« 1133 中国の三面記事を読む(486) 魯迅は過去の人? (上) | Main | 1135 中国は見る(522) ノーベル賞受賞報道について (上) 日本新華僑報:オリンピック金メダルとノーベル賞 どっちが重要か? »

1134 中国の三面記事を読む(487) 魯迅は過去の人? (下)

魯迅を学ぶのは時代遅れか?

魯迅は生きている:国語の教材論争から

12 最近とても大騒ぎとなっている事件がある。 教育改革の大きな流れの中で、ある中学(高校)の教材を大幅に変更したことだ。 一番関心を呼んだのが、武侠小説の大家・金庸の作品が採用され、魯迅の作品、特に彼の代表作《阿Q正伝》が消えたことだ。

私の教科書改革の基本的態度は、教育には改革が必要だ。 教科書を永遠に変えないというわけにはいかない。 これが第一。 

14 私は、国語の教科書は百花斉放の多様性を主張する。 教科書を正しい競争の中で、絶えず改善させた方がよい。 専門家の能力がいかに優れていようと、もっと広い教育資源を活用すべきである。 これが第二。

教科書改革の目的は、現代化に向って前進するべきであって、後退はいけません。 時代の風潮、流行と本当の意味での進歩は、決してイコールではありません。 時にみんなが追い求める流行、風潮なるものは、本質的には立ち遅れたものであり、科学的ではありません。 これが第三。

Photo_2 金庸の作品を、私は今まで読んだことがありません。 テレビドラマも見たことがありません。 これは私の個人的な趣味に属するものです。 個人の趣味ですから、個人の選択基準で読みます。 従って文学評論の基準とすることは出来ません。 金庸作品は、あれほど沢山の読者と視聴者を持っています。 ですから、彼には人並み優れたところがあるのでしょう。 文学評論家としては、個人の趣味で軽々しく、とやかくと言うことは出来ません。

しかし、私の研究分野から私の基本的観点を申し上げれば、中国が今一番必要とし、欠けているものは、義侠心を持つことではなくて、現代公民意識と公民の素質です。 私の考え、意見、喜怒哀楽の感情のすべては、この基本的観点から出発し、この観点から派生、発展、拡大、昇華しています。

魯迅作品の消滅を主張する言い分は:1.魯迅の作品は半世紀以前に作られたもので、現在の子供とは遠すぎる。 2。魯迅の作品は難しくてわかりにくい。 もっとわかりやすい作品の方が子供達の興味を引く。

魯迅も意外と同じようなことを言っている。 彼は決して“不朽”(後世まで残る)を求めず、自分の作品は“速朽”(早くなくなる)でよいと言っている。 彼は、自分の作品の中で描かれている不幸な現実が早くなくなり、将来にまで影響が残らないよう望んでいるのだ。 “不朽”は、彼にとっては不幸だった。

残念なことだが、私は魯迅は不幸だったと、はっきり言わなければならない。 魯迅の一生の努力目標は、“国民性の改造”でした。 彼は国民性の様々な欠点を一人の人物モデルに凝縮させました。 それが“阿Q”です。 しかし、彼の目標はまだ達成されていません。 半世紀あまり経ち、中国はずいぶん進歩しました。 しかし、いろいろな曲折、誤りから引き起こされた災難は、大変な災禍をもたらしました。 私達は高い代価を払って進歩を得ました。 そして今、近代化の過程にあり、まだ依然として困難が沢山あります。 これらの災難、災禍と現在の困難は、国民の素質の非現代化という部分と関連しており、阿Qは私達の魂の中にまだ生きているのです。 私達は今日、“人を基本とする”と強調していますが、これは決して根も葉もないことではなく、歴史教訓の総括なのです。 “人を基本とする”は、人の生活水準の向上を目指すだけではなく、人の権利保護、人の素質の向上を目指しています。 昔を教訓に今を見る。 魯迅が心配していた文章を読み、しっかりと“記憶”に留め、それで現実に対する認識を深めれば、国民の素質を更に向上させることができます。 これが時代遅れだというのでしょうか?

