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554中国は見る(298)2007年アカデミー賞発表

1劉偉強 “なんたる醜態”と怒る

2「黄金甲」落選 衣装デザイン賞は「マリーアントワネット」が奪う

3中国女性監督 「ドキュメンタリー短編賞」受賞

刘伟强批评奥斯卡“真的很丢脸” 2007-02-26 15:20:39 来源:网易娱乐专稿 网友评论101条进入论坛

黄金甲无缘“最佳服装设计”绝代艳后捧奖 2007-02-26 11:05:15 来源:网易娱乐 网友评论94条进入论坛

旅美华人女导演的记录短篇颖州的孩子入围「最佳记录片」一奖

1.         劉偉強 “なんたる醜態”と怒る

Photo_894マーティン・スコッセシ ついにオスカー受賞

第79回アカデミー賞は北京時間26日発表され、「ディパーテッド」が「作品賞」「監督賞」「脚本R 賞」「編集賞」など四部門で受 賞した。 

香港のマフィア映画「無間道」をリメークした「ディパーテッド」が、今回オスカーを獲得した「作品賞」だけでなく、監督のマーティン・スコッセシもこの映画で「監督賞」を受賞した。 通算7回もノミネートされながら受賞を逃していたが、今回やっとオスカーを手にした。

Photo_895网易娱乐

が劉偉強監督に取材したところ、彼は「このニュースを聞いてとてもうれしい」 マーティン・スコッセシが壇上で劉偉強に感謝したことについて、「私も多少貢献できたたのだと思う。 私Photo_896 も彼にお礼を言いたい。 3月になったらアメリカへ行く。 その時、マーティン・スコッセシに会って、食事をしながらお祝いを言いたい」 「無間道」を日本の作品と誤って紹介されたことについて、「こんな簡単なことを間違えるなんて、何たる醜態だ”と怒った。

2「黄金甲」落選 衣装デザイン賞は「マリーアントワネット」が奪う

Photo_897 奚仲文が衣装デザインを担当した「満城尽帯黄金甲」は、「マリー・アントワネット」に惜しくも敗れた。 「黄金甲」の映画の衣装は豪華なものだった。 周润发が着ていた龍を刺繍した皇帝の衣服Photo_898 は、80人もの人が、一ヶ月昼夜兼行で苦労して縫い上げたものである。 しかしアジアの古代の服装は、やはり同じく豪華な「マリー・アントワネット」の目も眩む服には及ばず受賞を逃した。 

張芸謀と制作プロデューサーは所用があるとのことで、香港の奚仲文が単身アカデミーに「満城尽帯黄Photo_899 金甲」の代表として出席した。 発表直前、奚仲文は、「賞が取れるかどうかは何ともいえないし、わからない」と述べていた。 どうやら今回の結果については、すでに心の準備が出来ていたようだ。

3中国女性監督 「ドキュメンタリー短編賞」受賞

Photo_900 中国の大型映画は何度も同じ失敗を繰り返している。 「満城尽帯黄金甲」は衣装デザイン賞にノミネートされただけだった。 が、今回のアカデミーでは在米の中国女性監督の楊紫燁の作品「頴州の子供」(安徽省阜陽市頴州地区のエイズに罹った子供達の記録)が、

ドキュメンタリー短編賞を取った。

楊紫燁は映画関係に深く携わった人で、20年前にYingzhoudehaizi 香港からアメリカへ移民として渡った後、絵画と映画制作の修士の学位を取った。 1997年、陳沖監督の「天浴」(シュウシュウの季節)で編集と副プロデューサーを担当、陳沖監督の別のハリウッド作品「ニューヨークの秋」では編集を担当した。

2007年第79届奥斯卡金像

(アカデミー賞受賞結果)

·作品賞:「ディパーテッド」:最佳影片:《无间道风云

·監督賞:マーティン・スコセッシ:最佳演:·斯科塞斯

·主演男優賞:フォレスト・ウィテカー:最佳男主角:弗雷斯特·惠特克

·主演女優賞:ヘレン・ミレン:最佳女主角:海伦·米伦

·助演男優賞:アラン・アーキン:最佳男配角:阿·

·助演女優賞:ジェニファー・ハドソン:最佳女配角:珍妮佛·哈德森

·脚本賞:「リトル・ミス・サンシャイン」:最佳原创剧本:《阳光小美女》

·作曲賞:「バベル」:最佳配:《巴塔》

·衣装デザイン賞:「マリー・アントワネット」:最佳服装设计:《后》

·長編ドキュメンタリー賞:「不都合な真実」:最佳纪录片:《以忽的真相》

·外国語映画賞:「善き人のためのソナタ」:最佳外片:《窃听暴》

·編集賞:「ディパーテッド」:最佳剪:《无云》

·長編アニメ映画賞:「ハッピーフィート」:最佳片:《快的大脚》

·視覚効果賞:「バイレーツ・オブ・カリビアン2」:最佳视觉效果:《加勒比海盗2

·音響編集賞:「硫黄島からの手紙」:最佳音效剪:《硫磺的来信》

·オリジナル歌曲賞:最佳歌曲:I Need To Wake Up

·ドキュメンタリー短編賞: 「The Blood of  Yingzhou District」:最佳纪录短片:《州的孩子》

·撮影賞:「パンズ・ラビンス」:最佳影:《潘神的迷

·脚色賞:「ディパーテッド」:最佳改编剧本:《无云》

·音響賞:「ドリームガールズ」:最佳音响效果:《追梦女郎》

·実写短編集:「West Bank Story」:最佳真人短片:《西岸故事》

·アニメーション短編集:「The Danish Poet最佳画短片:《丹麦人》

·メイクアップ賞:「パンズ・ラビンス」:最佳化:《潘神的迷

·美術賞:「パンズ・ラビンス」:最佳艺术:《潘神的迷

·人道主义奖 ·

·身成就:埃尼奥·莫里康内(エンニオ・モリコーネ)

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553中国は見る(297) 日本文化紹介⑰ “花柳界”探訪《下》

芸者の生活を覗いて見る:1.芸者・女性の夢(続) 2.ネットを通じ芸者募集 応募者殺到

艺妓女人的梦想 2006-09-01 18:56:58 来源:新华网 网友评论0条进入论坛

日本通过互联网广招艺妓学徒报名火爆  2006-08-25 01:03:23 来源:华夏时报(北京) 网友评论109条进入论坛

1.  芸者・女性の夢(続)

お化粧を落とし 普通の女性になる

Photo_892 京都の祇園に“花見小路”という通りがある。 日本で一番古く、有名で、格調高い花柳街である。 岩崎峰子はこの町に20年あまり暮らしていた。 2002年、彼女はアメリカで《Geisha, a Life》と言う本を出版し、この本は17ヶ国でベストセラーになった。 芸者は、日本の伝統文化の一部であり、女性の自立した職業で、外部の人が誤解しているような“娼婦”ではないということを、彼女は、この本で人々に訴えたかったという。

Geisya 本の中でこう書いている。 彼女の姉が芸者だったので、5歳の時、京都の祇園という有名な花柳街に連れてこられた。 幼い峰子は踊りが好きだったので両親の反対を押し切り、ここで日本舞踊を習うことになった。 15歳の時、峰子は念願かなって舞妓となった。 峰子は努力家であった。 当時、“花見小路”には外国の観光客が多かった。 外国の客と直接交流したいため、彼女は家庭教師を雇い英語を勉強した。

21歳の時、峰子は芸者となった。 彼女は踊りのほか、書道、小唄などもでき、多才多芸の彼女には多くの馴染み客が出来た。 普通、彼女は毎晩10軒くらいのお座敷、料亭を掛け持ちした。 忙しい生活の代償として豪華な生活をした。 毎月最後の3日間は峰子の休日で、彼女はいつも京都から東京の高級ホテルへ行き、エステ、読書と徹底してストレス解消につとめ、鋭気を養った。

