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1191 中国の三面記事を読む(501) 男装の麗人:川島芳子 (4) 《完》 附:私の姉は川島芳子

2008-11-20 10:23:10 川芳子:方魔女男装女

来源: 网易 网友评论 44 击查

Photo 私の父は清朝最後の皇族、粛親王・善耆で、私は1918年、遼寧省旅順で生まれました。 本名は愛新覚羅・顕琦といい、父親は中国名で“金黙玉”と名づけてくれた。

父親には王妃と四人の側室がいた。 私の母親は一番年下の四番目の側室だった。 母は、娘を3人生んだ。 一番上が愛新覚羅・顕玗で、中国名は金璧輝、父は彼女を日本人の川島浪速の養女とし、川島芳子と名乗った。 彼女が私の実の姉です。

川島芳子は1906年生まれで、私より12歳上です。 彼女は、小さい時から勝ち気でわがままでした。 松本の高等女子高等学校当時、彼女は毎日馬に乗って学校へ行き、気分がよければ授業に出、気が乗らないと何日も教室に顔を出さなかったので、学校を困らせていた。 父が亡くなった時、彼女は帰国し葬儀に駆けつけてくれました。 日本に戻った時、学校は彼女の復学を許しませんでした。

7 父親が病死した後、川島浪速は父の遺言に従い、21歳の川島芳子をモンゴル王パプチャップの息子カンジュルジャップと結婚させました。 カンジュルジャップは生まれつき気が弱くて、彼女の気丈な性格とまったく正反対でした。 2年ほどで彼女は離婚しました。 それからは、彼女は手綱を振り切った野生のウマのように、満州、中国、日本の三地を往来し、満清復の陰謀を展開していきました。 

川島芳子の忘れ難いいくつかの出来ごと――

6 1928年、彼女は単身で上海に行き、スパイの道へ入るきっかけとなった案内役――田中隆吉陸軍少佐と知り合いました。 1931年10月、田中隆吉の命を受けて、彼女は奉天(今の沈陽)に行き、板垣征四郎関東軍高級参謀の指揮下に入りました。 この時、日本はすでに溥儀を旅順まで連れて来ていた。 川島芳子は甘言を弄して婉容を説得し、彼女に付き添い、二人とも男子に変装し車や船に乗って、天津から旅順までたどり着き、溥儀と“一緒”にさせ、満州国建国の時、“皇帝と皇后が同時に登場”する条件をクリアしたのです。

1931年12月17日、川島芳子は上海に戻り、田中隆吉と上海で事件を起す計画練っていました。 翌年1月18日夜、彼らは日蓮宗の天崎啓升和尚、水上秀雄等信者総勢5人に命じ、上海三友実業本工場の前で挑発行動を行わせました。 上海語が出来る川島芳子が三友実業の数十名の従業員にこれら僧侶を襲撃するようけしかけ、水上秀雄は重傷を負って死にました。 これが“一・二八”事変の導火線となった――“和尚事件”です。

“和尚事件”が起った後、田中は川島芳子を通じて上海在住の日本人に金を手渡し、重藤千春憲兵大尉にこれら日本人の指揮をさせ、犯人逮捕を名目に三友実業社に火をつけ焼き払いました。

川島芳子が画策した“和尚事件”に対して、板垣征四郎は高く評価し、“この一撃のおかげで、満州建国が成功した!” 川島芳子の名声はこれから高まったのです。

“一・二八”事変後、川島芳子は“満州建国”の功労者気取りで、とても傲慢となり、板垣征四郎から反発を買うようになりました。 1932年4月、彼は川島芳子を大連に戻るよう命じました。 大連に戻って間もなくて、彼女は満州国軍政部顧問の多田駿大佐のところに身を寄せました。 多田駿は募集した3千余りの兵士を彼女に手渡し、この部隊を“安国軍”と命名し、川島芳子を司令官に任命しました。 川島芳子はこの頃“金璧輝”と改名しています。

1933年2月、関東軍は熱河に侵入しました。 川島芳子(金璧輝)は彼女の“安国軍”を率いて熱河作戦に参戦しています。

1935年末、川島芳子は利用価値がなくなり、軍から日本に送り帰されました。 しかし、1937年の盧溝橋事変が起った後、飛行機で中国に戻ってきました。

川島芳子は北京の憲兵隊長の田宮少佐と結託して、元手入らずの商売を始めました。 田宮少佐が中国の資本家を憲兵隊へ引っ張ってくると、川島芳子が表に出て、逮捕された家族に金銭・財物をゆするのです。 彼女はなにものも眼中になく、彼女に逆らう者など誰もいませんでした。1942年、彼女は日本の憲兵を殴ったため、また日本へ送還されました。 一年後、彼女は日本からまた北京に帰ってきましたが、それ以後は二度と大きなことは起しませんでした。

1945年8月15日、川島芳子はラジオで天皇の終戦のニュースを聞き、全身をぶるぶる震わせていました。

1945年10月10日、国民党の憲兵が、北京東四九条胡同34号へやって来て川島芳子を逮捕しました。 その時、朝寝坊の彼女はまだ起きておらず、薄い藍色のパジャマを着ていました。 手錠をかけられた時、恐怖の表情を見せていました。 彼女の秘書、日本人の小方八郎が見かねて、女中に上着を持ってこさせ着せてやりました。 小方八郎も同時に逮捕されました。

