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1415 中国の三面記事を読む(608) 周作人の死

周作人の死:公安機関に2回 自死要望書を提出

周作人之死:两次呈文公安机关请

2009-05-26 14:22:44 来源:

3 50年代末から“文革”直前まで、仕事の関係で、私は周作人と頻繁に連絡を取り合っていた。 1952年8月、人民文学出版社が周作人にギリシアと日本の古典文学作品の翻訳を依頼した。 1958年11月、出版社は私に日本文学の執筆・翻訳の依頼を担当させると共に特殊任務を命じた。 周作人と銭稲蓀の翻訳者を押さえよ。 日本の古典文学作品は余人ではだめだということだった。 その当時、二人は出版社の別枠の特別翻訳者と見なされていた。

1949年から“文革”までの17年間、周作人の生活は単調だが安定したものだった。 彼は毎日机に向かって翻訳していた。 唯一の楽しみは、彼と同様零落した数少ない友人がたまに訪れ雑談することくらいだった。 その中でも親しかったのが、同じく文化漢奸(売国奴)のレッテルを貼られた銭稲蓀だった。 

2 周作人はいつも月ごとに出版社に原稿を渡していた。 当時、出版社は月々、原稿料として200元を前払いしていた。 1960年1月から400元に上がった。 しかし、1964年“四清運動”(政治、経済、思想、組織の歪みを正す社会主義教育運動)が始まると、9月から、原稿料が400元から200元に減らされた。 幸い、長らく病気だった奥さんが亡くなったところだった。 さもなければ医療費の支払いで彼は困るところだった。 だが周作人にはわかるわけがなかった。 この減額は実はあらしの前ぶれだった。 

1966年、情勢は急転直下変わった。 出版社の業務も麻痺状態に陥った。 当時の“革命”が取った措置の一つが、その年の6月から周作人の原稿料をストップすることだった。 収入源を断たれ、周家は周作人の長男・周豊一夫妻の給料に頼ることになった。

8月22日、紅衛兵の一群が八道湾の周家にやってきた。 周家の母親の位牌を壊していった。 24日早朝には、紅衛兵が家中をすべて差し押さえ、周作人を庭の大きな楡の木の下に引っ張って行き、ベルト、棒で引っぱたいた。 周家の母屋の後方に建てられた母屋に平行する建物“トラの尾”という大部屋を、その夜、紅衛兵がこの部屋を占領して泊まり、周氏一家を監視した。 周作人らはやむなく、“トラの尾”の建物の軒下で縮こまるほかなく、3日3晩を過ごした。 幸いに昔からいる家政婦が、彼らに簡単な食事をそっと届けに来てくれた。

雨が降り出してきたので、周作人の長男の嫁・張菼芳が思い切って紅衛兵に会いに行き、“いつまでも外にいられません。 どうにか落ち着ける場所を下さい”と頼んだ。 こうして、周作人はやっと自分の風呂場の中で寝ることを許された。 間もなく、周作人の長男の周豊一は“右派のレッテル”はとれたが、北京図書館の“牛小屋”(強制労働)に閉じ込められた。 半月後、張菼芳は老人の惨めな姿を目の当たりにして、座視するに忍びず、紅衛兵に頼みこみ、雨漏りしている小さい炊事場の北隅に舅のため、あちこちから寄せ集めた板でベッドを作り、その上に周作人を横に寝かせた。

紅衛兵は周家の生活水準を決めた。 年取った家政婦は15元、周作人は10元とした。 彼らは米穀食料販売店に、周の家族には雑穀(米、麦以外の穀類。 トウモロコシ・コウリャン・粟・豆類など)を買うことだけ許すと命じた。 周作人は歯がよくないため、13度の食事は臭豆腐とトウモロコシ粉スープを飲むことしかできなかった。 栄養状態がよくないことと、また昼間暗い部屋に監禁されているため、彼の両足は見る間にむくんできた。

9、10月に、周作人は書き上げて置いた“上申書”を張菼芳に渡し、紅衛兵にかくれて派出所に2回届けさせた。 二回の“上申書”は、いずれも短く、内容はほとんど同じだった。 内容は、「共産党は従来から革命の人道主義を重んじています。 私はすでに80歳を過ぎています。 これ以上寿命を延ばしても、家族にただ負担をかけるだけです。 公安機関にお願いします。 私が睡眠薬を飲み“安楽死”できるよう特別に許可して下さい」 彼は失意のどん底の中で、かすかに希望を持っていたのかも知れない。 駐在所の人民警察が彼の問題を取り上げてくれることを望んでいたのだ。 しかし希望の望みは達成できず、“死を賜ることを許可して下さい”の“上申書”は届けたものの、梨のつぶてだった。

