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807中国の三面記事を読む(244)1970年 毛沢東がスノーを天安門に招待したわけ

2007-10-19 09:28:15 1970年毛泽东邀斯上天安背后

来源: 青年参考 网友评论 13 击查

1970年の国慶節に、毛沢東がなぜスノーを天安門に招待したのか?

スノーの墓碑は周恩来が作る

Photo_2北京大学未名湖畔の山の斜面に、ちょっと人目につきにくい白い墓碑がある。 碑には、“中国人民のアメリカの友人 エドガー・スノーの墓”と書かれてある。 碑文は周恩来が作り、葉剣英が書いた。 中国人民の友、エドガー・スノーは、米中関係にどんな貢献をしたのだろう?

エドガー・スノーは、1905年、アメリカ・ミズーリ州カンサスシティで生まれた。 大学卒業後記者になった。 1928年、彼は中国にやって来て、上海《The Weekly Review of the Far East》の編集助手をしていた。 1930年、彼はニューヨーク《The Sun》の海外特派員となった。

1932年のクリスマス、スノーはヘレン・フォスター(19071997)と東京で結婚した。 その後、中国、日本、朝鮮、ビルマ、インドなどの地を巡った。 1933年春、スノー夫婦は北平(現在の北京)に落ち着いた。 住所は東城盔甲廠胡同13号だった。 1934年初め、スノーはアメリカの《The New York Daily News》の中国特派員の身分で、燕京大学新聞学部で講師も務めていた。 彼は現在の北大西南門外の海淀路に住居を購入した。 スノーは、ここの静かな未名湖を愛し、忙しい合間に夫人と美しい未名湖畔をよく散歩した。

宋慶齢の密書を持って延安に入る

この期間、スノーは多くの人々に中国の工農紅軍(共産党指導の軍隊)、ソビエト(中国の革命根拠地)や共産運動について尋ねまわった。 しかし、紅軍なんてないという人や、ソビエトの存在を否定する人ばかりで、これはみんな共産党の作り話だと言っていた。

Photo_3この時スノーは、魯迅と孫中山の夫人・宋慶齢と知り合った。 彼は初めて魯迅のことを西側に紹介した。 そして彼は、西側に神秘の延安を紹介しようと考えていた。

19366月、スノーは生命の危険を顧みず、陝甘寧Photo辺区(陝西、甘粛、寧夏革命根拠地)を取材に行った。 スノーは、宋慶齢が毛沢東に宛て書いた密書を持っていたので、問題なく辺区(革命根拠地)に入ることができたばかりか、毛沢東、朱徳、林彪を 含む数多くの中国共産党指導者、また一般の紅軍兵士達を取材することができた。 それからスノーは、沢山の文章を書き、世界に中国共産党の抗日主張を紹介した。 彼が後日出版した《中国の赤いPhoto_4星》(Red Star Over China中国題名:西行漫記)は、西側に大きな反響を巻き起こした。 スノーはこれにより、中国共産党指導者を取材した最初 の西側記者となった。

19377月、抗日戦争全面勃発以降、北平陥落、スノーは侵略に抵抗する中国の側に立ち、自宅に多くの進歩学生達をかくまい、彼等の北平からの脱出や抗日遊撃隊への参加、延安行の手伝いをした。

毛沢東:私はあなたにウソは言わない

第二次大戦中、スノーは、アメリカの数紙の戦地記者となり、相前後して中国、インド、ソ連などの前線に取材に行った。

1949年、スノーはアメリカでヘレンと別れた後、女優のロイス・ウィ-ラ-と再婚した。 1959年、スノーは、やむない事情でスイスのジュネーブに転居した。 原因は、アメリカ連邦捜査局(FBI)から危険分子と見られたためだった。

新中国成立後、スノーは中国を再訪したがっていた。 19606月、彼はついに北京を訪れ、一別以来の老朋友・毛沢東と会うことが出来た。 1964年、スノーは二度目の新中国を訪問した。

中国の“文化大革命”が始まった後、スノーは中国へ行って見ようと思っていたが実現しなかった。 やむなく彼は、毛沢東に手紙を書いた。 スノーは後日毛沢東に語っている。 “私は何度もあなたに手紙を書こうと思った。 でも実際出したのは一通だけだった” 1970年秋、スノーとロイス・ウィ-ラ-は、ついに中国を訪れた。 彼は“文革”中、中国に入った最初の西側記者となった。 毛沢東はスノーと長時間語り合った。 最後に、“要するに、私が何度も繰り返し言ってることは、35年前から今まで、私達二人の基本的関係は変わってないということだ。 私はあなたにウソはつかなかったし、あなたも私にウソは言わなかった”

Photo_5 1970101日の国慶節式典で、毛沢東は天安門楼上でスノーと親しげに談笑していた。 彼等の親密な写真が、《人民日報》の第一面に大きく掲載された。 これは毛沢東がアメリカに発した信号だった。 その意味はニクソンの中国訪問を歓迎するといことだ。 というのは、アメリカの新大統領ニクソンが、何度も公の場所で中華人民共和国を訪問したいと述べていたからだ。 だがアメリカ人は、すぐにはこの中国式暗示の意味が理解できなかった。

江青の秘書 当時の情景を語る

記者は、林彪の秘書をしていた運深と江青の秘書だった楊銀禄に取材した。 楊銀禄の記憶によると、1970年の国慶節の時、彼は天安門楼上で毛沢東が上機嫌で友人のスノーと話しているのを見たという。 彼等が話している写真は《人民日報》に載せられた。 これは撮影の記者が城楼の下に設置された台の上から撮ったものだった。

運深が記憶していたのは、1970年の国慶節の時、彼は、毛家湾(林彪の北京での住居)でテレビを見ていた。 そして毛沢東が満面の笑みでスノーに話しかけてる場面を覚えている。 彼の印象では、毛沢東がこんな親密な態度を外国の客に見せることは滅多にないことだという。

最高の医者をスイスに派遣 スノーの治療に当たらせる

1971430日、アメリカの雑誌Life》は、スノーの文章を発表した。 その中で毛沢東が彼に“もしニクソンが中国を訪問したいなら、旅行者の身分であろうと、大統領の肩書であろうと歓迎する”と話したことを明かした。 

Photo_6 1972年2月21日、アメリカのニクソン大統領が、北京に下り立ち中国訪問が実現した。 残念だったことは、この年2月15日、スノーはジュネーブでガンのため亡くなり、米中の歴史的なこの重要なシーンを見られなかったことだ。 一言付言すると、スノーの闘病期間中、中国は先端の医療チームをスイスに派遣し、スノーの治療に当たっていた。

スノーは遺書の中で、“私は中国を愛している。 私の死後、私の半分を中国に留めてほしい。 生きていた時のように”と書き残した。

スノーが北京を訪れた時、いつも必ず行った場所は北京大学の未名湖だった。 だからスノー夫人ロイスは、彼の墓を湖のほとりに決めた。 それ故、スノーの遺骨の半分はアメリカに、半分は中国に、それぞれ埋葬された。

Photo_2 1973年10月19日、スノーの分骨式が北京大学未名湖畔で執り行われた。 周恩来、李富春、郭沫若、鄧頴超、寥承志、康克清及び北大の教師・学生の代表らが参加した。 碑の前には、毛沢東の花輪が置かれ、そこには“エドガー・スノー先生に捧げる”と書かれてあった。

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