« 1204 中国の三面記事を読む(508) 川島芳子は生きていた? (4) 川島芳子の実妹は生存説を否定 | Main | 1206 中国の三面記事を読む(510) 川島芳子は生きていた? (6) 【完】 方おばあさんと川島芳子の相似点の数々 »

1205 中国の三面記事を読む(509) 川島芳子は生きていた? (5) そもそもの処刑への疑問

川岛芳子:長春に隠れ住み 1978年に死亡?

芳子:1978年才死?

表于 2008-11-14 13:31

Kawasima  東洋の魔女、乱世の妖艶……日本の中国侵略時代、こういった言葉で形容され悪名の高かった女性スパイ・川島芳子のことである。 歴史の記載によると、1948年3月25日、川島芳子は国民党政府により銃殺されたことになっている。 ところが最近、研究者達から大胆な発言が飛び出した。 銃殺された川島芳子は身代わりで、本物の川島芳子は戦後ずっと長春に住んでいて、1978年に死んだというのだ。

赤い毛糸のセーター、青い毛糸のズボン下、青い綿入れのズボン、アズキ色の毛糸の靴下……川島芳子が銃殺される時の着衣について、60年前の《北平日報》には、はっきりこう書かれている。 しかし、この新聞を含む一部メディアは、この死刑執行について、最初の疑問を出していた。

60年後、李剛、何景方氏などの研究者達は大胆な見解を発表した。川島芳子は身代わりが死んだ後、3人によって刑務所から出され長春へ連れて行かれた。

死刑執行の過程には疑問の数々が

川島芳子の死刑の過程には疑問点がある。 60年前の新聞からも手がかりを探すことができる。

113日、李剛、何景方氏が記者達に対し、この証拠を示した。 1948年3月25日発行の《北平日報》のコピーと同日付の天津発行の《大公報》のコピーである。

2 《北平日報》の記事によると、1948年3月25日朝、本紙記者が“冀一監獄”(北平第一監獄)から、早朝、金璧輝(川島芳子の中国名)の死刑を執行するとの連絡を受け、同記者が刑務所へ駆けつけた。 中国の同業数十名は刑務所の外で足止めさPhoto_2 れ、米国の記者だけが中に入ることが許可された。 6時40分、銃声が聞こえ死刑が終った。 7時頃、死体が担架で運び出されてきた。 銃弾が後頭部から射ち込まれ、鼻骨を貫通、顔は血のりがベットリして、判別できなかった。

研究者達は六つの疑問点を挙げ、川島芳子の死刑執行に疑問を投げかけた。 この疑問点は、当時のメディアが出したものや、研究者達が事件後、発見したものである。

一、日本軍敗戦後、国民党当局はメディアに対し、川島芳子の事件を集中的に報道することを許可し、また二回も大規模な公開裁判を開いた。それなのに肝心な死刑執行場面だけ、こっそりやったのは、なぜ?

二、まだ人の顔もわからない早朝の光の中、死刑を執行したのは、なぜ?

三、処刑後、処刑現場を見せなかったのは、なぜ?

四、中国人記者だけ中に入ることを許可せず、米国記者を現場に入れたのは、なぜ?

五、死者の顔を血のりでベットリさせ、泥もつけて判別できないようにしたのは、なぜ?

六、川島芳子はずっと男装で短髪だった。 写真の死者の髪の毛の長さは首の中ほどまであった、なぜ?

Photo_3 最後の疑問点について、何景方氏は記者に川島芳子の拘留中の写真を見せた。 写真から、川島芳子が番号125の囚人服を着て、頭髪は刑場で死んだ者より短いのが見て取れた。 彼女が銃殺される10日前、日本の記者が彼女を取材しているが、その時残した映像資料でも、やはり短髪だった。

何景方氏によると、1948年4月初め、メディアから“身代わり”のニュースが流れた。 大体の内容は、身代わりになったのは劉鳳玲といい、末期の胃癌にかかっており、金10本で“身代わり”を引き受けた。 1948年3月24日夜、劉鳳玲は刑務所に送り込まれ、25日朝、川島芳子は刑務所の中で彼女と入れ替わり、川島芳子は刑務所の裏門から逃走、劉鳳玲は刑場で銃弾を受けて死んだというものだ。

吉林の段という男性が川島芳子をかくまった?

