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734中国の三面記事を読む(209)金庸の武侠小説 中国の教科書に採用される(4)【完】

3.補足紹介: ①金庸 ②魯迅 ③朱自清 

【1】 金庸(きんよう、ピン音: Jīn Yōng 1924年6月6日 - )は中国の小説家で、香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者。武侠小説を代表する作家で、その作品は中国のみならず、世界の中国語圏で絶大な人気を誇る。本名は査良鏞。金庸とは筆名で、鏞の字を偏と旁に分けたものである。

略歴

Photo_18 金庸は、浙江省海寧県袁家鎮の出身、祖籍は唐山で、明代末期の文人で、反清運動に身を投じた査継佐を祖先に持つ。当初は外交官を目指し、中央政治大学で外交について学んだが、不正に抗議した舌禍事件が原因で退学を余儀なくされる。その後、杭州の『東南日報』で取材記者や英語の国際放送受信の担当を経た後、上海の上海東呉法学院で国際法課程を修習した。

Photo_19 ほどなく金庸は、『大公報』の電気通信翻訳の試験を受けて採用され、香港支社に派遣される。『大公報』の娯楽紙面である『新晩報』が創刊されると、『下午茶座』の編集担当となり、林歓の筆名で映画評論の執筆を行った。

ちょうどその時、大陸では共産党政権の誕生を迎えた。金庸は単身北京に赴き、自分を外交官として採用するように申し出る。しかし、金庸の思想が共産党と相容れないものPhoto_20 だったために、この申し出は拒否された。また、父が反動地主として逮捕される事件も発生する。

これによって外交官への夢を完全に諦めた金庸は、香港に戻り、記者として復職した。その後、同僚であった梁羽生が武侠小説の執筆を始めた影響もあって、1955年、『新晩報』に第一作である『書劍恩仇録』を発表した。それを皮切りに、武侠小説の執筆を開始し、一躍人気作家となっPhoto_21 た。1959年には独立して中道日刊紙『明報』を創刊するが、その原因は『大公報』の左傾化への反発である。

以降、『明報』に社説と武侠小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系各紙と、共産党の施政を巡って激烈な論争を繰り広げ、文化大革命勃発時には、その真の目的が劉少奇打倒にあることを、終末期には当時権Photo_22 力の絶頂にあった林彪の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。

香港の中国への返還が決まると、香港基本法起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治Photo_23 的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。

その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武侠小説の改訂を開始した。

金庸の武侠小説

Photo_25  1955年に処女作『書劍恩仇録』の連載を開始して以来、1972年に『鹿鼎記』を最後の作品として断筆するまでに、長編を中心に15作の武侠小説を書き上げた。それらの作品群は、文学的な表現と巧みな展開の物語で、爆発的な人気を引き起こし、香港中国のみならず、台湾や華人の多い東南アジア各国でも広く読まれている。その浸透ぶりは、「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」と言われるほどで、中華圏における民族作家として確固たる地位をPhoto_26 確立している。

金庸の武侠小説は動乱の時代を舞台としたものが多く、壮大な歴史背景に、実際の歴史上の人物も多数登場して虚実入り混じった世界を形作り、武侠小説の枠を超えた壮大な歴史叙事文学と呼ぶに相応しいものとなっている。また、作品の中では、民族間の葛藤が描かれることが多いが、それらの関係は伝統的な中華思想によっては捉えらPhoto_27 れておらず、諸国家・民族が客観的かつ平等に描かれているのが大きな特徴となっている。

武侠小説はそれまで低俗な大衆小説として知識人からは軽蔑される傾向が強かったが、豊かな教養に裏打ちされ、また西洋小説の影響も受けた金庸の作品は知識人の間でも好評を博し、金庸の作品の主題や物語、登場人物を研究する「金学」なる学問まで生まれた。武侠小説を文学Photo_28 としても評価される域にまで引き上げたことで、金庸は、「武侠小説の第一人者」との呼び声も高い。また、作品の多くは映画やドラマ、漫画、ゲームなど様々な媒体に進出して大衆に広く愛され、中華圏における広範な娯楽文化の一翼を担っている。1995年に、現代中国の代表的な作家を選んだ「二十世紀中国文学大師文庫」で、金庸は、魯迅沈従文巴金に続く、第4位に置かれている。

《参考》  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 【抄録】

【2】 魯迅(ろじん、簡体字表記:ピンイン: Lǔ Xùn 1881年9月Photo_29 25日 - 1936年10月19日)は、中国小説家翻訳家思想家。本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)で、は豫才。ペンネームの魯は母親の姓(中国では、結婚しても姓を変えない)だという。浙江省紹興市出身。左翼作家連盟を結成し、その指導者となる。死ぬまでマルクス主義を擁護した。4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。

人物・経歴

Photo_30 1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、学校で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学によるPhoto_31 精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。

1906年3月に仙台医専を退学し東京での生活を経て帰国。杭州紹興などを経て、1912年南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。

Photo_32 また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。

Photo_33 なお、仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。

《参考》  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  【抄録】

【3】 朱自清【しゅ じせい/チュ・ツチン/Zhu Ziqing】 (18981948)
Photo_34 詩人、散文家。 本名は朱自華。 字は佩弦。 筆名は余捷、柏香、知白、白暉、白水など。 江蘇省東海県出身。 官吏の家に育ち、私塾、小学校で学び、江蘇省立八中を卒業後、1916年、北京大学哲学科に入学。 在学中から新詩を書き始める。 その頃の詩には五四運動の影響が強く見られ、プチプルの失意と、目覚めた青年の巧妙に対する叫びがPhoto_35 うたわれている。 21年、文学研究会の結成とともに会員になる。 23年、《小説月報》に発表した長篇詩「毀滅」は、漂える浮雲のように補捉しがたい虚無感をふり切って一歩一歩くっきりと足跡を印して前進しようという、岐路に立つインテリの悩みと決意を真摯にうたい上げた誠実清新な詩風と、長篇詩という新しい詩型が当時の詩壇に大きな反響Photo_36 をよんだ。 24年、詩集「踪跡」を出版。 また葉紹鈞、劉延陵、俞平伯らと中国新詩社を作って《詩》月刊を出版し、徐志摩、聞一多らの《詩鐫》と南北に対峙する。 だが25年、清華大学の教授になると、詩から散文に転じ、同時に古典文学の研究も始める。 「槳声灯影里的秦准河」(23)「温州的踪跡」(24)「荷塘月色」(27)などPhoto_37 繊細で巧みな自然描写に託して閑適でしかも寂寥・幻滅の心情をのべている。 また、散文「背影」(25)「給亡婦」(32)は、父子の情や、亡くなった妻を悼む至情あふれる珠玉の名文として評価が高い。 31年、英国に留学、32年帰国後、陳竹隠と再婚し、清華大学の中国文学科主任教授になり、青島大学から転任してきた聞一多とは古典文学研究を通じて親交を深める。(中略)48年8月12日、持病の胃潰瘍手術後腎臓炎を併発して50歳の生涯をとじる。 

《参考》  出典: 中国現代文学事典(東京堂出版) 【抄録】

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