1188 中国の三面記事を読む(498) 男装の麗人:川島芳子 (1)
川島芳子:東洋の魔女 男装の女スパイ
2008-11-20 10:23:10 川岛芳子:东方魔女男装女谍
満州・愛新覚羅一族の伝記的女性
日本諜報機関の“あだ花”
東洋の魔女――川島芳子 (1906~1948),本名:愛新覚羅顕玗、字は東珍、別名:金誠三、金夢芝、日本名:川島芳子、川島良子、川島良補。
川島芳子(別名:金壁輝)、東洋の魔女といわれた“男装の女スパイ”。 日本の満州国建国策動の最中、国民党との間に立って調停したり、日中を結ぶ“秘密兵器”として、日本の中国侵略戦争で重要な役割を果たした。 彼女は“皇姑屯事件”(張作霖爆殺事件)、“九一八事変”(満州事変)、“満州国建国”などの重大活動に加わったり、自ら内外を驚かせた“一二八事変"(上海事変)や秋鴻皇后脱出事件などの悪名高い売国活動を演じ、日本の諜報機関の“花”と謳われた。 特務機関のトップの田中隆吉、土肥原賢二などから可愛がられた。
川島芳子の一生を見ると、正真正銘の大スパイ、大漢奸である。 国民党が彼女を女性の売国奴第一号として死刑を執行したことは、溜飲が下がる思いだ!
金璧輝はもともとは、清の最後の王族粛親王の娘、第十四王女である。 三歳の時、父・粛親王と親交の深かった日本公使館の中国駐在外交官だった川島浪速に養子に出され、川島を養父とし、名前を川島芳子とした。 彼女が六歳の時、養父に従って日本に行った。 その時から日本の植民地主義の教育を受けるようになった。 養父の川島浪速は若い頃中国に居住し、間諜活動をしていた。 帰国後、川島家は日本の右翼学者の集まる‘サロン’となり、芳子はこのような家庭環境の中で成長していき、この悪い雰囲気の中で目にし耳にしていったものが、ついには彼女のいびつな性格と人生の信念を作り上げた。 12年後、芳子の性格は、わがままで、ヒステリック、乱暴な娘に変わっていた。 しかし彼女は目元のすずしい、白い肌の美人でもあった。 これが彼女のその後のスパイの下地となった。
金壁輝17歳の時、59歳の養父の川島浪速のそばに呼ばれてこう言われた。 “お前の父は仁愛の心がある人で、ワシは勇者だ。 もし仁愛の心がある者と勇者の血が一緒に混じったなら、生まれる子供は、きっと知勇仁兼ね備えた者になると思う” 金璧輝は手記の中にこう書いた。 “大正13年10月6日、私は永遠に女性を清算する” 翌日早朝、彼女は日本髪を結い、花柄の着物を着て、少女決別の写真を撮った。 そしてすぐ、髪を男性式の左右に分ける髪型に切った。
彼女は、“私は毅然として、男として生きる!”と述べ、彼女は世界に報復を誓った。 彼女は報復の決意を胸に抱きつつ、政府高官などを次々と手玉にとっていった。 蒙古王の息子・カンジュルジャップ、日本の関東軍将校の山賀、山家亨、孫中山の子・孫科、作家の村松、国民党の中央調査統計局の高官・陳果夫、満州国の最高顧問・多田駿、相場師で大金持ちの伊東阪二など……芳子はこれらの人たちの弱点を利用し、あるいは巧みな言葉でだまし、あるいはあれこれと利益で釣ったりして、彼らの口からたくさん戦略情報を手に入れ、日本軍国主義の中国戦略総力戦に貢献した。 日本では、彼女は“かみそり”首相といわれた東條英機にも影響を及ぼし、中国では立法院院長の孫科から蒋介石下野の機密をさぐることに成功した。 彼女は赫々たる肩書きを手に入れ、その上将軍の肩章までつけ始めた。彼女は金を湯水のごとく使い、すさんだ生活を送るようになった。