峰子は芸者の間では“改革派”と言われた。 彼女は“花見小路”の環境は好きだし、芸者の仕事も好きだったけれど、次第にそこのしきたりや、やり方に不満を持つようになり、改革したいと思うようになった。 しかし保守的で閉鎖的な京都の芸者の世界では、実行は容易ではない。

彼女は自分の思いを実現できないまま、最終的には普通の人と同じように結婚し、子供を生み、普通人の生活を送ることになる。 芸者の世界の内部管理は厳格なものがあり、踊りの稽古も型通りだし、若い人が尻込みするだけでなく、この世界に入っている芸者でさえ転職を考えているものが多い。

古都京都は1960-70年代、芸者が800名ほどいた。 しかし今は、100名くらいだ。 日本全国にいる芸者も数百人に過ぎない。

この典型的斜陽産業についての評価は一様でない。 批判する者は、芸者の存在そのものが時代の悪であり、男性至上主義の産物である。 

女性の権利運動に対する最大の諷刺だ。 支持する者は、日本の伝統文化であり、芸者は残すべきだ。

2.ネットを通じ芸者募集 応募者殺到

Photo_12 絶滅の危機にあった芸者業界に復活の兆し

伝統的職業募集に、現代的手法を取り入れ延命を図る

Geisya_1 《タイムズ》の報道によると、日本の東京の芸者置屋がネットで新しい世代の生徒募集を行ったところ、爆発的人気を呼んだという。 きれいな化粧をし、美しい着物を着た芸者は、現代社会ではもう絶滅寸前だ。

しかし今、かって日本人に娯楽を与えた職業・芸者がネットを通じ、再生の道を探り当てたようだ。

第二次大戦以降、芸者の人数は下がり続け、最近は芸者になろうという人も、ますます難しくなってきた。 19世紀中頃には、東京の“花柳界”のお座敷には、大体1000名位の芸者がいた。 100年後には、この数は500名位に減少した。 その中には芸者見習いが200名含まれている。 2年前には、芸者見習いは59名になってしまった。 絶望的な状況の中、ある芸者置屋がネットで芸者見習いを募集しようと思いついた。 今、80名の芸者見習い達が稽古を受けている。 昔、芸者置屋は、貧乏人の娘達の生き残る場所だった。 今は、芸者募集は主に口コミで伝わるようだ。 芸者置屋の代表は、“今、女の子達は、ネットを通じて私達の募集を知ってるようです。 日本中から芸者見習いが集まってきます”

芸者見習いの人数上昇は、現代日本の若者の伝統回帰と関係ありそうだ。

日本の夏の夜、若い男女が浴衣を着る姿が増えている。

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552中国は見る(296) 日本文化紹介⑯ “花柳界”探訪《中》

芸者の生活を覗いて見る:芸者・女性の夢

艺妓女人的梦想 2006-09-01 18:56:58

来源:新华网 网友评论0条进入论坛 

3_26 この間、出張で熱海へ出かけた時、芸者さんと話をする機会があり、その話の中から芸者について随分教えられた。 その日、私が“見番”(芸者の管理所)という所に行ったら、芸者さん達が、そこで踊りの稽古をしていた。 彼女達はカツラもかぶらず、化粧もしておらず、まったくの素顔の芸者だった。 私は、彼女らとの距離が随分と近付き、実際の姿を見た思いがした。

着物大好き 結婚したい

8_9 眉目秀麗な桃千代さんは、10年前に芸者になった。 彼女は“熱海の芸者は日本全国、南は沖縄から北は北海道から来てるんですよ”と言った。 桃千代さんは九州から来たという。 遠い故郷から離れてここへ来て芸者をしてるのは、彼女がこの職業が好きだからである。 熱海へ来た時、桃千代さんはまだ18だった。 彼女は芸者の宿舎に住み、最初は、どのようにふすまを開けるか、歩き方、お酒の注ぎ方などPhoto_890 基本の勉強をし、3ヶ月経った頃から歌や踊りを習い始め、それから試験に合格して、正式にお客さんの接待の許可を貰ったそうだ。 桃千代さんは着物が好きで、小さい時から着物を着る仕事がしたかったという。 芸者の着物は豪華だが高い。 艶やかな絹の着物は、一着数十万から数百万もする。

Photo_887 芸者の着物と普通の女性の着物の着方では、ちょっと違うところがある。普通の女性の着物は、うなじのところが立っており、首筋を隠すようにしている。 しかし、芸者の着物では、首筋を大きく開け、しかもわざと後ろに傾斜してうなじが見えるようにしてい Photo_889 る。 お酒を注いだり、踊ったりする時、芸者さんはカツラをかぶり、厚化粧し、その際白いおしろいを首筋まで塗って見せている。 これは芸者の白いうなじが、日本人男性を一番惹き付ける場所だからと言われている。

収入が安定していることも桃千代さんが、この仕事に入る理由であった。 “お客さんが多ければ多いほどお金が貰えます” 普通、彼女達の収入は1時間1万4千円、これは固定の舞台出演料。 芸者によっては一晩5万円の収入があるものもいる。 日本の普通のアルバイト収入は、一ヶ月せいぜい5-6万くらいだ。

桃千代さんは、芸者関係以外の人と結婚したいと考えている。 また相手には自分の仕事に理解を持ってもらえる人がいいと思っている。 芸者は本来結婚は許されていなかった。 しかし時代の趨勢で、この制限も緩和された。 それで芸者は結婚しても、家人の理解があれば、そのまま仕事を継続できるようになったという。 しかし、芸者さんの中には結婚してこの業界から足を洗い新生活を始める人が多いが、その中の多くは自分が芸者をしていたことを隠している。 というのは日本人の中に芸者に対する誤解があるからである。 見番所で踊りの稽古をしている芸者の中には、20-30歳位の人や、40-50歳くらいの人もいた。 桃千代さんによると、熱海には90歳の高齢の芸者さんもいて、今でも時々出てきて客の接待をするという。 

昼間は現代娘 夜は芸者

Photo_891小菊は桃千代と比べるとちょっと内気だ。 でも彼女と話をしていると、親切さとやさしさが感じられる。 小菊さんは沖縄から来た。 芸者の世界に入ってから、もう15-16年ほどになる。 彼女は、“私、初めてお姐さん達の踊る姿を見てとてもきれいで感動したんです。 沖縄は日本と文化が違う所があり、日本の文化にとても惹かれました。 日本舞踊を習っているうち、急に自分がこの職業に向いているんではないかと思いました。 小菊さんは私に本名は末子と言うんだと話してくれた。 いつもカツラを頭にのせる時、自分は末子ではなく芸者小菊だと思うそうです。 また彼女は、もともと話しベタなのですが、カツラを載せ、厚く白いおしろいを塗ると、話が出来るようになり、お客さんの失礼な態度にあっても、グッとガマンの笑顔ができるようになれるという。 小菊さんにとって一番楽しいことは、多くの人と話をすることだそうです。 ”もし私が芸者になってなかったら、普通の人のように結婚して、平凡な生活をしてたでしょう。 私は大スターや有名人に会うこともないし、別にとびきりの話を聞いたり、知識を得るわけでもないけれど、今思うことは、芸者になって良かったということです

今後の計画について話が及んだ時、小菊さんは、引き続き勉強がしたいと言う。 三味線を習いたいし、小唄も覚えたい。 でも彼女は結婚については触れなかった。 私は、小菊さんやほかの芸者さんたちの伝統芸術に対する愛着と思い入れについては疑問はないが、これが彼女達の一生の生活なのかな? と思った。

彼女達の中には、小菊さんのように髪を茶色に染めている者もいる。 休みの時、彼女達はこの町のギャルとして、貯まったお金で現代の生活を楽しみ、夜になると、伝統的生活に戻り、ぎっちりと着物の帯に締められ、小股歩きのしとやかで粋な芸者となる。 彼女達は、現代と伝統、自由と規律の中で、自己調節し、バランスをとっているのだろう。

