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585中国は見る(321)靖国神社 戦犯合祀の内密資料が明らかに

1.2007-03-29 04:33:39日本靖国神社合祀戦犯内幕資料曝光  来源: 中新网(北京) 网友評論1条進入論壇

22007-03-30 06:15:00 安倍否认日本政府主导靖国神社合祀甲级战犯 来源:中国青年报(北京)  网友评论7条进入论坛

1.靖国神社 戦犯合祀の内密資料が明らかに

Photo_1099 中新ネット3月29日電:日本の国会図書館は28日、国会に靖国神社が戦犯を合祀した当時の資料集を提出した。 これにより戦犯を合祀した内幕が明らかになった。 内容には日本政府が合祀を主導した明確な記載はないものの、行間から政府が深く関与していた実体が浮かび上がって見える。

Photo_1100 “NHK”“朝日新聞”などの報道によると、国会図書館は国会からの要求を受け、靖国神社問題について調査を進め、神社と厚生省の協議内容など808資料、約1200頁に亘る資料集を、28日国会に提出した。

この資料の中には、戦犯合祀対象の決定経緯も明らかにされているが、背後で日本政府が合祀を主導した記述はない。 しかし資料からは、“サンフランシスコ講和条約”調印後、当時の厚生省と靖国神社が、頻繁に協議を重ね、戦犯者を合祀するための手続きについて意見交換を行っていたことが明らかになった。

NHKによると、資料集の記述の中に、1958年4月の打合せで厚生省側から靖国神社に対し、“戦犯者はB級以下で、目立たないように入れてはいかが”と提案。 翌年、BC級戦犯が合祀された。 朝日新聞によると、この資料は靖国神社が所蔵する“靖国神社合祀者資料審査方針”の一部だという。 厚生省は1956年から、3年間に亘り積極的に合祀を推進していた。 1958年4月9日、靖国神社の事務室で合祀基準の会議を開いた。 出席したのは旧厚生省側4人、神社側5人、“奉賛会”関係者6人だった。

Photo_1101

報道によれば、A級戦犯は1978年合祀された。 ただ名簿は1966年2月には靖国神社側に送付されていた。 この新資料によると、1969年1月31日、厚生省と神社が12名のA級戦犯を“合祀可”と同意していたが、対外発表は避けると指示があった。 その後、1970年6月25日、各種情勢を勘案し、暫くこの合祀案は保留された。

日本の憲法には政教分離の原則の明文規定がある。 この資料からは、日本政府の合祀主導への関与が読み取れる。 

2.安倍首相 日本政府の靖国神社A級戦犯合祀関与を否定

中国青年報東京3月29日電:1978年にA級戦犯を靖国神社に合祀したいきさつについて、日本政府は一貫して“神社が決定したことで、政府は関与していない”としている。 しかし、日本の国会図書館は28日、《新編 靖国神社問題資料集》を公表し、靖国神社が戦犯を合祀した内幕を明らかにした。 資料からは、厚生省が頻繁に靖国神社と協議を重ね見解を述べ、合祀問題で積極的に介入し主導的役割を果たしていたことがわかる。 メディアの中には、これは日本政府が憲法で規定している“政教分離の原則”を無視していることが明らかであり、アジア外交や日本国内の首相の靖国神社参拝論議に重大な影響を与えることになると指摘するものもある。 同日、安倍首相、塩崎恭久官房長官は相継いで、政府が戦犯の靖国神社合祀に関与していることを否定した。

小泉前首相が何度も靖国神社を参拝したことで、日本国内外から靖国神社問題は極めて高い関心を呼び、多くの国会議員から関連資料についての調査依頼が増えた。 国会図書館は去年から靖国神社問題に関する資料の収集を行い、約1200頁、計808点の資料に整理した。 その中には、靖国神社がこれまでずっと“非公開”とされてきた合祀の資格審査や手続きに関する文書も含まれている。 今回公開された新資料は

A級戦犯合祀を決めたことがわかる貴重な資料と見られている。 この資料集は一般販売はせず(非売品)、今年5月をメドに国会図書館のホームページ(HP)に公開する予定。

戦犯合祀資料の公開問題について、安倍首相は29日、首相官邸で“問題ない。 合祀を行ったのは(靖国)神社で、(厚生省)は情報提供を求められ提供しただけ”とし、資料の中で、厚生省が靖国神社にBC級戦犯を目立たないように合祀するよう提案したことについては、安倍首相は“日本政府の合祀問題介入については制限がある、強制してるようなことはない。 政教分離に触れる問題ではない”

共同通信社は次の通り指摘している。 今回の靖国資料は、日本政府(厚生省)と靖国神社が綿密に連絡を取り合い靖国神社に戦犯を合祀したことを明らかにしている。 資料が明らかにした、日本政府が積極的に戦犯合祀問題にかかわった事実は、恐らく日中、日韓関係に微妙な影響を及ぼすだろう。 このほか、日中共同歴史研究の過程で、日本側がこのような厄介な資料集にでもぶつかったら、“日本政府の認識がまた問題視されるだろう”

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584中国は見る(320)テレビ報道番組「日本見聞記」(7)----靖国神社

《岩松 日本を見る》:靖国神社探訪

2007-03-08 13::58:42岩松看日本探访靖国神社

 

来源: CCTV  网友评论187条进入论坛

Photo_1090 白岩松は靖国神社の境内で、ちょうど映画《靖国神社》を制作中の在日映画監督李櫻に取材し、彼から靖国神社、靖国史観について話を聞いた。Photo_1091

靖国神社の中にある遊就館、館内にはたくさんの展示品、説明文があるが、歴史の事実を歪曲し、日本が第二次大戦中行なった侵略の行程を美化しているため、中米韓など多くの国から厳しい批判を受けた。 

Photo_1092 岩松の話によれば、3月7日の取材は矛盾に満ちたものだったという。アメリカの学者が日本民族の文化の性格を論じた時使った《菊と刀》の比喩のように、一方では菊の花のような美しさを持ちながら、一方でPhoto_1093 はよく切れる刀を持っているようなものだ。

靖国神社の奉安殿には東条英機ら14名のA級戦犯を祀っており、日本の政府高官が何度もここを参拝した行為は、アジアの第二次大戦被災国の怒りを招いた。

Photo_1094 中国人にとって靖国神社は実体そのものだけでなく、一番関心があるのは、その背後に隠されている靖国史観である。 今日、中央電視台(CCTV)《東方時空―岩松 日本を見る》の撮影チームは靖国神社にPhoto_1095 足を踏み入れた。 岩松は靖国神社の中にある遊就館で、《私たちは忘れない!》という映画を見た。 映画を見終った後、彼が最初に感じたことは、決して腹が立つとか、怒りではなく、あまりにもでたらめすぎPhoto_1096 るという思いだった。 映画の全篇(50分)を通じて歴史の真実の記録はなく、いささかの懺悔の気持もない。 反対に歪曲したデタラメな歴史を綴っているだけだ。 映画は、満州国を日本が各民族と仲良く王Photo_1097 道楽土を建設するためとしており、また日本がアジア国家に発動した戦争を、アジア人民を解放するものとし、盧溝橋事件は中国軍隊が先に発砲したことから起こったとしている。 では、当時日本の軍隊はなんでPhoto_1098 中国の国土にいたのか?

撮影班が神社側から得た確かな情報によると、去年ここへ参拝に訪れた人数は、500万人を超したという。 しかも若い人の数が目立って増えているという。 岩松はこれは大変心配な変化だと思った。 

011 靖国神社の向かいにある東京理科大学の“理”という字を見て、岩松はつくづくと考えてしまった。 彼は中国の古い言葉“有理走遍天下、無理寸歩難行”(道理にかなっているなら、天下どこにもあまねく通用するが、道理にかなわなければどこへ行こうと通用しない)を引用して、これを今回の靖国神社行の最後の総括とした。

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583中国は見る(319)テレビ報道番組「日本見聞記」(6)----栗原小巻(下)

《岩松 日本を見る》:栗原小巻独占インタビュー

2007-03-24 05:06:58 :白岩松看日本: 走近日本著名演栗原小卷   本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1125857,2.html 

Photo_1084 (白岩松) あなたは先程、映画には三種類あるとおっしゃいました。 芸術的なもの、社会的なもの、そして娯楽、商業的なもの。 あなたが選んだのは前の二つです。 現在、人気タレントなどと言われる若い俳優達は恐らく三つ目の娯楽、商業的なものを選ぶんじゃないかと思いますが、あなたはなんで、芸術、社会ものにこだわったのですか? あの当時、あなたがご自身で決められたのですか?

Photo_1085 (栗原小巻) 私は芸術作品は収入と結びつけるべきではないと思います。 もっと有意義なことを考えるべきです。 たとえば、出来上がった芸術作品の達成感を、見ていただいた観客の人々と感動を共にできることはとても重要なことだと思います。

(白岩松) ここ20年、あなたが舞台で活躍されていることは私も承知しております。 みんなも知りたいと思っているのではないかと思うのですが、演劇は収入の面からいうと、決して高いものではないし、それに舞台に縛られるといったことも多いと思うのですが、なんでこういう選択をされたのですか? あなたにとって演劇の魅力とはなんでしょう?

Photo_1086 (栗原小巻) 映画作品は自分が学んだものをそのまま演ずればいいのですが、演劇は自分の想像力を働かせ、演技に挑戦していくものだと思うのです。 ですから演技者にとっては、この二つは難しいけれど、やらなければならないものだし、意義あるものだと思っています。

還暦を過ぎた栗原小巻は今も独身である。 演劇のため家庭に入ることを断念した。 妻と母になれなかったことに心残りはあったものの、栗原小巻は自分の選択に後悔はしていない。 彼女は“私の恋人は仕事です”と言ってはばからない。

(白岩松) 多分、あなたを知っている多くの中国人は、あなたを自分の家族の一員のように思い、あなたのことを気にかけています。 多くの中国の友人は、あなたが演劇の仕事のため独身を選んだことを知っています。 でも、もし今また選択するとしたら、映画演劇を選びますか? それとも家庭か結婚を選びますか?

(栗原小巻) もし家庭に入ったなら、私はきっと料理上手で、いい妻、優しいお母さんになれたと思います。 でも今は、このように中国の人達と交流活動ができ、よい作品に恵まれ、ファンと感動を共に味わうことができ、社会にささやかな貢献ができましたし、私はこのような生活も大好きです。 ですから、今、私にどちらを選べというのは難しいですね。

(白岩松) あなたにとっては、この数十年、映画にしろ、テレビにしろ、また特に舞台で演技をしてこられました。 あなたにとってこの演技とは、一体どんな意味があるものでしょう。 またあなたをこんなに引き付けるものはなんなんでしょう?

(栗原小巻) 私はこれまでいろんな女性の人生を演じ、いろんな体験をさせてもらいました。 こういうことは、普通の生活の中では体験できないものです。 俳優だからこそ経験できました。

Photo_1087 1979年から栗原小巻は、前後20回ほど中国を訪れ、中国の映画演劇界の人たちと確固とした絆を結んでいる。 1979年、北京で行なわれた日本映画祭開幕式で、趙丹が彼女を中国の観客に紹介した。 1991年、栗原小巻は謝監督の招請を受け、日中合作の映画《乳泉村の子》(清涼寺鐘声)の中では、おばあさん役に扮した。 濮存昕が残留孤児の息子を演じた。

(白岩松) 中国のニュースの中で、時々あなたの名前が中国の映画俳優の名前と一緒に出てきます。 たとえば趙丹だとか、黄宗英や、謝晋など。 また映画祭をやられた時には、濮存昕からのお祝いのメッセージもありました。 中国の映画人との付き合いも、仕事上の付き合いというより、もう忘れ難い友情といったものになってるんではないですか?

(栗原小巻) 初めて中国に行った時、趙丹、巴金先生などの人から大変よくしていただきました。 黄宗英監督や濮存昕の方たちも家族同様にしてくれました。 皆さんが日本に来られた時や、私が中国へお邪魔する時など、いつもお会いしています。

(白岩松) あなたと中国のこの「縁」は、最初は「思わぬ展開」だったと思います。 この二本の映画の中国での大ヒットという偶然なことがきっかけでした。 でもこの「思わぬ展開」が、あなたを変えたんだと思います。 あなたはこれ以降、ますます日本と中国に関する仕事をされてこられました。 これはご自分から、そうされたのですか?

Photo_1088 (栗原小巻) 以前から私は中国の歴史と文化・芸術について尊敬しておりました。 でも私と中国の本当の交流は、やはりあの二本の映画《サンダカン八番娼館 望郷》と《愛と死》がきっかけでした。 この二本の映画は中国で評判となり、私が中国へ伺った時にはとても多くの人が熱烈歓迎してくれました。 本当に有難うと申し上げたいと思います。 このことが私に、中国のことをするようになった原因ですね。 このほかではその後、縁があって日中合作のテレビに出たり、舞台にも出るようになりました。 また中国の映画・演劇人達とも知り合うようになり、その方達が日本に来られた時は接待したりしています。 こうしたことが主な活動です。

Photo_1089 長年、栗原小巻は日中両国の友好交流活動に従事しており、今は、日中文化交流協会代表理事の職を務めている。 2002年4月、《栗原小巻映画作品展》が北京で開かれ、栗原小巻の代表作6作品が上映された。 これは日中国交正常化30周年を記念したもので、中国が“日本年”の開幕イベントとして行なった、最初の文化交流活動だった。

(白岩松) 中国の映画展で紹介したあなたの作品はみな代表作品といわれるものです。 でも、あなたからの要求で中国の謝晋監督との合作映画《乳泉村の子》を追加しました。 その時、中国の監督達はみな意外に思いました。 この映画は彼女の代表作ではないと。 あなたはなんで、この作品を映画展に加えたのですか?

(栗原小巻) 謝晋監督は私の尊敬する監督です。 私は彼の作品に出演できて感謝しています。 ですからこれはとても大切な作品なのです。 この作品を演じた時、私には三つの思いがありました。 一つは謝晋監督の作品に出演できる喜び。 もう一つは、中国と日本の心と心の交流です。 映画が主張しているのは平和がテーマです。 私はそのことは大切なことだと思いました。 第三は、映画の中で扱われているのは、日本の残留孤児が中国の家庭と社会に育てられ成長した物語です。 このことについて私は感謝したかったのです。

(白岩松) 今年は日中国交正常化35周年です。 あなたは随分、中国と日本関係のことをやられておりますが、今年もこれに関することであなたの出番は? 普通、このようなことであなたに声をかけられた場合、あなたはどんなお気持ちですか?

(栗原小巻) 去年は、日中文化交流協会成立50周年でした。 私達は多くの活動を行ないました。 中国の方も熱心に協力してくれました。 日中国交正常化30周年の時もそうでしたが、私は35周年でも沢山イベントを行なうつもりです。 この活動の成功のためなら、微力ながら精一杯努力するつもりです。

(白岩松) 最後に、中国には沢山あなたのことを気にしているファンがいます。 ファンの年齢もちょっと高くなり、もう35歳から40歳を越してるでしょう。 もちろんもっと上の年齢の人もいます。 ファン層はとても広かったですから。 この機会に、この人達とお話してはどうでしょう?

(栗原小巻) 皆さん私の映画を見ていただき本当に感謝申し上げます。 先程、あなたがおっしゃいましたが、私が演じた舞台の作品を中国の方にお見せすることができないのが、大変残念です。 今後、各方面を通じて日中文化交流のため引き続き努力してまいります。 私達の交流を深めることで、日中間の友好関係が末永く続くよう願っております。 私もそのため努力します。

(白岩松) ありがとうございました。 多くのファンも、あなたに忘れられない感銘と思い出を与えてくれたと感謝しています。 ありがとうございました。

(栗原小巻) 私もとてもうれしかったです。 ありがとうございました。

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582中国は見る(318)テレビ報道番組「日本見聞記」(5)----栗原小巻(上)

《岩松 日本を見る》:栗原小巻独占インタビュー

2007-03-24 05:06:58 :白岩松看日本: 走近日本著名演栗原小卷

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1125857,2.html 

Photo_1075 (白岩松) 東京の狭い路地の奥深く、我々は有名な映画スター栗原小巻を訪ねてやって来た。 彼女は中国の映画ファン、特に35歳以上ならとても馴染みのある人である。 80代初め、《サンダカン八番娼館 望郷》(望郷)と《愛と死》(生死恋)の二本の映画によって栗原小巻は中国ファンを虜にし非常に馴染みのある顔となった。 我々は鉄門を通って彼女の仕事部屋へお邪魔しようと思っていたところ、なんと後ろから車が近付いて来た。 見るとマスクをつけて運転していたのは栗原小巻本人だった。 すぐ話をすることが出来た。

(白岩松) 中国の人々は、あなたが中国へ何回くらい来られたか知りたいと思うのですが?

(栗原小巻) 去年2回行きました。 もう20回くらいになります。

(白岩松) 私が、この部屋に入ったら、中国のいろいろな思い出の品が目に入りました。 あなたはこの部屋に入る度に、あの頃のこと、友達のこと、多くのことを、思い出すことでしょうね。

(栗原小巻) そうです。 我が家にはこのような思い出の品が沢山あります。

(白岩松) あなたが80年代、最初に中国へ行かれた時、行く前のお気持はどのようなものだったのでしょう? まだ扉が開いたばかりの国でしたから、緊張とか、心配だとか、好奇心だとかあったと思うのですが?

(栗原小巻) 私が初めて中国に行ったのは、映画の代表団として参加したものです。 私が行った年には、私の《サンダカン八番娼館 望郷》という映画はもう公開されていました。 ですからその当時の私の気持は、興奮で一杯でした。

Boukyou 1978年の秋、日本映画《サンダカン八番娼館 望郷》が、中国で封切られた。 物語の内容は、 “からゆきさん”と呼ばれる日本人娼婦達の歴史を研究する女性史研究家・三谷圭子が“元からゆきさん”の「おさき婆さん」に出会います。 圭子の心からの触れ合いに心を開いた天涯孤独の「おさき婆さん」が、彼女に自分の半世紀あまりの悲惨な身の上を語り始める。 映画の中で、女性史研究家・三谷圭子に扮したのが栗原小巻だった。 彼女は若くて美しく、その優しいしぐさは観客に強烈な印象を与えた。 そしてその映画は、中国で公開されるやものすごい反響を呼び、栗原小巻の名前は知らぬものがいないほどになった。 1979年、栗原小巻が招待されて中国を訪れた時、映画ファンから熱烈歓迎を受けた。

Photo_1076 (白岩松) 《サンダカン八番娼館 望郷》が、中国で公開された最初の頃、あなたは特別な関心はなかったんじゃないですか? でもなんだか、だんだん情報が伝わって、《サンダカン八番娼館 望郷》が、中国で大評判を呼、続いて《愛と死》も含めて、このあたりの経緯はどうだったんでしょう? この二本の映画が中国で大成功を収めたことは、あなたにどう伝わったのですか?

(栗原小巻) 巴金先生と謝晋監督が《サンダカン八番娼館 望郷》を見られた後、この映画から日本人の良いところがわかるとおっしゃって下さいました。 今もってこの言葉は大変有り難く、私に勇気を与えてくれたものです。 ですから、あの第一回の中国行きは、大変楽しく感じていました。

(白岩松) あなたが中国から日本へ戻られた時、あなたの周りのお友達は、興味津津で、あなたに中国のことを聞こうとしたんじゃありませんか? あなたはどう感じられ、どう話されたのですか?