1967年5月6日朝、張菼芳はいつも通り舅の便器の交換とお湯も用意して出勤した。 この日の午後2時過ぎ、母屋の後方に建てられた建物の西端の近所の人が、偶然ガラス窓を通して中をちょっと見た。 老人が板の上に腹ばいになったまま微動だにせず、姿勢も不自然だった。 彼はちょっとおかしいと感じ、急いで張菼芳に電話をかけ、彼女に学校から戻って来るよう伝えた。

張菼芳が急いで家に帰ると、82歳の周作人はすでに全身氷のように冷たくなっていた。 どうやら、周作人は用を足そうとした時、突然発病したようで、靴さえ履くのも間に合わないまま急逝していた。 その当時の状況の下では、家族は遺体を病院に送り死因を調べることなど不可能で、ただ戸籍を抹消するしかなく、火葬して事をすまし、骨箱さえ持ち帰ることができなかった。

《周作人回想――知堂先生》から抜粋:河南大学出版社 (本文出所:新華ネット 作者:文潔若)

周作人之死:两次呈文公安机关请

2009-05-26 14:22:44 来源:   204 手机看新

50年代末直到文革前夕,由于工作系,我曾与周作人有过频繁的系。19528月,人民文学出版社始向周作人稿,他翻希腊及日本古典文学作品。195811月,出版社指派我负责日本文学的稿、翻工作,同,向我交代了一特殊任周作人及二位翻译别人不能任的日本古典文学作品。当,他在出版社算是制外的特约译者。

1949年到文革止的17,周作人的生活虽单调平淡却是定的。他天伏案翻,唯一的趣是偶和寥寥无几并同他一潦倒的来访的友人扯一通。其中,密的就是也戴了文化奸帽子的

周作人是按月向出版社交稿。当,出版社按月他稿200元,19601月起,增加到400元。但1964四清动开始,从9月起,他的稿又从400元减200元。好在他那久病的老伴已去世,否付医药费来困。周作人哪里知道,次的减半,其就是暴的兆。

1966年形直下。出版社的业务陷于瘫痪。当革命措施之一,就是自当年6月起,停付周作人的支稿酬。这项经济来源断后,周家就靠周作人子周丰一夫的工持。

822日,一群红卫兵冲八道湾周家,了周母的牌位。到了24日早晨,红卫兵索性把房子统统查封,并将周作人拉到院中的大榆树下,用皮、棍子抽打。周家的后罩房正老虎尾巴”——即正房后身加盖的一大屋子,当天上一批红卫兵就占这间屋子,以便监视周氏一家老少。于是,周作人只好蜷在后罩房的屋檐下,就这样过了三天三夜。幸而他们还有个老保姆,做了点简单的吃食,悄悄地送来。

及至下起雨来,周作人的大儿媳菼芳便硬着皮去找红卫兵。她央求也不能老呆在露天底下呀,好歹个安身的地方吧。这样,周作人才被允睡在自家的澡堂里。不久,周作人的子周丰一作摘帽右派,被揪回北图关进牛棚。半个月后,菼芳目睹老人的凄苦,于心在不忍,就向红卫兵求了情,算是在漏雨的小厨房的北角老公公拼西凑搭了个板床,在上面。

红卫周家定了生活准:老保姆是15元,周作人是10元。他向粮店打了招呼:只允周家人粗粮。周作人因牙口不好,一日三餐只能就着臭豆腐喝点玉米面糊糊。由于营养不良,又黑白日囚禁在小屋里,他的两条腿很快就浮了。

九、十月,周作人曾两次交给张菼芳写好的呈文,叫她背着红卫兵交派出所。两份呈文都很短,内容差不多,大意是:共党素来是最究革命人道主的。鄙人已年八旬,再延寿命,也只是徒然家人添担而已。恳请公安机,恩准鄙人服安眠,采取一途。也他在万念灰中,存着幸心理:希望地派出所的民警将他的问题反映上去。但希望是落了空,准予呈文交上去后,就石沉大海。

196756日早晨,菼芳照例公公倒了桶,他准了一瓶水,就上班去了。一天下午两点多,住在同院后罩房西端的居,偶然隔着玻璃窗往里看了看。只老人板上一,姿很不自然。他感到不妙,便赶电话给张菼芳,把她从学校喊了回来。

菼芳奔回家后,发现82的公公身早已冰凉。看光景,周作人是正要下地解手猝然病的,鞋都来不及穿就溘然逝了。在当的情形下,家属不可能把体送到医院去明死因,只好匆匆口,火化了事,骨灰匣都没敢拿回来。

摘自:《回望周作人——知堂先生》 河南大学出版社 (本文来源: 作者:文)

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