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2007-04-28 08:59:27 中国人体模特一百年

来源: 水母网 网友评论 25  论坛

Photo_11 1924年、上海美専の学生・饒桂挙が南昌で画展を開き、数枚のヌード素描を展示した。 江西の警察は、強制的に閉鎖を命じた。 これが導火線となり、長いモデルをめぐる論戦と裁判が始まることになった。

当時、上海灘の社会的状況は混乱していて、美専が画作展覧会を開くのに乗じて、娼妓の裸体写真を撮ったり、猥褻な絵を描いて、これを“モデル”と称して、あちこちで売り捌いていた。 こうした社会の新しい動きに対し、一部の人々が、そのツケをみな劉海粟に押し付けようとした。

Photo_12 1926年5月4日、上海市の議員姜懐素は、五省の聯軍司令・孫傳芳に上申書を出し、“天下の上海美専のモデル科の「悪の元凶」劉海粟を厳罰に処す”よう求めた。 上海の“正俗社”も劉海粟を“芸術の叛徒に非ず、儒教への反逆なり”と書信で非難しPhoto_13 た。 5月13日、《申報》は、上海県知事危道豊が出した“美専の裸体画禁止”の命令書を掲載した。 情勢が緊迫する中、劉海粟は守勢から攻勢に転ずることにした。 彼は、華東五省の聯軍司令・孫傳芳に直接、危道豊の処罰を求めた。 5月17日、18日の両日にわたり《申報》に、劉海粟は孫傳芳に宛てた“危道豊を非難する手紙”の全文を発表した。 しかし孫傳芳と危道豊は同じ穴のむじなだった。 6月3日、孫傳芳は《申報》で、劉海粟に返信を出した。 穏やかなものだった。 “美は芸術である。 モデルさえやめれば、人々は貴校の不始末など言わなくなります”

Photo_14 しかし劉海粟は、決して孫傳芳の言うままに恩を売られることを潔しとせず、理に基づいて闘おうと思っていた。 6月10日、また《申報》に、公開状を発表した。 “学制変更は全国的問題で一学校だけの問題ではない。 学術の興廃は、みんなで相談して決めるもので、一人で決めるものではない”

大軍閥の孫傳芳は侮辱されたと大いに怒り、劉海粟の逮捕状を密かに出し、上海美専を閉鎖しようとした。 しかし幸いなことに、美専の場所はフランス租界の中にあり、孫傳芳は簡単には手出しすることが出来なかった。 フランス領事は劉海粟に、なんとか孫傳芳と危道豊をなだめるよう説得した。 そこで7月15日、劉海粟は《申報》に孫傳芳宛の三回目の手紙を公開した。 “あなたの仰るとおり、弊校西洋画学部のモデルの裸体部分については、即刻停止します” ほどなく新聞には、“孫傳芳が各地にモデル禁止令を出し、先に劉海粟が沽券に関わると言っていたモデル事件も自動的に収束した”という記事が載った。

これでモデルを巡る騒ぎは一件落着のはずだった。 しかし危道豊がどうしても承知せず、また騒ぎを引き起こした。 彼は裁判所に、劉海粟が発表した公開書簡で、言葉が傲慢で彼の人格を侮辱し名誉を傷つけられたとして賠償を求めた。 最終的に裁判所は、劉海粟に対し名目的な判決・罰金50元を下した。 こうしてヌードモデル騒動は、“金を払ってケリを付け”終わりとなった。

十年かかったこの騒動は、形式的には負けたけれど、実際は勝利だった。 こういう洗礼を受けて、“ヌードモデル”は、とうとう中国の大地、ひいては一部中国人の意識の中に根を下ろすようになったからだ。 この闘争の勝利は、劉海粟の頑強さと雄弁さのほか、五四前後の新思潮、新しい思想が起こった時代的背景、社会の進歩、世論の大きな支持と切り離すことが出来ない。

ヌードモデル 長い幽閉期

十年に亘るヌードモデル騒動で、“ヌードモデル”と“裸体芸術”は、中国の大地に根を下ろした。 しかし発展もしなかった。 というのは、そもそも内憂外患の時代に入り、一般の人達は芸術など構っていられなかったからだ。 だから裸体芸術は基本的に、いくつかの美術学校とわずかな芸術家の範囲内の活動に止まっていた。 しかも大半は、一部の画室でモデルを使った習作作品で、たとえば劉海粟の《裸女》、林風眠の《女人体》のような作品があった。 美術学方面についていうと、裸体芸術とモデル問題をまともに論述するものは皆無だった。

20世紀初頭から1949年までの間は、中国裸体芸術の“揺籃期”といえる。 大きな発展はしなかったけれど、その存在の社会的基盤は出来上がった。 しかし、その次の1949年から1980年までは、中国の裸体芸術にとって、“幽閉期”(休眠期)と言える時代だった。

建国以降の30年、特定の体制と路線の下、裸体芸術の創作は禁止された。 甚だしきに至っては、《堕落のたぐい》と一緒にされ、世界的名画であろうと国内の刊行物に載せることは出来なかった。 建国以降、この分野は“禁止区域・タブー”となった。 だが同時に“特別区域”

でもあった。 新中国では絵画が直接、政治宣伝に活用されるため、西洋画、特にその中の人物画は非常に重用された。 美術学院の中で、油絵、彫塑などでは、従来の教学方式がそのまま残されており、中国画科でさえ、裸体モデルを描く基礎訓練を導入していた。 しかし、これはすべて画室の中だけに厳しく統制されていた。 作品は、絶対に社会に漏れることは許されなかった。 この時代の裸体芸術は“秘密の花園”で、特別に描かれた危険なものだったので、注意深く管理されていた。

しかし、あの特別な歴史の一時期“特別区域”といえども、悪運から逃がれることは出来なかった。 すんでのところで消滅させられるところだった。 

1964年5月“四清”運動(農村や都市の工場や学校で行われた政治運動。 政治・経済・組織・思想の四つを清め社会主義教育を徹底する運動)の初期、康生などが《モデル使用問題について》という報告の中で指示を出していた。 “私は禁止すべきだと思う。 画家になるためにモデルが必要だとは思わない”

3ヶ月後、文化部から《美術部門のモデルの使用廃止に関する通知》が出された。 これは美術、特に油絵・彫塑の教育にとって致命的打撃を与えるものだった。 1965年5月12日、中央美術学院教師・聞立鵬などが中央に書簡を送った。 その中には、“実際の人間(モデル)を写生することは、美術の基礎的訓練で絶対に必要な方法です”と力説し、“少なくとも油絵と彫塑の学科だけは、一定の人体習作が必要です”と意見を述べていた。 この文書は毛沢東の机の上に送られた。 “人体モデル(ヌード)”の運命は、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた。

1965年7月18日、毛沢東主席は手紙の最初の頁に指示を書いた。 “この件は変えるべきです。 老若男女の裸体モデルは、絵画と彫塑にとって必要な基本作業で、なくてはならないものです。 封建思想で禁止するのは妥当ではありません。 たとえ悪いことが出るとしても気にすることはない。 芸術学科のため多少の犠牲があろうと認めましょう” この指示により芸術学科は、正に地獄の入り口から生還できたのです。 1965年11月11日、中宣部から文化部組織を経て、《美術学校と美術創作部門のモデル使用に関する指示》が出され、正式に裸体芸術とモデルは認められた。

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