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1108 中国の三面記事を読む(472) 張愛玲:漢奸を愛してしまった女流作家(1)

2008-09-08 10:20:45 张爱玲:奸的女人

来源: 网易 网友评论 64 击查

1995年9月8日、中国文学界の才女と注目された張愛玲が、ロサンゼルスのマンションの一室で死去。 75歳だった。

Photo 張愛玲(1921-1995年)上海に生まれる。 本籍は河北豊潤、香港大学中退。 名門出身。 祖母の李菊耦は西太后の腹心・李鴻章の娘。 母は欧州に行く。 残された彼女と弟は父親と後妻の監視の中、成長する。 あるいはこのことが、張の作品に悲観的な見方や、地位や財産に弱いという原因となったのかもしれない。 1931年、上海の聖マリア女学院に入る。 入学する時に付けた名前は張愛玲で、英文名Eileenから取った。 小さい時から物語を作る才能があり、40年代には小説《伝奇》、散文集《流言》が上海文壇で名声を博し、一時はその右に出るものがないほどだった。 解放後、大陸を離れ、先に香港へ行き、その後アメリカへ渡った。 その間、台湾へ執筆資料収集のため行ったことがあった。 1995年、アメリカで病死した。 亡くなった時、そばには誰もいなかった。

張愛玲は父親の元を離れ、母親のところに逃げた。 母親は彼女に二つの道を選択させた。 “結婚するんだったら、お金をかけて自分をきれいにしなさい、それがイヤなら勉強するのね” 張愛玲はためらうことなく勉学を選んだ。 しかし母親の経済状況は一向によくならず、母と娘の対立は、日に日に少しづつはっきり見えない形で悪化していった。 

“その頃、母親の家はもう安らぎの場ではなくなりました”と張愛玲は述べている。

高校時代の張愛玲はもう天才と見られていた。 またロンドン大学の入学試験を通っていた。 その後の戦乱により、彼女はロンドン行きのチャンスをあきらめ香港大学に進んだ。 香港大学では、彼女の成績はいつもトップだった。 惜しいことに卒業直前、香港は日本に占領された。 彼女のすべての記録は燃えてしまった。 このことについて彼女は、“あの努力が、たとえうまくいったとしても、きっとダメだったでしょう。 そう思います”とどうしようもない悔しさをにじませていた。

この後、張愛玲は上海へ戻った。 経済的理由からだ。 彼女の唯一の生きる手段――創作で難関を乗り越えるためだった。 《第一炉香》と《第二炉香》が彼女の出世作となり、上海文壇に彗星のような新人の登場を告げた。 張愛玲のこの二作品は周痩主宰の雑誌《紫羅蘭》に発表された。 続いて《赤いバラ白いバラ》《傾城の恋》《金鎖記》などが発表され、彼女の中国現代文学での重要な地位が築かれることとなった。 彼女は上海屈指の女性作家と認められ、作家活動は順風満帆だった。 それと同時に彼女は恋をした。 彼女が夢中になってしまったのは、漢(侵略者の手先、民族の裏切り者)汪精衛政府の文化部担当の胡蘭成だった。