(栗原小巻) 私達にとって、中国の歴史は大変すばらしいものですし、私がお目にかかった人達もよい人ばかりでした。 私は、中国で印象に残ったことを、みんなにお話しました。

1979年、栗原小巻が主演した《愛と死》が、中国公開後、たちまち全国を席捲、“栗原小巻ブーム”が巻き起こりました。 彼女はその当時の憧れの人No.1になりました。 あれから30年近くが経ちました。 今でもこの映画のセリフを覚えている人がいますし、その当時の映画のポスターを大事にしまっている人もいます。

(白岩松) 《サンダカン八番娼館 望郷》の映画が最初に感動を与えました。 そして《愛と死》では、もっと多くの人に知られるようになり、一躍彼らのアイドルになりました。 ファンも多かったでしょうね。

(栗原小巻) 中国のファンから沢山手紙を頂きました。 もう大変昔のことですが、ここで中国の方にお礼申し上げます。

(白岩松) この二本の映画がきっかけになり、あなたは中国の多くの人達に知られるようになりましたが、あなたのお仕事の中には予定されていなかったことだと思います。 というより予定外の出来事だったと思います。 もうあれからだいぶ年月が経ちました。 あの当時の中国との交流を振り返って、あなたにとってどういう位置付けにあったか、どういう意味があったと思われますか?

(栗原小巻) 私は映画は非常に素晴らしい芸術表現だと思っています。 国境や時間や場所などという境界を跳び越え、感動を共有し、共感を呼ぶことができるとても優れた芸術です。 私が映画を撮り始めたとき、こんなに感動を与えてくれるものだとは思いませんでした。 《サンダカン八番娼館 望郷》という映画に出演できたことは、とても幸せだったと思っています。 

栗原小巻は、1945年東京で生まれた。 6歳の時、バレーを習い始めた。 その時の一番の夢は、バレリーナになることだった。 18歳の時、栗原小巻は東京バレー学校を卒業、同年“俳優座”に入った。 俳優座養成所で演劇を学ぶ。 1970年代に栗原小巻は《愛と死》、《忍ぶ川》、《サンダカン八番娼館 望郷》、《モスクワわが愛》など数多くの話題作品に出演し、70年代の青春映画のスターとなっていた。 しかし映画出演で大きな栄光を獲得している最中、栗原小巻は突然銀幕を離れ舞台に戻り、演劇活動を始める。 彼女の主演した《マクベス》は、アメリカ、イギリス、カナダなどで公演を行ない成功を収めた。

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581中国は見る(317)テレビ報道番組「日本見聞記」(4)----安倍昭恵 、浜崎あゆみ

《岩松 日本を見る》:安倍首相夫人安部昭恵さんと浜崎あゆみさんを直撃

2007-03-21 16:27 岩松看日本专访安倍晋三夫人及滨崎步

稿源:中央电视台《空》  http://www.enorth.com.cn

今日、私達は日本で非常に名の知れた二人の女性を取材した。 一人は、安倍首相夫人安倍昭恵さん、もう一人は歌手の浜崎あゆみさんである。

Photo_1068 安倍昭恵夫人は、私達が今回取材する中でも最もビッグな方である。 安倍夫人は、実はなんと去年の5月、当時は日中関係がまだ谷底にあった頃、夫人一人で訪れていたのである。 私が夫人になぜこうしたのかとお伺いしたら、夫人の答えはとても振るっていた。 “その頃、主人が間もなく首相になるのではないかと感じていました。 そうなったら旅行なんて自由にできなくなります。 ですから、主人の就任前に一人で行きかったのです”

Photo_1069 安倍昭恵夫人は、中国の京劇が大好きだ。 特に胡弓の演奏がお気に入りで、だからその訪中の時も、京劇と胡弓の演奏者の友人達と一緒に北京を訪れた。 安倍夫人が語るところでは、小さい時から中国料理の影響を受けていて、安倍首相に作るお得意料理は二つあり、そのうちの一つは中国料理で、もう一つはナスを使った料理とのこと。

首相夫人となってから大胆な変更を行ったことがある。 それは、今までの日本の首相夫人は年配であったり、夫の背後に身を隠したりして、基本的には一般の人々の前には出てくることが少なかった。 しかし安倍昭恵夫人は、まだ44歳、夫の安倍首相も若くて50を過ぎたばかり、だから若い世代の代表として、安倍夫人はしばしばみんなの前に登場するようになった。 しかも夫人の人気は抜群に高い。 ある人が冗談に言っていた。 安倍首相の人気が落ちたら、夫人を出せばいい、人気はすぐ回復する。 私たちも取材中、夫人の性格がとてもざっくばらんなことがわかった。 夫人は自分の気持をしまっておけないたちのようだ。 首相夫人になってからブログを作り、よく首相との同行行事や家庭の写真までもブログに発表し人々を驚かせている。 こういう姿は従来の日本の政治の世界では見られなかったものである。 夫人が何度も強調したことは、夫婦には子供がいないので、こういったことに全力投球できる。 夫人自身は政治に関心を持ってるわけではないけれど、政治家夫人としてガンバルのだという。

Photo_1070 取材終了後、我々から安倍昭恵夫人に特別な贈り物を差し上げた。 この贈り物は取材班が特別に作った書の作品である。 この書の作者は我々取材メンバーの趙海燕の父親で、彼は中国書道協会の常務理事を務めており、私達は彼に王之の“白日依山尽、黄河入海流、欲窮千里目、更上一層楼”の詩を依頼し、この書を日本へ来てから表装して安倍夫人に贈呈したものである。 安倍夫人は非常に喜んでくれ、この書を家の中の一番目に付くところに飾り、夫と共にいつも見られるようにしたいと言ってくれた。

Photo_1071 今日、取材したもう一人は歌手の浜崎あゆみさんである。 彼女は、日本では中国の王、アメリカのマドンナのようなカリスマ的存在である。 日本では、スター達はメディアに対してとても警戒しているようで、私達の取材についても、質問内容から彼女がどう答えるかなどの細かいことも含め、彼女の所属事務所と何度も交渉を行った。 そのほかにも、浜崎あゆみさんの背があまり高くないので、歩いてくる時の場面は撮るのは止めてくれとか、座ってからの対談だけにしてくれとかあった。 事務所側はまた、テーマごとの撮影についてもいろいろ注文をつけてきた。 こんなことは私達はこれまで経験したことがなかった。 これは日本の歌謡業界という特殊な市場環境の中で、所属事務所が歌手を守るための防衛措置だとは理解できるものの、ちょっと私達にはなじめなかった。

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580中国は見る(316)テレビ報道番組「日本見聞記」(3)----谷村新司・栗原小巻

《岩松 日本を見る》:白岩松 日本で“懐かしい人”に会う

2007-03-16 09:58 岩松看日本白岩松在日本“怀旧”

来源:CCTV :www.cctv.com

CCTV.com:《岩松 日本を見る》シリーズの中で、今日(3月15日)は“懐旧の旅”というところである。 というのは、今日私達が訪れる方は、中国人にとっても馴染みのある人物だからである。 一人は有名な歌手・谷村新司、もう一人は映画スターの栗原小巻である。 谷村新司は、若い音楽ファンには馴染みがないかもしれない。 しかし彼が作った“昴”といえば、テレサ・テン(鄧麗君)、陳明、それに姜育恒も歌ったことがあるので、あなたも多分聴いたことがあるでしょう。 彼と中国の関係は深いもので、譚咏磷、张学友、梅艶芳、張国栄などに楽曲を提供してるし、最近では零点、毛寧のプロデュ-スをしている。

Photo_1066 谷村新司は1982年、日中国交回復10周年の音楽会に参加し、しかも鄧小平の前で歌った。 だから日中両国の音楽交流の中ではシンボル的存在です。 現在、彼は上海音楽学院の教授を務めており、毎月一週間はそこで教えています。 彼が初めて中国に行った時は、丁度夏で、街の中はみんな真っ白な服を着ていたそうです。 そして彼が会場で歌う時、鄧小平の前に行き歌おうとしたら、思いがけないことに鄧小平が立って拍手したのです。 会場にいた一万人以上の人達も立ち上がり拍手をしたので、彼はとても感激してしまったということです。 現在、彼は中国の大きな変化にとても感慨を深くしています。 私は、彼を通して鏡の逆面を見るように中国のこの30年の変化を見る思いがします。

夜、私達は有名な映画スター栗原小巻の家へお邪魔しました。 その昔、70年代末から80年代初頭にかけて、彼女が出演した“サンダカン八番娼館(望郷)”と彼女が主演した“愛と死(生死恋)”は、中国映画界に衝撃を与えた。 特に彼女の“愛と死(生死恋)”での演技は、多くの若者に青春の感動をもって迎えられた。

Photo_1067 栗原小巻は、80年代初めのアイドル映画スターということができる。 35歳以上の人なら、まだ鮮明に記憶しているはずだ。 私達が取材に訪れた時、私が特に感動したのは、彼女の芸術に対する情熱だった。 今年もう62歳になる栗原小巻は、今もって独身である。 なぜなら彼女は演劇という仕事に全精力をかけているからで、彼女は、日本で毎日こんなにお芝居している人はいませんよと語った。  彼女は今、芝居に全精力を投入している。 彼女のこの芝居は30年前から始めたもので、30年間中断することなく演じ続けている。 これからも彼女の演劇に対する情熱が見てとれる。 中国への関心はというと、彼女は中国のファンから、その当時受取ったファンレターを今も大事に保管しており、また彼女が中国を訪れた時の大歓迎を受けた情景は、今でもはっきり覚えているとのことだ。

谷村新司にしろ、栗原小巻にしろ、二人とも日中間の交流で2-30年に亘りいろいろの仕事を行ってきた。 “SARS”の時には、谷村新司は日本で音楽会を開き、その全額を中国に寄付した。 “SARS”撲滅の後には、中国に駆けつけ医療チームを激励した。  栗原小巻も日中関係改善のため大いに貢献した。

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579中国は見る(315)テレビ報道番組「日本見聞記」(2)----神風特攻隊

《岩松 日本を見る》:日本の歴史の中のもう一つの顔

2007-03-21 13:03:33 岩松看日本:日本面对历史有多张面孔

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1121779,20.html


3月19日、中央電視台《東方時空》で《岩松 日本を見る:日本の歴史の中のもう一つの顔》を放映した。 以下、番組内容を紹介する。

1_8 本日は、私達にとっては矛盾に満ちた取材といえる。 今日、私達は日本の南の端の鹿児島という所に来た。 日本のいわゆる“神風特攻隊”または“神風特別攻撃隊”の取材だ。 多分多くの人はこの言葉を2_32 知ってるはずだ。 その当時、若い青年達が戦闘機に乗り沖縄に向かう米軍艦船を攻撃した。 彼等には“片道切符”しかなかった。 この“片道切符”は生命の消失を意味しており、二度と生きて帰れなかった。

3_27 私達は、鹿児島の神風特攻隊の「平和会館」に入った。 この会館の中には、1036名の特攻隊隊員の名前が記されている。 一番年上が32歳、一番下はわずか17歳。 会館の中には、彼等の写真が飾られ4_15 ているほかに、出発直前に書いた遺書もあった。 遺書には“お母さん、さようなら”“この次はホタルに生まれ変わりたい”などと書かれていた。 この切々たる別れの数々の言葉が、次第に評判となり、映画にもなった。 ここはすべてこのような感傷的表現に溢れているため、参観に訪れた日本人は見終わった後、とても感動を受けていた。

今日、私達が取材に訪れた時、日本のテレビ局も私達の取材について来た。 彼等は中国の記者がきっとこれを撮るだろうと想定していたが、一番知りたかったのは、中国人がどうしてこれを見に来たかということで、逆に私達が取材されてしまった。 私が彼等に話したのは、“ここは自分の命についての関心はありますが、ほかの人の命については関心がありません。 私が申し上げたいのは、ここを見学した人達が、あの当時の軍国主義の残酷さや、軍国主義がどうしてこの若い人達の命を、戦争の武器にしてしまったか、それから多くの何の罪もない家庭までも被害者となったかを認識できたなら、これはいいことだと思います。 でも、もしここを見学した後、“天皇陛下万歳”とか“お国のため”とか“日本民族の誇り”とか感ずるとしたら、それはいけないことだと思います。 というのは、こういう感情表現は、人の思考を妨げるばかりでなく、歴史の“正しいこと”と“悪いこと”をあいまいにしてしまうからです。 私は、それは大変よくないことだと思います”  最後に私は、日本の記者に、“この会館は試験場ですね。 その答えは、ここを参観した人が出て行くときに出すことになります。 どんな答えが出るんでしょうか--------

会館の前には、平和の鐘があった。 私達は写真を撮る時、その鐘を撞いた。 この鐘には二つの意味があると思う。 一つは、みんなにこれを美化しないで、平和を願って祈ること。 もう一つは、これは警鐘であって、みんなに、なんで最初にこの若い人達のことを考えなかったのか? なんでこの戦争を始めたのか? を考えさせること。

今日の取材は、私に深い感動を残した。 日本の歴史にはいろいろな顔がある。 今日は違った顔を伝えることが出来たと思う。 靖国神社をすべての人が支持しているわけではなく、すべての人が平和記念館を支持し、歴史を尊重しているものでもない。 いろんな人がいて、その混在している中で、日本は複雑な歴史と向き合っている。

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578中国は見る(314)テレビ報道「日本見聞記」(1)

《岩松 日本を見る》:交流はまず理解から

2007-03-21 10:56:41 :《岩松看日本》:沟通从了解

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1121553,3.html

中央電視台の《岩松 日本を見る》の特集で、日本の桜が正に咲く直前、15日間ほどの日程で、岩松は私達の窓口役として、多元的で生き生きした日本の様子を、可能な限り客観的に伝えてくれた。

その昔、危険な海を遣唐使は36回渡って来た。 うち失敗は14回、往復に20年もかかった。 しかし今は、北京と東京は時差一時間、飛行機なら3時間で着いてしまう。

去年10月、日本の安倍首相が訪中し、今年は4月に温家宝総理が日本を訪れる。 しかしこのところ、暖かくなったとは言え、まだ寒さが残っている中、日本の高官の“日本は中国の一省になる”という放言や、安倍首相の慰安婦に“証拠がない”発言は、日中関係に暗雲をただよわせた。 《岩松 日本を見る》の旅は、より責任と使命が増したといえる。 しかし現代の社会事象がメディアを作っているということから言えば、この旅はメディアが問題を捉え現実を反映する絶好のチャンスでもある。

ある有名な記者がかって言ったことがある。“もしうまく撮れなかったら、それは離れすぎたためだ。 もし日本へ行ったことがないなら、日本を本当に理解したことにはならない。 もし私達が、いつまでも過去とマイナスの日本にばかり焦点を当て、現在の日本社会の本当の情況を見落としてしまうなら、日本の将来に対する正確な判断が出来ない恐れがある。

的確な判断を持ち、理性と感情の間でうまくバランスを取るのが重要である。 日本に関心を持つ一般市民として、私は日本の多くの問題に興味がある。 今回の岩松 日本を見る》を通じて知ったことは、例えば日本は中国報道のマイナス面も報道していること。 またネットで流れているような靖国神社の写真を撮るのに“決死の覚悟”が必要だなんてデタラメだということだった。

同時に私は、多くの日本人が日中の歴史問題に真剣に向き合っている姿も知ることが出来た。 3月14日、日本の東京高等裁判所が中国人強制労働訴訟で判決を下した。 中国側は当事者、そして応援しているのは日本人だった。 《朝日新聞》が行った世論調査によると、日本を愛する人は90%。 そしてこの90%の中の約85%の人は、日本ははっきりと(歴史を)認識し反省すべきだと思っている。 もとより回答者の中には、慰安婦問題で改めて謝罪する必要はないなどという者もおり、これはきっと日本人の歴史に対する“あいまいさ”の現われだ。

1994年10月1日、45年目の国慶節の時、私は広島のアジア競技大会の開会式をテレビで見ていた。 5万人のグランドはチリ一つなかった。 海外のメディアはみな驚嘆していた。 “恐るべし、尊敬すべし、日本民族”

同じ日、私は天安門広場で百トンにも上るゴミの山やチューインガムの捨てた跡をあちこちで見かけた。 話によれば日本のゴミは30種類にも分けられているとのこと、環境意識が徹底していることがわかる。 岩松 日本を見る》もこのあたりのことを紹介していた。 きっと私達に参考にさせようとしたのだろう。

私達は岩松 日本を見る》を通じて、日本人の“仕事中毒”“勤勉精神”、80歳の老人がタクシー運転手をしていることなどもわかった。

これは2007年、トヨタ自動車の年間生産量が世界第一となったこととも関係してるのだろう。 

聞くところでは、《岩松 日本を見る》では、安倍首相夫人安倍昭恵さんの取材も決まったとのこと。 安倍夫人は従来の首相夫人が家にこもり表に出ないという伝統を打ち破り、スターのような姿で登場した。 彼女は中国の京劇、北京ダック、長城などが大好きだ。 私は、彼女がもっと中国文化の宣伝をして、二度と侵略行為のことで失言したり、日中関係を悪化させることのないよう、安倍首相に影響を及ぼすよう希望したい。

周恩来総理は、日中両国は2000年の友好があり、対立したのは50年だと述べた。 唐の詩人李治の《八至》に“至親至疎夫妻”(近くて遠いのは夫婦)とあり、よく日本人から日中両国の関係にたとえられる。

交流するには、まず理解することから始めねばならない。 両国国民は相手を間違って理解しがちだ。 信用を再構築するに当たっては、理性的に客観的に見ることが大事だ。 

岩松 日本を見る》を通じて、私達は日本をしっかり見ることだ。 悪いところ、美しいところを見、現代と伝統を見、そして日本の人々の中国に対する見方、感じ方を知ることだ。

最後に、日中関係は今現在の季節のように、まだ寒さも残っているが、春は間近いと信じたい。

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577中国は見る(313)日本の大新聞は中国をどう報道しているか?

