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840中国の三面記事を読む(265)潘玉良:パリで活躍した中国人女性画家: 妓女から画家の生涯 ④

2007-06-07 08:24:19 潘玉良:从妓到画家

来源: 中国江蘇网 网友评论 44 论坛

30 1928年冬、潘玉良は首尾よく学業を終え、喜び勇んで帰国した。 9年に亘る異国での漂泊のつらい日々を終え、上海美術専科学校の西洋画学部の主任になった。 二ヵ月後、王済遠先生が潘玉良のため「中国最初の女流画家展」を開催してくれた。 この画展は、全部で200点あまりが展示され、中国画壇に衝撃を与えた。 《申報》は、この画展の16 特集記事を載せた。 遠くローマにいる劉校長からも、このニュースを知って祝賀電報が送られてきた。 初めての画展の成功は、帰国したばかりの潘玉良に大きな自信を与え、彼女は更に一層努力を続け、1932年、彼女は、上海で二回目の個人画展19 を開いた。 欧州視察から帰国した劉校長も画展に訪れた。 校長は《浮山古刹》の前に立ち止まって、絵を見ている人達に、“見てご覧なさい。 なかなか趣のあるお寺です。 実に良く描けている。 作者の西洋画の基礎がしっかりしているからです。 技術も熟達しており、作品の構想もとてもいい”

その場にいた見学者達の誰もが賛同した。 だが校17 長は、話を一転すると、“しかし、このデッサンは私の好みではありません。 私は西洋芸術の手法を基に、我国の絵画芸術をもっと豊かに発展させてもらいたいと思います-------------” 玉良は衝撃を受けた。 彼女は自分の作品には個性がないのかと真剣に感じた。 その後、自分の芸術の栄養分として充実させ豊かにするため、彼女は黄山、廬山、浮山、27 揚子江などを歩いた。 小学生のような礼儀正しさで、名師に会いに行った。 古えの石濤、八大、沈石田から、近くは斉白石、張大千、劉海粟、黄賓虹、林風眠、采百家の優れたところを学ぶとともに、山頂、峡谷、画室、教室、河畔、林間などで絵を描き続けた。 二年後、彼女は新境地を開いた新作を発表し、人々から称賛を得た。 彼女の4回目20 の展覧会は、明復図書館で開かれ、百点ほどの最新作が展示された。 そのなかの《私の家庭》、《痩西湖の朝》、《白蕩湖》と《春》が、画壇の話題となった。 参観者が沢山訪れ、明復図書館は、かってない賑わいを見せた。 また多くの美術青年が、31 遠路はるばる見に訪れた。 彼女はしばしば彼らに取り囲まれ、絵画技法について質問を受けた。

これが潘玉良の活動の一番盛んな時期だった。 日本が、以前から狙っていた中国侵略戦争が始まり、中国は民族の危機に陥り、夥しい難民が路頭に迷い、帰るべき家を失くし、死線をさまよっていた。 民族絶滅の危機に直面し、亡国奴になりたくない人達は、大規模な救国運動に参加していった。 抗戦1 中、潘玉良も大きな熱情を持って、当時の美術界の募金展覧会の活動に参加し、その講演の中で、“一部有名人”達は、現実から遠ざかり絵を描かないと批判した。 しかし、そのため恥知らずな連中から、“娼妓が象牙の塔を汚すな”などという中傷を受けてしまった。 玉良は、それに動じず、なお一層、芸術創作と社会活動に打ち込んだ。 彼女は自分の芸術に対する思いと愛情を、油絵“白菊”に託し描き上げた。

21 1936年、彼女は5回目の個展を開いた。 これは彼女の祖国での最後の画展となった。 展示品の中の大きな油絵《人力壮士》、絵の中に表現されているのは、裸体の中国の力持が、小さな草花を踏みつけている大きな石を、両手で持ち上げていると23 ころ。 東北三省(満州)を踏みつけ、虎視眈々と中国の大地を狙っている充血した目、風雲急を告げる情勢、災難に遭う庶民、人民の叫び、権勢ある高官の知らぬふりなどを、彼女の心の中で悲壮な大合唱として構成したものだ。 彼女は力に対する賛美でもって、民族の危機を救う英雄に対する敬意を表現した。 参観に来た観衆の多くはこの絵の前に長いこと立ち、静かに感動を受けていた。

24 潘玉良もこの絵を愛し、自分の手元に保存しようと考えていた。 しかし画展が開かれたその日、教育部長の王雪艇がこの絵を買いたいと申し出た。 彼女も拒絶できず、1000元銀貨の予約を受け、画展終了後、絵を引き渡すことになった。

ところがその晩、画展会場が打ち壊され、《人力壮士》も切り裂かれ、そのそばに“妓女がに捧げた賛歌”と書かれたメモが貼られていた。 昔の古傷がまた、心ない人からあばかれ、潘玉良は呆然とその場に立ち尽くした。 メチャクチャになった展覧25 会場を眺めながら、悲しみをこらえることができなかった。 何年たっても、彼女の過去を許そうとしない人がいる。 しかし現在の潘玉良は、もう昔のひ弱な小娘ではなかった。 長年の苦労と夫・潘贊化の彼女に対する愛情が、彼女に強さと忍耐を学ばせた。 彼女は泰然自若として笑顔を見せながらこれらクズ達の攻撃・非難に耐えた。 これは自分の業績に対する批判ではないだろうか?

26 彼女の三不主義により、潘玉良のフランスでの晩年は、金がなく大変苦しい生活を送った。 彼女は限られた生活の中で暮らした。 王守義は数十年来の数少ない友人の一人だった。 王守義は、早くからフランスで働きながら勉強していた学生だった。 29 潘玉良とは苦学生仲間だった。 彼は善良で人情に篤い人だった。 後にパリのサン・ミシェル街で、「東方飯店」という中国料理店を開いた。 彼は仕事の合間に、しばしば、この貧しい暮らしの友人のところを訪れた。 時には、朝早く玉良のところへ行き、彼女と一緒に公園を散歩したり、お昼には、彼のレストランへ連れて行き食事を食べさせたりした。 ある時、玉良の画室が雨漏りして、絵が描けなくなったことがあった。 王守義は、材料を買ってきて、部屋の中を修理した。 輝かしく活躍している時も、日の目を見ない時も、王守義は黙って彼女に寄り添い、この老画家を援助し、暖かく慰めた。

1960年、潘玉良は、自分を一生愛してくれた夫・潘贊化が安徽で病死したことを知った。 彼女はとても悲しみ、遠い空を眺め、ふさぎこんで病気になってしまった。 彼女は、自分の心がポッカリと空いてしまった感じがした。 家へ戻る希望、夫への思い、再会を想像すること、これらすべてが夫の死と共に消えてしまった。 彼女の一生の中で、この時ほど、孤独と寂しさを感じたことはなかった。 昔の思い出が、一つ一つ頭の中に浮かんできた。 彼が玉良を連れて、ハス池をそぞろ歩きしたことや、灯りの下で間近に勉強を教えてくれたこと、湯気が立ち上っている「銀耳スープ」(シロキクラゲの滋養スープ)を持ってきてくれて、一サジ一サジ口元まで持ってきて飲ませてくれたこと、また、腰をかがめて築山から出てきたところや、彼がウーソン(呉淞)港で彼女の帰りを待っていてくれたこと----------など、目をつぶると、彼が笑いながら彼女の方へ歩いてくるのが見えた。 彼女は、これは幻覚だとはわかっていたが、この短い幻覚の中に浸っていたい、ずっとこの幸せが醒めないでほしいと願っていた。

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