何景方氏は研究に基づき、川島芳子は3人の男により刑務所から長春に助け出されたことを明らかにした。 “この3人はただの任務執行者であって、本当の計画者が誰かは分からない”

この3人のうち、リーダー格のあだ名は“老七”で、姓は何というかはわからない。 そのほかの二人は、一人はといい、もう一人は段と言った。 という人はその後自殺している。 段という人は、四平に住んでいて、川島芳子も彼の家に住み、段氏の愛人のような形で、身分を隠していた。 解放後、川島芳子は長春に部屋を借り、1978年病気で亡くなった。 2004年、段氏が亡くなる前に、この驚くべき秘密を家族に話した。 段氏の家族こそ、この歴史の謎の重要人物といえる。

“私のおばあさんは川島芳子です”

川島芳子は本当に刑場から身代わりを使って脱出、長春に隠れ住み1978年に死んだのだろうか? 驚くべき発言をしたのは、中国書画研究会会員、長春市政治協商会議書画院理事の張鈺さんである。

張鈺さんは次の通り語った。 彼女の母は日本の残留孤児で、1歳の時段氏に引き取られ育てられたと言う。 長春の新立城の近くに、段氏と関係の深い女性がいた。 その人は姓を「方」と言い、張鈺さんは「方おばあさん」と呼んでいた。

“私は小さい頃よく「方おばあさん」の家に遊びに行きました。 彼女は中背で、1.60mから1.65mくらいで、ちょっと膚はやせ細っていましたが化粧好きでした。 1978年、方おばあさんは亡くなりました”

張鈺さんは、2004年の年末のある夜、86歳の段氏の枕元に呼ばれました。 そして祖父が紙の上にあることを書いたのです。 「方おばあさんは川島芳子だ」 祖父はこう話しました。 満州国当時、彼が四平鉄道の警察局局長の通訳だった時、川島芳子と接触したことがあったと言うのです。 ある人が刑場から身代わりを立て彼女を救出しました。 1949年、祖父ら3人が川島芳子を新立城まで連れてに来て、彼女をそこに落ち着かせました”

張鈺さんは、祖父がこの話をした時、回りには誰もおらず彼女一人だけでしたと言った。 “それから数日して、祖父は亡くなりました”

張鈺さんは、段氏が亡くなった後、部屋を整理していた時、壁の中から秘密の箱を発見しました。 箱の中には、段翔氏と方おばあさんの大量の遺品が入っていた。

箱の中は二層になっていて、上の方には3枚の絵と何点かの小物が入っていた。 3枚の絵は、「人物の版画」、「鉛筆で描いた素描画」、「密画」だった。 張鈺さんは、これはみな方おばあさんが描いたものですと言った。

研究者達は、これは「方おばあさん」と「川島芳子」の共通点:絵画の素養がある証明になると考えた。

表于 2008-11-14 13:31

芳子:1978年才死?

川岛芳子:隐居长春1978年才死?
东方魔女、乱世妖姬……这些词曾被用来形容日本侵华期间最为臭名昭著的女间谍川岛芳子。史料记载,1948325日,川岛芳子被国民党政府枪决。近日,研究者们提出一个大胆说法:当年被枪决的川岛芳子只是替身,真正的川岛芳子在战后一直隐居于长春,直到1978年才死去。

红毛衣、蓝毛裤、青棉裤、豆沙色毛袜……川岛芳子被执行枪决时的衣着,在60年前的《北平日报》上有着清晰描述。然而,正是包括这份报纸的一些媒体,对这场死刑的执行提出最初的质疑。

60
年后,李刚、何景方等研究者们提出更为大胆的观点:川岛芳子在替身替死后,被3个人从监狱转移到了长春。

死刑执行过程疑点多

川岛芳子的死刑过程存在疑点,60年前的报纸上可寻端倪。

11
3日,李刚、何景方向记者出示这方面证据:一份1948325日出版的《北平日报》影印版、一份同日在天津出版的《大公报》影印版。

《北平日报》报记载,1948325日晨,报社记者接到冀一监狱通知,将于当早执行对金璧辉(川岛芳子中文名字)的死刑,这位记者赶至监狱后,与数十位中国同行被挡在刑场大门外,只有美国记者获准入内。640分,一声枪响,死刑完毕。7时许,一具尸体被担架抬出,子弹系从后脑射入,穿出鼻粱骨,脸孔血泥参杂,难辨面目。