2007-03-22 10:42:00 日本大报如何报道中国

来源: 中国日 网友评论 0 论坛

中国日報ネット環球在線:日本に到着した日から現在まで、私は自分にノルマを課した。 何かというと毎日、日本の五大紙を読むことである。 この五紙は世界のトップテンの中に、3-4紙は入っている。 この新聞は《読売新聞》《朝日新聞》《産経新聞》《毎日新聞》と《日本経済新聞》である。 この中で、《読売新聞》の発行部数は1千万部もある。 これからも《読売新聞》の日本に対する影響力がわかるだろう。

毎日、この五紙の中国報道の内容を詳しく整理観察した。 3月5日から現在(22日)まで半月ほどの間、私が統計した五紙の中国報道のニュースは30項目以上になった。 どの新聞も中国に関するニュースが、毎日平均6項目以上ある。 これを中国と比較すると、私は中国メディアの日本についての報道量は、日本の中国報道量より断然少ないと思った。 しかも中国メディアの日本についての報道の多くは感情的な報道が主で、特に歴史に関する報道だ。 それに対して日本のメディアは、中国の社会の現実面、特に経済発展に格別の関心を持っている。 

例を挙げれば、たとえば2月27日の上海株式市場の下落が全世界の株式市場の暴落を招いたとして、日本のこの主要五紙は数日間に亘って、関連記事と評論分析を数多く載せた。 そのほか、中国の二つの大会(10期全国人民代表大会第5回会議、政治協商会議第10期全国委員会第5回会議)についても報道が集中した。 特に二つの会議期間中触れられた貧富格差、環境汚染、一般人民の生活などの報道が多かった。 しかも各新聞とも、多くの資料を使って中国人民代表大会についてこと細かく報道していた。 また温家宝総理の政府活動報告の要点や記者会見での質疑の要旨なども報道された。 中国社会の話題や経済問題については、日本独自の視点で見ており、たとえば一番関心を寄せたのは所得税法の改正法案の成立だった。 ところが我々が関心を持っていたのは物権法だった。 後でわかったことは、日本は当然、中国企業に投資する観点から問題を見ているわけだから、物権法なんかより実利のある所得税法が日本にとっては大事なのだ。  このほか、例えば中国の利率が0.2ポイント引き上げられるとなると、日本では翌日の新聞にこのニュースが直ちに伝えられる。

読者の中にはこう思う方がいるかも知れない。 日本のメディアはマイナス面の中国報道はしないんじゃないか?  しかし実際にはそのような報道もしている。 でもそれを見たらおかしくて笑い出すかもしれません。 たとえばこういうことがあります。 アメリカで日系議員がある議案を提出しました。  それは日本に対し慰安婦問題について謝罪せよというものです。  数日もしないうちに、日本のある新聞の一面に載りました。 そしてこの日系議員の背後には、中国系企業からの金の動きがあり、その中国系企業と中国政府とは密接な関係がある云々----と書かれていました。

しかし総体的に見るなら、私は日本のメディアの中国報道は、中国の現実を見据えたものであり、その関心の深さは実に微に入り細をうがつものといわざるを得ないと思う。 この視点から言えば、日本メディアの中国の現実観察は、中国メディアの日本の現実観察より、ずば抜けてすごいものです。

来日前に私はこう言ったことがあった。 “私達の日本についての認識は、数十年前の《菊と刀》といった作品の日本分析に止まったままだ。 だが日本は、とっくに我国を手術台の上にのっけて解剖している”

現在もまだ依然として、こんな情況が続いているとは思わなかった。

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576中国の三面記事を読む(154)林黛玉女優の出家騒動続報

宗祖徳 陳暁旭の出家は脱税・投獄逃れと暴露

2007-03-12 22:05 宋祖德揭露陈晓旭出家是为了逃避偷漏税坐牢

《参考》

555中国の三面記事を読む(147)有名女優の“出家”報道 中国の社会・ネットを騒がす(上)2007-03-01

55中国の三面記事を読む(148)有名女優の“出家”報道 中国の社会・ネットを騒がす(下)

2007-03-02

Chen 林黛玉役の陳暁旭が剃髪出家したニュースは、全国各メディアのホットな話題となった。 陳暁旭がなぜ出家したかについては諸説紛々である。

重病にかかり仏法の無限の力にすがり病を治そうとしているのだという者あり、或いは、これまでずっと仏教一筋だったという者あり、また何度も自殺を図ったことがあり、心の導きにより、俗世間を離れる気になったなどなど、いろいろ言われている。

人の初め、性は善なりと信じたい。 どう推測しようと、ネット上のみんなも基本的には、彼女がこの道に進むことを祝福し、これから心静かに、穏やかに過ごすことを願ったはずだ。 

Photo_1064 宗祖徳(广宋祖德影文化播有限公司 理事長/全国青/广州市政常委/中国作家会会/監督/出品人)は心の中に大きな秘密を持っていた。 しかもこの温情ある人々の様子を見ているうち、どうしようかと迷っていた。 何日間もの間、真相を話すべきかためらい、思い悩んだ。 そして祖徳は、息を潜め様子を伺っていた。 というのは、祖徳は、この好意的雰囲気の中で、この驚くべき秘密をしゃべったら、話題作りのため手段を選ばず、口から出まかせを言っているのだと、きっと罵声を浴びるに違いないと思ったからだ。

しかしこの数日、祖徳は新聞を読んでいて、陳暁旭の出家ニュース以外に、貧困地区の子供達が学校に通えないというニュースを読んだり、独居老人が生活に困り正月も過ごせないといったニュースを読んでいた。

祖徳はもう黙っていられなくなった。 強い社会的責任感に突き動かされ、真相を話そうと考えた。 よしんば人から誤解や面罵を受けても構わない、陳暁旭の出家は、決して仏門聖地へ憧れたものではなく、彼女が経営している広告会社の脱税のせいだ。 その脱税額も驚くべき数字だ。 関係機関が現在、調査中だ。 ビクついた陳暁旭がこんな下手な手に出たのも、法律の制裁を逃れようとするためだった。

メディアが、時々、陳暁旭の莫大な財産を報道したように、彼女の経営する北京世邦広告公司は、この数年巨額の収入を得ている。 その内、合法的に収入に計上しているものもあるが、不明朗な部分もある----脱税だ。 ご承知のように、法により納税は国民の責任であり、義務となっている。 税収は国の財政の重要な収入源である。 今までしばしば、自分は長年精進料理を食べ、仏の道を信じていると言っていた陳暁旭は、“善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある”という仏教の基本的教義を知らないわけはあるまい? まして、“君子は財を愛すれども、これを取るに道あり”(君子は財貨を欲しいと思っても、それを手に入れるのに不正な手段を用いることはしない)という最低の倫理の常識もご存知の筈だ? 

彼女は、一方ではみんなの前では俗世間から超然とし、心清らかで欲がないような素振りを見せながら、一方ではなんとかわからないように誤魔化したりして、長年にわたり溜め込んだ脱税額は、驚くべき数字になっていた。 みんな健忘症でなければ、もう一人のビジネス界のスーパーレディー劉暁慶のことを覚えているだろう。 その当時(2002年)、正に脱税の罪で大スターから罪人となってしまった。 祖徳は、北京の商工管理機関からこの情報を知ったという。 去年11月から、関係機関が陳暁旭の会社の経営状況の調査に入ったという。 これまでの長年の帳簿から、沢山手がかりが見つかり、調査は引き続き行われている。

調査が完了する前は、一般には秘密にされている。 しかし陳暁旭は、“山雨欲来風満楼”(なんとなく形勢が穏やかでない)といった気配を感じたのだろう。 ここのところずっと、居ても立ってもいられず、恐くて気もそぞろの日が続いていた。 メディアの報道によれば、長年、彼女が会社に仏の写真を掛けていたというが、それは事実である。 しかしそれは見せ掛けに過ぎないし、自信がないことの証明でもある。 祖徳は、これまで多くの商売人が神仏にすがる姿を見てきた。 みんな仏教を本当に信仰しているわけでなく、一種の心理的安心感を求めているもので、仏様に不正の金を守ってくれるようにお願いしているのだ。

 

陳暁旭は、もうじっとしていられなくなった。 悪事が露見するのは時間の問題だった。 しかし誰も彼女を守ってくれる人はいない。 神様だって納税逃れの公民を守れるわけがない。 さすが長年広告会社を経営してきただけのことはある、作戦能力には長けている。 陳暁旭と旦那の二人は、最終的には神様に委ねることにした。 二人は計画を練って、二人同時に出家する方策を考え出した。 そこで春節が過ぎようとする時、陳暁旭が“巨万の富を捨て、頭を剃り出家”と舞台に登場し、その後、夫も遅れて後に続くことになった。 二人の思惑は次の通りである。 出家のことは誰でも知っていることだ。 関係機関も二人が出家したことで、その追及を止めるかもしれない。

まったくご苦労な計画だ。 祖徳はなんでかくも大胆にこの真相を暴露したのだろう? 祖徳は、全国青年聯合会委員であり、広州市第十回政治協商会議常務委員であった。 だから人一倍正義感に溢れ、法を守る意識が強いのだ。 先にも述べたとおり、貧困地区の子供達が学校に通えないといったニュースや、独居老人が生活に困り正月も過ごせないといったニュースを読んで、祖徳の心は痛んだ。 それなのに陳暁旭は脱税してためた大金で名車を乗り回し、豪邸に住んでいる。 彼女はどうしてこんなことをしたのか?  道理はどこにあるのだろう? この真相を発表するのに、祖徳にはものすごいプレッシャーがかかった。 だから発表が今日まで延びたのだ。 社会の公平のため、社会の調和のため、国の秩序と発展のため、祖徳はやっとこれまで通りの勇気を持てたのだ。

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575中国は見る(312)日本は強制連行・強制労働など民間賠償訴訟で理不尽なことはするな

2007-03-18 09:38:20 日本不要在中国民间赔偿上耍赖

Photo 3月14日、東京高等裁判所は、中国の強制連行控訴審で、国と日本側企業に対し損害賠償の支払いを命じた一審の中国側原告の勝訴判決を取り消し、原告側の請求を棄却した。 中国側強制連行の敗訴は、極めて重要な意味を持つものだ。 また別の強制連行事件で、16日、最高裁上告審の弁論が開かれた。 《日中共同声明》の解釈が問題となろう。 中国外交部の秦剛報道官は早速、《日中共同声明》は両国政府が署名した重要な政治的外交文書であり、この文書に関係する重要な原則、事柄は一方的に解釈されるべきでない。 この中には司法の解釈も含まれると述べた。 しかし現在の情勢では、日本の最高裁判所は中国人の強制連行の賠償請求権の資格について不利な“解釈”をする可能性が強い。もしそうなったら、中国人の対日請求の道はきわめて難しく、救済されないばかりか、完全に閉ざされることになる。 これはまた、日本が侵略の歴史を回避し、あらゆる方法で歴史の責任から逃れようとする見苦しい顔の現れでもある。

近現代史に於いて、日本は3回、中国へ侵略戦争を行った。 日清戦争で日本は清朝から2億3千万両の白銀を軍事賠償とした。 義和団の辛丑条約の時には、日本は銀9154万元を獲得し、この金を使って日本は、教育と軍需工業に使い、経済を強固とし日本の基礎を築いた。 20世紀になり、日本は中国に侵略し、中国に計り知れない巨額の損失を与えた。 直接財産の損失だけでも1000億ドルくらい、間接損失は5000億ドルほどに達し、中国社会の現代化を半世紀は遅らせた。

しかし第二次大戦後、侵略戦争の蹂躙にあった中国は、日本が当然負担すべき戦争賠償を求めなかった。 中国共産党、国民党の二つの政府は国際情勢の変化と日中両国人民の友好という美しい願いから、恨みに報いるに徳を以ってすということで、戦争の賠償請求は放棄した。 しかし中国政府は、“日本国に対する戦争の賠償請求の放棄”は承諾したが、わが民族が受けた災難と損失まで忘れたということでは決してなく、ましてや民間レベルの賠償請求の権利まで放棄したことを意味するものではなかった。 このことが今日の中国人の賠償問題に、想像以上の困難をもたらしてしまったことを認めざるを得ない。

中国の強制連行者や慰安婦達が、昔受けた軍国主義での虐待、苦難、蹂躙を思い、日本の現在の中国人の裁判に対する不当な行為を目の当たりにしていると、基本的人道主義の補償すら得られないなんて、中国人としては血の出るように辛く、扼腕してため息が出るばかり。

法律はどこにある? 天理はどこにある?

最近、日本は政治大国の地位を急速に求めるようになり、侵略の歴史の問題でも逆行していると言わざるを得ない。 安倍首相は、慰安婦問題で以前言ったことと食い違う発言をし、“昔、日本軍が中韓両国の女性を慰安婦に強制したことを裏付ける証拠はなかった”と述べた。 これにはアメリカのシーファー駐日米大使も日本に警告し、“河野談話からの後退は望まない”と語った。 これは明らかに安倍首相の“あいまい史観”の証明である。 その実体はなにもあいまいではなく、小泉首相以来の日本の“右向き”の情況が、ますます強まったことの表れで、侵略の歴史を否定、美化することが日本の潮流となっているのだ。 このような国は国際社会の信用を得ることは出来ないし、日中関係の間にも暗影を投げかけるものだ。 

胡錦涛主席は16日、日本の与党代表団と会見した際、“戦略的高度から日中関係を捉え、敏感な問題を適切に処理し、互恵関係の構築に努力していきたい”と強調した。 温家宝総理も4月訪日に当たっては、“氷を溶かす旅にしたい”と述べた。 どうやら我国トップは日中関係の発展を冷静に見ており、日中間にある、まだ多くの敏感な問題を適切に処理し、多くの氷を溶かしていかねばならないようだ。

我々は、日本政府が大局を見、中国人の民間レベルの賠償問題について、いつまでも理不尽なことをせず、中国人の感情を傷つけることなく、適切に処理するよう望みたい。

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574中国は見る(311)日本旅行(21) 日本あちらこちら(下)

北陸の名勝地

2003-12-18 旅途日本北陆的历史名胜

文章来源:金羊网

日本は国内各地の歴史の旧跡を大切にしている。 京都、奈良、鎌倉など歴史的場所を名所旧跡として保存しているばかりか、地方都市でもしばしば国の“重要文化財”“国宝”“歴史記念物”などと指定されているのが目にできる。 これら郷土色の強い地方の歴史の景観の中には旅人を楽しませるものが結構ある。

最近、日本の本州の北陸(福井、石川、富山)地方に行ってきた。 ここは四季が鮮明で、景色が美しいだけでなく、日本人の長い歴史の中で大切にされ守られてきた伝統文化と心が色濃く残る“神秘の楽園”である。

世界文化遺産----合掌造りの集落

Gassyoutsukuri 富山県上平村と岐阜県白川村の村落は、住民が代々住み続けてきた“合掌造り”と呼ばれる建築群が、1995年ユネスコの《世界文化遺産》

に登録された。 “合掌造り”といわれるものは屋根が60度の角度で、合掌するように組み合わされたもので、大雪に耐えうるように作られている。 木材で組立てられ、外観はすべて茅葺、釘や石などは使っていない。 数百年に亘り保存されてきた。 “合掌造り”は、普通四階あり、一階は食事を作ったり、食べたり、来客用の場所、二階は寝室、三階以上は蚕室。 この釘を使わない建築方法は、数百年前の人々の建築レベルの高さを示すものだ。

揺れる吊り橋を通って、“合掌造り”の多い白川郷の萩町に入った。 ここは全部で120軒あまりの“合掌造り”の家がある。 一部はほかの場所から移転したものもある。 江戸時代そのままの集落を見せてくれている。 丁度、晩秋の頃で黄金色、真っ赤に色付いた樹々が褐色の茅葺の色を一層引き立て、古い集落をロマンチックに彩っていた。 

人々はこの合掌造りの家にそのまま住み続け、きれいにして使っている。 この家を離れ、どこにでもあるような別荘に入ろうとするものはいない。 茅葺の自分達の家を守っている。 刈り終った田んぼも感動的だ。 きれいに刈り取られたばかりの稲田の後はなにもなくきれいだ。 日本人は農作業を楽しんでいるようだ。 

村内には、宿泊、食事、みやげ物などを提供している“合掌造り”があり、旅行者達の多くは、ここでロマンチックな一夜を過ごすことができる。 夜になると、灯りがともり、村中童話の世界のような美しさに包まれる。

日本三大庭園の一つ “兼六園”

Photo_1062 日本の庭園は素朴で優雅、小さいながら中々手が込んでいる。 石川県金沢市にある“兼六園”は日本三大庭園の一つで、特別名勝に指定されている。 “兼六園”は、江戸時代の歴代の加賀藩主が造った池泉回遊式庭園である。 面積は約10万㎡で、日本庭園の精華を集めたもので、曲水還流、山林瀑布、池の畔のあずまや、どれをとっても奥床しい。 園内からは日本海や、医王山が望め、景色は抜群にいい。 “兼六園”の名前は、中国の宋朝の詩人李挌非の洛陽名園記から命名されたという。 その意味は“宏大、幽邃、人力、蒼古、清泉、眺望”の六勝を兼ね備えるということだ。 この名に恥じず、“兼六園”は、第5代の前田綱紀が造った蓮池庭が有名で、蓮池の周りにある唐崎松、桜、楓は四季それぞれ美しい姿を見せてくれる。 また園内の石橋や、石灯籠、石像などはいずれも趣がある。 秋の“兼六園”は黄色、赤が混じって人の目を楽しませてくれる。 数百年前に建てられた古い庭園の中、黄色の落ち葉が敷き詰めた道を踏みしめて歩くのは風情があるものだ。

岐阜高山 “三つの古い街並”

Takayama “小京都”と呼ばれる高山市は岐阜県にある。 ここの寺、神社、橋などには京都の趣があり、京都以上に見ごたえのある場所もある。 高山市内は20分もあれば一回りできるくらいだが、博物館や寺、神社など、ゆっくり見て回るには数日間必要で、独特の風情があり、のんびりしたところが高山の特徴だ。 市の中心は静かな田舎の感じを受ける。 冬は大雪で高山へ通じる各道路が塞がってしまうため、古い伝統が大量に保存されてきた。 高山市の周囲の森林は、高山市に数百年に亘り沢山の良質の新建材として供給され、また高山の趣ある木工芸術として使われた。

高山市独特の魅力をあらわしているのは、三つの古い街(上一之町、上二之町、上三之町)で出来ている三町街だ。 この三つの古い街の両側は、昔からの古い建物が保存されていて、街の中には高山市の伝統工芸品や昔の生活資料を展示している小さい博物館や仕事場があり、観光客は自由に参観できる。 軒下に下がっている杉玉は造り酒屋の印で、杉玉の大きさで酒蔵の規模がわかるようになっている。 ここに住んでいる人達は旅館や酒屋など、いずれも2-300年の歴史があり、どの家も何代も昔に遡ることが出来る。

この古い街の管理はきちんと決められており、街の中を通る人力車夫は、必ず昔の服装を着ることが決められている。 車夫はまたガイドを兼ねていて、観光客に見所や故事来歴をちゃんと話せるようになっている。

街で目に付くのはとてもきれいなことだ。 川の水も底まで見えるし、地上にはゴミ、タンの跡も見えない。 もっと不思議なことはゴミ箱がないことだ。 ツアーの仲間がタバコを吸って、吸殻を手にしたまま困っていた。 この街には伝統工芸品を売っている店が沢山あり、外国観光客を呼び込んでいるが、ホテルで売っているのより随分安い。

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573中国は見る(310)日本旅行⑳ 日本あちらこちら(中)

絵のような富士山

2003-10-27异域风景如画富士山

2003-03-24异域日本东瀛揽胜

文章来源:北京晚报

Photo_1060 富士山は四季折々優雅な姿を見せる。 この霊峰は日本の自然美の代表であるばかりでなく、日本人の文化の歴史をも育んできた。 日本の有名作家、詩人、芸術家などの創作に霊感を与える源泉でもあった。 Photo_1061 富士山は日本人の誇りの象徴である。 富士山は東京からも近い。 海抜3776m、日本第一の山であり、左右対称の山は世界でも美しい山の一つに数えられている。 白雪を頂く山頂の話になると、日本人の話は尽きない。 富士山は霊山であり、明治維新前は女人禁制で女性は山に登ることができなかった。 今でも、登山者の中には白い服を身にまとい、手に鈴を持ち、“六根清浄”を唱え、深夜山に登り、山頂で日の出を拝む習慣が残っている。

富士山の下には五つの湖がある。 東から西に、それぞれ山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖である。 このあたりは富士山を見る最高の場所であり、望遠レンズを持ったカメラマンで溢れている。 