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551中国は見る(295) 日本文化紹介⑮ “花柳界”探訪《上》

芸者の生活を覗いて見る:芸者の道は大変

探访日本“花柳界”:艺妓这碗饭可不好吃 2006-05-07 12:32:00

来源:人民网(北京) 网友评论0 

日本の芸者の世界は神秘的だ。 彼女達の業界は“花柳界”と呼ばれている。 若くて美しい芸者達のお化粧に、どれくらい有名人が迷わされたことか。 あなたが彼女達の世界をのぞいて見れば、その独特の生活が垣間見れるかもしれない。

“名妓”になるには根気と努力が必要

Photo_881 最近、若い芸者を育てていることで有名な向島が、その“ベール”を開けて見せてくれた。 記者が訪れた東京向島は、現在残っている6大“花柳界”(注: 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、向島)の一つである。

芸者のサービスを行っている料亭は、全部で18ヶ所ある。 現在、156名の芸者がこのあたりに住んでいる。 年齢は18歳から80歳までとまちまちである。 伝統により、芸者は“組Photo_10 合”に属さなければならない。 その上で“修行”つまり訓練を積んで宴席や舞台に上がることになる。 “向島墨堤組合”《見番所:(墨堤:隅田川東岸地域)》は、芸者の管理組織であると共に訓練養成所でもある。 ここで記者は、すべてが物珍しい芸者の稽古を間近に見物し、この“芸”という字の真の意味を理解することが出来た。

入口のところに、きちんと揃えられた“下駄”やガラスケースの中に掛けられている芸者の名前が書かれた札を見て、ここにも厳しい序列があることがわかった。 中に入ると、三味線や琴、笛の音が聞こえてきた。

部屋では、7名ほどの着物を着た女性が軽やかに踊っている。 組合の理事長の話によると、彼女達は日本舞踊の稽古を受けているとのこと。

Photo_11   部屋の壁側に坐っている和服姿の男性が、しきりに厳しい声で踊っている女性達に指示を出して、身のこなし、動きを注意している。 別の部屋では、三味線や琴、横笛などを正座してきちんと練習している。 またその近くには、歌謡教室があり、二人の芸者さんが三味線を弾きながら、先生から小唄を習っている。 その歌声は節回しがきれいで、伝統を学ぶ心意気が伝わってくる。 芸者さんたちはこの小さい“組合”の場所で、邦楽の演奏や歌、踊りなどをマスターしているのだ。 だから簡単に“芸”と言うけれど、それにはとても奥深い意味合いが含まれているわけである。 芸を磨いて“名妓”となるには、一生かかるかも知れない!

顔を白く塗ってるのは、昔、電気がなかったからだそうだ

舞台のある大きな部屋で、私は芸者の踊りを見せてもらった。 彼女達の“仕事”の本当の姿だ。 それぞれ年齢の違う芸者さん達だが、きれいに化粧をし、美しい着物を着て踊っている姿は、稽古の時とはまるで別人のようだ。 舞台の合間に、私は若い芸者さんと話をした。 彼女は今、22歳で、18の時、芸者になりたくて“花柳界”に飛び込んだとのこと。 今、ほとんど休憩する時間がないという。 朝9時頃起きて、すぐここへ稽古にやってきて、お昼を済まして家へ戻り、お風呂へ入り、お化粧の準備に取り掛かり、普通、午後6時頃から“お客さん”の席に行く。 夜中の2時頃、仕事が終り、自分の家に戻り就寝するという。 彼女が言うには、歌舞音曲ができるだけではダメで、その上、お客さんとの接待の勉強もしないといけない。 話し方のテクニックやお客さんを楽しませるコツも練習するという。 私が“芸者さんは、どんな悩みがあるの?”と訊いたところ、彼女は、“お酒を飲みすぎることね。 だからいつも薬を飲んで、肝臓に気をつけています。 ほかのお姐さんもみんなそうよ”と笑って答えた。 

Photo_886 彼女の化粧をよく見ると、顔は真っ白で、目尻に紅がさしてあるが手には何の化粧もしていない。 年配の芸者さんが、紅をさすのはたいした意味はないんです。 ただ女性らしさを出すだけですと言った。 傍にいた踊りの先生が、もっと詳しく説明してくれた。 芸者の顔を真っ白く塗っているのは、昔、電灯がなくローソクの時代は、ああして塗ってないときれいさがわからないからだという。 芸者の手が白くないことについては、芸者の手のきれいさを強調するもので、食事のサービスをする時、客にも喜ばれるとのこと。

次第に消え行く文化

芸者社会には非常に厳しい決まりがあった。 たとえば、女性は結婚してはいけなかった。 でも男性を“旦那(スポンサー)”とすることは構わない。 競争を避けるため一人の男性は、一人の女性の“旦那”となるよう決められていた。 “丙午(ヒノエウマ)生まれの女性”は、男に災難をもたらすので結婚はよくないという迷信があり、その結果、多くの日本女性が父母から花柳界に入れられ一生独身を通したというような話もあった。 芸者は歌や踊りが上手で、貞節を守るということで、彼女達に惹きつけられた高位高官達も多かった。 時代も変わり、日本のこのような決まりももうなくなった。

芸者は訓練が厳しく、生活も苦しい上、男性にサービスする職業であるため、この業界は斜陽産業で人数はますます減少している。 現在、芸者と呼べる人は200人ほどだという。 京都は芸者が多い町で、現在五つの花街(注:祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒)がある。

Maiko 日本の“観光京都ねっと”では、“舞妓さんと一緒に食事をどうぞ”という特別プランを打ち出してい Photo_884 る。 いわゆる舞妓とは“見習い期間中”の芸者のことである。 年が若いので人気があり、価格もちょっと高い。

高級料亭で舞妓さんを食事に呼ぶとしたら、費用はサービス時間90分で7500円くらいはする。 客をPhoto_885 呼ぶため日本のほかの地域でも芸者を真似たサービス係を始めている。 この中には大学生や高校生が混じっている。 彼女等も芸者らしい訓練は受けているが、本物の芸者には程遠い。 芸者業界の発展のため、京都では芸者年金を始めた。 目的は、この古い職業に安定した養老保障を設けることにより、若い女の子を沢山引きつけようとするためだ。 しかしそれでも芸者業界の衰退をとめることは出来ないだろう。

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550中国の三面記事を読む(146)中国語版《下流社会》売れ行き好調(下)

《下流社会》 その概念と該当する人々

《下流社会》 一个概念和一代人 2007-02-07 

文章来源: 青年周末

Photo_880 作者:(日本)三浦展 著、陸求実 戴錚 訳

出版時期:200711

定価:18元(約270円)

◎あなたは家を買うのに躊躇したり、家を買っても多額のローンに悩んだりしませんか? 

◎あなたは結婚をしたくないと思ったり、たとえ結婚しても年齢のことで子供を作りたくないと思ったりしませんか? 

  あなたは仕事のことを考えると憂鬱になり、明日が休みだったらいいなと思ったりしませんか? 

もし、以上のどれかに該当していたら、あなたは遺憾ながら、もう“下流社会”の一員になっています。 これは決して、あなたの“誤り”ではなく、社会のプレッシャーがあなたを“下流”の列に押し込んだのかもしれません。 でも、もしあなたがそれでも構わないというなら、日本のベストセラー《下流社会》の中に書かれている内容を読んで、自分自身をチェックしてみて下さい!

