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话题恨水:中国代文学史上最高的作家 2009-02-22 14:09

16 張恨水は、自分を“ひき臼を回すロバ”に譬えた。 “病気や旅行を除いて、働かないでいると、ご飯が食べられないよりつらい”と語った。張恨水2 の娘・張政の記憶によると、父親は“大体毎日9時頃、創作の仕事に入り、夕方6、7時頃まで書き続け、夕ご飯でペンを置き、食後少し休憩して、また夜中の12時まで書いていました。 これが来る日も来る日も続いたのです”“父の創作の仕事は大変でした。 机の前に突っ伏しているような一生でした”

Photo_6 張恨水の“原稿渡し”の良さは、当時の各新聞社の編集の中で評判だった。 編集が彼に頼んだ原稿は、ほとんど二つ返事で承諾してくれ、原稿が遅れたことはなかった。 《金粉世家》の連載は5年と4ヶ月続いた。 ただ彼の娘が猩紅熱で亡くなり、悲しいのにもかかわらず、一日休んだだけだった。 24時間後、もう次の原稿を素早く書き上げた。

その当時、政府の高官・要人は次から次へと張恨水と交際することを名誉としていた。 蒋介石、宋美齢もやってきて、張恨水は丁重に接待した。 だが帰るときは、使用人に送らせた。 張学良は副官を北京に派遣し、張恨水を文化顧問という肩書きで、月給100元銀貨で招いたが、張恨水は“君子は一方に与しない”として婉曲に断った。

張恨水は、安徽の南部訛りの“田舎者”として、一生いかなる党派にも入らなかったし、どんな公職にもつかなかった。 “自分の汗を流して、自分の食い扶持を稼ぐ”をモットーとして貫いた。 彼はかつてこう言っていた。 “文章を書くのは生活のため、露店商みたいなもので、何の変哲もなく、ただそれだけのことです”

16_2 張恨水がしょっちゅう光栄としていたことがある。 それは、“自分が北京に大きな住宅を持てたのは、原稿料のお陰です。 一家30数人が筆1本で、何とか暮らせています” 張恨水の家には、彼が自分の手で植えたナツメの木、エンジュ、桜桃の木、桑の樹、ライラックなどがあった。 “ガラス越しに、庭の雪や月をながめるのは、本当にいいものです”

張恨水の小説の発行量の多さは、大変なもので、現在のベストセラー作家達はまったく比較することができない。 彼の偉業の前では、自分の力量不足を嘆くことしかできないほどだ。 Photo_7 《啼笑因縁》を例にとっても、少なくとも30回余り再版されている。 これは、正式に出版された数字だけである。 抗日戦争の時期、被占領地域では百Photo_8 種類ほどの“張恨水”の名を騙った偽本が出回っていた。 これについてはこういう面白い話がある。 1956年、張恨水は全国政治協商会議の第2期第2回の全体会議に出席した。 茅盾が彼を毛沢東主席に紹2_2 介した。 毛沢東が、“ああ知っていますよ、知っています” 茅盾が、“《××》という本は彼が書いたものです” 張恨水が急いで訂正した。 “あれは偽物です。 私が書いたものは《春明外史》、《金粉世家》です” これからも、“張恨水”の名をかたった偽の本が氾濫し出回っていたことが分かる。 茅盾さえも本物と偽者の区別ができないくらいだった。

張恨水の小説は“花鳥風月、鴛鴦胡蝶を書いたものでばかりで中身がない”と非難されていることについて,彼はずっと反論しなかった。 友人が、面と向って聞くと、彼はただ穏やかに問い返したという。 “オシドリとチョウ……人との関係、仲はいいじゃないですか。 人がオシドリやチョウを殺すのを見たことがないし、オシドリやチョウが人を傷つけましたか?”

1948年末、張恨水は突然脳卒中に襲われ、執筆能力を失ってしまった。その後、周恩来総理が特別決裁し、彼を文化部顧問とし、月600斤の米を支給することにした。 1954年、張恨水の病状が好転したので、この職を辞し、また著作の仕事に従事、それで生計の道をたてることになった。 娘の張政さんの思い出によると、この頃の張恨水は、足はよろよろで、言葉もはっきりしなかったという。 “父は机に向かって、夜遅くまで書いていました。 窓辺の茅竹の影だけ、黙って父の相手をしていました”と語っている。

Photo_9 全国が解放された時、政府が張恨水の生活の面倒を見てくれ、毎月一定の生活費用が得られた。 しかし、なんといっても病気で、執筆できず、お金が入ってくるところがなかった。 しかも家族の人数が多く、出費もやはり多かった。 彼は今まで住んでいた住居を売り払い、磚塔胡同43号の小さい四合院(旧式の家)に移った。 この家は狭かったが、きちんと整っていた。 南向きの部屋が3つ、まん中が客間兼食堂、西の部屋は寝室で、東側は張恨水の書斎兼寝室だった。 この家には更に南側に3つの部屋があり、母屋の両側の棟に各二部屋があり、そこにはその他の家族が住んでいた。 張恨水の身体は徐々に回復していき、執筆できるようになった。 そして続々と10数部の中、長編小説を発表するまでになった。