山中湖が一番大きく面積は675平方キロ。 湖畔には数多くのスポーツ施設があり、テニス、スケート、釣、キャンプ、ボートなどが楽しめる。 湖の東南の忍野村には湧水があり、鏡池など八つの池があり“忍野八海”と呼ばれ、山中湖とも繫がっている。

河口湖は五湖の中で、一番早く観光開発されたところで、交通の便利はとてもよく、五湖観光の中心になっている。 湖と山の景色はとても素晴らしい。 また原始林、滝、植物などが多い。 一年四季を通じて、自然の景色が楽しめ、いろいろなスポーツ活動ができる場所である。 夏はキャンプ、水泳、釣、冬はスキー、スケートの絶好の場所である。

Hyouketsu 噴火により、富士山山麓には沢山の洞窟があり、洞窟の中には、今も噴気現象を起こしているところもある。 またある洞窟の中には、鍾乳石のような氷柱が一杯あり、一年中融けず、その変った姿を見せてくれる。

富士山頂には大小二つの火口があり、大きい方の火口は直径約800m、深さ200mある。 晴れた時には、山頂から日の出や雲海が見られる。

世界各国の旅行者は、日本に行ったら是非とも見るべき観光項目の一つである。

富士五湖付近には豪華な温泉旅館もある。 一日観光した後、旅館に戻り、浴衣に着替えて、温泉に入ることは最高の楽しみだ。 旅館によっては、客室にも温泉が付いているところもあり、身体をきれいにした後、静かに湯船につかっていると、熱いお湯が張り詰めいてた神経を解きほぐしてくれ、全身の疲労が取れる。 日本料理に舌鼓を打ち、日本の清酒を飲み、温泉を楽しみ、大いに語り合う、こんな醍醐味はなかなか味わえるものではない。

富士登山にいい季節は、7月1日の山開きから8月31日までの2ヶ月間である。 ちゃんと準備さえすれば、子供から老人まで富士登山が楽しめる。

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572中国は見る(309)日本旅行⑲ 日本あちらこちら(上)

2003-03-24异域日本东瀛揽胜

文章来源:北京晚报

東京の魅力

東京は昔、江戸といった。 江戸幕府(1603年幕府開設)が開いてからもう400年になるという。 江戸はもともとは小さな漁村だったが、徳川幕府がここに築城してから大いに発展し、19世紀にはロンドンと肩を並べるほどの大都市になった。

浅草寺は、東京の中でも古い寺院である。 江戸時代、将軍家康がここを幕府の祈願寺に定めたことから霊場文化の中心地となった。 この中には本殿の天井画や、境内に聳え立つ五重塔などの景観がある。 本殿前には線香を焚くところがあり、その煙を身体の悪い所につけ健康を願う。 ここのおみくじは霊験あらたかだというから、もし浅草に行くことがあったら試してみたらいい。 

26_6 浅草寺の象徴---雷門の大きい提灯の下をくぐると、宝蔵門まで浅草寺の参道で、仲見世の商店街がある。 約300mの通路の両脇に100軒あまりのお店が並んでいる。 東京のいろいろな食べ物やみやげ物を売っている。

080_2 東京には昔の街並みもあるが、世界的にも有名な現代的街並みもある。 銀座は魅力的で華やかで、大都会の同義語になっている。 ここは日本で一番有名なショッピングセンターであり、デパート、レストラン、美術館、劇場、映画館などがある。 ここは流行の先端を行く女性達の買物の場所であり、ブランドファッション、ハンドバッグ、靴、化粧品などはいずれも最高級品で、有名商店が林立している。 松屋や三越などの大型百貨店もここにある。 

Photo_1059 秋葉原は、品がよく値段が安いデジタル製品を買いたい男性の好きな場所である。 この街には大小の電器店が沢山あり、ここの電器と電子部品は日本で一番安い価格だ。 デジタルカメラ、携帯、ビデオ、MP3、ウオークマン、ノートパソコンなどが一番売れている。 ここを歩いていると懐かしい中国語が聞こえてくる。 買うにしろ売るにしろ、中国人はなくてはならないようだ。

関西の思い出

関西というのは、主に京都、大阪などを指す。 関西人には関西人の思いがあり、自分の故郷を自慢する。 大阪は、日本の商業の街であり、京都は日本の古都である。

京都は、794年から1868年まで1100年近く、日本の天皇がいた所で、国の都でもあった。 また日本の伝統を代表するところであり、貴族の気風があるところでもある。 東京と比べると京都の生活のテンポはのんびりしている。 美しい建築群を守るため、ここでは高層ビルの建設を制限している。 京都には17ヶ所の文化遺産がある。 第二次大戦中、米軍はここに文化遺産があるため爆撃を止めたということである。 京都は生活の息吹きが感じられる街ですが、通りはどこも狭い。 街のあちこちに制服を着た(修学旅行の)中高生達の姿が見える。

Photo_1057 清水寺の崖の上に突き出た舞台は、見るだけで感激してしまう。 その舞台から京都の街が見下ろせます。 日本の諺に“清水の舞台から飛び下りる”という言葉がある。 勝負をかける、思い切ったことをする時に使います。

南座は日本最古の劇場です。 現在もなお歌舞伎の公演を行っています。 この狭い通りでお芝居の人達をPhoto_1058 見かけることはありませんが、舞妓さんが通るのを見かけることがあります。 舞妓さんは16歳頃から舞台に立つようになります。 艶やかなだらりの帯をしているのが特徴です。

21歳頃になると、華麗な着物に身を包み芸者の道に進むのです。

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571中国は見る(308)日本文化紹介⑳ 日本の男の子の節句と女の子の節句 

2002-08-19 15:09:41日本的男孩节和女孩

文章来源:中国

日本は祝祭日が多い国だ。 日本のカレンダーを見ればよくわかる。 あっちこっちに赤い日がある。 だから以前は日本人がうらやましかったものだ。 それに日本はとても伝統文化を重視している。 着物、下駄、茶道など。 この祝い事にしたってそうだ。 祝い事の多くは、中国から伝わったものだけど、今日の中国ではもう見られない。 でも日本では、ちゃんと継承され保存されている。

Photo_1051 世界の多くの国では6月1日を子供の日(国際こどもデー)としている。

しかし日本は独自の風習を持ち、古来からの子供の日を継承している。 3月3日は、女の子の節句、5月5日は男の子の節句であり、また同時に日本の“子供の日”になっている。 この日は日本の国民の祝日でもある。 4月末から5月初めにかけての日本の“ゴールデンウイーク”の重要な祝日になっている。

Photo_1052 日本の家庭では、女の子が生まれると、父母、祖父母、また親戚、友人などがきれいな人形(お雛様)を贈る習慣がある。 広間に、少ないので一段、多いのだと7-8段の人形(お雛様)を飾る。 人形は普通15人セットとなっていて、男雛(天皇)と女雛(皇后)、3人官女、5人囃子、右大臣、左大臣と随身3人がそれぞれの格好をし、大変躍動感がある。 段の下の方には桃の花やたんす、化粧道具、長持、鏡台、駕籠、御所車、重箱、食器、菱餅などが並べられている。 一般的には、女の子が生まれた最初の3月3日に飾られる。 お雛様は女の子に一生ついていった。 節句の前になると、街のあちこちにお雛様の売場が見られ売り声がけたたましい。 雛人形の値段はピンからキリまでいろいろである。 高いのだとウン百万から安いのでも1万円ちょっとはする。 

3月3日は、女の子の節句というほか桃の節句とも言われる。 奈良時代、中国から日本に伝えられたという。 3月3日、この日家中集まり、一緒になって女の子の健康で健やかに育つことを願う。 この日が過ぎるとすぐ人形を片付け、来年の3月にちゃんと取り出せるよう丁寧に仕舞いこむ。 日本人は、もし3月3日を過ぎてもまだ出しっぱなしにしておくと、女の子が大きくなった時、婚期が遅れる信じているのだ。 この行事は、もともとは貴族階級のものだったが、1868年の明治維新後、全国各地に広まった。

Photo_1054 5月は、鳥獣が農作物を食い荒らす時期であり、農民達はよくおっかない形をした“案山子(かかし)”を田んぼに立て、鳥獣除けにした。 江戸時代になってこの風習が、次第に5月5日の男の子の節句Photo_1055 に変化していった。 大きな鯉のぼりを庭先の長い竿の上に高く上げ、風に泳がせた。 男の子が健康に成長するよう願ってのことだ。 また鯉が水を遡るように、人生の道で苦難に挫けず、頑張り出世するようにとの意味も込められている。 部屋の床の間には、家長が男の子のために甲冑やのぼり、弓や刀を飾った。 伝統として、家ではこの日、柏餅やちまきを食べ、菖蒲湯に入り、無病息災を願った。

Photo_1053 日本には子供に関するお祝いの日がもう一つある。 11月15日の“七五三”だ。 この日は特に、7歳と3歳の女の子と5歳と3歳の男の子のお祝いの日である。 この由来は興味深いものだ。 昔は医学が発Photo_1056 達していなかったし、栄養不足などで、3歳前に亡くなる子供の死亡率が高かった。 だから日本人は、ちゃんと育つかどうか、3歳になったところで一安心、7歳は幼児から少年少女になる大事な年と見ていた。

11月15日のこの日は、男の子は袴をつけ、女の子はきれいな着物を着て、父母に連れられて神社に行き、“千歳飴”を買ってもらって食べるのだ。

我国と違って、日本の子供の日は家庭単位でお祝いする。 学校では子供の日の行事活動はない。 家庭によっては、ゴールデンウイークの休みを利用して国内・国外の旅行に出かける。 またある家ではディズニーランドや動物園、公園などといったところへ遊びに行く。 どっちにしろ日本の子供達も中国の子供達と同様、子供の日が早くくるよう首を長くして待っている。

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570中国は見る(307)安倍首相の慰安婦発言 --- 一石四鳥の計を狙う?

2007-03-13 18:18:57 :否定慰安-----安倍的一石四

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1106446,18.html

Photo_1050 安倍首相が就任後すぐ中国を訪問したことから、彼の陰険狡猾な本性を見た思いがした。 今回、安倍首相は第二次大戦中、中韓両国の従軍慰安婦を強制的に集めたことを裏付ける証拠がないのは事実だと語った。 この発言は、ただちに中韓両国の批判を浴びた。 このことは私達に安倍首相の狡猾な一面をまざまざと見せつけてくれた。 と同時に、私は安倍首相の発言には一石四鳥の思惑が見てとれた。

1.    日本のアメリカに対する「ノー」 言葉から実行段階に

誰でも知っているように、アメリカは第二次大戦後、日本に進駐した。 それだから日本はアメリカの犬となるしかなかった。 当時、日本は敗戦で元気もなく、プライドなどかなぐり捨て、とにかく生きることだけの選択をし、アメリカの命令にただ従っていた。 アメリカは、その後社会主義陣営に対抗するため、日本の国力の発展を制限しなかったばかりか、日本の軍需産業を大々的に支援し、朝鮮戦争ではアメリカ軍に軍需品を調達させた。 これにより日本は大変身するチャンスを得た。 その後、中国の改革開放では、日本が地理的に有利なことと、投機的なことにたけていたことで、中国の巨大市場で大もうけをし、日本は世界第二位の経済国となった。 だが日本人は、今度は金だけに満足しなくなり、アメリカの「手先」の地位からの脱却を考えるようになり、世界のトップを狙い始めた。 今のその地位を抜け出すため、まずはアメリカの占領の合法性を否定しなければいけない。 そこで、日本の軍国主義者の連中が、日本の中国侵略を美化したり、南京大虐殺を否定したり、第二次大戦中の慰安婦の強制を否定したり、極東軍事裁判で日本の戦犯に対し下した判決を否定するような、おかしな動きが続々と起こってきた。

アメリカは中国を抑えたいということから、日本のこれらの動きに対しては見て見ぬ振りをしてきた。 しかしアメリカの利益にかかわる問題、たとえば日本の国連常任理事国入り問題については、アメリカは日本を抑え込んだ。 これが日本国内の右翼分子の不満の声の高まりを招き、それで今回の安倍首相発言“第二次大戦中、中韓両国の従軍慰安婦を強制的に集めた事実はない”となり、アメリカに対し“ノー”を突きつけたのだ。 つまり安倍首相はアメリカの下院で、“日本に対して慰安婦に謝罪を求める決議案が通ったとしても、日本はこの件について謝罪するつもりはない”ということだ。 これが、第一の計。

2.    初めての訪中の際の中国との密約説を間接否定 同時に、温総理の訪日をにらんだ発言

日中トップレベルの関係は、安倍訪中前は、小泉首相の再三の靖国神社参拝問題で凍結状態に落ち込んでいた。 安倍訪中の間、中国政府は歴史問題について口を閉ざしていた。 世間では、安倍首相が中国政府になんらかの密約をしたのではという憶測があった。 今回の安倍首相のこの発言は、間接的に訪中の際の中国との密約説を否定したものである。 また同時に、温総理が4月に訪日するのを前に先制攻撃したとも言える。 中国がこれからどう対応するのか? またトップの相互訪問を行わないのか? もしそうだとしたら世界の物笑いとなる。 中国には歴史問題しかないのかとなる。 これが第二の計。

3.    日本政府は今後、同様問題について「封印」?

安倍首相は裏付ける証拠がないとして、日本政府の第二次大戦中の中韓両国の慰安婦強制性の事実を否定した。 このことは日本政府が今後、中国侵略戦争で行った同種の問題をすべて「盖棺定论」(棺を覆いて事定まる)として封印しようとし、今後、中韓両国からの同様問題での批判に対し、この発言で逃げ切ろうとする目的だ。 これが第三の計。

4.    支持率アップ

今回の発言は右翼から強い支持を受けた。 安倍政権の安定のため支持率アップは大事である。 これが第四の計。

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569中国は見る(306)日本文化紹介⑲ 日本人の挨拶としきたり

2005-12-07 15:09:41日本的常用礼与交际习惯

http://travel.163.com 网友评论0

日本はほとんどすべて大和民族である。

住民が主に信奉するのは神道と仏教、少数だがプロテスタントとカトリックの信者もいる。

日本では今なお、我国唐代の礼儀と風習が色濃く残っている。

日本は礼儀を重んずる国である。

日常の生活の中で互いに挨拶する時は、帽子を取りお辞儀をする。 誠意と親しみの表示だ。 初対面の時は、相手に対して90度、深々とお辞儀をする。 必ずしも握手するとは限らない。 もし親しい関係だったり、じっこんの間柄の場合は握手したり、抱き合ったりすることもある。 女性との場合、女性の方から手を出してきたら握手してもよい。

もし話がしたい時は、喫茶店や休憩室で話をする。

日本人は普通、タバコをすすめることはしない。 もしタバコが吸いたい時は、その場にいる人の同意を得た上で吸うこと。 日本人は着る物にこだわることが多い。 普段はこざっぱりしたリラックスなスタイルだ。 正式の場合はちゃんとした式服を着用する。 男性は黒の礼服、女性は着物。 暑い時、勝手に服を脱いではいけない。 もし服を脱ぎたいのであれば、その場の人に断ってから脱ぐこと。 一般的にシャツや裸足のままのスタイルは、失礼な行為とされている。

日本で“先生”という言い方は、教師、医者、年長者、偉い人などに対して使うもので、 普通の人に“先生”というと、言われた方はとまどってしまう。 

日本人はお茶が大好きだ。 普通お茶を淹れるとき、お茶っ葉を直接茶碗に入れず、先に小さい急須に入れる。 そしてお茶の分量も半分がよいとされる。 また一般に注ぎ足しはしない。 だから、大きな湯飲みで飲む中国人にとってはのどが渇いて仕方がない。

家であろうとレストランであろうと、座る位置が決まっている。 普通は主人の指示に従えばよい。 日本の商売人は長い付き合いを大事にする。 彼等は商売の話の際には、相手のメンツを立てることを大事にするが、相手に対してもそうするよう希望している。 お礼の品を贈る際、相手側の立場・地位に気を使う。 あまり高いものは贈らない。 それによって相手に気を使わせないためだ。

日本にはチップの習慣がないからやる必要はない。 チップをやる場合、封筒またはティッシュに包んで渡す。 日本人はむき出しのお金を受取るのを嫌がるからだ。

日本人は“9”と“4”の数字を嫌う。 贈り物をする時、数字が“9”となる贈り物はしてはいけない。 日本語で9の読み方が“苦”と同音だからである。 “4”の発音も“死”と同じで宿泊する時、4階の4号室とか4番テーブルなどは避けるようにしている。 また商売する人は、“2月”、“8月”を嫌っている。 それはこの月は商売が一番悪い時期だからだ。 

このほか日本人は中国の紹興酒、茅台酒が大好きだが、ピータンはあまり好きでない。

箸にもこだわりを持っている。 箸は箸おきに置く。 箸の使い方には決まりがある。 “やってはいけない箸の使い方”が八つある。

  ねぶり箸(舔----- 箸を口でなめたり、箸についたものをなめること。

  迷い箸(迷----- どれをたべようかと、箸を持ちながら料理の上で行ったり来たりすること。

  移り箸(移----- 次から次へと料理に箸をつけること。

  もぎ箸(扭筷) ----- 箸先についたご飯粒を、口でもぎ取ったり、なめたりすること。

せせり箸(剔筷) ----- 爪楊枝のかわ

      りに箸を使うこと。

⑥ 刺し箸 (插筷) ----- 料理に箸を刺

   すこと。

⑦ 渡し箸(跨筷----- 箸を食器の上

   に乗せること。

⑧ 探り箸(掏筷----- 箸で好きな食

   べ物をより分けたり、 かき回したり

   すること。

もう一つ、“立て箸”といって、箸をご飯の上にまっすぐ立てることもいけない。 これは仏箸ともいわれ、死者の枕元に供える際に使われるからだ。

書道の作品や、きれいに彫られた印章などを日本人に贈ると喜ばれる。 私達中国人は印章の縁をわざと欠けたようにするのが好きだ。 古いものの証明だと思うのだが、もしこれを日本人に贈ったら喜ばれない。 彼等はこのような不完全なものは不吉だと思っている。

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568中国の三面記事を読む(153)春節期間中 臥龍でパンダ誕生

今年全球首只大熊猫宝宝昨日在卧龙诞

2007-02-24 07:55:00 来源: 四川新(成都) 网友评论 0 论坛

今年初めてのパンダの赤ちゃん 四川臥龍で誕生

Photo_992 春節の初六(2月23日)、臥龍パンダ保護研究センターからうれしいニュースが届いた。 臥龍パンダ研究センターに身を寄せていた北京のパンダ“ジニー”が無事メスの赤ちゃんを出産し、初産最高齢(13歳)の記録を作った。 妊娠期間は最Photo_993 長の324日、春の出産もめずらしいことなど、パンダの繁殖史上の奇跡だと言われている。 またこれは同時に、2007年、世界では初めてのパンダの赤ちゃんの誕生である。

Photo_994 センター関係者の話によると、パンダのママ“ジニー”は1993年北京動物園で生まれ、すでに13歳の高齢で、今まで一度も子供を産んでいなかった。 去年1月北京四川の親戚交流と繁殖のため、北京動物園が“ジニー”を臥龍パンダ保護研究センターに送っていた。 去年4月“ジニー”に発情が見られ、センター担当者が、前後2回人工授精を行い、三度目は自然交配が行われた。 そして昨日(2月23日)、324日の妊娠期間を経て、ついに待望の第一子を出産した。 この赤ちゃんはメスで体重90.2kg、体長13.3cm、頭の長さ2.7cm、尾の長さ4.2cm、泣き声は大きくて元気がよく、最初の検診ではまずまずの健康な赤ちゃんとのこと。

