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798中国の三面記事を読む(237)天安門正面の毛沢東の肖像画の制作者は誰?

2007-08-26 09:09:20 是天安城楼上毛泽东画像的制作者 

来源: 深圳新 网友评论 83  击查

Photo 天安門城楼正面に中国人民が敬愛する毛首席の肖像画が掲げられている。 毛主席の肖像画は何度も風雨にさらされ、何回も交替されている。これまで掛けられていた毛主席の肖像画を、制作した人は誰Photo_2 なのか? みなさん知りたいでしょう。

1949年9月2日、周恩来総理が、“閲兵の日を、政府成立の日とする。 閲兵の場所は天安門前とする”との指示文書に署名し、天安門城楼を建国式典の貴賓席とすることが正式に決まった。

天安門城楼の修復工事が早速展開された。 国立芸術専門家・実用美術教師の周令釗が受けた任務は、建国式典のため、天安門城楼に毛主席の巨大肖像画を制作することだった。 周令釗は任務を受けた後、彼の学生・陳若菊らと天安門城楼の東寄りの空間で緊張しながら仕事を始めた。 彼等は壁に木の板を立て、足場を三層に組んだ。 古代建築のペンキの先生も下絵やPhoto_3 色具合など手伝った。 彼等は毛主席の八角帽を被った写真をもとに、主席の襟が開いたデザインとした。 しかし聶栄臻同志が、これを見た後、主席の襟が開きすぎているのはよくない。 建国式典だから、多少厳粛なほうがいいと指摘した。 周令釗と学生達は、聶栄臻の指示通りに襟を描き直した。 9月末、制作作業は完成した。 作業員達が大きなPhoto 肖像画を天安門前に掛けた。 この主席の肖像画こそ、10月1日の建国式典の時、天安門城楼に掛けられたものである。

1950年、北京市人民美術作業室の辛莽同志は、胡喬木の招きで中南海に行き、毛主席の巨大肖像画の任務を任された。 かって延安・魯迅芸術学院の美術教員だった辛莽は、毛主席の無帽でちょっと目が上向きのやや斜め向きの写真を選んだ。 当時、Photo_2 巨大肖像画の経験がなかった辛莽は、解放区から左輝、張松鶴などの人々を呼び寄せ、協力を頼んだ。 

肖像画を描く時、左輝、張松鶴などは足場に立って絵を描き、辛莽は、遠いところから指示を出した。  Photo_4しかし、大きな絵が描き終わり、城楼に掛けられた後になって、一部の人から意見が出た。 “毛主席の片方の耳がみっともない。 また目が上を見ているのは、まるで「大衆を見ていない」かのようだ” 辛莽等は、これらの意見を聞いた後、こんどは主席が正面を向き、目は真っ直ぐ前方を見ている写真を選んだ。 この肖像画は、掛けられた後、評判がよかった。

毛主席の肖像画は毎年一回交換される。 普通、8月の“立秋”前後に描き始められ、国慶節の時に新しいのに替えられる。

Photo_5  1953年後の毛沢東主席の肖像画は、中央美術学院の教授で優れた肖像画家・張振仕が描いたものだ。 張振仕は、勉学には苦労したが、絵の造詣は深いものがあった。 彼は狭い庭の中で黙々と絵を描いていた。 描き始めてから11年、巨大肖像画を制作し続け、1964年になった時、思い通り描けなくなったと中止を申し入れた。

Photo_6 1964年以降の毛沢東主席の肖像画は、美術会社の王国棟が描いた。 彼が制作した肖像画は、毛沢東の斜めを向き、目は真っ直ぐ前を見ている写真を参考にした。 彼が重視したのは、毛沢東の眉のあたりと目元の表現で、出来るだけ主席の優しさ、機知に富み、洞察力のすごさを出したいと考えた。 王国棟は、巨大肖像画を制作する時、人物の輪郭をしっかり掴んだ上で、中国の人々が受け入れやすい色で着色しようとした。 彼が描く主席像は油絵だけど、強烈な民族の特色を出していた。

