« 891中国の三面記事を読む(296)中国ヌードモデルの100年史(中) | Main | 893中国の三面記事を読む(298)劉海粟:江青の裸体画を描いたという噂は本当か? »

892中国の三面記事を読む(297)中国ヌードモデルの100年史(下)

2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年

来源: 水母网 网友评论 25 论坛

Photo しかし、良いことは長続きしないものだ。 1966年、“文革”が勃発した。 モデルの写生は“当然の如く“封建、資本、修正”の列に入れられた。 本物のモデルを描けないばかりか、石膏像もすべて叩き壊された。 1967年初秋、人体写生(ヌード)モデル問題について、周揚など中宣部、文化部の数人の指導者が批判された。 美術科Photo_2 の一部の教師達も“資産階級学院派”“復活”“復辟”の帽子を被された。 

1967年8月4日、毛主席から再度指示が出た。 “絵を描くことは科学的である。 人体を描くという問題については、徐悲鴻のデッサンの道を歩むべきだ----------” しかし毛沢東の指示は正式に出さPhoto_3 れなかった。 ただ密かに転写されたり、壁新聞、大学の刊行物に引用された。 だから大っぴらに後ろ盾とすることは出来なかった。

混乱状態はずっと“文革”終了まで続いた。 みんな恐怖が収まらず、モデルの写生など出来なかった。 1978年12月15日、文化部は、改めて1965年11月11日の文書を発送し、“このとPhoto_4 おり実行する”よう強調し、混乱を鎮めて正常に戻すことになった。 1949年から1980年の間の裸体(ヌード)芸術は休眠状態の時期だった。 特殊な要請があった関係で、“人体モデル”は取り締まれなかったけれど、“秘密の花園”に押し込まれていた。 これは実際的には1920年代から後Photo_5 退したものだった。 文革を頂点として、中国は極左の社会環境にあり、裸体芸術は間違いなく死んだようなものだった。

開放後の人体(ヌード)モデル騒動

中国裸体芸術の休眠中に起こった一連の歴史事件は、その厳しさは50年前よりひどかった。 しかし毛主席の指示により、中国画科の教学で人体デッPhoto_6 サン訓練を取り入れ、伝統の中国画の人物画に大きな飛躍をもたらしたことは、不幸中の幸いと言えるものだった。 勿論、裸体芸術自体についていうと、合法的に認められるようになったのは、1978年第十一回三中全会後のことだった。 

Photo_7 1980年から90年代後半までは、中国裸体芸術の“復興期”と言える。 改革開放はゆとりある社会をもたらした。 また中国人の考え方に急激な変化も与えるようになった。 こうした背景の下、社会のあらゆる分野に驚くべき発展が見られるようになった。 “タブー”だった裸体芸術も目覚しい勢いで発展をみた。 唐大禧の彫塑《猛士》、袁運Yuan 生の壁画《潑水節(水かけ祭)――生命の賛歌》などの代表作がある。

それと同時に“禁断の花園”の垣根(束縛)も取り払われた。 大都市の美術専門学校が建国以来初めてモデルを公開募集した。 1985年初め、上海戯劇学院がヌードモデルを募集した時、応募者は予想外の多さで、半日も経たないうちに、500人分の申込書がなくなるほどだった。 当然、“ヌードモデル”騒動が起こった。

1986年8月、南京芸術学院でヌードモデルをしていた陳素華さんが、病気のため江蘇の故郷に休養に戻った。 丁度テレビで劉海粟に関する映像が放送されていて、その中で人体モデルを描いている様子が映し出された。 村人は見終わった後、モデルとはどういうことか“理解した”

それからは毎日、彼女の家に“覗き見”に来る人がひっきりなしで、ひどいのになると“身体を売るなんてよしな”という人までいた。 ついには、この19歳の娘さんは頭がおかしくなってしまった。

Photo_9 しかし“ヌードモデル”騒動は芸術学科の繁栄を阻止することはできなかった。 数十年に亘り埋もれていた、1920-30年代に訳された本が《開国して、いろんな新しい学説、流派、思想が中国に導入され、芸術の発展を促進した》として、また見直された。 

1987年、陳酔氏の研究成果《裸体芸術論》が出版され、2年に亘り社会をにぎわした。 1988年、同書の累計印刷数は20万冊に上り、学術専門書がベストセラーになるという出版史上の奇跡を生んだ。 1988年はメディアから“陳酔年”と呼ばれた。