臥龍自然保護地区

Photo_995 位置:臥龍自然保護地区は、四川省州汶川県の中にあり、成都市から約120キロ,都江堰から50キロほど離れたところにある。

場所の特徴:ここ臥龍自然保護地区は、地球上に数少ないパンダの生息地の一つである。 全国重点自Photo_996 然保護区に指定され、また“生物圏保護地域”にも指定されている。 保護区域内には、パンダの研究センターと飼育場がある。 旅行者は、ここでパンダの自然な生活を見ることができる。

Photo_997 管理センター:臥龍パンダ自然保護管理所

場所:臥龍自然保護地区

入場料:通行料10元(約150円)、パンダ館8元(約120円)

交通案内:

Photo_998 成都から臥龍まで車で約3時間。 成都から小金県行きの長距離バスに乗ればいい(成都西門バスターミナル朝6時40分発)、途中、臥龍で下車。 都江堰からも午前と午後、臥龍行きのバスが出ている。

途中の道路状況:

成都から臥龍までは、全線二車線で舗装されており、道路状況はよい。 バス代は約40元(約600円)

車料金:

20人乗り中型バス:一日900元(約13,500円)

12人乗りマイクロバス:一日700元(約10,500円)

7人乗りトヨタ、三菱ワンボックス・カー:一日700元(約10,500円)

臥龍の赤ちゃんパンダの成長の記録

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567中国は見る(305)日本旅行⑱ 日本のホームレス

2007-02-26 21:02:31 :日本的无家可” “莱斯homeless

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1080098,31.html    

ホームレス”homelessとは外来語で、“住む家の無い路上生活者”のことをいう。 地下鉄の駅、デパートの地下入口、住宅地の公園など、夜になるとどこからかともなくきれいなダンボール箱が現れる。 中に寝ているのは“ホームレス”といわれる人達である。 浮浪者と乞食となんら変らない。 私が新宿駅の外で、数人のホームレスがお互い談笑しあった後、それぞれのダンボールに潜り込むのをはじめてみた時は、本当にビックリしてしまった。 彼等はゲームでもしているのかと思ったくらいだ。

“ホームレス”には特徴がある。 大きな包みを持っていることだ。 中には彼の生活必需品が入っている。 より精神的生活を求める人は本やラジオも持っている。 まるで旅支度だ。 彼等の中には怠け者も一定数はいるが、ほとんどは仕事を持っている。 建設作業員や日雇い、中にはインテリもいる。

私の店にしょっちゅう食事に来る「フーさん」は、関西の人で、メガネをかけいつも大きな包みを持っていた。 彼はいつも黙ったまま清酒一本とシシャモ、もつの煮込みを頼み、食べ終わると帰っていった。 誰とも口をきかなかった。 ママさんは、あの人はきっと建築現場で働いているのよと言っていたが、私はなんとなく歴史学の先生のような気がした。

その日の朝、私の家の湯沸かし器が壊れた。 私は洗面器を持ちサンダルを履いて、街の中のコインシャワー・ルームに行った。 入ろうとしたら、「フーさん」とばったり顔を合わせてしまった。 よく見ると、下には彼の荷物が広げられていて、汚れた服が丸められていた。 彼は、顔中を石鹸の泡にしてヒゲを剃っていた。 「フーさん」も私に気がついたようだが、顔をそむけると、そそくさと身体を洗い、さっさと出て行ってしまった。 私はそこで暫くの間、彼がなんでヒゲ剃りのためこのシャワー室に来たのか、理解できないでいた。

さすがおかみさんの桂子さんは、ズバッと言った。 “「フーさん」はホームレスなのよ! 貧乏で部屋を借りられないんじゃないかしら” 私が、“そんなことないでしょう?”というと、桂子さんは説明してくれた。 日本のホームレスの男は中高年が多い。 彼等の収入で部屋を借りられないことはないのだけれど、東京では、部屋を借りるのには保証人が必要で、人付き合いが嫌いで、人に頭を下げるのがイヤな地方の人にとっては、それが面倒で、だったら借りるのはごめんだということになる。 それから自由でいたい人、昔の生活に憧れる人は、セメントの部屋に閉じ込められるのは牢屋に入ってるようなものだと考え、それならジプシーのテント生活がしたいということで、公園を家とする生活を選び、自由に群れを作っているのだという。 夜になれば、みんなで一緒に酒を飲み、食事をし、話をし、終わったらダンボールへ潜り込み就寝する。 これらの人の中には共産主義思想を持ち、冷酷な資本主義制度に反感を持つ理想主義者がかなりいるという。

桂子さんのお馴染みさんは、奥さんが一年中病気で入院を繰り返している。 彼は金がないのに、それでも毎晩店にやって来て酒を飲み時間をつぶし、閉店まで家に帰らない。 桂子さんはいつも、“ホームレスになれば”とそそのかしている。 自分の家を売って、彼女のツケを取り戻そうと思っているのだ。

ホームレスの話題の中で、ちょっと意外に感じた話がある。 ある社長のことだが、彼は毎日朝早く出勤し、夜遅く帰る生活を続けていた。 自分の子供達にそれぞれ家庭を持たせた。 定年の年になり家庭へ戻り安らかな晩年を迎えるはずなのに、どうしても自分の家に溶け込めない。 妻や子供達が彼をよそ者扱いし毛嫌いした。 彼は家にいても日々邪魔扱いされている気持が強まりとうとう家を出てしまい、どこを寝ぐらの“ホームレス”となってしまった。

“ホームレス”は、日本ではもう長い歴史がある。 日本の社会福利施設は完備しており、彼等の生活に心配はない。 しかし、彼等は社会の治安ときれいな環境にとっては問題があり、しばしば社会問題となっているが、中々根本的に無くすことは難しい。

あなたがもし東京に行くことがあったら、夜、外出して地下鉄の駅や、デパートの通路、公園の中を覗いてご覧なさい。 ホームレスが作ったダンボールのりっぱな家が見られるでしょう。

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566中国は見る(304)日本文化紹介⑱ 世界文化遺産―日本仏教の“母なる山”比叡山

世界文化遗产日本佛教“母亲山比睿山 2006-08-23

Photo_991 比叡山は琵琶湖西南、京都と滋賀の中間にある。 現在まで1200年の歴史を有する。 比叡山の延暦寺は日本の仏教の聖地であり、比叡山は日本仏教の「母なる山」と呼ばれている。 1994年8月、世界文化遺産に登録された。

Enryakuji_2 延暦寺は、全部で大小200余の寺院があり、東塔、西塔、横川(北塔)の三塔から形成されている。 これら寺院は、比叡山の別々の場所に分かれており、見て回るには遠いので車に乗って行くしかない。

Hieizan_2 延暦寺の一番重要なところは東塔の根本中堂である。 堂内の本尊薬師如来の仏像の前には、不滅の法灯が供えられている。 遣唐使として唐に入った最澄法師が、比叡山に入り法灯を安置したとのことで、1200年あまりの歴史を持っているが、これまで消えたことがない。 仏法の未来永劫を象徴している。

Photo_987 比叡山の四季の風景は美しい。 四季それぞれいろいろな花が咲き乱れるほか、ウグイス、ミソサザイ、キツツキなどの鳥も見ることが出来ます。 冬には日本猿も見られます。 このような大自然の中、小鳥のさえずりと共に、林の中をそぞろ歩くのもとてもいいものです。 もし、晩秋初冬に行かれるとしたら、全山紅葉して、きっと目の保養になります。

ほかに比叡山の有名スポットとしては、比叡山の麓にある日吉大社、日吉三橋、坂本ケーブルカーなどがあります。 日吉大社は、1300年あまりの歴史があり、全国の山王権現の総本社である。 日本全国に3800もの分社がある。 日吉神社が祀る“山王権現”とは、延暦寺の守護神である。 日吉大社は7社に分かれている。 そのうち東本宮、西本宮の建築物はすばらしく、現在、国宝になっている。 

日吉三橋は、日吉大社前の大宮川に架かっている三つの石橋で、日本最古の石橋である。“重要文化財”に指定されている。

Photo_989 坂本ケーブルカーは、坂本から比叡山延暦寺を結ぶ交通手段となっている。 1927年開業で全長2キロある。 乗車時間は片道約11分、日本最長のケーブルカーである。 坂本ケーブルカーの歴史は古く、長いというだけでなく、景色も日本第一と言われている。 ケーブルカーから琵琶湖や大津市内の壮麗な景色が眺められる。

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565中国は見る(303)昭和天皇の元侍従の日記が公開される

支那を見くびりすぎた 支那事変はやりたくなかったと語る

2007-03-10 05:32:13 日本天皇侍从日 裕仁低估中国后悔侵

来源: 中新网(北京) 网友评论 0 论坛

中新ネット3月10日電:第二次大戦当時、昭和天皇に仕えた侍従の日記がこのほど公開された。 香港《文匯報》によると、この侍従は当時、日夜天皇の側に仕えていた。 彼は日記の中で、天皇が日中戦争について、“支那事変はやりたくなかった。 日本は支那を見くびり、そのため戦争が長引き負けてしまった”と書いている。

故小倉庫次氏は、昭和天皇の侍従を務めた後、東京都立大学法経学部長に就任した。 この元侍従が第二次大戦中書き綴った600頁に及ぶ日記が見つかった。 この内容は10日発売の月刊《文芸春秋》4月号に掲載されている。 その中には昭和天皇が1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)終戦までの未公開の天皇の肉声“満州事変(九一八事変)で苦い経験をなめている”などが記されている。

中国の軍事力を見くびったと認める

日本は1931年(昭和6年)、中国に戦争をしかけ、中国東北三省を占領、満州国を建国した。 1937年(昭和12年)には全面的に中国との戦争が始まる。 3年後、1940年、天皇は日中戦争について、“支那が意外に強く、事変の見透しはみなが誤り-------特に専門の陸軍すら観測を誤れり--------早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るのが尤も賢明なるべき”と述べていたが、燃え盛った戦火は、もう収拾不可能になっていた。

中ソの連携を恐れる

1941年、昭和天皇は当時の近衛文麿首相を暗に批判している。 “大東亜戦争が始まる前は心配であった。 近衛のときは、準備も無いまま戦争にもっていきそうだったので心配した。 東条(英機)になって準備ができた” その後一年、天皇は日ソ中立協定調印前にソヴィエトが参戦し、中国を助けることを心配していた。 “支那事変はやりたくなかった。 それはソヴィエトがこわいからである”

真珠湾奇襲後、アメリカが参戦し、中国の同盟国となった。 日本軍は危機的状況になった。 “戦争はやるまでは慎重に考えなければいけない。 一旦始めれば、中々中途で抑えられるものではない-------戦争はどこで止めるかが大事なことだ 戦況が悪化する中、天皇はこうも語っている。 “戦争は始めたら徹底してやらねばならぬ”

1945年(昭和20年)8月、昭和天皇は日本の無条件降伏を宣言した。 アメリカが日本に進駐した。 その後、アメリカとソ連との種々の政治的要素もからみ、天皇の地位は存続された。 昭和天皇は1989年(昭和64年)死去。

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564中国の三面記事を読む(152) 「硫黄島からの手紙」を見て【7】-《下》

アメリカ人が撮った日本の戦争映画:《硫黄島からの手紙》からアジアを見る

 2007-02-26 12:35:04 :美国人拍日本二:由《硫黄来信》解读东亚文化

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1079364,21.html

http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

Photo_966 アメリカは数日間爆撃を繰り返した後、上陸を開始した。 艦船は多く、その迫力のすごさに日本軍はあっけに取られた。 栗林忠道が予想したとおり、米軍は易々と砂浜を攻め落とした。 栗林忠道達は、米軍が砂浜に溢れた頃を見計らって、一斉射撃を命じた。 日本軍は大量の米軍兵を殺傷した。 しかし米軍は退却せず猛攻を続けた。 《父親たちの星条旗》では、トンネルで抵抗する日本軍を、アメリカ兵が火炎放射Photo_967 器でトンネル一つ一つ噴射していくシーンが出てくる。 西竹一も目をやられてしまった。 彼は部下に栗林忠道のいる陣地に退却するよう命じた後、銃で自殺する。

Photo_968 日本の軍人の中には守備陣地を離れるのを潔しとしないものが多い。 彼等は守備している場所にいるのが原則なのである。 陣地を守れなかったら自殺する。 西郷と清水の班長は兵士達に手榴弾で死ぬよう命ずPhoto_969 る。 一人一人と死んでいく。 西郷と清水は、命令に逆らって生きていた。 しかし二人は危うく、怒った伊藤に頭を切られそうになる。 幸い通りかかった栗林忠道に救われる。 

Photo_970 激戦の中、日本軍と米軍の中ではジュネーブ協定に違反する行為があった。 日米双方とも捕虜を殺していた。 激戦で両軍兵士が相対する場面もあった。 清水が西郷に、“よくアメリカ人は臆病だなんて言っPhoto_971 てたけど、決してそうじゃないな。 アメリカ人は野蛮人だと思ってたけど、アメリカの捕虜の母親の手紙の話を聞くと、自分のお袋が言ってるのと同じじゃないか”と話した。 清水はもう洞窟なんかにいたくない。

Photo_972 彼はアメリカ軍に投降することに決めた。 西郷はあちこちに倒れている日本兵に身を隠しながら、栗林忠道が指揮する陣地にたどり着く。 最後の一戦に出撃する前、栗林忠道は西郷に、彼の最後の品物を焼却処分させる。 その中には手紙も含まれていた。 

Photo_973 激戦は終了した。 西郷は担架に横たわっていた。 無数の担架が砂浜に並び、艦艇の病院に運ばれるのを待っていた。 担架の中は日本の捕虜かアメリカ兵かわからなかった。 担架に横たわっているのはすべて負傷兵だった。

Photo_974 《ワシントンポスト》の批評家がいいことを言っている。 “戦争映画では「敵も人である」ということを理解させることが大切だ。 しかも彼等は自分の国の文化が作ったもの、伝統的なものに縛られているのPhoto_975 だ。 任務がイヤでもそれを遂行しなくてはいけない” 《硫黄島からの手紙》は全体的に薄暗いトンネルの中の場面が多かった。イーストウッドは、その“任務がイヤでもそれを遂行しなくてはいけなPhoto_976 い”鬱屈した雰囲気をよく映し出していた。 日本軍の死んでも投降しないという生き方は、“文化と伝統”に関係があると言えるだろう。

中国文化を主とする東アジアでは、将兵は領土を守る責任があった。 国土を失うことは責任を全うしないことであり、その時は死を以って身を処した。 私達は中学の国語の授業で愛国主義の教材《張中丞伝後叙》を勉強したことがある。 韓愈(唐代中期の詩人、文人)が述べているのは、安史の乱(安禄山らの反乱:755年―763年)の時の張巡、許遠の睢陽防衛戦だ。 この戦争は、硫黄島よりもっと凄惨だった。 《旧唐書》の記載によると、逆将尹子奇は睢陽を何年も包囲していた。城中は兵糧が無くなった。 張巡は妾を引き出し殺して煮て兵士に与えた。 その後、城中にいた女を食べ始め、女を食べ尽くすと、男の年寄り、そして子供まで食べていった。 次いで城中の二万人もの一般人を食べ終わる頃になって、睢陽はついに賊軍に攻め落とされた。 張巡、許遠などは捕虜となり殺された。 韓愈の文章では、張巡、許遠が城を捨てなかったこと、投降しなかったことを弁護しているが--------戦争とは、かかることまでするものかと、当時でもすでに異なる見方があったことがわかる。 東アジアの文化と伝統の中には、このようなすごい見本もあったのだ。 

では、軍人はなんで投降しないのか? 東アジアの文化の中では、投降者は必ず新しい主人のため命がけで働くことになる。 《三国志》の中では、厳顔が張飛に対し“我国には首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍などいない”とタンかを切る。 それを聞くと張飛は自ら厳顔の縄を解いて詫びた。 そこで厳顔は張飛に降り、“これから蜀への道筋の各関所は私の部下どもです。 飛将軍の恩に何も報いることが出来ませんが、私が先陣にたてば、いずれの関所も降参します” でもこんなことは誰でもできるわけではない。 

降伏した軍人の寝返りを恐れるため、投降者に対して東アジアでは伝統的にその父母や子供など一族を殺した。 李陵(前漢武帝の時の武将)は食糧や矢が尽き匈奴の捕虜になった。 漢の武帝は、事件の経過がはっきりとわからないうちに全家族を殺害した。 《史記》の記載によると、蘇武が漢に戻る時、李陵が酒席を設けて彼を送った。 その席上で踊りながら、“------老いた母はすでに亡く、恩を報いんと思えど、いつ帰れることやら?”と泣きながら歌ったという。 家族への思いが軍人の投降をためらわせているのだ。

栗林忠道が最後に出撃する前、兵士と一緒にラジオの硫黄島守備隊向けに放送された童謡を聴く場面があった。 “硫黄島、硫黄島、日本を守る最前線”、渡辺謙の表情には切なく悲しいものが溢れていた。 米国の観客は、ここで栗林忠道の人間性を見たことだろう。 しかし東アジアの伝統から見ると、歌声の中には多分、投降しない陳宮に対する曹操の脅し的意味合いもあったのではなかろうか? “貴公はこのとおりでいいだろうが、貴公の母上や妻子はどうであろうか?” 陳宮はみんなの前で曹操に言う。“天下を治めるものは人の親を殺さないと聞きます--------母や妻子の命は、あなたの意のままです” 曹操はすぐ部下に命じた。 “母と女房を許昌に戻してやれ。 言うことを聞かない者は斬る” 栗林忠道は一体誰に言うことが出来ただろう?