張愛玲と胡蘭成:才女 漢を愛す

1.   小説が仲立ち

2 1943年、張愛玲は上海で当時、汪精衛政府の文化部の役人だった胡蘭成と知り合った。 二人の出会いについて本の記載によれば、胡蘭成が南京で病気療養中、蘇青(女小説家)から送られた雑誌《天地》第11期の《封鎖》を読んだ時、とても気に入った。 文人と文人、通じ合うものがあったのだろう。 張愛玲に好奇心を持った。 そこですぐ蘇青に手紙を書き張愛玲の小説を大いに称賛し、作者と会いたいと言った。 蘇青は返信の中で、作者は女性ですばらしい才能を持っていると書いた。 一層、胡蘭成の張愛玲に対する思いが募った。 それから間もなく、彼はまた蘇青から送られた《天地》第12期を受け取った。 この中には、張愛玲の文章だけでなく彼女の写真もあった。 彼はますます張愛玲に会いたくなった。 胡蘭成は上海へ戻るとすぐ蘇青を訪ね、熱心な読者として張愛玲に会いたいと頼んだ。 蘇青は、“張愛玲はめったに人とは会わないんです”とそれとなく断った。 しかし、胡蘭成はどうしても会いたいといって、蘇青に住所を尋ねた。 蘇青はちょっとためらっていたが、とうとう彼に“静安寺路赫徳路口192号アパート6階65室”と書いて渡した。 胡蘭成は大喜びした。 翌日、喜び勇んで張愛玲の家に向かった。 彼女の住んでいる赫徳路と彼が住んでいる大西路美麗園はそんなに遠くなかった。 だが張愛玲はやはり初めての客には会おうとしなかった。 胡蘭成はあきらめきれずに戸の隙間から、自分の訪問の理由と住所、電話番号、そして愛玲小姐の都合のよい時お会いしたい旨のメモを差し入れた。 翌日、張愛玲から胡蘭成に“会いに伺います”と電話がかかってきて、すぐ彼の家へ現れた。 張愛玲が彼の訪問を断り、自分から彼に会いに行くなど、気持ちがこんなに早く変わったのは、実は、これより前に胡蘭成が汪精衛の機嫌を損ね拘禁された時、張愛玲が蘇青と共に周仏海(汪兆銘政権の有力者)の家に行き取り成しを頼んだことがあった。 だから彼女は胡蘭成のことを知っていた。 そこでこのように会うことになったのである。

2.彼女の“心はうきうきしていた”

1944 実際に向かい合った時、胡蘭成は想像してたのとまったく違うと思った。 まず張愛玲の背の高いこと、また座っているのを見ると、可哀相なほど幼顔でとても作家には見えない。 まるで子供っぽい女学生のようだった。 しかし二人は話し出すと話は五時間にも及んだ。 現在流行の作品を批評したり、張愛玲の毎月の原稿料の話までした。 初対面の女性にこんな質問をするのは失礼なことではあるが、“知り合いになるには知っておきたい”ということだった。 二人はもう古い親友のような感じになり、張愛玲も胡蘭成の失礼な質問も気にならなかった。 胡蘭成は張愛玲を弄堂(路地)の入口まで肩を並べ見送った。 途中彼は突然、“あなたの背、こんなに高いでしょ。 どんなもんでしょう?” この一言が一気に二人の距離を近づけた。 “どんなもんでしょう?”のこの言葉の裏には、二人が「似合い」かどうかという意味合いがあり、もう二人をカップルとして見ていることだった。 張愛玲はいぶかり反感を感じたが、でも満更でもなかった。

翌日、胡蘭成はお返しに張愛玲を訪ねた。 彼女の部屋は豪華で、胡蘭成を驚かせた。 胡蘭成は、三国時代、劉備が孫夫人の部屋に入った時、こういう風に感じたものだと形容した。 その日、張愛玲はサファイア・ブルーのシルクの服を着て、黄色のフレームのメガネをかけていた。 後年、胡蘭成はこのようにはっきりと記憶していた。 この後、彼は毎日、張愛玲に会いに行った。 ある時、彼が張愛玲に《天地》に掲載された写真のことを持ち出すと、張愛玲は取り出してきて彼にプレゼントした。 後に、彼女はこう書き記している。 “彼に会ってから、彼女はどんどん小さくなり、ほこりの中に入ってしまった。 でも彼女の心は喜びで一杯だった。 ほこりの中でも、心はうきうきしていた”

张爱玲:奸的女人

2008-09-08 10:20:45 来源: 网易 网友评论 64 击查

·                                   199598日,曾经瞩目中国文学界的才女张爱玲卒于洛杉一公寓内,年七十五

张爱(1921-1995)生于上海,原籍河北丰,香港大学肄,系出名,祖母李菊耦是慈禧心腹中堂李鸿章之女,生母流浪欧洲,剩下她和弟弟在父和后娘的管中成详见《私》)。1931年入上海圣女校,学名为张爱玲,改自其英文名Eileen。很小就表事的才能,40年代以小集〈奇〉散文集〈流言〉蜚声上海文,一无出其左右者,解放后离,先到香港后又去美国,其曾去台湾收集写作1995年病逝于美国,死竟无一人。张爱玲系出名,祖母李菊耦是慈禧心腹中堂李鸿章之女。不她的童年是黑暗的,生母流浪欧洲,剩下她和弟弟在父和后娘的管中成详见《私》)。或许这后来的作品充利的主要原因

