善政均证明杨乃武于十月初三至初六日在南乡,不可能买砒霜,爱仁堂伙计杨小桥、钱坦之母钱姚氏亦证明杨乃武未买过砒霜。葛毕氏供出真实情况,承认在酷刑下诬陷了杨乃武。再审沈喻氏,也说了实话:儿子有“流火”症,自己并不知道他是否被毒死,只请求验尸。又审王林、王心培,他们证实葛品连死前已病,不知中毒否。
刑部又审验尸人沈祥,沈祥说了实话:自己只是一个学习的仵作(验尸官),葛品连到底因何而死,他自己根本不清楚,且拔出银针后未用皂角水擦拭,是沈彩泉让自己说是中砒毒的。
刑部将复审结果上奏慈禧,请求将葛品连尸棺及刘锡彤、沈彩泉等押解北京,开棺验尸。九月十七日,得到慈禧太后同意,通知杨昌浚立即执行。
海会寺开棺验尸
光绪二年十一月二十日,刘锡彤、沈彩泉以及死去的葛品连的尸棺被押解到京,尸棺停在北京朝阳门外神路街海会寺内。
刑部先提审刘锡彤,他只承认未用皂角水擦拭银针,因为他不是仵作,可以不负责任,其他事概不承认。又提审沈彩泉,他供出了如何逼迫钱坦证实杨乃武买砒霜的经过。在一旁的刘锡彤顾不得官场规矩,举拳就打沈彩泉,堂上乱成一团,无法审讯。
此案实则无须再审了,但必须证实葛品连是病死还是被毒死,以便定案。十二月初九日,刑部在海会寺开棺验尸。这一天,刑部满汉尚书、侍郎以及证人们全到海会寺。开棺之前,先令刘锡彤查看封条,认明原棺无误,即由刑部仵作开棺。
棺木打开,尸臭扑鼻,人死已近3年,皮肉已腐烂,仅余骨骸,老练的仵作一见骨头黄白,即断言:“因病身死。”刘锡彤明白这关系到自己前程乃至身家性命,不死心,指着几块骨头说是“青黑色”,仵作说“外边青黑色乃发霉所致,挫断骨头,里边黄白;若中毒,里边亦青黑色”。
刘锡彤仍绕着棺材细看,其实他什么也不懂。新任刑部尚书皂保问他还有什么话说,此时刘锡彤才摘下顶戴,跪在刑部各官面前,承认“委系无毒,因病身死”。
光绪三年二月十六日,刑部尚书皂保领衔上奏,洋洋万言,详细介绍了全案经过,结论为:“此案刘锡彤因误认尸毒,而刑逼葛毕氏;因葛毕氏妄供,而拘拿杨乃武;因杨乃武妄供,而传讯钱坦;因钱坦被诱捏结(伪证),而枉坐葛毕氏、杨乃武死罪。以致陈鲁草率审详,杨昌浚照依题结,胡瑞澜迁就复奏。历次审办不实,皆由轻信刘锡彤验报服毒,酿成冤狱,情节显然。”
几位刑部官员探讨冤狱形成的原因:杨乃武与刘锡彤都坚称,在此案之前他们毫无私仇,案发后,刘锡彤也没有勒索杨乃武。十一日早上沈喻氏上告,十二日审完杨乃武,即请求上司革去杨乃武举人功名,中间没有间断。若企图勒索杨乃武,必然要耽搁几日,勒索不成,才上报,以此证实,刘锡彤不是贪官。那么,是否由于刘锡彤不能容忍杨乃武与葛毕氏的奸私呢?几位刑部官员反复查阅案卷,并审讯人证,未有任何人证实他们通奸,在定案时亦未指斥他们有奸情。那么,各级官员为何齐心协力制造这起冤案呢?
当然,刑部官员们不可能认识到,在一个封建专制统治的制度下,具有中世纪特色的法制极不科学、极不健全,各级官员素质极差,愚昧野蛮,只知严刑逼供,一味草菅人命,且吏治败坏,官官相护。这样的社会里,由这样的官吏办案,造成冤假错案就是必然的了。
最后的处理为:沈祥“杖八十,徒二年”;刘锡彤“革职,从重发往黑龙江效力,赎罪”;陈鲁、郑锡滓、杨昌?、胡瑞澜均革职;沈彩泉“杖一百,流二千里”;沈喻氏“杖一百,徒四年”;王心培、王林、沈体仁“杖八十”。
自冤案发生起,看不出大清国的法律有一丝一毫的公正,可在最后处理上,它突然像变戏法似地“公正”起来,且“公正”得令人啼笑皆非,这体现在对杨乃武和葛毕氏的处理。本来已给他们平反,但刑部官员依然认为:“无风不起浪,为何不冤枉别人,单冤枉你俩?”这句话,刘锡彤、陈鲁、杨昌?、胡瑞澜全都讲过,现在刑部官员也是如此看法,并如此处理杨乃武:“讯无与葛毕氏通奸确据,但就同食教经而论,亦属不知远嫌。又复诬指何春芳在葛家之玩笑,虽因图脱己罪,并非有心陷害,实系狱囚诬指平人,有违定制律。应杖一百,业已革去举人,免其再议。”杨乃武落个“杖一百,革去举人功名”。关于葛毕氏“捏供与杨乃武商令谋毒本夫,讯因畏刑所致,惟与杨乃武同居时,不避嫌疑,致招他议,虽无奸私实据,实属不守妇道,拟杖八十。”
陈湖、钱坦及刘锡彤之子已死,未作处理。但刑部亦未调查钱坦因何而死,乃本案一大疏漏。葛品连的尸棺就近埋在京郊。
这件冤狱,慈禧太后共下10道上谕,才得平反。
杨乃武自遭官司,家产荡然,以养蚕种桑为生,1914年9月腿股间患疮疽,不治身死,葬于余杭县城西门外新庙前,年74岁。
葛毕氏回到余杭,孑然一身,万念俱灰,在余杭县城南门外石门塘准提庵出家为尼,法名“慧定”。庵中没有香火,以养鸡、猪谋衣食,了此残生。她死于1930年,亦享年74岁,坟塔在余杭县东门外文昌阁旁边。 (本文来源:网易历史 作者:余刚)
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