下流社会”の住人:

“下流界の女”

干物女:日本の漫画《ホタルノヒカル》の女主人公雨宮蛍は20代にして恋愛を放棄し、平日は会社から直帰して漫画に読みふけり、休日はフトンの中でうだうだ過ごすのが幸せという女性。 青春時代をまるで干物にした老人みたいだ、ということで干物女という。

かまやつ女:かまやつ女(かまやつひろしのような風貌が特徴)は、作者三浦展氏が名付けた言葉で、近年増えたタイプである。 ファッションは古着屋などで買う、自分に合う自由なスタイルで、常識にはとらわれない、年配の男性がかぶるような帽子をのっけているのが特徴。 物事の価値判断はすべて自分らしさを求め、一般に「手に職系志向」が強く、「専業主婦志向」はない。

ギャル系女:外見はけばけば系だが、専業主婦傾向は強く、普通22-23歳でお嫁に行ったり、出来ちゃった婚で結婚する。 学歴は高くない。 仕事をしてもすぐ辞めてしまい、人生に対する計画性はない。

“下流界の男”

SPA族:特に男性雑誌《SPA!》の主要読者層。 彼等はあまり勤勉な方ではない。 仕方なく仕事をしているタイプ。 安売り店で服をよく買う。 ブランド品は買わない。 趣味は多い方だが、仕事の要領がよい方ではないので、しょっちゅう残業で楽しむ暇がない。 週50時間以上働いている。

LOHAS族:比較的高学歴で高収入だが出世志向が弱い。 地球環境や自然環境、社会貢献に熱心である。

フリーター:正社員になろうとせず、あっちこっちバイトを探し、自由な生活を送りたいとするタイプ。 中国語訳《飛特族》の“飛”にも、自由気ままな意味がある。

“下流社会”は日本の著名な社会学者三浦展氏が、2005年発表した概念で、その著書“下流社会”は、日本に強い振動を与えた。 その中の“下流社会はいずれ中産階級に取って代わる”という見方は、日本人に衝撃をもたらした。 その後、韓国、インドネシア、タイ、台湾、香港などにも広がり、とうとう2007年1月、中国国内にもやって来た。

もちろん、三浦展氏が論じている“下流”は、我々中国の辞書の解釈にある“下品、下劣”といったものではない。 それは人柄を指すものではなく、最低生活を送っている人達を指すものでもない。 ここでいう“下流”の意味は、生きていく上での状況を説明するもので、作者三浦展氏の説明によると、“下流社会の人達は、単に所得が低いということだけではなく、コミュニケーション能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲などの意欲が低い。 つまり「総じて人生への意欲が低い」のである”

“下流社会”の人達にも変化が起こっている。 かって私達がよく取り上げた

BOBO族、ボヘミアン、ヤッピー、ブルジョアに取って代わって、干物女、かまやつ女、ギャル系女、SPA族、LOHAS族が登場した。 名前は“格好よく”聞こえるけれど、みんな“下流社会”の典型の住人だ。 三浦展氏は本の説明の中で、“下流社会”を作っているのは、現在の若い世代が就職難という困難にぶち当たり、やっと仕事を見つけても、残業が当たり前、とてもたまらないと音を上げている。 仕事での競争や結婚の圧力にも大黒柱として立ち向かう気力をなくし、自分を“下流社会”の列に入っても構わないと思っているからだとしている。

それぞれの意見

青年周末編集 劉迪

普通の中国人同様、私も日本にあまりよい印象は持っていない。 しかし、日本は我国に対し多くの参考になる事例を見せてくれたことを認めないわけにはいかない。 たとえば経済復興、産業調整、ヒット商品の創意工夫、また社会各層の変化など、たとえば“下流社会”だ。

今、左右を見回しても中国に“下流社会”という新現象を云々する状況にはない。 少数のエリ-ト階級の上昇は見える。  中産階級については、その声はよく耳にしますが、その形は見えません。 ただ一番多い若者達は現実の激烈な競争の中で、知らず知らず“下に向かって流されて” いるようだ。 “下流社会”なんて見たくないという人がいます。 もちろんです。 その本は文学作品と比較するわけにはいきません。 ただ新世代の若者達の生態を理解する入門篇として読めばいいと思います。 LOHAS,DINK,NEET,SPA!----などの新しい代名詞に頭がクラクラする時、繁殖したこれら血筋がみな

“下流社会”の中から出たものだということがわかるはずです。 “世の中の仕組みで俺達を縛るな”これは若者達、何も大志のない怠け者の言い訳に過ぎない。 青春と成功を夢見、若さだけが力と盲信する若者達に、この“下流社会”の言葉を冷静に耳を傾けてもらいたいと思う。

コラムニスト 令狐磊

三浦展氏は、人生を登山に譬えている------なんで人間は山へ登るのか? 山の上に何か素晴らしい景色があるのを期待するからで、すでに7合目くらいにいて、しかも山の上に欲しいものなどなく、7合目にも高山植物が咲き、景色がよかったら、誰ももう山の上まで苦労して登ろうとしなくなる。 

“下流社会”の向上心のなさと登山の話は、一つの道理である。 彼等にとっては、小さくても日産CUBEで十分なのであって、なにもベンツなんて必要ない。 生活の変化は、人生に対する熱情にも多様な影響を与えた。 上流志向の強い人は、その境界を飛び越え上へ向かう。 大多数の人、また“才能があるのに埋もれてしまってる人”(現在は基本的にもういない)、或いは困難にあってしまったり、性格的にまた環境になじめない人は上に行くのをあきらめるのだ。

三浦展が記した

“下流社会”チェック・リスト

1.          年収が年齢の10倍未満だ

2.その日その日を気楽に生きたいと思う

3.自分らしく生きるのがよいと思う

4.好きなことだけして生きたい

5.面倒くさがり、だらしない、出不精

6.一人でいるのが好きだ

7.地味で目立たない性格だ

8.ファッションは自分流である

9.食べることが面倒くさいと思うことがある

10.お菓子やファーストフードをよく食べる

11.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくある

12.未婚である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)

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549中国の三面記事を読む(145)中国語版《下流社会》売れ行き好調(中)

《下流社会》は人間性が問題で、制度には関係ない?

《下流社会》:只因人性、无关制度? 2007-02-07 09:56:00 

来源: (北京) 网友评论 0 论坛

Photo_879 20059月、三浦展氏の「下流社会」が書店に並んだ途端、たちまちその年のベストセラーになった。 1980年代に始まるバブル経済時代の日本社会の貧富の差の拡大は、90年代末には社会階層の分化問題として表面化しており、学術テーマと論争を引き起こしていた。

“中流”から“下流”へ

三浦氏の「下流社会」は「上流社会」の反対語であるが、いわゆる“下流化”とは単に所得が低いということだけでなく、“コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲つまり総じて人生への意欲が低いことである” 彼が下流社会で言及し分析しているのは、主に1970年代に生まれた“団塊二世”(団塊ジュニア世代)を対象としている。 彼等の父親達“団塊世代”は、戦後生まれの人々で、高度経済成長の6070年代に大量に大都市へ集団就職した。(いわゆる“団塊”とは人数が多いことから名付けられた) 大量に“中間階層”が増えた。 高度経済成長時代はやる気のない人間でも中流階級へ上がるチャンスがあった。 そこで、このラッキーな世代は“日本一億総中流化”という見せ掛けの現象を作り上げた。 団塊ジュニアは、この中流社会といわれた社会の中で育った世代である。 だから著しい貧富の差を見ないまま育った。 大部分は郊外の新興住宅地に住み、みな豊かな中流生活を送っていた。 それが当たり前であり、いつしか上昇志向を失くした。 しかし彼等には、父親世代の幸運はなく、80年代の終りバブル破綻後の10年に及ぶ経済停滞に出会う。 90年代後半、団塊ジュニアの所得収入には二極化が生じ、貧富の差はどんどん拡大した。 これから“下流社会”が生まれることになった。

