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917中国の三面記事を読む(315)中国の性の大家・張競生

見直される中国第一の性学者:かって毛沢東に産児制限の提言を行う

2008-02-13 08:07:38 原中国第一性学家:曾上泽东

来源: 中国青年(北京) 网友评论 52  击查

Photo_2 中国青年報2月13日報道:張競生(1888-1970)、本名は公室、広東平の人。 北京大学教授となり、後世“中国最初の性学者”と呼ばれる。

その昔、上海灘の“三大妖怪”の一人として“性知識を提唱する”ことでトップに挙げられた張競生は、“ヌードを奨励する”ことで三番目に挙げられた劉海粟とよく比較された。 1949年後の境遇は、大きく違ってしまった。 劉海粟の評判はますます大きくなったが、張競生はというと忘れられた存在になってしまった。 以前の売れっ子ぶりとは雲泥の差だった。 あの頃は随分“もてはやされた”けれど、悪名も高かった。

“悪い評判”は性学の主張から起こった

フランスのリヨン大学卒業の哲学博士は、“性の楽しみは、人生の楽しみの一つである”と公然と述べた。 この主張は当時、世間をあっと言わせるものだった。 張競生は33歳の時、蔡元培の招請に応じ、北京大学の哲学教授となり、性心理と愛情問題の講座を設けた。 彼の講義の“美的人生観”は印刷され北京大に広く伝わった。 周作人は“晨報副刊”に“張競生の著作で一番感心するのは彼の大胆さだ。 中国の病的道学者社会にあって、衣食住から娯楽の旗印を鮮明にし、大声で叱咤していることは、なんと愉快なことではないか”と書いていた。

1923年5月、北京大学国学科に“風俗調査会”が出来、張が主席に推挙された。 風俗調査表作成の時、彼は30項目あまり列挙し“性史”もその中に含まれていた。 彼自身の考えでは“人生・哲学、どちらも性学より重大だろうか? 民俗学、風俗学などもいずれも性学と関連がある” 噂では張作霖が北京に入った時、この不道徳な奴をしょっ引いて銃殺すると言っていた。 張競生は殺されなかったけれど、彼が出していた“性史”の項目は、調査会で否決されてしまった。

この強情な教授は、あきらめることなく、なんと“京報副刊”に原稿募集の案内を載せ、一般から“性史”を集めることにした。 相次いで300余篇を集め、張はその中から7篇を選び“性史”第一集を作った。その中には、“初めての性交”や当時の夫人・褚問鵑が書いた“私の性体験”などが含まれていた。 1926年4月“性育社”から発行された。 張は序文の中で、“私達は性を学問として捉えるだけでなく、それを芸術と見なしている”と述べている。

この“美的人生観”は、その当時の人々を激高させた。 新聞・雑誌は揃って彼を攻撃した。 これより前“性道徳の科学的基準”を発表し、猛烈な批判にあった周建人も“性史”を批判し少しも容赦しなかった。 またかって張競生とフランス留学した宋子文も南京教育会議で、名指しで張が主張しているのは“不道徳な愛”“淫乱である”と激しく批判した。 林語堂からも“退廃的な本”と言われたこの本は、出版4ヶ月後、南開大学の張伯苓校長が“淫書”という罪名で、天津警察に取り締まりを申し入れたことから、張競生自身も出版社に再販しないよう指示した。 しかし、それが却ってもぐりでよく売れ、違法出版社が増刷した。 また張名義で多くの“性史”続集が出回り、内容は猥褻だったので、張の名誉はすっかり地に落ちてしまった。

“性の心理学”を翻訳した潘光旦さえも、彼を冷ややかに嘲笑した。 梁実秋は“張競生の醜態暴露さる”、“性学博士”など一連の記事を書いて、彼の出版の本や彼が主催していた月刊“新文化”を取り締まるよう呼びかけた。

1926年、張競生は北京大を追われ、上海の開明書店の総編集長になった。 彼はまた、“美的書店”を開いて、引き続き自身の伝統に背く反社会的活動を行っていた。 当時、普通の商店は男性店員を雇うのがほとんどだった。 ところが張は数人の美女を売り場において本を売っていた。 このことがまた悪口を言われることとなった。 魯迅が風刺の文章を書いている。“一番困ったのは張競生博士が開いた美的書店で、向かいに二人の若い女性が立っている-----------

浙江の蒋夢麟教育長は、張が杭州で講義を行った時、警察に“性の宣伝罪”で彼を“取調べ室”に拘禁し、それから省外に追い出した。

覚えている人もいないと思うが、この世間から受け入れられなかった性学者は、ルソーの“告白録”を中国語に訳した最初の人である。 しかし中国で最初に論理学の概念を伝えた学者が行った行為は、常人の目からはとても論理的ではなかった。 こうした兆候は、彼の少年時代に早くも糸口が見えていた。 1909年、孫中山は彼の才能を認め、北へ行き勉強する手筈をした。 しかし父親は息子はまじめに働いて金をもうけみんなから尊敬される郷紳(有力者)になるよう望んだ。 21歳の張競生はカッとなって、40里あまりの山里を歩き、県庁へ父親を“子供の志を奪う”として訴えを起こした。

1930年代初め、すでに“国内各地”から追われていた張競生は、実家の広東平から上海へわざわざ出かけ、寂しい晩年を送っていた一代の名妓・賽金花にカンパを行い、タブロイド新聞に賽金花への手紙を発表したりした。

世間を騒がせ、常に“性学博士”、“売春博士”、“スケベー”などのレッテルを貼られていた張競生も、ついに耐え切れない日が訪れた。 1932年、彼は自殺を図った。 が未遂に終わり、これ以降、農業の調査研究と農業教育に転向した。 抗戦中は、汪精衛からの誘いがあったが断固拒否した。

この一代の性学者の後半生は、ほとんど“性”とは関係を持たなかった。 生前、彼は暗然たる思いで、“毀誉褒貶は決して決まったものではない。 およそ大思想家の多くは、生きている時、悪口を言われ、後世の人から評価されている”と書いている。

1953年春、張競生は、13000字に上る“私のいくつかの意見”を書き上げ、毛沢東に送った。 “民衆の長期的利益のため、科学的に産児制限を行うべきだ” 当時は、やはり悪口に遭った。

だが彼は結局は幸運といえるだろう。 魯迅はかって、“張競生の主張の実現は、恐らく25世紀くらいになるだろう”と言った。 しかし、張が死んで30余年たった今日、学界は“中国第一の性学者”、“中国産児制限の先導者”、“中国現代民俗学の先駆者”などの称号を彼の頭に載せている。

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