1988年末から1989年初にかけて、また社会を揺るがす事件が起こった。 “油絵人体(ヌード)芸術大展”が北京の中国美術館で開催された。 “油絵人体(ヌード)芸術大展”はすべて裸体作品だけを集めた画展で、中国美術館が開催したもので、これはわが国有史以来初めてのことであり、裸体芸術が中国でまた一歩前進することとなった。

しかしこの裸体芸術が夜明けを迎えている時、またモデル騒動が勃発した。 この展覧会の開会途中で、あるモデルが展示絵の前で、観衆から見咎められ、中傷され、これが基で夫と離婚する騒ぎになった。 もう一人のモデルは、姑がテレビニュースを見ていて分かり家庭争議を引き起こした。 そのためこの二人のモデルが、作品の取り下げを強く要求、また学校に経済的補償と給料アップを求めた。 後者の要求は拒否された。 その後、ある民間法律事務所の応援を受け、二人のモデルは美術学院に肖像権の侵犯で訴えを出した。 この裁判は、また10年かかり、1998年やっと和解し、原告に経済補償することで決着した。

1920年代の騒動と60年後の事件と比較した時、両者に大きな違いがある。 あの当時“ヌードモデル”はただの導火線に過ぎず、知識階級と行政側、進歩思想と封建・保守思想の衝突、モデル本人達とは関係なかった。 今は、観念的衝突から経済的衝突のレベルに突入した。 またモデル自身が前面に立ち、自身の権利を守るために戦った。 人々の自意識が強まり、価値観も変わった。 法意識も変わった。 これらは社会の進歩の反映である。

21世紀は 氾濫するヌードの時代

今日、ヌードを鑑賞し受け入れる人がますます増えている。 “ヌード”は今や、特定の環境の下で自分を見せる心理的解放の場となっている。 中国はヌード氾濫の時代に突入したと言える。

いわゆる“ヌード氾濫”とは、“ヌード”という方式なり手段が一般的に高まり、芸術的なものであれ、非芸術的なものであれ、時にはブームとなって、社会がヌードについて、普遍的関心と理解を持つことをいう。

Photo_8 ヌード撮影については、2002年9月《湯加麗ヌード芸術写真》の出版がきっかけとなったといえる。 自分の名前と身分を公開したヌード撮影集を出版したのは湯加麗が中国初となった。 しかし非難の声が殺到し、ほかのゴタゴタもからみ、一時、湯加麗は社会の関心の的となった。 ネット上でも論議を呼び、メディアはこれを“湯加麗事件”と呼んだ。

だが、この事件と以前の騒動なり事件とは非常に大きな違いがあった。 第一は、以前はネットなどなかった。 今回は伝統的メディア以外に、情報の発信は主にネットで広まった。 第二は、1990年代初めはまだマスコミの盛上がりは少なかったが、今は、大変盛んで虚実入り乱れている。 第三は、モデルが著名人であり、また主にネットで論議され、一般の興味が強く、言いたいことを思う存分言うので、ヌードという話題を更に一般化させた。 この話題は、2003年春の「SARS」の時で、みんなの集中力がそっちに移ってしまったので、もしそうでなかったら、きっともっと長く盛り上がったはずだった。

モデルの歴史全体を見た時、どの騒動、事件も社会の進展と考え方の変化を反映している。 現在のヌード氾濫時代は、少なくとも中国女性の自信、独立、自主性を見ることが出来る。 また中国の社会環境がますます良くなり、中国人が次第に富裕に向かっていることが伺える。 

20世紀初頭、ヌード芸術とヌードモデルが中国に伝わり、裸体芸術は百年の歴史を経てきた。 今、芸術環境は多元化の時代で、裸体芸術は、本来の位置に戻ったといえる。

《湯加麗ヌード芸術写真:紹介》Photo_10 Photo_13 Photo_15 Photo_16 Photo_11 Photo_12 Photo_20 Photo_21

Photo_19Photo_18Photo_17

|

« 891中国の三面記事を読む(296)中国ヌードモデルの100年史(中) | Main | 893中国の三面記事を読む(298)劉海粟:江青の裸体画を描いたという噂は本当か? »

美術」カテゴリの記事

Comments

The comments to this entry are closed.