19665月、“文革”が勃発した。 胡同の中でも多くの家が家財を没収されていた。 紅衛兵も張恨水の家に飛び込んできた。 張恨水は本箱の中から文史館(文学歴史資料館)の招聘状を取り出して見せ、紅衛兵に、“周恩来総理が文史館で仕事するように言われた”とまじめに話すと、紅衛兵は意外にも張恨水の話を信じて出ていった。 張恨水の本は沢山あり、いずれも“四旧”(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)は避けられない。 災いを避けるため、本を選んで破り燃やそうと考えた。 しかし、あれだこれだと選んでみたが、どの本も捨てられない。 子供達がベッドの下に隠そうとしたが、張恨水が湿気ってしまうといい、米びつに押し込もうというと、彼がまた汚れるといった。 疲労困憊するほど探し回ったが、適当なところが見つからなかった。 最後には、とうとう本箱に戻すことに決定した。 ガラス面に白紙を貼り、隠すことにした。 幸いなことに、その後、紅衛兵は来なかった。

1967215日、旧暦の正月七日早朝、張恨水がベッドから離れようとした時、突然体をあお向けにして倒れた。 彼がかつて、何度も書いてきたこの世の中に別れを告げ、自分の人生を歩み終えた。

张恨水曾自比“推磨的驴子”,“除了生病或旅行,没有工作,比不吃饭都难受”。在张恨水的女儿张政的记忆中,父亲“大约每日九点钟开始写作,直到下午六七点钟,才放下笔吃晚饭,饭后稍事休息,然后写到夜里十二点钟,日复一日。”“父亲的写作很辛苦,在书桌前,他俯伏了一生。”

张恨水“稿德”之佳,在当时国内各大报馆的编辑当中也有公论。编辑向他约稿,几乎有求必应,也从不拖稿。《金粉世家》连载五年零四个月,只是因为他女儿患猩红热夭亡,过于悲痛,仅仅停登过一天。而二十四小时之后,又将后稿迅速补上。

当时,一些政府高官政要纷纷以结交张恨水为荣。蒋介石、宋美龄前往看望,张恨水客气接待,却让佣人送其出门;张学良派副官赴京,邀张恨水做文化顾问,挂个虚职,月薪100大洋,张恨水却以“君子不党”为由婉言拒之。

张恨水,这个带着皖南口音的“乡下人”,一生未入任何党派,也不任公职,奉行“流自己的汗,吃自己的饭”的人生守则,姿态低到极致。他曾自言道:“写字就是营生罢了,如同摆摊之类的小本生意,平淡如斯,实在如斯。”

张恨水经常引以为荣的,是“自家在北平的大宅子,是用稿费换来的”,“全家三十多口人,靠一只笔,日子倒过得不错”。他家的宅院里有他亲手种的枣树、槐树、樱桃树、桑树,还有丁香树,“隔着大玻璃,观赏着院子里的雪和月,真够人玩味”。

张恨水的小说发行量之大,也可谓空前绝后。当今的畅销书作家们根本无法和他相比,只能望洋兴叹。仅他的《啼笑因缘》,至少出过30余版。这还仅仅是指正式出版的数量。在抗战时期,仅在沦陷区便出现过一百多种冒名“张恨水”的伪书。有这样一件趣事,1956年,张恨水列席全国政协二届二次全会,茅盾把他介绍给毛泽东主席,毛泽东说:“还记得,还记得。”茅盾说:“《××》那本书就是他写的。”张恨水连忙更正:“那是伪书,我写的是《春明外史》、《金粉世家》。”由此可见冒名“张恨水”的伪书泛滥到了什么程度,竟连茅盾也真假难辨。

有人非议张恨水小说尽是“风花雪月,鸳鸯蝴蝶”,他也从不辩驳。有友人当面问起,他只是温和地反问:“鸳鸯与蝴蝶……和人的关系、感情都处得不坏,几曾见过人要扑杀鸳鸯蝴蝶?又听说过鸳鸯蝴蝶伤害了人?”

1948年底,张恨水突患中风,丧失写作能力。随后,经周恩来特批,聘请其为文化部顾问,按月发给600斤大米。1954年,张恨水病情刚好转,便辞去职务,又专事写作,以此谋生。女儿张政回忆说,此时的张恨水,已经是步履蹒跚,口齿不清,“爸爸伏案而作,夜深人静,只有窗前一丛茅竹的影子,和他默默相对”。

全国解放后,尽管政府对张恨水的生活有所安排,每月可以得到一定的生活费用,但他毕竟是在病中,无法写作,没有直接的经济来源。而家里人口又多,开支还是很大的。他便卖掉了原先的大院子,换了砖塔胡同43号的一处小四合院。这个院子不大,但还算规整。三间北房,中间是客厅兼饭厅,西屋是卧室,东屋是张恨水的书房兼卧室。院里还有南房三间、东西厢房各两间,是家里其他人住的地方。张恨水的身体在慢慢恢复,他又恢复了写作,陆续发表了十几部中、长篇小说。

19665月,“文革”爆发,胡同里有很多人家被抄家,红卫兵也曾闯进过这个院子。张恨水从书柜里拿出文史馆的聘书,很认真地告诉红卫兵,是周总理让他到文史馆去的,红卫兵居然信了他的话,退了出去。然而,他的书实在太多,难免有属于“四旧”的东西,为了免得招灾惹祸,本想挑些破书烧了,也算作个样子。但是挑来拣去,哪一本也舍不得。孩子想藏在床底下,张恨水说怕潮;塞进米缸里,他又怕脏。搞得筋疲力尽,也没找到一个合适的地方。最后,终于决定还是放回书柜里,在玻璃柜门上糊上白纸,就算是藏好了。所幸后来并没有人来抄家。

1967215日,农历正月初七,早晨,张恨水正准备下床时,突然仰身倒下,告别了这个他曾无数次描绘过的冷暖人间,走完了自己的人生。

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