“九一八”事変(満州事変)後、川島芳子は日本の主人の命を受け中国に戻り、“色仕掛け”でスパイ活動を始めた。
70年前、松本高等女子学校の並木道を、いつも颯爽と馬に乗った女の子が土ぼこりを立て駈けて行く姿があった。 この馬に乗り登校し、自由気ままにふるまい、いつも授業を抜け出しては遊んでいた女子学生こそ、その後満蒙で波乱を巻き起こし、悪名を流した日本国籍のない日本人――川島芳子だった。
昔、颯爽として多くの男性を魅了した“馬上の姫君”は、本名:愛新覚羅・顕玗という満清王室・粛親王善耆の第十四王女で、1906年に生まれた。 清朝のラスト・エンペラー・溥儀(宣統)が皇位継承する二年前だった。
“九・一八”事変(満州事変)の勃発前、東北地方(満州)に排日運動が起こった。 日本人と不倶戴天の東北保安部隊総司令官の張学良が、日本の中国進出勢力に打撃を与えるため、“公共物流用懲罰法”を制定、青年・学生が日本の軍国主義に反対し、党や団体をつくることを支持した。 続いて、中村震大尉と井杉延太郎曹長殺害事件が起こった。 この事件は、日増しに緊張を深めていた中日関係を更に激化させ、一触即発の状態にさせた。 中国人民の抗日騒動に対し、日本軍部は反動的満州青年連盟を創って、民間の反日活動組織に対抗しようとし、熱狂的な日本青年と売国・漢奸と手を組み、騒ぎを起こして、日本の満州侵略の口実にしようとした。 軍部の“中核青年”として、川島芳子も大連に派遣され、満州青年の活動を指導する責任を担った。 川島芳子の影響により、これらの人々はこれまでの、向こう見ずなやり方から次第に、“中国情報を盗み取る”方式に転じた。 それほど大規模でないトラブルを造って、関東軍に張学良の部隊の兵の情況を把握させたりした。 武器装備などの重要情報を得ようと、“九・一八事変”(満州事変)のため、大量のスパイ組織が動いた。
事態はさらに悪化して、ついに世界を驚かせる“満州事変”が勃発した。 事変発生後の10月上旬、芳子は田中隆吉の命令で、奉天に行き、板垣関東軍高級参謀の指揮下に入った。 芳子は自由に中日両国の言葉が話せたので、田中は彼女を“すばらしいスパイに育て上げようと全力を傾け”,更に彼女に英語を学ばせた。 その上、彼女は清朝王女という立派な看板もあり、この混乱した時代に威力を発揮し、日本軍にとって得難い戦地のスパイとなり、一日中、“腰を下ろす暇もないほど忙しく飛び回り”、日本軍のための人心安定工作や、各大都市の租界関係維持のため大きな力を発揮した。
この頃、瀋陽にいた特務機関長の土肥原賢二は、清朝皇帝を退位した愛新覚羅・溥儀の擁立を画策、彼を天津静園から旅順のヤマトホテルまで連れ出していた。 しかし、情勢が緊迫して慌ただしかったため、溥儀はやむなく愛妻・秋鴻皇后(婉容)を残し、鄭孝胥父子、祁継忠、吉田中心太郎、上角利一、工藤忠、大谷猛などの人々と共に、関東軍に守られ満州まで護送されてきていた。 秋鴻皇后は最初、皇帝の出立について何も知らなかった。 後で、溥儀がもう天津を離れたことを知り、大騒ぎを起こし、何が何でも追いかけるといって、ヒステリーとなった。 この話が旅順に伝わり、溥儀は猛烈に怒り、連日、日本側に秋鴻皇后を満州に連れてくるよう求めた。
