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854中国の三面記事を読む(274)「項羽が阿房宮を焼き払った」という話は歴史のウソ

2007-12-11 08:45:19 考古发现"羽火阿房"误传

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Photo 華商報12月11日報道:中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所の阿房宮考古チームは、5年間の困難で緻密な作業を終え、最近、この歴史の宮殿にまつわる数々の謎を明らかにした。

Photo_2 2007年の考古活動の中で、阿房宮考古チームはやはり阿房宮の遺跡を発見できなかった。 この一年、考古チームのメンバーは、阿房宮の前殿遺跡と言われる、北は渭河から、南は漢代昆明池北岸に至る62平方キロの範囲内で調査・発掘を行った。 また相前後して、後圍寨遺跡、好漢廟遺跡、秧歌台遺跡なども発掘し、いずれも戦国・秦の上林苑建築遺跡のものであると証明された。

調査の結果、専門家の推測が一層裏付けられるものとなった:秦の阿房宮は、未完成のままで作業中止となり完成していなかった。

前殿遺跡が阿房宮遺跡の全部だ

2002年10月から阿房宮考古チームは、まず阿房宮前殿遺跡と言い伝えられてきた場所を2年間にわたって、調査・発掘をした。 民家が建っていたり、セメントで舗装された場所を除き、考古チームは、前殿遺跡の全面的な考古作業を行った。 

Photo_3 資料によると、阿房宮の前殿遺跡の版築基礎部分は東西1270米、南北426米、基礎部分の上の西、北、東三面には土塀が築かれ、塀の上部には瓦が載せられていた。 南には塀はなかった。 三面の塀の中には秦代の文化の跡、宮殿の名残は見当たらなかった。 東漢-北朝時代-宋代―近代の少量の建築物と墓があっただけだ。

阿房宮考古チームの隊長:中国社会科学院考古研究所李芳研究員の話によると、前殿遺跡の版築基礎部分の南側は台基(土台)を作る人が踏み固めた道になっていた。 道の状況から見て、人々は台基に使う土を南から北に運び、また北から南にだんだんと土を踏み固めたようだ。 工事が未完成に終わったため、南側には塀はなかった。 南側の台基がちゃんと処理されていなかったからで、これは阿房宮の前殿が完成しなかったことを物語るものだ。

このことは、《史記:秦始皇本紀》に記載されている、“すなわち

Photo_4 渭水南の上林苑中に宮殿を造営する。 まず阿房前殿を作る。 東西500歩、南北50丈、殿上には1万人が座れ、殿下には5丈の旗を立てることができる-----------”といった壮大な規模は、単に図面上の設計であって、実施はされなかったことを意味している。

2004年11月から、考古チームは阿房宮の遺跡の範囲を探し求め確認する作業を開始した。 2007年11月末まで、考古チームは阿房宮前殿遺跡を、西は灃河から北は渭河、東は河、南は漢代昆明池北面まで総面積135平方キロの範囲にわたり、調査、発掘を行った。 その中には主な遺跡が10数ヶ所あり、言い伝えの烽火台(のろし台)、上天台、磁石門遺跡なども含まれていた。 しかし考古学的には、これらの遺跡はいずれも秦漢・上林苑の建築であって、秦の阿房宮遺跡とは関係なかった。

芳研究員によると、“未完成の阿房宮の範囲と現在確認できた阿房宮前殿遺跡の範囲はピッタリ一致することが確認できました。 阿房宮前殿遺跡こそ秦の統一後、秦の始皇帝が造った阿房宮の遺跡です”

項羽の阿房宮焼き討ちは 歴史上の大きなウソ

言い伝えによると、西楚の覇王・項羽の軍隊は、都に入ると、阿房宮やすべての建物に火をつけ燃やし、すっかり灰燼に帰したという。 この話は、2000年来伝わってきたが、考古学的には、この話は違っていることがわかった。

考古メンバーは、阿房宮前殿遺跡20万平方米を調査したところ、数ヶ所の焼土の遺跡を発見しただけだった。 専門家によると、これは阿房宮前殿遺跡は秦末の戦乱で大火による延焼などなかったことを意味し、歴史上項羽が火をつけ、阿房宮を燃したという記載は正しくないことがはっきり示されたことになるという。

このことは文献の中でも証明されている。 《史記:秦始皇本紀》には、“項籍(項羽)が合従の長として、子嬰および秦の諸公子、一族を殺す。

陽を屠ってその宮室を焼き払い、その子女を虜にし、その珍宝・貨財を没収して、諸侯がこれを分配した 項羽は陽に対し、「焼き、殺し、奪う」の政策を採ったが、阿房宮のことには触れていない。 《史記:項羽本紀》には、“秦の宮殿は燃やされ、3ヶ月間、火が消えなかった”という。 ここでも、阿房宮のことには一言も触れていない。

今から考えると、阿房宮は出来ていなかった、前殿さえも完成してなかった。 前殿にはしっかり土を突き固めた台基があったが宮殿はなかった。 だから項羽は、渭河を渡ってすぐ建ってもいない宮殿に火をつける必要はなかった。 言い伝えられている項羽が阿房宮を燃やしたという話は誤りだ。

5年の詳しい調査、発掘により、考古メンバーは秦の始皇帝の未完の阿房宮の規模、範囲、配置、構造などを徹底調査し、阿房宮の本来の姿を復元し、阿房宮の焼討ちの話を明らかにした。Photo_5 Photo_6 Photo_7

参 考】 

阿房宮(あぼうきゅう) : 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


阿房宮(あぼうきゅう)とは、始皇帝が建てた宮殿である。咸陽とは渭水をはさんで隣に位置していた。遺跡は陝西省西安市西方13kmの阿房村に残っている。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままで終わった。名称がなかったのを世人が地名にちなんで阿房宮となづけた。阿房宮の増設により国を疲弊させたことから、阿呆(あほう、アホ)の語源であるという説が言われている。

始皇帝が即位すると、孝公がたてた咸陽の宮殿は狭小であるとして、渭水の南にあたる上林苑にあらたな宮殿を建てる計画をたてた。阿房の地に前殿をつくろうとしたが、始皇帝の生前に完成しなかった。

史記』によると、前殿建築物の規模は東西五百歩つまり3000尺・南北五十丈つまり500尺という。なおメートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では693mと116.5mと記述されている。

その殿上には10000人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗をたてることができた。殿外には柵木をたて、廊下をつくり、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道をつくって阿房から渭水をわたり咸陽の宮殿に連結した。これは天極星中の閣道なる星が天漢すなわちあまのがわをわたって、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万にのぼった。なおも諸宮をつくり関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内にたてた宮殿は270に達した。このために民家30000戸を驪邑に、50000戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を造し、6国の妃嬪媵嬙をことごとくこれに配し、秦の宮殿をつくって秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女等それぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。杜牧の「阿房宮賦」にうたわれたのはかならずしも誇張ではない。

『史記』の秦の滅亡に関する記述から、「阿房宮は楚の項羽に焼かれた」(3ヶ月間、火が消えなかったという)というのが現代までの定説だった。しかしながら、「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が2003年に公表された。

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