《下流社会》の欠陥

この本は好評を博したと同時に、書評の中ではさまざまな批判にもあった。 最も多かった批判は、二つに集約される。 一つは、作者が依拠するデータの信頼性の問題。 調査内容には主観的指標が多い。 作者は「あとがき」の中で、社会学的研究としては統計学的有意性に乏しいことは認めざるを得ないと言っている。 また、本書に書かれていることに仮説が多いことも認めている。 二つ目は、本の中で問題を分析してはいるが、なんら解決策を提示していないこと。これは作者が“下流化”の発生と変りつつある時代背景が関係していることを捉えていないからである。 本書の最大の問題点は“下流化の原因”を団塊ジュニア達の無気力さ、意欲のなさ、コミュ二ケーション不足といった人間性に原因を求めようとしており、格差社会といった制度上の問題には目を向けていない。 こうしたことは、大きく言えば、貧富の差の拡大という社会問題を、社会体制の埒外とすることでは、更なる社会問題の矛盾をはらんでいくことになる。 

90年代以降、日本の各分野の学者達から、社会の貧富の差拡大や社会の階層の流動停滞といったテーマの研究や呼びかけが出されており、それは決してムダではなかった。 世論や野党からの圧力により、最近、安倍首相は国会の場で、“格差拡大”問題解決を美しい国作りの目標の一つに掲げ、“下流社会”に有効な政策を打ち出そうとしており、日本国民は今それを見守っている。 

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548中国の三面記事を読む(144)中国語版《下流社会》売れ行き好調(上)

専門家:我国は“下流”時代には入っていない

日本《下流社会》热销 :我国未到"下流"代 2007-02-17 09:41:47 

来源: 新民网 网友评论 94  论坛

1.一人でいるのが好きですか?

2.食べるのが面倒くさいと思うことがありますか?

3.お菓子やファーストフードをよく食べますか?

4.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくありますか?

5.未婚ですか?(30歳以上の方)

Photo_877 新民ネット217日の報道によると、上記問題を含む12項目は「下流社会」の「はじめ」に載せられている「下流度」チェックで、作者の分析では、あなたがこれら問題で半分以上あてはまるものがあれば、あなたはかなり「下流的」である。 この本が中国で出版されるや、サラリーマン向け雑誌やネット上で、このチェック項目が転載されたり、書き直されている。 自己チェックしたらビックリするほど、あてはまり、“中国社会”も“下流”に突入しているんではないかといった論議を呼んでいる。

Photo_878 カルチャースタディーズ研究所の主宰者で、日本社会のマーケティング・アナリストである三浦展氏が書いた「下流社会」は、日本で出版されて今までに100万冊を突破するベストセラーになっている。 今年、文出版社がこの本の中国語版を出版した。 発売1ヶ月あまりで、中国国内の各界各層から中国社会に対する議論が巻き起こり、同書は初版1万部を完売した。 

214日、新民ネットは「下流社会」の責任編集者、出版社版権部季元主任と上海社会科学院社会学所の研究員・田暁虹さんを新民ネットに特別招待し、一緒に「下流社会」が与えた教訓について討論してもらった。

出版社六社で版権争奪戦

日本の「下流社会」の本は、社会調査と文化研究を通じて、日本社会が現在「中流社会」から「下流社会」へ向かう二極化に進んでおり、若い世代の中に「コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲」などが総じて下がっている」「社会の下降趨勢はますます広がっている」ことを紹介している。 中国語版出版以前、一部専門家の間では、「下流社会」の概念に注目が集まっていたし、ネット上でもこの社会現象について論議する人達が結構いた。

季元主任はこう語る。“去年、私は偶然台湾の「天下雑誌」の中で「下流社会」を紹介しているのを見たんです。 タイトルはなんと「台湾はもう下流社会になってしまったのか?」 そこで興味を持ち、すぐ版権を取ろうと思った。 当時、中国国内では全部で六つの出版社が、この本の版権を巡り壮烈な争奪戦を演じていました。 結局、文新集団の総力を上げた働きにより、出版社が最終的に他の出版社を抑え版権を獲得できた。 版権取得後、すぐ二人の翻訳者に共訳を依頼し、1ヶ月で訳を仕上げてもらった。 なんとしてもこの本を早く出版したかったからです。 出版して1ヶ月あまり、中国語版「下流社会」は売れ行き好調です。 季元主任によると、同書は初版1万部刷ったがすべて完売。 多くの書店で売り切れとなり、今、増刷中だそうです。

日本社会の「下流」状況

上海社会科学院社会学所の研究員・田暁虹さんは、“この本が日本でベストセラーになったのは、日本人の生活が本で書かれている内容とあまりにもピッタリしていたので、みんな本の内容に関心を持ったわけです。 1980年代の終り、バブル経済崩壊後、経済のグローバル化で日本の社会は大揺れの状況、社会階層、雇用形態は明らかに変化し、日本人の生活様式、意識も変わってしまった。 会社の中にも変化が起こり、沢山の中高年がリストラされ、安定していた体制がぶち壊され、それに生活のストレスが加わり、日本の中高年の自殺率が急上昇し、連続7年、毎年3万人もの自殺者が出ている。 これは交通事故死亡者の3倍の数字です。

日本の若い世代は、比較的裕福な家庭で育った人が多いのですが、大学を卒業しても就職状況が悪く、低収入、無保障、いつ首切りにあうかわからないといった状況で、生活に対して希望をなくし、努力してもしょうがないと思っている。 作者は、調査資料とデータを使って、この現象を証明したのです。 正にこの十年来の日本社会の変動にピッタリでした。 

中国社会は同日に論ずることはできない

「下流社会」の一書が、中国国内でも“中国は下流社会に踏み込んだのだろうか?”の論議を巻き起こした。 田暁虹さんは“日本の「下流社会」現象と我国のサラリーマン意識には、それぞれの国の発展段階の違いがあり、同日に論ずることはできない”と語った。 彼女の説明によれば、“日本の「下流社会」は、高度経済成長後、富裕社会に入り、経済のグローバル化、バブル経済崩壊、年功序列制度崩壊など雇用制度の一連の改革の変化がもたらした結果である。 一方、我国は今、経済の高度成長の時期にあり、多くのサラリ-マンの間にも、これに似た現象(下流社会)があるけれど、基本的なところが違うし、根本原因はまったく違う。 日本の「下流社会」は、社会がみな共通して豊かになった後現れた。 でも、我国はまだその段階に到達していない。 しかし社会の階層の二極化の現象は、我国でも深刻だ。 ある調査によると、我国では都市生活者の平均収入を下回っているのが人口の60%を占めている。

中国学者の関心を招く

我国は、本の中で書かれているような「下流社会」には突入していないが、「下流社会」が出版された後、社会各層から中国社会階層問題の討論が巻き起こり、中国の学者に研究テーマを提供することとなった。 季元主任は、“この本の著者は、社会問題を投げかけたが、問題解決の方法は示していない。 原作者三浦展氏は、この本のほかにも多くの本を書いている。 我々は、引き続き紹介したいと思う”

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547中国は見る(294)現代日本の美女の基準

日本当代美女的标准 2007-02-03 来源:进入论坛

日本の若い女性はみな美人になりたいと思っている。 では、現代日本の美女の基準はいかなるものであろうか?