“満州国”建国のため、更には全中国を併呑し、“大東亜共栄圏”を完成するため、日本軍は秋鴻皇后を満州へ連れ出そうとしたが、適当な人が見つからなかった。 しかも女性が連れに行かないと具合が悪いと人選に悩んでいた。 ちょうどその時、愛新覚羅・顕玗――川島芳子の名前が上がった。 彼女の“張作霖爆殺事件”、“満州青年連盟”や“九・一八事変”(満州事変)など一連の重大な活動が“評価”され、それに彼女が愛新覚羅一族の一員であること、彼女のふだんの性格・言行から、とても適当な候補者だということになり、この特別な目的のため、川島芳子にかってない活動舞台が用意されることになった。
川岛芳子:东方魔女男装女谍
2008-11-20 10:23:10 来源: 网易历史综合 网友评论 44 条 点击查看
东方魔女——川岛芳子 (1906~1948),本姓爱新觉罗,名显玗(玗是肃亲王自造的字,取“14”谐音),字东珍,又名金诚三、金梦芝,日本名川岛芳子、川岛良子、川岛良辅。
川岛芳子(又名金壁辉),这个被称为东方魔女的“男装女谍”,作为日本策动伪满独立、与国民党居间调停、互相勾结的“秘密武器”,在日本侵华战争发挥了重要的作用。她曾参与“皇姑屯事件”、“九一八事变”、“满洲独立”等重大秘密活动,并亲自导演了震惊中外的“一二八事变"及营救秋鸿皇后等臭名昭著的卖国活动,成为日本谍报机关的“一枝花”,受到特务头子田中隆吉、土肥原贤二等的大加赞赏。
纵观川岛芳子的一生,可谓是不折不扣的大间谍、大汉奸,国民党必得把她作为第一号女汉奸处决,方泄国愤!
金璧辉本是清朝最后一代王族肃亲王之女,排行第14。三岁时由其父肃亲王做主过继给与其私交甚厚的当时日本公使馆驻华外交官川岛浪速,认川岛为养父,易名川岛芳子。再她六岁时便随养父去了日本,从此接受了纯粹的日本殖民主义教育,其养父川岛浪速本人早年就是住华间谍,归国后川岛家更成为日本法西斯主义学者经常聚集的‘沙龙’,芳子从小便在这样的家庭环境中成长,在黑暗的氛围里耳闻目染,最终造就了她畸形的性格与人生信念。12多年后,少年芳子的性格就已经变的浪荡、疯狂、粗野。但她也同时成为一个明眸玉肤,出水芙蓉的美女。这都为她后来成为间谍埋下了隐患。
金壁辉17岁那一年,被59岁的养父川岛浪速叫到身边说:“你父亲是个仁者,我是个勇者。我想,如将仁者和勇者的血结合在一起所生的孩子,必然是智勇仁兼备者。”金璧辉在手记里写道:“于大正13年10月6日,我永远清算了女性。”次日一早,她头梳日本式的发髻,身穿底摆带花的和服,拍了一张少女诀别照,即剪了一个男式分头。
她说:“我毅以为己是男子!”她要报复世界。她怀着复仇的决心,将一个个高官政要玩弄于股掌之中:蒙王甘珠尔扎布、日本陆军军官山贺、联队旗手山家亨、孙中山之子孙科、作家村松、国民党中统高官陈果夫、伪满最高顾问多田骏、投机家和巨富伊东阪二……芳子利用这些人的弱点,或巧言欺骗、或百般利诱,从他们口中得到大量的战略情报,同时也利用他们为日本军国主义的侵华总体战服务。她成功了,在日本她能影响“剃刀”首相东条英机,在中国能在立法院院长孙科手里获取蒋介石下野的机密。她赢得了一大把乱哄哄的头衔,甚至戴起大将的肩牌。她过着挥金如土、荒淫无度的生活。
“九·一八”事变后,金璧辉受日本主子的驱遣返回中国,使用美人计从事间谍活动