栗林忠道が妻に書いた手紙には、“私は生きて戻れないだろ”と書き残している。 硫黄島は、米軍が攻撃する最初の日本領の島だった。 栗林忠道は間もなく玉砕するこの島に命令により守備に来た。 彼は、米軍が投降を受け入れることを知っていた。 しかし彼の肩にはずっしりと重い“領土を守る責任”が負わされていた。 家族の名誉や安全のため、栗林忠道は死んで守るしかなかった。

栗林忠道は、弾が尽き食糧も無くなった部下に、“我々の軍人魂は後の人が永遠に記念してくれる。 靖国神社で会おう”と言い“天皇陛下万歳”を三唱した後、彼等は洞窟から出るとアメリカ軍の砲火に向かって行った。

映画が終わった時、アメリカの観客は異常に静かだった。 出演者、スタッフの名前が次々と映し出され完全に終わってからやっと立ち上がった。 イーストウッドは、恐らく東アジア文化を深く理解してはいないだろう。 しかし、彼は人間性に共通する重さを見事に描き出していた。 この映画を見終わって考えるのは、戦争に行ったことのない若い男女の愛国談義じゃないはずだ-----《父親たちの星条旗》の中では、正にこのようなチャランポランな愛国三青年が、激戦の中で経験した悲惨な物語だ。 三人の中のジェームス・ブラッドリーという人の息子が書いた同名の回想録で、これが《父親たちの星条旗》の原作本になっている。 しかしジェームス・ブラッドリー本人は、ずっと家族には硫黄島の話はしなかったし、誰かが戦争の記念行事に参加を呼びかけても、息子を通じて“居留守”を使い断っていた。 臨終の時、やっと息子に昔の戦場の話をしたそうだ。

栗林忠道のように国に命を捧げたり、西竹一のように友達のために硫黄島に馳せ参じたり、《父親たちの星条旗》のアメリカ軍兵士達も“国のために戦い、友達のために死ぬ”(fought for their countrydied for their friends---------これは男達の共通した運命であり、この運命は共通した性向がありそうだ。 またこれはどんな戦闘場面であろうと起こりうる。

“漠漠世界黑,驱驱繁。惟有摩尼珠,可照水源。”(漠々たる世界黒く、駆駆として争奪繁し。ただ摩尼の珠ありて、濁水の源を照らす)

杜甫が言う“摩尼の珠”は《円覚経》の中の佛家の宝で、濁水を清らかにする不思議な働きがあるという。 この世界の人々は性懲りなく戦争を繰り返している。 戦争が終り、沢山の命が失われた後、誰もがイーストウッドのように大慈悲を持てればいいのにと思うばかりだ。

(2007年2月6日完稿)(星辰在线)Photo_979Photo_980 Photo_981 Photo_982 Photo_983 Photo_984

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563中国の三面記事を読む(151) 「硫黄島からの手紙」を見て【6】-《中》

アメリカ人が撮った日本の戦争映画:《硫黄島からの手紙》からアジアを見る

 2007-02-26 12:35:04 :美国人拍日本二:由《硫黄来信》解读东亚文化

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1079364,21.html

http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

今年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた張芸謀の《満城尽帯黄金甲》と馮小剛の《夜宴》は、早々に落選した。 もともと中国の監督がゴールデングローブ賞にノミネートされただけでも、以って瞑すべしだ、ましてや今年はあいにくとアメリカの二人の監督、クリント・イーストウッドとメル・ギブソンが撮った“外国映画”が参戦したので、張、馮二人は押し出されてしまったのだ。 ゴールデングローブ賞の外国映画賞は衆目の一致していたクリント・イーストウッドの《硫黄島からの手紙》(Letters from Iwojima)に決まった-----全編日本語の第二次大戦映画である。 アメリカ映画では初めての外国映画賞である。 ゴールデングローブ賞の前に《硫黄島からの手紙》は、全米映画批評会議賞(National Board of Review)で2006年度最優秀作品賞に選ばれた。  ゴールデングローブ賞の後には、《硫黄島からの手紙》はアカデミー賞作品賞にもノミネートされた。

Photo_951 硫黄島は日本の火山列島の一端で、太平洋の小笠原諸島に属している。 同島は台北の東、東京の南にあり、東京から1千キロあまり離れている。 アメリカ軍は硫黄島を占領した後、重型爆撃機をここから発進させ日本全域を爆撃した。 1945年2月19日から3月26日の間、ここで第二次世界大戦中、最も激烈な戦闘が行われた。 三個師団のアメリカ海兵隊のPhoto_952 猛攻の下、2万2千の日本軍守備隊が頑強に抵抗し、ほとんどが戦死した。 わずか千人あまりが生き残った。 大部分は負傷して捕虜となった。 アメリカ軍の死亡者は7千人。 第二次大戦中の海兵隊死亡者数Photo_953 の三分の一を占めていた。 また1万6千人が負傷した。 第二次大戦中、米軍が唯一、死傷者数が敵方を上回ったところだ。 この戦争中、従軍カメラマンが撮った一枚の写真------六名の海兵隊士が硫黄島の擂鉢(すりばち)山にアメリカ国旗を掲揚している------は、アメリカでは第二次大戦中の有名な写真になった。

Photo_954 この六名の兵士のうち3名は、硫黄島の戦いの勝利を見届けることが出来なかった。 去年、イーストウッドが監督したもう一本の映画《父親たちの星条旗》(Flags of Our Fathers)は、生き残った3人の兵士を描いたものだ。 この戦争後、アメリカに帰還し、その写真を携え、戦争公債のための宣伝に利用されていく。 しかし、彼等は賞賛を受けたものの、戦争中の凄惨な記憶が頭から離れない。 《父親たちの星条旗》を撮影している間に、イーストウッドは日本軍守備隊、特に指揮官の栗林忠道陸軍中将に興味を持った。 アメリカ人の考えからすると、大本営がはっきりと、海軍と空軍とも増援できないと言っているのだから、その弧島を死守することには何の意味もない。 ただ兵士の命を無駄にするだけだ。 だったら相手と投降について話をすればいいのにと思う。 栗林忠道はなんで、死んでも降伏しようとしなかったのか? 数年前、島で発見された栗林忠道の手紙から、イーストウッドは《父親たちの星条旗》を完成した後、もう一本、日本人の角度からこの戦争を描く《硫黄島からの手紙》を撮ろうと思った。

《ワシントンポスト紙》の映画評(1月12日)には、第二次大戦のドイツ兵はとっくに人類社会への復帰を許されていた。 しかし日本兵はまだだった。 この映画は非常に貴重な修正作業を行ったといえる。 一方、アメリカ映画評論家はこうも指摘している。 “《硫黄島からの手紙》は戦闘場面ばかりだ。 その中には中国戦線の残虐さについて触れられていない” 《ニューヨークタイムス》の全面広告に、イーストウッドが日本軍のオーバーを掛け撮影の指揮をし、アメリカ側スタッフも日本人俳優と同じように軍服を着ている写真があった。

たぶんアメリカ人だからこそ、対立した両方の角度から二つの映画を撮ることが出来たのだと思う。 あなたはアメリカ人の度量の大きさに感心しませんか? 数年前、日中関係が緊張していた時、《ニューヨークタイムス》はこのような記事を載せたことがあった。 アメリカのある将軍が記者に話したものである。 ある宴会で彼は中国の将軍と同席したことがあった。 中国の将軍は何度も日本の悪口ばかり言っていた。 アメリカの将軍は、礼儀として暫くは聞いていたが、とうとう聞いていられずフォークを置いて中国の将軍に言った。 “ちょっと聞いてください。 我々は日本人と太平洋で血戦を繰り広げ、双方多数死にました。 しかし今、我国と日本は非常に仲のいい同盟国です” このアメリカの将軍は、中国の将軍に国際政治を教えたのです。

《硫黄島からの手紙》の冒頭、画面がゆっくり石碑:硫黄島戦死者顕彰碑”岸信介書を映していく。 この岸信介こそ現在の安倍晋三首相の母方の祖父にあたり、我国の新聞紙上でよくいわれる“戦犯”(岸は容疑者リストには載ったが不起訴となった)だ。 碑は硫黄島の戦い40周年の時、アメリカと日本の参戦兵士達で建立し、一面は英文で、一面は日本文で書かれている。 碑の除幕式後、日米の兵士達は握手し、抱き合い、号泣した。 アメリカ人も敵味方関係なく死者を悼んだ。 民族の心の違いから、泰山より重い死に様もあれば、鴻毛より軽いものもあるとしみじみ感じさせられた。 

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人の死は大切なものとして、取り扱われるものだ。 フォード元大統領が去年亡くなったとき、対立する民主党も追悼した。 このフォード元大統領は“ウォーターゲート事件”で調査妨害をしようとしたニクソン元大統領を赦免したばかりか、“東京ローズ”の戸栗郁子Iva"IkukoToguri"D'Aquino)の有罪判決も取り消し、彼女の公民資格を回復させた。 郁子はアメリカ生まれで、真珠湾事件当時、丁度日本へ帰国しており、彼女の説明では、むりやりラジオのアナウンサーにさせられ、命令でアメリカ軍に謀略放送(アメリカ軍兵士から東京ロ-ズと呼ばれた)を行った。 去年9月、郁子は病気で亡くなった。 《ニューヨークタイムス》は、名誉回復記事を載せた。 タイトルは大きく《アイバ・トグリ、彼女はアメリカ人だった》

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このようなアメリカを、日本軍の指揮官栗林忠道中将は十分理解していた。 彼は5年間駐米武官だった。 彼のこの知識が、硫黄島の戦いを死傷者累々に導いた。 栗林忠道は硫黄島に到着した時、日本軍兵士達が砂浜の塹壕堀をしているのを見て、すぐ止めさせた。 栗林は下級将校に言った。 “君は、アメリカが一年間どれくらいの自動車を作っているか知ってるか? アメリカの道路は車で一杯だ” 栗林忠道から見たら、砂浜で敵と向かい合ったら、アメリカの圧倒的に優勢な砲火で、ムザムザ死ぬだけだ。 彼は方針を変更して、山の中にトンネルを掘らせた。 栗林忠道はこの戦争は必ず負け戦になることを知っていたので、兵士には可能な限り、アメリカ軍の砲撃から身を守り、敵に大損害を与えるよう指示した。 下級士官の多くは、これは臆病なやり方だと思っていた。 彼等は寸土といえど敵に足を踏み入れさせないため、砂浜で迎え撃とうと考えていた。

伊藤中尉(中村獅童)が兵士に言う、“なんで俺達が勝てるか?” 元憲兵の清水(加瀬亮)が立ち上がって“アメリカ兵はみんな腰抜けばかりだからです!” 伊藤は兵士達に米軍の衛生兵の赤十字マークを指差した。 彼は衛生兵を殺せば米軍の士気が崩れるに違いないと考えていた。 この士官達は、栗林忠道はただ隊長室に座っているだけで、戦争がわかる本当の軍人だとは思っていなかった。 栗林忠道は、アメリカかぶれで軟弱だと思っていた。 或いは大本営もそう思っていたかもしれない。 だから栗林忠道を長いこと重用しないで、この戦場に送り込み戦わせようとしたのだ。

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栗林忠道を唯一理解していたのは、やはりアメリカに行ったことのある西竹一中佐だった。 西竹一は、1932年のロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを獲得した。 彼は栗林忠道のよき友達だった。 アメリカ艦船により航路が切断される前に、西竹は最後の輸送船でタンクと共にやって来た。 栗林忠道が、“なんでわざわざ死ににやって来たんだ?”と言うと、西竹は、“君がこのタンクが必要だろうと思ったからさ”と答えた。

戦争が始まる前の静けさの中、栗林忠道は家族に手紙を書いていた。 彼は妻に、“出発で慌しく家の床を直せずすまない”と書き送っている。

兵士達も書いていた。 だが彼等の手紙は検閲されるので本当のことは書けなかった。 西郷は兵隊に来る前はパン屋だった。 召集されて家を出る時、妻のお腹には子供がいた。 彼は妻に必ず子供に会うため戻ってくると約束した。 戦争なんか絶対に望んでいなかった。 《環球時報》の駐日特約の薩蘇記者にこういう記事があった。 “第二次大戦中の日本に「弱小師団」がいた”というタイトルで、その中に書かれていたのは、大阪の食い物屋達で構成された第四師団は、とにかく自分の身を守るのがうまかったという。 ところで、この西郷がどこの町から来たのか映画で説明があったかは思い出せない。

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562中国の三面記事を読む(150) 「硫黄島からの手紙」を見て【5】-《上》

アメリカ人が撮った日本の戦争映画:《硫黄島からの手紙》からアジアを見る

 2007-02-26 12:35:04 :美国人拍日本二:由《硫黄来信》解读东亚文化

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1079364,21.html 

Photo_928 監督(演):クリント・イーストウッド:克林特·伊斯伍德 Clint Eastwood

脚本(编剧):アイリス・ヤマシタ:山下爱丽 Alice Yamashita
主演:渡边谦栗林忠道)
和也(西
伊原志(西竹一中佐)
中村童(伊藤中尉)
Photo_961 地区:アメリカ(美国)
型:
上映:2006129

たぶんアメリカ人だからこそ、対立した両方の角度から二つの映画を撮ることが出来たのだと思う。 あなたはアメリカ人の度量の大きさに感心しませんか? 戦場では思う存分戦い、勝ったら、もう終わったこととしてみんな前へ向かう。 戦場の隠れた話もムダにしない。 これこそ堂々たる大国の国民だ。 

60年越しの手紙

Photo_929 時間:2006年

場所:硫黄島

事件:数百通の手紙が土中から発見された。 これは60年前、硫黄島の激戦に加わった男達が家族に宛て書いた手紙である。 この配達されなかった手紙には一体何が書かれていたのだろう?

1944年6月、第二次大戦の日本軍の戦況は悪化のPhoto_930 一途を辿っていた。 この時、以前アメリカに留学し、誰よりもアメリカ軍の情況と戦争の厳しさを知っていた栗林忠道中将(渡辺謙)が硫黄島に派遣されてやってきた。 これは日本の本土防衛をこの中将に託したということでもあった。 栗林は着任するや思いきった改革を行った。 ちょっと常識とは違うやり方は、古参将校達の猛烈な反対にあった。 この一風変った中将の出現は、硫黄島に来て長くなり、絶望的なPhoto_931 気持にあった兵士西郷(二宮和也)に一縷の希望をもたらした。 西郷と同様、かってロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを取った西竹一中佐(伊原剛志)も“親栗林派”の一員だった。 栗林の指揮の下、兵士達は硫黄の臭気が漂う中、また食糧や水が欠乏する中、地下要塞を掘っていった。

1945年2月19日、米軍が硫黄島上陸を開始しPhoto_932 た。 両軍の兵力の差は歴然としていた。 アメリカ軍は5日もあれば硫黄島を落とせると豪語していた。 誰もこの戦いが36日間も続くとは想像していなかった。 史上最も激烈な戦いだった。 日本軍は戦争中“死んで国に尽くす”を一貫して奨励してきた。 しかし栗林は部下達に、“死んではいけない”と命令を下した------本土の家族を守るため、お前達は戦争の最後の一瞬まで生きて戦うのだ! 日本軍は栗林の奇Photo_933 策戦法で劣勢を挽回した。 軍人のように壮烈な戦死を望む伊藤中尉(中村獅童)、戦場でも国際人だった西竹一中佐、妻とどんなことがあっても戻ると約束した西郷、それから彼等を指揮した栗林達は、この時、軍人として、夫として、息子として、いろいろな側面を持った彼等は、どう考えていたのだろう? これら60年前の彼等の一人一人の硫黄島での思いが詰まった手紙が、あなたの前に繰り広げられることになる---------

旗が掲揚された後は、手紙の話

Photo_934 この映画は、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」との兄弟作である。 1945年2月、ヨーロッパ戦線が収束に向かおうとする頃、日本軍は硫黄島でアメリカ軍海兵隊と太平洋戦争中最も壮烈な戦争を行った。 第二次大戦の記録映画で米軍が火炎放射器で日本軍を洞窟から追い出している場面はこの戦争である。 この戦争は太平洋戦争の転換点となった。 米軍は“不沈戦艦”といわれた硫黄島を手に入れると、島に日本本土から一番近い基地を建設し、B-29爆撃機で日本本土を空襲した。 そして最後には原子爆弾で戦争を終結することになった。 

「父親たちの星条旗」と同じように、この作品も、後代の人が偶Photo_962 然、戦争で残されていた手紙を見つけるところが発端になっている。 そして当時の戦況と当事者達の心情がストーリーとして展開される。 当時、島へ派遣された日本兵のほとんどは本土へ戻ることはなかった。 このような情況の中で、その時兵士達は何を考えていたのだろう? 戦争が、後の人に残したものは何だろう? あの残された手紙は唯一の証人だ。

だから映画の題名も、最初の「赤い日と黒い砂」から現在の「硫黄島からの手紙」に変えられた。 このずいぶん年月のたった沢山の手紙から浮かび上がってくるのは、それぞれ異なるイメージの兵士達である。 彼等は軍人であると共に、それぞれが息子であり、夫であり、父親であった。 

Photo_935 手紙は日本人とっては、とても特別な意味のあるものであり、監督はこれを手がかりに日本市場に狙いをつけたといえる。 この映画に出演した将兵達は日本の実力スターである。 トップを担っている渡辺謙の演技は言わずもがなである。 人目を引いたのは二宮和也という若いスターだ。 彼は国への忠誠と妻との約束という難しい役どころを演じた。 この映画の見所の一つである。

二つの硫黄島

Photo_963 映画の内容は文字通りの戦争映画であり、戦争の画面は硫黄島で実際に撮影されてもいる。 一般の戦争映画は普通正義かどうか一定の考え方を示しているが、Photo_964 監督の意図はそんなところにはない。 彼は戦争は人生のようなもので、絶対の正義もないし、また絶対の悪もないと考えている。 戦争に参加した双方にとって言えば、亡くなった英霊こそ尊敬に値するものである。 そこで硫黄島の戦いに強い関心を抱いていたクリント・イーストウッド監督が、日米のそれぞれ違った角度からこの戦争を再現して、観客に二つの別々の硫黄島を見せようと考えた。

その他に、硫黄島の戦争では、日米両国ではすでに定説となっていることや、両国の国民の間での見方というものもある。 これらは映画の基本方針に困難をもたらした。 うっかりすると罵声が飛んでくることになる。 だがクリント・イーストウッド監督は、さすが名高い映画人である。 二つの映画を撮るに当たって、それぞれアメリカ人と日本人の“役割”を設定した。 特に「硫黄島からの手紙」の中では、彼は米国の監督なのに日本軍のストーリーに挑戦し、日本軍人の精神のありようを巧みに表現した。 日本の観客もこれを受け入れ、映画が封切られるや日本のクリスマス映画戦線で戦況同様激戦の末、売り上げトップとなった。 またこの映画はアメリカ映画批評家協会の最優秀作品賞も受賞、ゴールデングローブ賞の最優秀外国映画賞も受賞と、十分成功した映画ということができる。 このように成功した理由は、監督の二部作を通じて日米両国の文化を共有させようとの新しい視点が反映された結果だと思う。

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561中国は見る(302)日本人に対する考え方を改めるべきだ(下)

私の身近で起こった出来事-------日本人に対する私の見方

2007-03-02 00:13:33 生在我身的故事——谈谈日本人的认识

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1088133,35.html

最近数年、日本映画を見ることが少なくなった。 アニメがあるが、私達年代が見るものではない。 80年代、日本映画がよく入ってきた。《君よ憤怒の河を渉れ(追捕)》、《サンダカン八番娼館(望郷)》、《黒い雨(黒雨)》、それから《姿三四郎》などは一世を風靡した。 特に《君よ憤怒の河を渉れ(追捕)》の「♪ラーヤーラ」の歌は、誰もが口ずさんだものだ。 それより前、中国では様板戯(革命劇)が天下を取っていた文化貧乏時代だった。 でも中国人は文化では、中国は絶対優位にあり、日本はまるで文化のない国だと思っていた。 しかし改革解放後、日本の映画、書籍がドッと入ってくると、中国人に、やはり日本という国をバカにしてはいけないと感じさせるようになった。 私が感じたことは、私はずっと日本人は、融通の利かない、無愛想な人ばかりで、中国人のようなユーモアや面白さはないと思い、あの頃“高倉健”ブームが起こっていたことも面白くなく、中国の若い女があのクールでいかつい男のどこがいいんだ「バカモン」と思っていた。

ある時、《ドラえもん》やその後《クレヨンしんちゃん》を見ることがあった。 これらアニメを子供達と一緒にアハハと笑ってみた後、ちょっと奇妙な気持になった。 こんな想像力が豊かで楽しく笑わせてくれるものを日本人が作っているのだ。 日本って一体どんな国なんだろう? 日本人は一体どんな人達なんだろう? 私達がこれまでとってきた日本と日本人に対する見方は、あまりに短絡的で一方的なものではなかったかと疑問が起こってきた。 どこか間違っているのではないだろうか?