これは、1949年以来の画家達が、毛主席像制作に携わる上で一番大事なところである。 十数年来、画家達は、ゆっくり改善と経験を積み重ねていった。 関係部門も毛主席の写真を何枚も選ぶ中で、修正など技術処理を行った。 60年代中期になってから、王国棟は、多くの画家達の作品を基礎とし中国と西洋を結びつけ、主席の肖像画をいっそう、指導者としての風格と顔付を表すようにした。 そしてそれは多くの人から受け入れられた。 王国棟が、主席の肖像画を制作する時、数々の難題にぶつかった。 肖像画が大きすぎて、ピッタリの大きな画布がなかったので、しかたなく3枚の画布を繋ぎ合わせた。 繋ぎ合わせたところがどうしても平らにならず、画面上上下に盛り上がった部分がはっきり見えてしまい、肖像画の美感に影響を与えた。 この画布問題を解決するため、ハルピンの亜麻工場と天津絨毯工場が協力して取り組んだ結果、とうとう密度の違う数種類の亜麻布を作り出すことに成功した。

毛主席の肖像画は、やや傾斜のある角度で天安門城楼に掛けられている。

雨や雪に当たった時、画布の後ろのベニヤ板が、水気を受けると画像の色彩に影響が出る。 この問題を解決するため天安門管理所は、一歩一歩模索と改善を重ねた末に、ついにアルミ合金板をベニヤの後に置くことにより、雨水がアルミ合金板に沿って流れ落ち、そのため肖像画が、比較的長時間変色しないようにすることができた。

1976年、毛沢東主席が亡くなり、国を挙げ哀悼した。 王国棟は、悲痛の思いで毛主席肖像画を制作した。 これが彼の最後の毛主席肖像画制作となった。 彼は色調を薄めに調合し、無限の哀悼の気持を画布に凝縮させた。 国を挙げての追悼の日、天安門城楼正面には新華社制作の毛主席の巨大な白黒写真に変えられた。 追悼会終了後、また王国棟の肖像画が掛けられた。 1992年初め、王国棟は退職した。 彼はすでに1971年から後継者を育成していた。 

後継者は18歳の葛小光だった。 葛小光は、北京市の美術会社で油絵を描いていた。 その後、創作室で毛沢東、孫中山、マルクスなど指導者の肖像を描いた。 葛小光は、王国棟の毛主席の巨大肖像画制作の過程の中から、一二枚の写真を見ただけで、人物の風格を表現するのは難しいと感じ、もっとリアルに正確に毛主席の偉大なイメージを巨大な画布に再現するには筆のうまさだけでは足りない。 そこで彼は、ありとあらゆる資料を集め、それから60あまりの主席の肖像画を収集し、その中から十数枚の特徴的な写真を選別し、小冊子にして、肖像画作りの時の参考にした。 葛小光のアトリエは天安門城楼の西北の隅にあった。

面積90㎡、高さ8mの小部屋だった。 防火のためトタンで作られ、テッペンは半透明のガラスがはまっており、太陽の光が上から一様に差し込んだ。 このアトリエは夏は蒸し暑く、冬はものすごい寒さだった。

しかし毛主席の肖像画を描き上げるため、また毎年“十月一日”天安門城楼に新しい主席の肖像画を掛け替えるため、葛小光は暑い夏、寒い冬も物ともせず、夢中になって描き続けた。

目は心の窓だ。 葛小光が、毛沢東の目元を上手に描き出したことにより、一代の偉人の深い思想が強烈に表現され、この目が指導者と人民、歴史の現実と未来の間をつなぐ橋となった。 肖像を描く時、彼はいつも“何か”を探し求めていた。 この“何か”とは表現が難しいが、この“何か”が彼の求めた“真に迫る”を達成したのだ。 それでこそ天安門城楼の前で毛主席の肖像画を見上げている多くの人々が、一様に“そっくり”だというのだ。

天安門城楼の毛主席の肖像画は、タテ6m、ヨコ4.6m、額縁も含め総重量は1.5トン。 これは中国全土、アジア、広くは東半球を含め、最大の手作り制作の肖像だ。

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