70年前,松本高等女子学校的林荫大道上,人们常常会看到一位英姿飒爽的女子扬鞭策马,绝尘而去。这位骑马上课.我行我素.放荡不羁、经常在上课时溜出去玩的女学生,就是日后作乱满蒙、声名狼藉的没有日本国籍的日本人——川岛芳子。
昔日那位独领风骚、为许多男性心折的“马背公主”,真名叫爱新觉罗·显玗,是满清皇室肃亲王善耆的第十四位公主、生于1906年,即清朝末代皇帝溥仪(宣统)继承皇位的前2年。
“九·一八”事变爆发前,东北掀起了排日运动。与日本人有着不共戴天之仇的东北保安部队总司令张学良也制定了旨在打击日本对华势力渗透的“盗卖国上惩罚令”,并支持青年学生营党结社,反对日本军国主义。接着又发生了中村震太郎大尉和井杉延太郎上士遇害案件。这个案件使日趋紧张的中日关系变得更加火暴,大有一触即发之势。面对中国人民的抗日风潮,日本军部建立了反动的满洲青年联盟,作为应付民间性反日活动的机构,网结了一批狂热的日本青年和卖国汉奸,企图挑起事端,为日本入侵东北制造借口。作为军部“骨干青年”的川岛芳子也被派往大连负责调度满洲青年的活动。在川岛芳子的影响下,这批人由原来的蛮干逐渐发展为有步骤地”窃取中国方面的情报”。制造一些不大不小的摩擦,使关东军掌握了大量有关张学良所部的驻兵情况。武器装备等方面的重要情报,并为“9·18事变”的爆发作了大量的谍报组织工作。
随着事态的进一步恶化,终于爆发了震惊中外的“满洲事变”。就在事变发生后的10月上旬,芳子奉田中隆吉之命赶到奉天,投到板垣关东军高级参谋的指挥之下。芳子不仅能自由地使用中日两国语言,而且田中为了把她“培养成一个出色的间谍而倾注了全力 ”,还教会了她说上一些英语,加上她那副清室王女的堂皇招牌,使她更便于在这个混乱时期得以尽力施为,成为一名日军不可多得的战地谍报官和多面间谍,成天 “忙得席不暇暖”,为日军迅速稳定人心、与各大城市的租界搞好关系出了大力。
此时,日本在沈阳的特务机关长土肥原贤二正密谋策划拥立清朝的废帝爱新觉罗·溥仪,并设法把他从天津静园弄到旅顺大和旅馆。但由于风声太紧,走的又太过匆忙,溥仪只能撇下爱妻秋鸿皇后(郭布罗·婉容),携同郑孝胥父子、祁继忠、吉田中心太郎、上角利一、工藤忠、大谷猛等人在关东军的护送下来到满洲。秋鸿皇后起先对皇帝的出走一无所知,后来当她知道溥仪已经离开天津后,闹得天翻地覆,一定要追赶前去,终于患了歇斯底里症。消息传到旅顺,溥仪心内大忿,连夜派人恳求日方将秋鸿皇后接到满洲来。
为了完成建立“伪满洲国”。进而进一步侵吞全中国的“大东亚共荣圈计划”,日本军方也正设法把秋鸿接到满洲,但却苦于没有合适的人去接。而且,想到不是女的去接就很不方便,就更感到人选的重要性。正这个时候,爱新觉罗·显玗——川岛芳子的名字出现了。凭着她在“炸张事件”。“满洲青年联盟”以及“9·18事变”等一系列重大的活动中的“上乘”表现,加之考虑到她是爱新觉罗家族的一员;从她平素的性格言行来看,也是非常合适的人选,这样,一种特定的目的为川岛芳子提供了空前广泛的活动舞台。
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Comments
万歳、万歳、万歳、万歳、万歳。
20万件達成、バンザイ。杉山
Posted by: すぎやまかつみ | December 03, 2008 at 03:09 PM