92年、私の熔接科の二人の学生が日本へ出国した。 二年後、彼等は戻って結婚すると、新婚の妻を連れてまた日本へ戻る準備をしていた。 彼等が私の班の主任に話したところによると、溶接の仕事には将来性がないと思っていたが、日本へ行って間違いだと気がついた。 彼等と一緒に行ったほかの奴等はみな仕事が見つからないと言っているが、彼等二人は、ある造船所の試験を受けたら採用された。 日本の試験官が彼等に鋼板を渡し、溶接のテストをした。 その溶接の継ぎ目を見た後、その試験官は彼等の肩をたたいて採用を決めたというのだ。  給料や待遇も悪くなかった。 彼等が話してくれた日本の情況は、日本の社会にもいろいろな人がおり、決して私達が考えているような、いい加減で融通の利かない人ばかりではない。 日本人はとても礼儀正しく、仕事は真面目で、また寛大さとユーモアも決してないことはない。

彼等が出くわした事件があった。 二人が借りていた部屋の隣にある日若い男達が引っ越してきた。 ちょっと不良っぽい連中だった。 毎日部屋の中で酒を飲み騒ぎ、そのため二人はうるさくて寝られなかった。 やむなくそっと注意したら、逆に酒瓶で殴りかかってくる有様。 その時、大家が回りの住人に声をかけ、大声でそのチンピラどもを叱りつけた。 そしてチンピラ達の持ち物を部屋から放り出し、彼らを追い出した。 その後、二人が本来は大家にお礼を言わなければいけないのに、大家さんが自分の家にお酒や食べ物を用意して、みんなを招待してひたすらお詫びをするのです。 私の学生は、日本の一般の人達は、中国の普通の人々と変わりなく、善良な人ばかりで、映画で見るような“鬼”のイメージなんかありませんと語った。 このような見方で日本人を見ていると、アメリカの一部の人が、今でも中国人は辮髪をしているのではないかと見ているのと同じようで、おかしくなってしまった。

現在、中国から日本へ行く人が多くなった。 日本からも我国へ来る人は多い。 それなのに“鬼”のイメージを彼等の頭にムリヤリ載せようとするのは、明らかにおかしいと思う。

日本の留学生に言語を教えている友人がいる。 ある時、雑談の中で、彼が、日本の留学生の多くと日本の中国侵略問題を話したことがあるが、これら留学生達はこの歴史をあまり理解していない。 彼等が中国へ勉強に来るのには、みなそれなりの意識を持ってやってきているのだが、中国へ来るといつもこの(歴史)問題で悩まされる。 まるで彼等が侵略者であって、その歴史の罪の責任を背負わされているのだ。 そんなのたまらないと彼等は言う。 彼らの方から、“あなた達は、その当時なぜ、その戦争犯罪を追及しなかったんですか?”と問い返される。 日本の留学生のこの言葉に彼は考えさせられたという。 彼は、戦後私達は日本に対して寛容すぎたのではないかと考えた。 もし当時、ちゃんと戦争犯罪を清算し、厳罰に処しておれば、警告と教育の効果があったろうと思ったという。 中国人は「仁慈」(情け)をかけすぎ、簡単に彼等の大部分を自由にしてしまった。 その結果、その中に悔い改めない人が残っていた。 そしてこれらの人々が中国のことを害し、日本を悪くしている。 彼等が過ちを悔いるか否かにかかわらず、彼等が犯した許されざる犯罪は罰しなければならない。 それでこそ後世の人への警告と教育になるのです。 しかし今、あの戦争を何もわからない日本の後代の人に、戦争の罪をムリヤリ負わせれば、彼等だって嫌がります。 特に、海を越えて中国へ来る日本人の大部分は、中国に対して友好の気持を持っています。 私達が彼等を排斥したりするのは、目標が違っているのではないだろうか?

日本の一部メディアは中国侵略戦争について、何度も世論調査を行っている。 侵略戦争だと思う人は27-43%、自衛の戦争だと思う人は5-8%、やむをえない戦争だったと思う人は28-30%、その他はわからない。

我国にいる留学生に対し、“あなたはあの戦争について理解していますか?”という設問で、日本の青年に調査を行ったところ、理解しているは20%、わからないが29%、少しは理解しているは36%、ほかは興味がないと、この問題については話したくない等だった。

日本には一部偏狭な民族主義思想の人がいる。 その人達は民族の憎しみに陥りやすく、また戦争の負けを認めようとしない人もいる。 一方的な民族主義から問題を見ようとする人もいる。 また多くの人は戦争はすべきではなかったし、誤りだったと思っている、しかし始めたからには負けられない、戦って死ぬだけだ、そうすれば民族精神と気骨を示すことになると思っている。 このような考え方をする人は、武士道精神の教育と関係が強い。 これはとても危険である。 前述の統計数字を見ればわかるとおり、戦争に対し、わからないと思う人は日本国民の中に相当な割合を占めている。 若い年代の多くは、先の戦争について知らないものが多い。

この文章は特別な意味はない。 ただ簡単に日本と日本人を槍玉に挙げたり、日本人を敵とするようなことはしないでほしいだけだ。 日本の右翼分子と軍国主義こそが私達の敵である。 反対する目標がはっきりしていればいるほど、集中できるものがあればあるほどいい。 目標がはっきりしないまま、やみくもに日本人の感情を傷つければ、民族間の争いを引き起こすことになる。

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560中国は見る(301)日本人に対する考え方を改めるべきだ(上)

私の身近で起こった出来事-------日本人に対する私の見方

2007-03-02 00:13:33 生在我身的故事——谈谈日本人的认识

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1088133,35.html  

中国人が日本をどれくらい理解しているか、また、日本人が中国をどれくらい理解しているか、私にはわからない。 でも推測だが、日本は歴史的に沢山の中国文化を吸収したことがわかるし、一方、中国は近現代において、日本から多くの先進的思想、技術を学び、導入している。 両国の経済交流について言えば、日本は重要な役割を果たしていることは間違いない。

常識的に言えば、日中両国人民は相当理解し合っていると言うべきだが、実際はどうかと言うと、まったくそうはなっていない。 日中関係のネットを見ると、日本人と接触した人がどれくらいいるんだろう? ネットの人達はどんなルートで日本を理解しているのだろう? と思ってしまう。 私が敢えてこう断言するのは、ほとんどの人は実際生活の中で日本人に接触したことがなく、メディアの報道、映画、本などから日本を理解しているに違いないと思うからだ。 私個人の経験から言うと、1986年以前の私の日本人に対する理解はまったくお粗末なものでした。 小さい時から《地雷戦》、《地道戦》、《平原遊撃隊》といった映画を見て育ったのです。 日本人は、私の頭の中ではどんなものだったと思います?

やっぱり松本のように平然と人を殺す悪魔だと思っていました。 日本を憎く思わないかですって? 日本人だって人間です。 もう忘れました。

日中国交回復の時、中国は日本人から白黒のテレビを貰いました。 日本人に対する印象がちょっと変りました。 “いやー、見ろよ、日本人、すげーや!” 日本の首相が様板戯(革命模範劇)に招待され見に行きました。 舞台の中では、“日本鬼子”が出てきます。 総理はきまり悪そうにしていましたが、日本の首相は笑ってやりすごし、当時の美談として伝えられました。 日本人は全部が全部田中角栄のような人間ではありません。 私が小学、中学へ通っていた頃は、映画の松本に似ていたり、チビでデブだったり、がに股だったりしたら“日本”“小日本”とからかわれました。 “日本”は当時“間抜け”の代名詞だった。

私は76年に田舎の生産隊に入隊した時、コネを使って裏取引をしたことがありました---------物資局で機械油を調達したのです。 物資局のお偉方の一人が父親の戦友でした。 最初に行った時、倉庫番を“日本”と呼んでいる人がいたのです。 私は初め“あだ名”だろうと思ったのですが、その人はまったく松本には似ていません。 黒く痩せていましたが端正な顔をしていました。 その時は、奇妙に思っただけで気にも留めませんでした。 物資局の人も私と幹部との関係を知るようになり、あれこれ面倒をみてくれるようになり、そのうちその“日本”とも仲良くなりました。 この“日本”と呼ばれた人は、本当の日本人で、第二次大戦が終わった後も帰国せず、自分から残留を希望したそうです。 最初の頃は部隊の兵器工場で修理作業をしていたそうですが、解放後、物資局に異動したとのこと。 彼は中国人の奥さんと同じ職場で働いており、子供もいるそうです。 物資局の仕事は暇で、毎日庭をぶらついたり、マージャンをしている。 彼は奥さんに頭が上がらず、人柄はとてもよく、彼を“日本”と呼んでも怒りません。 奥さんでさえしょっちゅう“日本、日本”と呼んでいます。 彼は自分の姓を李に変えました。 あまり上手ではないけれど中国語を話します。 うっかりすると南方出身の人かと思ってしまいます。 彼を知ってからわかったことは、実際の日本人は映画のようなことができる人ではないということです。 私は以前、父親から聞いたことがあります。 父が華北の某軍事学校にいた時、何人かの日本軍事教官と知り合いました。 それぞれ柔道や銃剣ができ、父親の柔道はその日本人から学んだということです。 

日本への恨みは、映画や宣伝教育からのものです。 かっての歴史ともう一つの原因は、私達の自尊心です。 日本のような小さな国に、私達のこの大きな国がいじめられたのです。 身の程を知らない日本人め、いまいましいです。 また同時に、私達の先輩達にも不満を持ちました。日本をやっつけられないなんてだらしない。 82年に大学へ入った時、この気持は強烈でした。 胸の中は火の玉が燃え盛っており、いつでも噴出しそうでした。 85年と87年の頃、“一二九”(1935年12月9日に起きた北京の学生を中心とした抗日救国運動)が来るたびに、貧乏学生達は、ちょっとでも動きがあればすぐ飛び出し、群れを成して“日貨排斥”“日本打倒”と声を上げたものです。 その時は、ただ何もわからなかったのです。 なんでかそうやってるうち政府の方に飛び火したんです。 この不満は実際は社会の不満と通じるものでした。 その頃は、どの学校も学生に対して警備を厳しくしていました。 また阻止したり説得したりすることが逆に爆発の導火線になったりしました。 もし当時、止める人がいなかったら、学生達は声を上げるだけで満足したでしょう。 でも管理が厳しければ厳しいほど反発するもので、ついには目標を政府に向けてしまい、結果は弾圧に遭い終了しました。

今から思うと、あの頃、日貨排斥なんて言ってましたが、まったくいい加減なものでした。 理論的に言ったって、我々貧乏学生や当時の人々にとって、日本製品なんかあるもんですか。 貧乏で買えるわけないんです。 家で一番貴重なものはテレビですが、せいぜいその中のブラウン管が日本製品だったかもしれないくらいだ。 私の家なんか、まともな日本製品なんて何もありませんでした。 日本製品がないのに、なんで日本製品反対でしょう? その結果、反対は必然的に政府に向かったのです。 今は時も情況も変りました。 自分の過去のその時の歴史を考えると、まったく恥ずかしい限りです。

87年、私は二人の日本人留学生と知り合いました。 この二人の留学生は20歳くらいの女の子でした。 当時の学校は留学生の待遇はとてもよく、留学生専用宿舎と食堂がありました。 この二人の女の子は、よく入口の売店で物を買っていました。 実際は、別に買い物というわけではなく、店のおじさんと中国語の練習がしたかったのです。 私もこの店の常連で、二人と知り合うようになりました。 その内の一人は山田といい、小柄で可愛い子でした。 中国語も理解できてました。 もう一人は、話はダメでした。 私が何で中国語を勉強するのと訊いたら、彼女達はただ好きだから、何も特別な理由はありませんと答えた。 下手くそな子が、つっかえつっかえ話してくれたところによると、高校を卒業したけれど、大学に落ちてしまい、まだ結婚なんてしたくないし、偶然このチャンスを見つけて勉強に来たという。 私が“なんで日本女性は、結婚したら仕事を辞めるの?”と訊くと、彼女達は、“自分達もわからない。 ただ、そういう風になってるんです。 仕事も大変だし”

彼女等の話し振りはとても穏やかで誠実であり、中国人のように口を開くと建前ばかり言うのとは違っていた。 山田さんはいつも話す時は、ニコニコしていて、とても可愛らしかった。 特に二本の八重歯が印象的だった。 なぜだかわからないが、私は日本女性と中国女性はまったく違っているように思える。 彼女等の顔からも見てわかる。 とても純粋で、彼女達の心そのままを現しているようだ。 一方、中国女性の顔を見ると、多くの顔が見えてくる。 これはもしかすると中国女性は知らず知らずいろんなものを受け継いでいるからか、あるいは中国の男性から甘やかされたのか、まあどっちでもいい。

私の友達が外国人対応窓口部門におり、彼が直接外国留学生や外国人教師の面倒を見ている。 彼が言うには、日本人は一番管理しやすいという。何でもきちんと片付け、礼儀正しい。 山田さんについていうと、彼女は部屋に大きな魔法瓶があるのを見つけ、中国の水は飲んではダメだと理解したという。 彼女は授業に出る際、水筒に一杯お湯を入れ、教室に入ると、まず黒板をきれいに拭き、それから先生にお湯を差し入れてくれる。 こういった小さい事がいろいろあり、先生達はいつも感動させられていた。 食堂のおじさん達もこの日本人が大好きで、彼女達の要望には何でも応じている。 まるでその日本の姑娘の専属料理人のようだった。

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559中国は見る(300)安倍首相 従軍慰安婦で後退発言

従軍慰安婦を強制的に行った証拠はない

2007-03-03 22:16:57 :从安倍晋三的慰安

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1091649,10.html

Photo_927 新華ネット東京3月1日電:時事通信社報道によると、安倍晋三首相は3月1日夜、首相官邸で記者団からの質問に答える中で、“旧日本軍が従軍慰安婦を強制的に集めたという証拠はない”と述べた。

報道によれば、安倍首相は同夜、1993年の河野洋平内閣官房長官が慰安婦問題で謝罪した談話について、“当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ”と語った。 安倍首相の周辺は、“安倍首相は、以前国会の答弁でも同様発言をしている。 これまでの政府方針と何も変っていない”

Shiozaki 別の報道によると、アメリカの外交関係委員会で“第二次大戦中、数多くのアジアの女性を旧日本軍の「慰安婦」としたことに対し、日本政府に正式謝罪を要求する”決議案が提出されていることについて、塩崎恭久内閣官房長官は1日の記者会見で、“この決議案は「客観的事実と相違する部分が相当多い”と述べると共に、“河野談話を受け継いでいくのが政府の立場だ”と語った。

旧日本軍が直接、間接に慰安婦を強制的に集めたり、移送したり、管理した証拠はないとの認識を示しているが、1993年、当時の河野洋平内閣官房長官が談話を発表し、歴史教育を通じ、永く“慰安婦”問題を記憶にとどめ、日本が決して同様の過ちを繰り返さないという決意を表明していた。 安倍首相も、この談話は日本政府の“慰安婦”問題に対する基本的立場だと明言していた。

Liujianchao_2 中国外交部の劉建超報道官は、“慰安婦は日本軍国主義が第二次大戦期間中、中国を含む被災国人民に対し行った重大な犯罪行為の一つである。

これは何人も言い逃れできない歴史的事実である。日本側は、誠実な態度で歴史を直視し、深く反省し、「慰安婦」問題を含めた残された歴史を適切に処理しなければならない“と強調した。

下村博文官房副長官は28日夜、衛星テレビ番組に出演し、“アメリカの議員がアメリカの下院で、第二次大戦中の「従軍慰安婦」問題決議案を提出している問題について、影響力を行使し同決議案の通過を阻止する。 同決議案は、日本軍が20万もの女性を強制連行したと誤認している。 もしその決議が通ることになると、日本の国益にとってきわめてマイナスである。 またこれは歴史の事実とは異なるものである”

下村博文官房副長官は更に、“決議案を通過させないため、日本政府は必要な努力をしている。 現在そのため全力を挙げている”

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558中国は見る(299)日本の情報衛星打ち上げ成功

衛星4基相継いで打ち上げ 日本の偵察衛星網整う

2007-02-27 12:32:38 4颗卫星相继发射上天 日本星网

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1080974,22.html 

Photo_925 2月24日13時41分、日本の情報収集衛星“レーダー2号”と“光学3号”を搭載したH2Aロケット12号機を鹿児島県種子島宇宙センターから太平洋上に打ち上げた。 衛星は予定軌道に乗り正常に運転している。

日本のメディアはこの打ち上げを喜び、日本の偵察衛星は地球の全地点を監視できると述べている。 安倍首相は24日、情報収集衛星の打ち上げ成功の知らせを聞いてコメントを発表した。“順調に予定軌道に乗ったと聞いてとてもうれしい。 我国の宇宙開発が今後とも宇宙先進国家にふさわしい成果を上げるよう希望したい”

“レーダー2号”はもともと今年2月15日打ち上げる予定だったが、天候などで延期した。 日本政府は安全上の理由から、今まで打ち上げの期日及び時間は発表しなかった。 外国にその性能を見られることを恐れ、情報収集衛星の外観や正確な高度も公表していない。 種子島宇宙センターの責任者は24日の記者会見席上、“今後は災害が発生した時、関係機関に写真を提供することができる”と述べた。

日本は、2003年3月に“レーダー1号”と“光学1号”衛星を打ち上げた。 しかし、同年11月29日に打ち上げたレーダー衛星は失敗し、日本の衛星計画は3年遅れることになった。 去年9月、また“光学2号”を発射し、“レーダー2号”に期待が集まっていた。 日本の偵察衛星は地球の南北を回り、地上400キロから600キロの低軌道を周回することになる。 光学衛星には高性能の望遠鏡とデジタルカメラが搭載されており、レーダー衛星は夜間や悪天候でも地上を観測できる。 “情報収集衛星”は実態は偵察衛星である。 日本政府は情報衛星の撮影対象については説明を拒否している。 しかし共同通信社などメディアが伝えるところでは、“一般に北朝鮮や台湾海峡、東シナ海などが対象となっている”と見られている。

今回の打ち上げ成功で撮影回数を増やし、定期的に撮ったものに変化がないかチェックすることになる。 今回の“レーダー2号”の打ち上げ成功は、日本の長年の“情報収集衛星システム”構築構想がついに完成したことを意味している。 全世界を監視し、ひそかに探る能力を備え、天候に左右されず、地球のどこであろうと一日一回は撮影でき、解像度は60センチまで識別可能である。

日本の打ち上げた衛星の寿命は5年で、最初に打ち上げた2基の衛星は間もなく寿命を迎える。 日本は2009年、更に強力な“光学4号”の打ち上げを予定しており、続けて2011年には“レーダー3号”

も打ち上げる予定だ。 日本宇宙航空研究開発機構は4月からH2Aのロケット打ち上げ業務を三菱重工に移管する。 ロケット製造から衛星の打ち上げまですべて民営化するのだ。 だから今回の打ち上げは日本宇宙航空研究開発機構としては最後の打ち上げとなった。 共同通信社は24日に、次のように配信した。 “レーダー2号”の打ち上げにより、1998年北朝鮮がミサイルを発射した後、日本が推進してきた衛星計画はついに実現した。 しかし日本の情報収集衛星は、絶対大丈夫かというと心もとないところがある。 というのも日本の情報収集は、これまでアメリカに頼ってきた。 “自力更生”で一歩前進したものの、画像の精度や分析能力では、まだアメリカに及ばない。 北朝鮮の監視についても日本独自とはまだ行かないようだ