時代によって基準が違う

Photo_868 70年代以前の女性は、きりっとした化粧で、女性らしい振る舞いが求められた。 80年代初期になると、良妻賢母型の女性が理想の美女の典型とされた。 映画の山口百恵は、当時の日本男性が追い求めた憧れの恋人だった。 80年代中期は、女性の個性が強く求めPhoto_869 られ、また少し派手めの化粧が男性に喜ばれた。 90年代初期には、日本女性はちょっと厭きられ、取って代わって金髪青い目で大柄の外国モデルが喜ばれた。 90年代後期は、自由奔放な女性が男性からモテた。 女性の化粧、服装にそれぞれ独自性、個性が求められた。 美女になるには、こうしたものがなければダメだった。 この時期の美女の代表は安室奈美恵である。 2000年に入ると、グラマー、健康、明るさが日本女性の理想となった。

顔とスタイルだけではダメ

今日の日本は、天性の美だけではまったく通用しない。 美女は美しさプラス個性美が必要で、特異なキャラクターも要求されるようになった。

たとえば、自分は美女だと思って街中を歩いたとしても誰も振り向かないだろう。 今の日本では、化粧と服装のすぐれた女性は沢山おり、天性の麗質の女性ばかりだ。

化粧が美人を左右する

美人は、美貌だけではダメで、化粧もうまく出来ないといけないことを、日本の女性はよく知っている。 だから日本女性は、化粧で自分はもとより他人からも見場のよい顔作りをしようとする。 一日朝晩二回お化粧するだけでなく、昼間もしょっちゅう顔を直している。 日本女性は化粧してない顔では、人に会えないとでも思ってるようだ。

口元の美も必要

日本の昔の美女はみんな無表情だ。 現代日本人が求めるのは動態美・立体美である。 日本人から見て、人の身体で最も美しいところは口だという。 泣いたり笑ったりする時の口元に美しさを感ずるのだ。 だから日本女性は、口に注意し、口の形、口中をきれいにすることが美貌に第一だと考えている。 美しくなるため日本女性の多くは、よく歯医者に通っている。 また食事したり、コーヒーを飲んだり、お茶を飲んだりした後すぐ歯を磨く。 女性によっては、歯並びが悪いといって抜いたり、時には、歯の整形手術をしたりする。 日本では“審美、矯正、美容歯科”は、とても人気がある。

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546中国は見る(293)日本旅行⑰ “熊出没注意”

“熊出没注意”2004-03-19 文章来源:解放日报集团网 

上海で偶然“熊出没注意”という文字を、車体に吹き付けたジープを見た。 北海道へ行って来たに違いない。 

新千歳空港から札幌市内へ向かう途中の雪原や屋根、電信柱の上に、時折カラスの姿を見かけた。 ガイドが言うには、“北海道のカラスは大きくて、北京ダックのようにうまい”そうだ。 カラスのほかにも、北海道には多くの動物がおり、人を見ても怖がらない。 道路脇にびっしりと並んでいる樹木の間からは鹿の大軍が見られる。 ガイドの紹介によると、スキー場で滑っていると、リスや狐が傍で見ているという。 人が近付いても怖がらないばかりか、人に食べ物をねだるという。 でも狐には決して触らない方がよい。 北海道の狐には病原菌が多いそうだ。

Photo_864 北海道を代表する動物は二種類ある。 一つはフクロウ、もう一つは熊である。 どの観光地に行ってもこの二つは見られる。 昔、多分、北海道には熊が多く棲んでたのだろう。 だから人々は熊がしょっちゅPhoto_865 う出てくるところに、“熊出没注意”の警告看板を出した。 現在、警告文は、商標となって、黄色に黒字のTシャツやジョッキなどとして出回り、北海道の目玉商品となっている。

北海道だったら簡単に熊が見られると思っているとしたら、そんなことはありえません。 熊だってバカではない、人間が悪い奴で熊の手のひらを狙ったり、皮を狙っているのを知っています。 

Photo_866 でも本当に熊を近くで見たいと思うなら、登別温泉に行けば見られる。 そこには“ヒグマ牧場”がある。 “ヒグマ牧場”は四方嶺山頂にあるため、熊を見るにはロープウエイで、山の上に行かなくてはならPhoto_867 ない。 この熊牧場は北海道観光業界の加藤観光グループの施設である。 当初、ここは数頭の熊の孤児を引き取って育てていた。 数十年経つうちに次第に繁殖して、現在では200頭以上いる。 これらヒグマは、別々の柵に飼われており、一つの柵には30頭あまりいる。 柵の傍に近寄ると、熊の群れの迫力を感じることができる。 ヒグマはどれもNBA(全米バスケットボール協会)のセンターの身長くらいあり、ごつい身体で小山のようで、時々低く吼える声には驚かされる。

だが実際のヒグマは非常におとなしく可愛らしい。 人声を聞くと、熊達がばらばらと柵近く集まってくる。 というのも彼等は見物客がエサをくれるのを知ってるからだ。 エサは牧場で売っており、ハトの卵大の団子状のエサが入っており、一つ一つ放り投げると、熊は口を開けて受取る。 とても慣れており曲芸みたいだ。 後ろの方でエサにありつけない奴は、手を挙げて身振りで合図してるようだし、手を合わせてお辞儀をするようなのもいる。 中にはひょうきんな熊もいて、口を大きく開き手で指し示している。 まるで俺はまだもらっていないと言っているようだ。

【旅行情報】 北海道自然風景

  阿寒国立公園は北海道東部にあり、阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖などの湖と山の景観、原生林の絶景が見られる。

  大雪山国立公園は北海道の中央高地にあり、冬はスキー、夏は原生林と珍しい高山植物が楽しめる。

  支笏洞爺国立公園は、北海道南西部にあり、札幌に近く、また多くの活火山と温泉が有名。

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545中国の三面記事を読む(143) NHKがうらやむ中国の紅白「春節晩会」の視聴率

Photo_836 218日は中国の春節(旧暦元旦)である。 17日は 大晦日で、日本の紅白のような「春節晩会」という番Photo_837組が放送された。 ただ紅白のように歌一本の番組ではなく、歌、コント、漫才などを取り込んだ番組にな っている。 当日は夜8時から、爆竹のにぎやかな音Photo_838と共に幕が開いた。

CCTV調査 「春晩」視聴率9割超え 83.6 の視聴者満足感 と発表

央视调查称春晚收视率逾九成 83.6%的观众满意2007-02-18 11:27:21

来源:中国新闻网 网友评论967条进入论坛

Photo_840 中新ネット2月18日の報道によると、中央電視台(CCTV)市場研究公司が今日発表した調査結果では、2月17日20時30分から24時までの中国全土のテレビ所有の家庭のうち93.6%が、中央電視台(CCTV)の“春Photo_841節晩会”を見ており、そのうち83.6%の視聴者が“春節晩会”に満足だと表明した。

新華ネットの報道によると、中国人は20数年に亘Photo_842 り“春節晩会”と共に過ごして来た。 その間出演者の中から一夜にして有名になったり、多くの歌、漫才や寸劇が評判になった。 しかし、かって街中が空っぽになるほどの“春節晩会”も最近は疑問の声が多くPhoto_843 出されるようになった。 “全体的に質が下がっている。 いつも似たような顔で、創造性が乏しい。 馴染みの作品も少なく、現実生活面の話題も少ない” Photo_851メディアで働いている袁娟が語った。Photo_844Photo_848 Photo_839 Photo_845Photo_849 Photo_850 Photo_846

Photo_847大晦日(17日)夜、中国各地(貴州省貴陽市、北京、新疆喀納斯村、武漢、遼寧省瀋陽、広西省南寧市)で打ち上げられた花火。 Photo_853 Photo_852Photo_854 Photo_855 Photo_856 Photo_857 Photo_858 Photo_859 Photo_860 Photo_861 Photo_862

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544中国の三面記事を読む(142) 中国で最初にヌード写真を撮ったカメラマン【下】

2007-02-4615 09:16:46 中国第一张全裸人体摄影

来源:东北新闻网 网友评论22条进入论坛

美女を早撮り

父親のお妾さんの写真のことは、ずっと彼の頭に刻み込まれていた。 後年、彼が息子と写真技術の対談をした時、“今でも父親のお妾さんの写真のことが忘れられない”と語っていた。 “--------美人の笑顔は、まずは目から、そして口元で完成するものだ。 上海の最初の頃の写真家は、イキイキとした顔付きを撮らなかった。 だから彼女(お妾さん)の元気で色っぽい表情が引き出せていない。 もしこの写真を自分が撮れたらなあ!”

