« 807中国の三面記事を読む(244)1970年 毛沢東がスノーを天安門に招待したわけ | Main | 809中国の三面記事を読む(246)十大美女 中国百年美意識の変遷(下) »

808中国の三面記事を読む(245)十大美女 中国百年美意識の変遷(上)

2007-08-28 17:49:18 十大美女 中国百年

来源: 网易女人 网友评论 416 论坛

1.              1900-1909年 当時の美の基準

横文字が話せて、纏足してない女性。 20世紀初頭は、外国製品、宣教師、大衆伝達などを通して西洋の生活様式が中国に入ってきた。 女権運動を提唱した本《女界鐘》が時流に乗って現れた。 この本は表現が強烈で、纏足を猛烈に攻撃した。 そして女性が、“剪髪”(断髪)、“読書”(勉強)、“参政”(政治参加)を主張した。 古いものから新しいものに変わる時代にあって、少なくとも若い人達の心の中には、西洋への憧れと愛国はイコールだった。

美しい人:賽金花(妓女)

Photo 若くして公使夫人として西洋に行ったことがなければ、どうしてその後、あの大都会上海灘で名前を高めることができたろうか。 民間に流布された話の中の“身を挺して国を救う”とか“石榴のスカートを穿いて八国聯軍に立ち向かう”という荒唐無稽な謎めいた話が出来上がった。 美しさは基本的な問題であり、“西洋風の美しさは”陣痛促進剤的に、この時代に格別な効果を及ぼした。

2.              1910-1919年 当時の美の基準

新世紀の初期、ようやく婦人解放運動が始まり、人々の心に入り込んでいった。 婦人解放運動は最初に、自由恋愛、結婚の自由から始まって、新式結婚となって都市の間で流行した。 “新文化運動”は、この時代の女性に大きな影響を与えた。 この時期の女性は、高いエリ、長い上着、下には黒く長いスカートが多く、服装は比較的地味で、カンザシ、ブレスレット、イヤリング、指輪など装飾品はあまりつけていなかった。 この時代の服装は、“モダンな服装”と呼ばれた。

美しい人:楊歩偉

Photo_2 若くして日本の東京帝国大学に留学し、医学博士を取った女性。 卒業後、北京で森仁病院を開き、自分は“生涯独身”を宣言し、時代の先端を走っていた。 だが、この誓いは間もなく“中国言語学の父”と呼ばれる言語学者の趙元任のプロポーズ攻撃に打ち破られた。 しかし美しさと、非凡な才能、驚くべき独立性は、この女性を更に一層華やかにした。

3.              1920-1929年 当時の美の基準

才女が活躍した時代だった。 “五四運動”が疾風のように吹き抜け、重苦しかった社会に新鮮な空気を送り込んだ。 新時代の詩人・劉半農は、今世紀の初め、“她”(彼女)という字を中国文字の中に取り入れた。 彼女を広めるために作った白話(口語)の新体詩が、“どうして彼女を思わないでいられよう”という詩で、この時代を象徴するものとなった。 劉海粟がヌードモデルを使ったことで世論の批判を浴びていた。 また“産児制限”、“避妊”、“天乳運動”(束胸:乳房を縛る伝統をやめる)には大勢の追随者があった。 女性達は、これまできつく肌着の下に押さえ込んだり、帯で締めたりしていた両の乳房を、誇らしげにチーパオの下に目立つように見せ付けた。

美しい人:林徽因

Photo_3 ロマン詩人・徐志摩との謎にみちた愛の物語は、80年後も、美しく上品で、多才多芸の林徽因の姿を新しいアイドルによって演じられている。 実際の彼女は、20年代、名門の令嬢として、美貌と才華で評判だった。 彼女には、その時代が求めていたすばらしさがあった。 家柄、知識の広さ、才能抜群、美しく上品、年頃、そして礼儀をわきまえていた。

4.              1930-1939年 当時の美の基準

中国と西洋の折衷型女性。 パリのニューモードは海を越えて数ヶ月後には、上海で流行した。 そして、その後全国のほかの街へ広まっていった。 各大新聞・雑誌は服装の特集欄を作り、有名な画家に頼んでファッションの挿絵を描かせていた。 評判だったのはカレンダーのファッション美女の絵で、モダンな服装を一層はやらせるのに大いに貢献した。 服装のデザインで変化が一番激しかったのがチーパオで、ほとんど一年ごとに流行が変わった。 チーパオは中国西洋折衷型の組み合わせが多く、西洋風のコートや洋風モードを取り入れていた。 スリットの切込みを深くしたり、ウエストを絞ったりして、中国女性の服装にセックス・アピールを目立つようにした。 3-40年代、西洋風美意識が上海女性の服装に影響を与え、更に女性全体の各方面に及んでいった。 化粧品は皮膚を白くし、頭髪は髪を黒くすることを目標とした。 冬にはクリーム、夏にはパウダー、シッカロール、香水、髪のためにはヘアトニック、ワセリンなどを使うようになった。

美しい人:胡蝶

Photo_4 胡蝶のイメージは、中国民間に伝わる伝統的美女にピッタリだった。 顔は丸顔、澄んだ瞳、白い歯、肌は白くてつやつやして、両頬にえくぼがあるのがトレードマークだった。 胡蝶がいたかも知れないが、この時代は“えくぼ”のある女性が、みな美女となる幸運に恵まれた。 30年代のもう一人の有名な美人・阮玲玉と比較すると、胡蝶には伝統的で控え目な態度が見受けられる。 全体的に優しく誠実で、昔から言われている“全福全寿”といったいい顔立ちをしていた。 胡蝶は、上海で行われた沢山の“ファッションショー”に参加した。 基本的には、西洋風の服装で、ワンピースからイブニングドレスまで、30年代の上海の中国・西洋の服装の精華を演じて見せた。

5.              1940-1949年 当時の美の基準

政治の花。 40年代は、美の基準を定めるのはむずかしい、戦争があったからだ。 1937年、日本が中国に侵略したため、上海も戦争の災難から逃れられなかった。 物資が窮乏し、人々が大変困惑している時、流行のことなど追っかけていられようか? 戦争は、生命を鴻毛より軽く扱っていた。 美女だって例外ではなかった。

美しい人:宋美齢

Photo_5 20年代、彼女が結婚した時の、結婚のウエディングベールは上海灘で“ブーム”を巻き起こした。 しかし、この女性の美しさを天下に広めたのは政治と戦争だった。 抗日戦争終了後、宋美齢はアメリカに行き、中国大陸の戦後の再建に向けて、アメリカの支持を取り付けるため、彼女は流暢な英語で議会で演説を行い、アメリカを彼女になびかせてしまった。

|

« 807中国の三面記事を読む(244)1970年 毛沢東がスノーを天安門に招待したわけ | Main | 809中国の三面記事を読む(246)十大美女 中国百年美意識の変遷(下) »

中国関係」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 807中国の三面記事を読む(244)1970年 毛沢東がスノーを天安門に招待したわけ | Main | 809中国の三面記事を読む(246)十大美女 中国百年美意識の変遷(下) »