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557中国の三面記事を読む(149)ニューヨークの日本レストランの差別問題

中国系従業員の中国語禁止令で損害賠償と謝罪判決を受ける

纽约日本餐禁止中文被判赔偿并道歉 2007-02-18 09:26:19

Photo_920 中国新聞ネット2月18日電:アメリカ僑報によると、日本レストラン(バイキングスタイル)Minadoで、中国系従業員が中国語を話すことを禁じたことについて、2005年、米国雇用平等委員会から差別だと調停が行われていた。 同レストランは、2007年2月16日歩み寄りを示し、中国系Photo_921 被害従業員に総額13万ドル(約1560万円)の賠償を支払うことにに同意した。 双方が合意した協議内容は、ニューヨーク・イーストサイドの連邦裁判所で認可される見通し。

Minado 米国雇用平等委員会は、2005年9月、MinadoレストランがCarle

lace支店で、中国系従業員が就業時間外も母国語の使用を禁じられたことはアメリカの法律に違反しPhoto_922 ているとして告発していた。 訴えによるとMinadoレストランは、いろいろな国の従業員(中国系、韓国系、スペイン系など)を採用していたが、レストランは、中国系の従業員に対してだけ、英語Photo_923 で話すことを明文規程化しており、たとえ休憩時間でも互いに中国語で話すことを禁止していた。 中国語を話す従業員には、店長から“Chinese-cheap,cheap,cheap”といった罵声を浴びせられだけでなく、脅されたり、首にされることもあった。

Minado2inadoで働いていた林作州はレストラン側に抗議して解雇された。 林作州はすぐ、米国雇用平等委員会にMinadoを訴えた。 米国雇用平等委員会は訴えを受けて、調査を開始したが、Minadoとの調停はうまくいかなかった。 最終的には、法的手続きをとり起訴することになった。 Minadoレストランは、最終的に米国雇用平等委員会が提案した条件を受け入れ、被害にあった従業員等に総額13万ドル(1560万円)の賠償を支払うことと“英語だけ話す”規程を止めることで合意した。 またレストランでは、従業員に対し雇用平等法の趣旨を徹底教育することにした。 そのほかMinadoレストランは、新聞にお詫びの広告文を掲載し、被害にあった元従業員が米国雇用平等委員会に連絡を取り、委員会が確認の上、13万ドルから賠償金を支払う旨の通知を出した。 

米国雇用平等委員会のシタイラー・山田弁護士は、どの国の従業員であろうと差別のない環境の中で働く権利がある。 Minadoレストランは、中国系従業員達のみ就業時間外も母国語を禁じ、ほかの国の従業員達の母国語は許していたことは連邦の法律に触れるものである。

米国雇用平等委員会ニューヨーク事務所のルイーズ主任は、ニューヨークのレストランには、いろいろな国の従業員がいる。 国や人種差別は、依然として根深い問題となっていると述べた。

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556中国の三面記事を読む(148)有名女優の“出家”報道 中国の社会・ネットを騒がす(下)

林黛玉は重病を患い出家か? 法名は妙誠

林黛玉因患重症剃度出家 法号妙

2007-02-26 09:50:00 来源: 四川新(成都) 网友评论 157  论坛

Photo_913 黒髪を切り、俗世の縁を断つ。 2007年2月23日(旧正月6日)、林黛玉女優・陳暁旭は長春百国興隆寺の読経の声が響く中、剃髪して尼となり仏門に入った。 これからは俗世の情愛、財産とは一切関係なくなる。 十数年苦労して経営してきた年商2億元もの輝かしい北京世邦広告公司も人手に渡すことになる。 

仏教に帰依していた陳暁旭が出家して尼になったというニュースは、人々を驚かせた。 24日、その出家のうわさはたちまち多くのネット上に飛び交い、“林黛玉”ファン達がニュースの真相を巡って論争を繰り広げていた。 昨日午前9時頃、記者が吉林省長春市の百国興隆寺に赴き、接客担当主事の尼さんから、陳暁旭が間違いなく、ここで常慧住職から頭を剃ってもらい尼となり、法名を妙誠と言うとの証言を得た。

Photo_917 出家の原因については、記者が信者達から得た情報では、陳暁旭が重い病気に罹っており、百国興隆寺で修行したところ病状がよくなったので、長年仏教を信じてきた陳暁旭に出家を決断させたのだという。 北京世邦広告公司の社員は、“会長は長年、仏教信仰を続けてきました。 現在の財産や名誉については無欲で、出家することは意外とは思いません”

大晦日(2/17)には寺にいた

Photo_914 長春市の百国興隆寺、長春に長く住んでいる人でさえ知らないこの寺は、修行の僧侶、在家信者の間では有名な寺である。 “あなた達は知らないでしょうけれど、春節の時には彼女はここにいました。 ずっとここで過ごし初六(陰暦6日=23日)に頭を剃りました” ここで修行していた女性在家信者が語る彼女とは陳暁旭のことである。 その話によると、仏教伝統の「打佛語」の日から、陳暁旭は寺の中に数ヶ月という長い間暮らしていたという。 “彼女は依然としてきれいで、気立てもとても良かった” この信者の口からは袈裟を着た陳暁旭は、ほかの人と変ったところなど見受けられない。 同じように精進潔斎して念仏を唱えなんら変るところがない。 入口で線香を売っている女性も陳暁旭が寺へ入るのを見たと証言してくれた。 “一目で彼女とわかりました。 最初はちょっと奇妙に思ったんですが、後はもう見慣れてしまいました。 寺の人が教えてくれたんですが、去年来たんですって。 ここのお寺の住職さんととても仲がいいそうです”

尼さんが陳暁旭の出家を証言

Photo_915 “彼女の法名は妙誠です” 昨日16時頃、接客担当主事の尼さんが、記者の取材に対し陳暁旭の剃髪出家の情況を証言してくれた。 しかし、彼女は自分は具体的な細かいところまでは知らないし、出家の原因と永久に出家するのかどうかの問題については、陳暁旭本人にお尋ね下さいと述べた。 私が、彼女の顔を見たのは一度だけで、具体的なことははっきりわかりません。 ここで修行するすべて人について、お互い余計なことは聞かないことになって います。 みんな俗世間のこと、修行とは関係ありません。 言葉は少なかったが、この尼さんは陳暁旭の法名が妙誠であると明かした。 この法名の意味するところは、陳暁旭のこれまでの仏教への誠意を示すものでしょう。  これより前、ネット上に流れた法名妙真は別の修行者の法名です。 また陳暁旭の夫・郝彤も寺の修行者達の証言によると、男性修行場で長い間見かけたそうです。 やはり出家の考えを持ってるようだが、まだ剃髪はしていない。

信者は見た 陳暁旭は杖をついて仏様を参拝

昨日午後3時頃、百人を越す信者が本堂で読経したり仏を拝んでいた。 読経が終わった頃、記者は、57歳の信者に話を聞いた。 彼女は、“ここに来る人は誰でもいいわけではありません、縁がなければいけません。 林黛玉が興隆寺に来たのも縁があったのです。 彼女は確か2006年10月末頃、寺へ来ました。 ここへ来てからはみんなと一緒に読経したり精進してましたよ。 彼女は来たばかりの頃、杖をついていたので、みんな彼女は身体が良くないのではないかと噂してました。 後で、彼女に重い病気があると聞きました。 外国へ行って診てもらったけれどよくならない。 そしてこの寺へ来たら、寺は浄土なので、外の悪いものもありません。 ここで身を清め平安を求めればいいのです!” 

別の信者は、陳暁旭が重病でこの寺に読経と念仏を唱えに来てるということに、みな関心を持っています。 正月初六(陰暦6日=23日)に剃髪し出家したことを、信者や僧侶達はみんな知っており、彼女の病気が良くなるよう仏様に願っています。 

興隆寺の門番も陳暁旭の身体が良くないと証言した。 話の口調から、彼女の病気が胸と首筋のあたりらしいとわかったが、具体的にどんな病気かははっきり言わなかった。 ただあいまいに“病気は転移したようだが、仏様を拝んでから、だいぶよくなったようだ”とだけ述べた。

記者の応対をしてくれた接客担当主事の尼さんは、自分は具体的なことはわからないけれど、読経や仏様を拝んでいれば、その人の身体を回復することができるという。 

陳暁旭がなんで長春で頭を剃ったのかについては、信者の意見は一致していた。 それによると、浄空大師が彼女の師匠であり、彼が陳暁旭に長春の百国興隆寺の常慧住職を訪ねて出家するよう教えたのだという。 記者が、常慧住職にお目にかかりたいというと、接客担当主事の尼さんは、ご住職は只今、外に出かけられてお寺にはいらっしゃいませんと答えた。

世邦公司の責任者 陳暁旭の出家を認める

北京世邦公司の社員(匿名希望)は、現在会社は表面上、普段どおりで、なんの変化も内容に見える。 しかし大多数の平社員達は、どうなることかと心配で、会社の上の動きを見守っています。 だって、このことはみんなの生活 に関係することですから。  いろいろ手続きを取った末、記者は、やっと世邦公司の“陳暁旭出家”の広報となっていた王経理に会うことが出来た。 彼女は最初に“暁旭の出家”の事実を認めた。 王経理は次のように語った。 “暁旭は、1999年から仏門に帰依するようになりました。 ですから今回の出家も自然の成り行きといえます。 暁旭とご主人の郝彤が二人揃って出家した後の会社の帰属問題について、王経理はこう答えた。 “お二人が出家するということは、もうだいぶ前に決まっていました。 でもこんなに早くメディアから情報が流れるとは思いませんでした。 会社の具体的問題についてまだ準備ができていません。 でも申し上げられることは、今、会社は一切滞りなく運営されています”  また同時に王経理は郝彤社長も出家するという事実も確認した。 この日、郝彤社長は契約の調印に出掛けていることも明かした。

創業15年 仏道修行7年

Photo_916暁旭は全部で2本の作品に出演した。 《紅楼夢》と《家春秋》。 しかし当時の人気は、他のベテラン俳優を圧倒した。 すべては林黛玉を演じたからだ。 80年代末、海外旅行ブームの時、友達の提案に従い、ドイツとアメリカに行くことになった。 しかし彼女はドイツに3ヶ月いただけで帰国した。 帰国した暁旭は、自分が何をしたらいいのか、はっきり決めていなかった。 1991年、偶然のきっかけからビジネス界に転身した。 今や彼女が率いる北京世邦公司は年商2億元近い広告会社になった。

Photo_918自分がなんで仏の道に進んだのか、以前取材を受けた際、暁旭は率直に語っていた。 自分はかって、財産を増やすことに夢中だった。 しかし、その後、物欲にとらわれていても決して自分や家族に本当の楽しみをもたらさなPhoto_919いことがわかった。 1999年、偶然友達の車の中で浄空法師が講義している《無量寿経》のテープを聴いて、仏教を知りたいと言う思いが強くなった。 2ヶ月後、シンガポールの浄空法師のところへ行き、仏門に帰依した。 春節前夜、暁旭は自分の会社のホームページに仏教の教えの強い新年メッセージを発表した。 これより前、彼女は香港の志蓮浄苑などの仏教寺院を回り、ホームページに自分の参拝の写真を載せて仏教に対する敬虔さを裏付けていた。

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555中国の三面記事を読む(147)有名女優の“出家”報道 中国の社会・ネットを騒がす(上)

Photo_906 つい最近(2月17日報道)、米人気歌手ブリトニー・スピアーズさん(25)が、ヘアーサロンを訪れ、「丸刈りにしてほしい」と要求。店長が応じかねていると、自らバリカンで頭を丸めて丸坊主になってしまったということが話題になったが、中国でも有名女優の丸坊主が春節明けの格好の話題になっています。

林黛玉女優・陳暁旭が剃髪出家する

林黛玉扮演者陈晓出家已离婚

2007-02-26 03:27:09 来源:  网友评论 43

论坛

Photo_907 重慶報2月26日の報道によると、昨日、ネットで87年版テレビドラマ《紅楼夢》で林黛玉役に扮した陳暁旭(遼寧・鞍山出身)と夫の郝彤が、つい最近莫大な財産を捨て、髪を剃って出家したとの爆Photo_908 弾スクープ記事が流れた。 このニュースは、たちまちビジネス界と芸能界を駆け巡った。 昨日午後、各方面を取材した結果、そのうわさが間違いないことがわかった。

陳暁旭の会社の責任者王経理によると、陳暁旭は確かに2月23日、長春(吉林省)百国興隆寺で出家した。 髪を剃った後の陳暁旭は、もう会社を統括することはなく、これからは各地を行脚し、仏の道に専念することになるでしょうとのこと。 同時に長春方面でも、このニュースについて裏付けが取れた。 現在、陳暁旭本人は、長春の百国興隆寺内にいる。

ネットで友人が陳暁旭の剃髪出家を暴露

Photo_909 昨日、ネットで《林黛玉女優、巨額の財産を捨て夫と共に出家》と題したブログが発表された。 林黛玉を演じた陳暁旭と夫の郝彤は、資産は億を超し、有名な広告会社を経営している。 陳暁旭は、旧正月の初六(6日=23日)、すでに頭を剃って出家したとの内容だ。 早速、ネットで陳暁旭に関するものを見てみると、多くのファンがこの問題について論議している。 その中に事実だと証明するブログがあった。 “私は陳暁旭とは旧知の間柄で、今日午前、電話で話した時、この重要なニュースを知りました。 でも、このことは誰にも言わないと約束しました。 でも、陳暁旭には沢山のファンがいることを考えると、このことはファンにとっては受け入れられないことですし、ましてやこんなことをしてしまうとは信じられないはずです-----で、私はここで陳暁旭のファンと一般の人々に、彼女のしたことを本当に理解していただきPhoto_910 たいと思いました。 というのは、私は彼女の人となりを知っているので、彼女のこの決定は、もう長いこと考えた末のことだと思うし、その上で慎重に決めたことだと思うからです-----陳暁旭は、もう正式に出家の儀式を済ませました。 場所は申し上げられません。 彼女の夫も近い内に深圳のある仏教の寺で出家する予定です。

程なくして、ブログに追随する人が現れた。“本当のことです。 長春の百国興隆寺で、法名を妙真と言います。 私の友達がその場にいました。 旦那さんも間もなく剃髪し出家します”

社員は 出家は自然の成り行きと理解しています

Photo_912 ことの真偽を確かめるため、昨日、陳暁旭の会社、北京世邦聯合広告有限公司に電話をした。 会社は大混乱の中にあるだろうと思ったが、意外にも責任者の王経理は穏やかな口調で、“お話しましょう。 このニュースは間違いありません。 陳会長は、確かに旧正月の初六(6日=23日)に出家されました。 会長のご主人社長の郝彤は、今、会社で残務処理をしており、間もなく出家されます” 二人の決定について、会社の従業員は、昨日出勤して知ったとのこと。 “でも、みんな驚いたり意外な感じは受けませんでした。 二人とも前から仏教に関心があり、ずっと準備されていたようなので、今回のことは自然の成り行きだと思います”と王経理はしみじみと話した。“ご夫婦とも本当によい方で、禅の道にも通じておられ、人との接し方も誠実でした。 今度のことは、お二人が新しい道を選択されたのだと思います。 私達従業員はこれから二人が、心置きなく精進されますことを希望しております”

寺側 後日、詳細発表を約す

続いて、長春百国興隆寺に電話し事実確認を求めると、寺の関係者は、まず陳暁旭が同寺で剃髪し出家したことを認めたが、詳細な情況については婉曲な言い回しで断った。 しかし“いずれ当寺として、関連ニュースを発表します”と語った。

出家後の巨額資産は合理的に処理

Photo_911 一般の人々にとって陳暁旭は、依然、林妹妹(林黛玉)として有名である。 しかし一般の人々は、彼女が率いる北京世邦が年商2億元(約30億円)近い広告会社であることを知らない。 会社は陳暁旭が会長、夫の郝彤は北京映画学院撮影学部卒で社長を務めていた。 二人の間には子供はいない。 二人が突然一緒に出家するとなると、この大きな会社はどうなるのだろう? 誰が後を引き継ぐのか?

昨日、王経理が語ってくれたところによると、“二人が出家された後、会社とは関係がなくなります” 二人の2億元近い資産がどうなるかについては、王経理は明言せず、ただ“お二人が合理的に処理されます”とだけ述べた。

宝玉” 何も申し上げられません

昨日午前、“宝玉”役の欧阳奋强に電話してみた。 記者からの質問を聞くと、彼は一瞬間を置いた後、逃げるような口振りで答えた。

“この件については、私はまったく知りません。 だから、お話しすることは何もありません”と言って電話を切った。 お昼頃、記者はまた彼に電話した。 繫がったが切れた。 夕方5時ごろ、またしつこく電話した。 暫くして電話に出たのは奥さんだった。 今、欧阳奋强

はいないと言った。 原稿締め切り直前、記者は「宝玉」にやっと連絡が取れた。 しかし、やはり同じ言葉だった。 “私はこの件については知りません。 もう電話をしないで下さい”

“柳湘

 彼女は以前から仏教を信じていました

昨日、記者は、旧版テレビドラマ《紅楼夢》で“柳湘”役だった---侯长荣に電話した。 侯长荣の奥さんはドラマで「香菱」に扮した陳剣月である。 記者が「陳暁旭」というと、侯长荣は“陳暁旭出家”のニュースを知っていると話した。 彼の口調からは驚いた様子は感じられなかった。 “彼女が長春で出家したことは、翌日知りました。 紅楼夢で一緒だった友達が知らせてくれたのです。 私は本人に確かめてはいませんが、このニュースは間違いないだろうと断言できます。 私が聞いた話によると、陳暁旭は確かに髪を切って出家したそうです。 しかも旦那さんも間もなく出家するようです” 友人のプライバシーに関わるということで、侯长荣は細かい点については、“ちょっと発言を控えたい”とか“あまり知らない”と言っていたが、陳暁旭が夫・

郝彤との関係が悪くなり出家したということについては否定した。 “彼女は非常に敬虔な仏教徒で、仏教に帰依するようになってから少なくとも5年くらいになるでしょう。 

陳暁旭は林妹妹(林黛玉)のような内向的な人ではありません。 彼女とはいろんなことを話し合いました。 仏の道は、彼女に大きな意識変革をもたらしたのでしょう”

陳暁旭は出家するため離婚した?

陳暁旭が夫と共に出家したというニュースが世間を驚かせている最中、昨日午後、ネットでもう一つの衝撃的な情報が伝わった。 陳暁旭は今回出家するため、夫と離婚の手続きをとったという。 そのネットの発言者も仏教信仰者であって、彼の話によると、仏教界には規定があって、出家する者は必ず「独身」でなければならない。 陳暁旭と夫は出家する前に、法的に夫婦関係にあったことから、二人が仮に同時に出家する場合、仏教の関連規程を守るとすると、婚姻関係を終了させた上で、剃髪出家することになるはず。 だからこのネットの発言者は、陳暁旭は出家の前に夫・郝彤と離婚していると断言している。

このうわさについて、昨日午後、記者が陳暁旭の会社・世邦広告公司に問い合わせたところ、電話を受けた男性は、“わからない”と答えた。

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