秦泰来が女性を撮る時は、いつも手早くシャッターを切った。 彼女達と話をして笑わせ、彼女達に気付かれないうちに、素早くその自然な状態を撮るのだ。 みんな出来上がりを見て、もう手放せなくなるほどだった。

Photo_818 この李麗は、1930年代陸小曼(徐志摩と結婚したことでも知られる)と同じように有名な社交界の花であり、昔、梅蘭芳に弟子入りし芝居を習っていたが、その後、評劇(華北や東北地方で行われる地方劇)の女王になった。 その後、香港に行く。 香港陥落の際、時の香港民生長官だった矢崎が彼女に一目ぼれ、李麗は特別待遇された。

【閑話休題】

ある時、彼が出かけた先で、偶然、純情で可愛い女子学生が彼のレンズに飛び込んできた。 大スターや社交界の花を見慣れているはずの秦泰来は、この突然飛び込んできた女の子の魅力に愕然としてしまった。 彼女は町長さんの娘だった。 その夜、彼女は秦泰来のレンズの主役だった。

“彼女を奥さんにしたい!” この思いが頭の中を駆け巡った。 ロマンチックな思いを、自分でもどうしようもなく、矢も盾もたまらず彼女の写真を掴むと一途に町長の家へと向かった。 “あなたは上海灘では有名なお方です。 大スターだってあなたの言うことに従うくらいです。 私は田舎の人間です。 冗談をおっしゃらないで下さい---------"  彼と18歳も離れている女の子は、この叔父さんくらいの男性からの突然の求婚にどうしたらよいかわからなかった。 “スターがなんだ? 一年もしないうちに、あんなスターより、あなたを有名な上海小姐に絶対させてみせる!”

秦泰来と夫人 この写真は友人の厳宇宏が撮影Photo_819

彼は町長を説得し、娘を上海の女学校に転校させた。 そして彼女を“緑屋夫人サロン”で撮ったり、金持ちの西洋人が出入りするビリヤードや野球大会に行かせ撮ったりした。 また歩く時も立ってる時も姿勢に気をつけさせた。 秦泰来は、女性はレンズに対しては天性敏感に反応し、知らないうちに一番美しい角度に合わせることを見抜いていた。 そうしているうちに、いつしか習慣となり、レンズを離れても、その美しい姿勢をとるようになっていった。 彼は、彼女をしとやかで上品な上海小姐にすることに成功した。 38歳になった時、結婚した。 20歳の町長の娘は彼の夫人になった。

1949年、彼と夫人は香港に行くことになった。 彼の芸術家的気性と、自由奔放で薄給のためにペコペコすることが出来ない性分が、彼を苦しい立場に追い込んだ。 彼は邵逸夫(ランラン・ショウ)の映画会社(ショウ・ブラザーズ)からの撮影の話を断った。 “私は、これまで他人の下で働いたことがない”

それからだいぶ経って、一代の写真家秦泰来は亡くなった。 彼は、60数歳の生涯だったが、後世の人に、白黒色調で構成された上海女性の姿と上海の街の記録を残してくれた。

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543中国の三面記事を読む(141) 中国で最初にヌード写真を撮ったカメラマン【上】

2007-02-4615 09:16:46 中国第一张全裸人体摄影

来源:东北新闻网 网友评论22条进入论坛

1930年代、多くの売れっ子女優達は、挙って秦泰来を指名して、彼に写真を撮ってもらおうとした。 髪型から、ポーズまで彼の指示に従い文句を言わない程だった。

当時の上海の著名女性、上流階級夫人、女優たちの美しい姿、それぞれの服装や顔の表情から、その時代の中国の雰囲気が伝わってくる。 花の命は短い、特に女性は写真機のレンズの中にだけ“永遠”の命を残すことができるのだ。 1850年代、写真の技術が上海に伝わった。 清末、上海地区では写真業は相当に発達していた。 1920年代の終り頃、上海の写真家は400人ほどいた。 秦泰来は、その中でも抜群だった。 美女は彼の撮影の主要なテーマだった。 30年近く、上海の名媛淑女を撮り続け、彼のレンズに沢山収められた。

父親の愛妾の写真

1905年、寧波(ニンポー:浙江省東部、杭州湾口南部の都市)の大金持ちの家に生まれた秦泰来は、小さい時から家に掛かっていた大きな美人の写真を見て育った。 上品で美しいその美人は、額に刺繍入りの緞子の鉢巻をして、丸いテーブルの傍に坐っていた。 風車と教会といった西洋の風景が背景に見えた。 写真の女性は父親のお妾さんだった。

この写真は彼女が上海の四馬路の麗珠写真館で撮ったものだった。 この後、彼女はこの写真と共に父親に連れられ寧波(ニンポー)の秦家の実家にやって来た。 秦泰来の記憶にある、父親のお妾さんは病気ですっかりやつれていた。

彼は、お妾さんがよく白い絹のドレスを着て、幽霊のように壁に掴まりながら、よろよろと応接間にやって来ては、自分の昔の美しかった頃の写真の前に立ち、暫くじっと眺め、そして涙を流し部屋に戻るのを見たという。 まだ小さかった秦泰来には、この目の前の頭がボサボサでやせ細った人と、写真の中の健康で美しい女性が同一人だとは連想できなかった。

その後、父親の愛妾だったその人は亡くなった。 その写真はそのまま応接間に飾られていた。 秦泰来が青年に成長したのに、写真の女性は依然として艶やかで美しかった。 その時、秦泰来は、“永遠”とは何かと言うことがわかったように思えた-------写真機のレンズの中に“永遠”があるのだ! こうして秦泰来は、写真のとりこになった。 写真機をいじり回すのが好きなお坊ちゃんから、上海灘の有名カメラマンになっていった。

学校が終わると手に写真機を持ち、上海の町のいろんな表情を撮った。 だが彼のレンズが一番狙ったのは女性だった。 父親のあのお妾さんが彼に与えた印象は強烈なものだった。 花の命は短いもの。 女性はその一番美しい時に、永遠の美しさを残すべきだ。 月日の経つうちに、これが彼の写真を撮る重要なテーマになった。 1992年、上海人民美術出版社の《上海撮影史》の中に「美人」の写真が載っている。 この写真は1930年代の有名な写真画集《特写》に載ったものだ。

Photo_816

上海でいち早くヌードを撮った秦泰来は、16歳の時、上海の学校に入った。 北京路河南路口大徳里の父親の持っていた金号楼に住んでいた。

秦泰来は、女性の写真や上海の景色ばかり撮っていたが、彼はまた左手にソロバン、右手に写真機と公言していた。 秦泰来は、当時としては大胆なことを言った。 “サロンに展示した作品はすべて売り物です”

こうして彼は豊かな生活を手にした。 このやり方は、今ではなんら非難されることはない。 しかし1930年代では、同業者達から異端の目で見られた。 秦泰来が、更にもう一つみんなから反発を買ったのが、女性のヌード写真だった。 彼は、上海写真界で女性のヌード美を撮った先駆的カメラマンの一人だ。 彼が撮った《裸女》は、1936-1937年の《黒白影集》の中で発表された。 この写真は健康的で豊満な中国女性を、彼のレンズの中でのびのびと上品に撮っており、70年も前に上海ではすでに現代文明に突き進んでいたことを証明しているものだ。 写真のこの女性がもし健在なら、もう百歳近くのおばあさんだ。 しかし、この写真には、中国女性独特の気品があり、春、林の中に太陽の光が射し込むような、さわやかな感じがする。

Photo_817 《玲瓏》は、1930年代、上海の有名モード雑誌だが、上海の沢山の美女達が、秦泰来に撮ってもらった写真で、雑誌《玲瓏》の表紙を飾ることを望んだ。

 

 

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542中国の三面記事を読む(140) 日本のテレビドラマ「牡丹と薔薇」に非難ごうごう

CCTV 一体これは何だ?

2007-02-08 12:53:05 中央这是怎么啦?

