890中国の三面記事を読む(295)中国ヌードモデルの100年史(上)
2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年
前世紀初め、欧、米、日へ留学した若い学生が、ヌード芸術とその教授方法を中国に持ち帰ってから現在まで、ヌード芸術には百年の栄光と挫折の歴史がある。 中国最初のヌード習作は劉海粟が創立した上海美専で出現した。 1917年、美専の成績展覧会の中で展示されたヌードのデッサンが、俄然、ヌードモデル騒動に火をつけ、孫傳芳の口出しを招いてしまった。 この芸術を早期に導入し、実践していた教育家・劉海粟は、“芸術の叛徒”“教育界の害虫”と非難され、ヌードモデルを使う、使わせないの闘争がここから始まった。
新中国成立後、ヌードモデルの使用は、大学美術専攻学科の基礎訓練の中だけに厳しく規制されていた。 1965年、毛沢東の指示により、この芸術学科は滅亡の淵から救われた。
中国初期のヌードモデル
もじもじと登場からヌード時代へ
裸体芸術とヌードモデルが中国に伝えられてからもう百年になろうとしている。 どのヌード騒動の時も、社会の進歩と意識の変化がはっきりと見て取れる。 中国の古代にもこういうことはあった。 しかし西洋芸術のような意味での、ヌード芸術創作方式と密接不可分なヌードモデルの写生訓練が中国に伝わったのは、20世紀に入ってからのことだった。
第一期のヌードモデルは、もじもじと登場
20世紀初め、欧、米、日へ留学した若い学生が、西洋芸術で重要な意義を持つヌード芸術とその教授方法を中国に持ち帰り、美術学校でヌードモデルを描く科目を開設した。 一番早くこれを始めたのは、後に出家して和尚となった李叔同だった。 記録によると、彼は1914年、浙江第一師範学校に初めて人体写生課を作った。 しかし、これは学校内部だけに限られ、社会の敏感分子とは接触なく、従って、当時は社会の関心を呼ぶことはなかった。
“モデル騒動を引き起こし、後世に大きな影響を与えたのは劉海粟です” 中国芸術研究院美術研究所研究員の陳酔氏はこう語る。 1912年、劉海粟は上海で上海図画美術院を創設し、二年後、西洋画科に人体モデル写生課を作った。
しかしその当時モデルを探すことは一大問題だった。 女性モデルは無論のこと、男でさえ見つからなかった。 最後の手段として、どこから連れてきたのか分からないが、“和尚”という綽名の15歳の男の子を探してきた。 最初来たばかりの頃、男の子はもじもじしていたが、日が経つにつれだんだん慣れていった。 “これが中国美術学校でヌードモデルとして名前を残した第一号の人でした。 ただ綽名でしたが”と陳酔氏は語った。
だが学生達は、子供の体だけでは満足せず、成年モデルを探すことが急務となっていた。 その後、学校の用務員が、“やって見よう”と言ってくれた。 ただ半身を脱ぐことに同意しただけだった。 学校側は、まず最初半身裸でも、そのうち時間が経てば、全部脱いでくれるだろうと考えていた。 ところがこの人は一向に全裸になることを承知しない。 学校側は仕方なく、給与を高くしてあちこちにヌード募集を働きかけた。
高い給料により、多くの人が応募に訪れた。 しかし、これらの人々は、いざアトリエに入ると、びっくりして逃げ出した。 最後に、男性がやって来た。 劉海粟が彼と条件について話し、もしその場から逃げる時は罰金を科すと話した。 その人は、二つ返事で承知した。 しかしアトリエに入ると、“罰金払うよ”とぶつぶつ言い出した。
劉海粟の回顧録の中に、その時のやり取りが書いてある。 「私はその人に訊ねた。“なぜ罰金を払うと言ったんです?” 答“人の前で裸を見せることはできません” 質問“なぜ裸になれない?” 答“みんなの前では恥ずかしい” 私が“身体は誰にもあるものだ。 衣服は身体を保護するものであって、あなたの身体を見せないための服ではない。ちゃんとしたことをやらないで、逆に罰金を払うなんて、おかしく思いませんか?” 劉海粟の硬軟両用の戦術が功を奏した。その人は、私の言葉に動かされたようで、しばらく考えた後、そろそろとその服を脱ぎ、緊張した素肌を見せた。 すばらしい曲線、恥ずかしさのためだろう肌はバラ色のように赤味を帯び、血流の流れもわかり、初習者達を驚かせた」
“このようにして、この名も分からない男性が、本当の意味での中国人ヌードの最初の成人モデルとなった”と陳酔氏が語った。
そして、中国の最初の女性のヌードモデルとなったのは、白系ロシアの女性で、1920年にやっと“誕生”した。 それからは、女性モデルを使うことも珍しくなくなった。 北京美専、上海神州女学校美術科、美術研究所や一部画家個人の練習、創作などで女性モデルを使うようになった。
十年間続いたモデル騒動
教育に限って言うなら、20世紀初頭の中国に伝来した“西洋のもの”など誰も気に留めなかったはずだ。 しかし一度、裸体画が一般に公開されるや、情況は一変した。 十年にも亘り全国を震撼させたヌードモデル騒動は、1917年、上海美専が行った成績展覧会が発端だった。 渦中に巻き込まれたのは、誰あろう劉海粟だった。 その年の夏、上海美専は成績展覧会を開催した。 その中に、裸体の習作が入っていたため、参観者の度胆を抜いた。 その中で、城東女学校の楊白民校長の反応が強烈で、彼女は劉海粟を“芸術の叛徒、教育界のうじ虫”と罵った。 そして文章を書き、この展覧会を“理性をなくし、生殖器を崇拝する展覧会”だとし、非難キャンペーンを繰り広げた。 これがモデル騒動の第一号である。
1919年、劉海粟らはまた、小さな画作展覧会を開いた。 その中には、数枚の裸体画があった。 展覧の期間は5日間。 罵声が引っ切りなしに浴びせられ工部局も調査にきた。 工部局の職員は裸体画は数枚だし、展覧期間も間もなく終わるということで、特に何もしなかった。 これがモデル騒動の第二幕。
この二つの事件の社会的影響は、それほど大したものではなかった。 展示されていたのが男だったからだ。 しかし、モデル騒動第三弾の社会的影響はものすごいものだった。
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