残念なのは、私達の生活の中で、“忘れさせようとする動き”が、時々現れることです。 しかもなかなかしぶとく、いろいろな方式で、曖昧化すべきでないものを曖昧化しようとしたり、隠すべきでないことを隠そうとするのです。 これは人類が世界のことを知る基本的法則に背くものです。 現代は歴史を歩んで現代に至っているのであり、天から落ちてきたものではないし、地からわいてきたものでもない。 歴史に対する無知がもたらす結果は、現実的無知でしかありません。 CCTVの《ニュース番組》の中で、“赤色の記憶”という特集があった。 なかなかよかったが、惜しむらくは、“赤色の記憶”の中に、歴史の経験と教訓をもっと広く深く、掘り下げてほしかったと思う。 エンゲルスが言ってるように、“私達の一番いい教師は、自分の教訓である”

魯迅の作品が、“難しくてわかりにくい。 教科書には適当でない”という言い方は、それ自体、教育に対する放棄主義です。 教育というプロセスは学生の知能を高めるものです。 わからないものをわからせる作業なのです。 教育は教師の責任感と教育技術を試すものでもあります。 奥深い内容をいかにわかりやすく教えるか、むずかしくわかりにくい古典作品をいかに学生に受け入れさせることが出来るかです。 人類の文化財産のかなりの部分がテキストの中に収められており、これを読める後輩がいなかったら、文化財産は事実上流失してしまい、新しい文化の創造も、高度な起点を失うことになります。 これは人類社会の後退を意味するものです。

最近、私は某大学が開催した教育経験交流会に出席しました。 先生方が真剣にいろいろ考えを巡らし、知恵を絞り、教育をきちんとしようとする気持ちにとてもうれしく思いました。 でも、はっと気付いたことがありました。 教科内容の現代化、科学化を深く研究しようとする先生がいないのです。 ほとんどがみな教授方法の問題を話し合っているのです。 しかもこの教授方法の検討会では、ほとんど学生の苦学精神や思考力を育てるということを無視し、生徒達にいかに授業を聞かせるか、いかに授業に興味を持たせるか、また居眠りやサボったりさせないようにといったものばかりでした。 要するに、楽に、簡単に、楽しく学ぼうという方法です。 そして大学の教室にゲームを持ち込み、教育は芝居の実演だという者まで現れました。 こんなことは学習のルールを逸脱するものです。 学習は苦しみながら勉強するものです。 必要なのは、苦しみやつらさに耐えることです。 堅忍不抜、万難に立ち向かう精神と意志です。 教授方法は、この精神と意志の養成・薫陶なくしては、教育の目標と全くかけ離れたものとなります。 教材の選択も読みやすい、手間をかけずに読めるといったことで、選んではいけません。 教育は強者を育て上げるべきで、弱者を養成すべきではありません。

このことから私はあれこれ思い浮かべました。 そして私達の子供の環境に“いびつな愛”があることに気付きました。 私達は“至れり尽くせりの世話”を焼いて、子供達の独立心、強靭な意志、奮闘心といったものを喪失させ、精神的な消化不良という病気にしてしまっているのです。 学習は、楽で、簡単で、何も考えなくてもいいのです。 私は、おばあさんのことを思い出しました。 彼女は、子供が下痢をしてはいけないと、食べるものを熱いのはダメ、冷たいのもダメ、固いのもダメ、暖かくて軟らかいものばかり出し、そのため子供は本当に「下痢」になってしまいました――消化不良です。 今、この消化不良が生理の領域から心理領域に移ってきました。 つまり精神的消化不良です。

ですから、古い阿Qは消えてはいけません。 でないと現代の公民は育ちません。 魯迅はまだ、私達の心の中に苦しみながら生きています。

|

« 1133 中国の三面記事を読む(486) 魯迅は過去の人? (上) | Main | 1135 中国は見る(522) ノーベル賞受賞報道について (上) 日本新華僑報:オリンピック金メダルとノーベル賞 どっちが重要か? »

文学」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 1133 中国の三面記事を読む(486) 魯迅は過去の人? (上) | Main | 1135 中国は見る(522) ノーベル賞受賞報道について (上) 日本新華僑報:オリンピック金メダルとノーベル賞 どっちが重要か? »