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1049777,25.html

今日、ネットで偶然こんなニュースを目にした。 「中央電視台(CCTV)、日本のテレビドラマを放映 視聴者から露骨な変態ドラマと非難の声」

Photo_806 ざっと一読したが、中央電視台(CCTV)もちょっといやらしい! あんなに広告費を取って、なんでもっといいドラマ作品を見せないんだ? なんで日本の変態ドラマなんかを放送するんだ? 中央電視台(CCTV)は何てったって国のテレビ局だ。 精神的文化を広く普及するため、もっと真面目で教育的Photo_807 意義のあるいい作品を放送すべきだ。 視聴率のために社会的良心を顧みず、まるでメチャクチャな作品を放送するなんてことはすべきでない。

Photo_809  私はここで、中央電視台(CCTV)台長に申し上げたい。 自分の後の世代のことを考えてもらいたい!

星辰在線の122日の報道によると、去年、日本のドラマ「白い巨塔」の放送が高視聴率を取ったので、中央電視台Photo_810CCTV)は今度は「牡丹と薔薇」を夜の時間帯に放送した。 しかし「牡丹と薔薇」の番組が放送されると同時に、疑問の声が沸きあがった。 昨日、重慶の視聴者から「牡丹と薔薇」には、姉妹が愛し合うなどの不健全な内容があり、中央電視台Photo_811CCTV)がこんなドラマを放映するのが理解できないとの声があった。

姉妹でレスビアンなんてどうかしている

Photo_812 今月(1月)15日から、中央電視台―8(CCTV)の《海外劇場》で毎日3話ずつ日本のドラマ「牡丹と薔薇」を放送している。 放送数日後、視聴者からいろいろ意見が寄せられている。 「ドラマを見てびっくりしてしまった!」。 ドラマの中でPhoto_813 は、牡丹と薔薇は、本当は実の姉妹であるが、そのことを二人は知らない。 妹の薔薇が姉の牡丹を追い出した後、牡丹に対し強い思慕の情を抱く。 姉(牡丹)の行動もちょっと異常である。 妹(薔薇)が自分のため失明するPhoto_814 と、彼女を一生面倒みると決めたり、男達に自分達の生活に干渉させなかったりする。

暴力と変態のドラマ

Photo_815 「牡丹と薔薇」について、中央電視台は大々的に宣伝している。 ただ中央電視台の公式ウェブサイトでは簡単な写真と短い文章で、この姉妹は、一方は自らの身命を擲っても構わないと考え、もう一方は自己中心的で他者への思いやりに欠けるとだけ紹介している。 記者が調べたところでは、同ドラマは、去年年末台湾JETテレビ放送され、現地の視聴者から、「家庭内悲劇と姉妹愛憎劇」と評されていた。 台湾のネット仲間は、ドラマの妹(薔薇)について、姉(牡丹)は妹に尽くすのに、妹は姉の結婚を邪魔したり、姉の旦那を奪ったりし、最後には神経衰弱になってしまう。 また姉妹なのに接吻を交わしたりする。 まったく暴力と変態のドラマだ!

中央電視台は適切にカットと説明

記者が昨晩、中央電視台国際部「海外劇場」担当責任者に電話で聞いたところ、「牡丹と薔薇」の放送は、日本での放送分の十分の一の内容に減らし、一部不健全な画面や内容はカットしているという。 記者が、姉妹のレスビアンシーンはどう処理したか聞いたところ、担当責任者は、「これは視聴者の判断にまかせます」と述べた。 記者が計ったところでは、中央電視台が放送したドラマは、オリジナル版より150分短くカットされている。

ストーリー紹介

物語は、二世代で繰り返される悲惨な運命を描いている。 看護婦の鏡子は、若い建築家豊樹と8年間同棲していた。 豊樹が学生の時、鏡子は彼の学費の面倒を見、豊樹の事務所の設立費用も出した。 ある時、豊樹が野島家のパーティーに出席した時、偶然、野島家の令嬢―富貴子と出会う。 結局、豊樹は苦しい時助けてくれた鏡子を捨て、名門の家に入ることになる。 豊樹の裏切りを許せない鏡子は、富貴子が産んだばかりの赤ん坊・真世を盗み出し、牡丹と名付け育てる。 傷心の豊樹と富貴子は翌年もう一人の女の子・香世(幼名:薔薇)に恵まれる。 以前の悲しみを忘れるため二人は薔薇をとても可愛がる。 別々に育てられたこの二人の姉妹は、大人になって同じ屋根の下で暮らすことになる。 妹の薔薇は大富豪の令嬢として、そして姉の牡丹はそのお手伝いさんとして。 やがて、二人の身の上が明らかになる。 また意外なことに姉妹が、一人の男・由岐雄を同時に愛していることがわかる。 わがままな薔薇はそれを許せず、金で男を雇い牡丹をレイプさせる。 一方、その頃薔薇の両親が事故にあい倒産の危機に瀕する。 牡丹は、薔薇に貧乏な暮らしをさせないため、会社の社長の愛人になることを決心する----------------------

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541中国は見る(292)日本旅行⑯ 魅惑の北海道【下】

北海道紹介 (北海道介)

Photo_7 北海道は日本列島の最北端にあり、面積83,452平方キロメートル。 日本全国総面積の22%を占めている。 北海道は、北海道本島と利尻、礼文、天売、焼尻、奥尻などの五つの島と北方領土と呼ばれる国後、択捉、色丹、歯舞の四つの島からなっている。

010_1 北海道は、かっては蝦夷地と呼ばれ、島には先住民アイヌが住んでいた。 

明治時代(1868年―1912年)、日本人が北海道に移住を始009_1め、この土地の開墾に努めた。 この処女地開墾から一世紀 を経た現在、北海道は日本国内屈指の穀倉地帯に発展した。

北海道の大自然が、その野生のままの環境を保持できたの012_1 は、道内に六つの国立公園を設け、五つの国定公園と十二の道立自然公園を作ったことにより、自然環境を保護・管理できた結果である。  

013_1 北海道は、一年四季を通じて素晴らしい風景で人を惹きつける。  春は野にも山にも至るところ草花が咲き誇り、大地を甦らせている。 夏は山や海が観光客を楽しませる。 登山をして高山植物を楽しむ最高の季節である。 秋には全山紅葉005_2 で見切れないくらいだ。 冬の北海道は、あなたの目の前に一面の銀世界を繰り広げると共に、オホ-ツク海からの流氷や丹頂鶴に白鳥など大自然の美しい世界を見せてくれる。

各地で行われる冬のイベントは、北海道を訪れる観光客に北海道の風景を満喫させ、更に北海道ならではの海の珍味が旅の魅力を倍増させている。

北海道の主なイベント:

1月:帯広の氷まつり 支笏湖の氷濤まつり

2月:札幌雪まつり 知床ファンタジア(斜里) 網走オホーツク流氷まつり         小樽雪あかりの路 紋別流氷祭り 旭川冬まつり くしろ氷まつり 

    JAPAN CUP 全国犬ぞり稚内大会 上士幌バルーンフェスティバル       阿寒湖氷上フェスティバル(-3月)

3月:宮様スキー大会国際競技会(札幌) 

     旭川国際バーサースキー大会

4月:洞爺湖ロングラン花火大会(-10月)

5月:函館五稜郭祭 札幌ライラックまつり 

     芝ざくらまつり(瀧上)

6月:YOSAKOIソーラン祭り(札幌) 阿寒湖上花火大会  サロマ湖100キロマラソン大会(湧別、佐呂間、常呂) 

7月:洞爺湖温泉夏まつり ラベンダーまつり(上富良野、中富良野) 富良野北海へそ祭り 札幌夏まつり(-8月)小樽潮まつり

8月:函館港まつり 旭川夏祭り 上士幌バルーンフェスティバル 昭和新山火まつり(壮瞥) 登別地獄まつり

9月:鮭祭り(石狩、音更、標津) 根室かに祭り

10月:阿寒湖まりも祭り 厚岸牡蠣まつり 浦河競馬祭

11月:札幌ホワイトイルミネーション(-2月)

12月:函館クリスマスファンタジー 川湯のダイヤモンドダスト(-3月:