张爱玲离了父逃到了母那里,母亲给了她两条路,选择嫁人,用打扮自己;要读书张爱玲毅然选择了后者,然而,母经济状况一直不好,而母女的矛盾也在一天天慢慢地,以一不易察的形式在一天天激化。张爱这时候,母的家亦不是柔和的了。

中学期的张爱玲已被视为天才,并且通敦大学的入学。后来乱逼使她放弃敦的机会而选择了香港大学。在那里她一直名列前茅,无奈毕业前夕香港却陷了。于她的一切文件纪录尽数被烧毁件事,她轻轻了几句那一的努力,即使有成就,也是注定了要被打翻的……当有数。大有一奈若何的惋惜

此后张爱玲返回上海,因为经济关系,她以唯一的生存工具——写作,来渡过难关。《第一炉香》和《第二炉香》却成她的成名作,替张爱玲向上海文宣布了一颗夺目的新星的来张爱玲的两篇文章是表在由周瘦先生主持的《紫罗兰志上的。之而来的《玫瑰与白玫瑰》《城之恋》《金锁记》等等更奠下她在中国代文学重要的地位。就在她被定是上海首屈一指的女作家,事如日中天的同,她恋了。令她神魂倒的是奸汪精政府文化部服的胡

张爱玲与胡成:才女

一、小之媒

1943张爱玲在上海结识了当政府文化部的官成。于他的相,据记载是胡成在南京病期收到青寄来的志《天地》第十一期,到《封》的候,喜不自。文人与文人之的那惺惺相惜,使他作者张爱玲充了好奇。于是他立即写了一封信给苏青,对张爱玲的小大加赞许,并表示极愿与作者相青回信,作者是位女性,才分高。更是对张爱玲念念不忘。不久,他又收到了青寄来的《天地》第十二期,上面不张爱玲的文章,有她的照片。他越结识张爱玲了。胡成回到上海之后就去找青,要以一个者的身份去拜见张爱玲。青婉言谢绝了,因为张爱玲从不人。但胡意要,向青索要地址。疑了一下才写——静安寺路赫德路口192号公寓665室。胡成如至宝。胡成第二天就冲冲地去了张爱玲家,她住的赫德路与他所在的大西路美园本来就隔得不。可张爱玲果真不生客。胡成却不死心,从门缝递进去一字条,写了自己的拜访原因及家庭住址、电话,并乞玲小姐方便的候可以一面。第二天,张爱玲打了电话给成,要去看他,不久就到了。张爱玲拒他的到访,又自己自去他,主意得好快。其早前,胡成因罪汪精而被押,张爱玲曾青去周佛海家说过情。因此,她是知道他的。于是,就这样见面了

二、她的埃里出花来

真正了面,胡成只与他所想的全不。他一是张爱玲个子之高,二是得她坐在那里,幼稚可怜相,不象个作家,倒象个未成熟的女学生。但他两人一就是五个小。从品评时下流行作品,到张爱月写稿的收入。一个初次面的小姐问这样问题在是失礼的,但相知,所以懂得,两人已有了知交之感,所以张爱玲倒未得胡成的很唐突。胡成送张爱玲到弄堂口,并肩走着,他忽然你的身裁这样高,可以?一句,就忽地把两人的距离拉近了。可以的潜台是从两个人般配与否的角度去比的,前提是把两人作男女放在一起看待了。张爱玲很异,几乎要起反感了,但,真的是非常好。

次日,胡成去回访张爱玲。她房里竟是华贵到使他不安,胡成形容,三国备进孙夫人的房,就有这样的感。那天,张爱玲穿了一件宝蓝绸袄裤,戴了嫩黄框的眼。多年后,胡对这细节都有着清晰的回。此后,他天都去看张爱玲。一天,他向张爱玲提起刊登在《天地》上的照片,张爱玲便取出来送他,在后面上几句了他,她得很低很低,低到埃里。但她心里是喜的,从埃里出花来。

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