最初、川島芳子は第十一戦区長官司令部に留置されていましたが、その後、北新橋局子胡同前の日本陸軍刑務所に移動されました。 その時、戴笠の有能な部下・馬漢三が北京粛委員会の主任に任じられていました。 ある日、大金持ちが馬漢三の私邸を訪れ、金の十八羅漢を手土産に、川島芳子の釈放を懇願しました。 馬漢三は金に目がくらみ、こっそり川島芳子を釈放してしまったのです。 川島芳子は急いで家へ戻ると、そっと私に言いました。 “馬漢三は私を日本へ送還するつもりだ。 お前は北京にいると危ないから、私と一緒に行ったほうがいい” 私は即座に断りました。 “私は漢売国奴)じゃないから、私は残ります”

間もなく、馬漢三は川島芳子をかばったことがバレ、戴笠が12北京に飛んできて馬漢三に再度、川島芳子逮捕を命じました。

1947年10月22日、河北省高等裁判所は漢売国奴)とスパイ罪で川島芳子に死刑の判決を下しました。

1954年、私が36歳の時、中国画家の馬万里と結婚しました。 ところが1958年2月、私は突然逮捕されました。 罪名は二つ:一、粛親王の娘であること。 二、日本のスパイ川島芳子の実妹であること。馬万里の将来に迷惑をかけたくないため、私の方から離婚を申し出ました。

私は15年の長い獄中生活を送りました。 1973年刑期満了で釈放となると、政府は私に天津茶淀農場の労働者となるよう手配してくれました。 1976年、私はいろいろ病気を併発したため、病気退職しました。 1979年、私は再び働きたいと思い、鄧小平に手紙を書きました。 そして天津から北京に帰ることが出来ました。

我的父是清朝最后一代肃亲王善耆,我于1918年出生于宁旅,原名觉罗·琦,父亲给我起了一个金默玉

有一个王妃、4妃。我的母是年最小的四妃,她生了3个女儿:最大的名叫觉罗·名金璧,父将她送日本人川浪速当女,因此又叫川芳子。她是我的姐姐

芳子生于1906年,比我大12。她小候就好、刁任性。松本高等女子学校,她骑马上学,高了就去上,不高连续几天教室里没有她的人影,令校方大感疼。父死后,她回国奔,重回日本,学校决不准她学。

病故后,川浪速遵照他的愿,将21的川芳子嫁蒙古王公巴布扎布的儿子甘珠儿扎布。甘珠儿扎布性格懦弱,与她的刚强性格截然相反。不到两年,她就离了婚。从此,她像一匹脱的野,在洲、内地及日本三地之往来穿梭,为复清而尽阴谋手段

芳子有几件事最令我

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1928年,她只身来到上海,结识了将其入日本间谍圈的路人——陆军佐田中隆吉。193110月,奉田中隆吉之命,她赶赴奉天(今沈阳),投入关东军板垣征四郎麾下。此,日本人已将溥劫持到旅。川芳子又一番花言巧说动婉容,由她陪同,双双化装成男子,搭、乘船,从天津抵达旅,与溥建立伪满洲国造了皇帝与皇后同的条件。

19311217日,川芳子回到上海,和田中隆吉密在上海挑起事端。

次年118,他命日和尚天崎启升、水上秀雄带领信徒5人,向上海三友实业厂大走去,肆意挑衅。会上海的川芳子唆使三友实业社数十名中国袭击了那几个僧,水上秀雄受重而死。就是一二八火索——“和尚事件

和尚事件生后,田中又芳子将一笔经费给侨居上海的日本人,委派重藤千春兵大尉指挥这批日,以追捕名,火焚了三友实业社。

芳子参与策划的和尚事件,板垣征四郎作了很高的价:亏这洲独立才得以成功!”芳子从此声名

一二八后,川芳子以洲建国的功臣自居,狂傲无比,引起板垣征四郎的不19324月,他命川芳子回到大。回到大不久,她就投靠伪满军政部顾问多田大佐。多田将招募来的三千多士兵交她,并给这支部命名安国,任命川芳子司令,川芳子随后改名金璧

19332月,关东军入侵河。金璧她的安国参加了河作

1935年底,川芳子失去了利用价,被方打回日本。1937变发生后,她乘机回到国内。

芳子与北平队长少佐勾在一起,大做无买卖。田少佐把中国本家抓到,由芳子出面,向被捕者家属勒索物。她目空一切,什人都敢惹。1942年,她因殴打日本兵,再次被遣送回日本。虽说一年后,她从日本又回到北平,但此后再也没有大的作

1945815日,川芳子从广播中听到了日本天皇宣布投降的消息,顿时浑抖。

19451010日,一群国民党入北平四九条胡同34号,逮捕了川芳子。当,喜懒觉的她没有起床,身上只穿了一件浅色睡衣。她戴上手的那一刻,上露出了恐惧的神情。她的秘、日本人小方八郎心有不忍,女佣她找了件上衣穿上。小方八郎同被捕。

最初,川芳子被在第十一官司令部,后来移到北新炮局子胡同前日本陆军监狱。那,戴笠的得力干将马汉三任北平奸委会主任。一天,一位巨商登访马汉三,来十八尊金罗汉刀下留人,放川芳子。马汉迷心,竟真的偷偷释放了川芳子。川芳子急匆匆回到家里,悄声马汉三准将我遣送日本,你留在北平也不安全,不如跟我一起走吧。我一口拒我没有当过汉奸,我不走。

不久,马汉三包庇川芳子事,戴笠赴北平,命令马汉三立即重新抓捕川芳子。

19471022日,河北省高等法院以奸兼间谍罪判芳子死刑。

1954年我36岁时与国画家万里婚。不料,19582月,我突然被捕,罪名有二:一、肃亲王的女儿;二、日本大特芳子的胞妹。了不万里的前程,我主与他离婚。

我在中度了漫15月,1973年刑满释放后,政府安排我在天津茶淀农场当工人。1976年,我因患多疾病病退1979年,我写信给邓小平,要求重新工作,得到解决,从天津回到北京。

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