研究者们提出6大疑点,质疑川岛芳子死刑的执行过程。这些疑点,有些是当时媒体提出,有些则是研究者们事后发现。

一、日军战败后,国民党当局准许媒体对川岛芳子一案进行轰炸式报道,并举行两次大型公审。唯独最要紧的行刑场面,如此神秘,为什么?

二、选择黎明前看不清人的晨光中执行死刑,为什么?

三、处刑后,仍不开放行刑现场,为什么?

四、所有中国记者不准入内,却让美国记者进入现场,为什么?

五、把死者的面部搞得血肉模糊,沾满泥土,难以辨认,为什么?

六、川岛芳子一向男装短发,照片上的死者头发长度却到达脖子中央,为什么?

对于最后一个疑点,何景方为记者出示了一张川岛芳子在押时的照片。从照片中看到,川岛芳子身着囚服,编号125,头发短于刑场死者头发长度。在她被枪毙前的10天,有个日本记者采访过她,当时留下的影像资料看,也是短头发。

何景方介绍,19484月初,媒体爆出替身消息,大致意思是称:替身叫刘凤玲,患晚期胃癌,被10条金子卖作替身1948324日晚,刘凤玲被送入监狱。25日晨,川岛芳子在监狱院内与她对换,前者从监狱小门逃出,后者上刑场吃枪子。
吉林段姓男子掩护川岛芳子?

何景方透露,根据其研究发现,川岛芳子是被3个人从监狱救到了长春,3个人可能只是执行者,真正策划者还不知是谁。
何景方说,这3个人,领头的绰号老七,此人姓氏不明,其余两人一姓于、一姓段,姓于的人后来自杀。段姓男子家在四平,川岛芳子就住在他家,成为段姓男子非婚伴侣,借此掩护她身份。解放后,川岛芳子寄居在长春,直到1978年病故。2004年,段姓男子去世,临终前将这个惊天秘密告诉了后代。段姓男子后代正是这桩历史悬案的关键人物。
我方姥就是川岛芳子

川岛芳子难道真在刑场被替身换出,隐居长春直到1978年才死?惊人言论的出处,来自于中国书画研究会会员、长春市政协书画院理事张钰。

张钰说,她母亲是日本遗孤,1岁时被段翔收养。在长春新立城附近,段翔有位关系很深的女子,此人姓方,张钰称其为方姥。

我小时常去方姥家玩。记得她个子不高不矮,在1.60-1.65米之间,肤色发黄,挺爱化妆的。张钰说,“1978年,方姥去世了。

张钰说,2004年年末的一个晚上,86岁的段翔把她叫到床边,接下来,姥爷在纸上写了一句话:方姥就是川岛芳子。姥爷说,伪满时,他为满铁四平铁路伪警察局局长当翻译官时接触到川岛芳子。后来有人在刑场上用替身换出她。1949年,姥爷等 3个人带着川岛芳子来到新立城,把她安置在这里。
张钰说,姥爷交代这些话时,身边只有她一个人,没过几天,姥爷去世了。
日造密码箱

张钰称,段翔去世后,家人修缮房子时,在墙壁夹层中发现一个密码箱,箱中藏有段翔与方姥等人的大量遗物。

开箱后,内中分为两层,上层放着 3幅画和几样小物件,3幅画分别是人物刀刻版画、炭笔勾勒素描画和工笔画。张钰说,这都是方姥所画。

研究者们认为,这证明方姥与川岛芳子具有一个共同点:有绘画功底。

|

« 1204 中国の三面記事を読む(508) 川島芳子は生きていた? (4) 川島芳子の実妹は生存説を否定 | Main | 1206 中国の三面記事を読む(510) 川島芳子は生きていた? (6) 【完】 方おばあさんと川島芳子の相似点の数々 »

歴史」カテゴリの記事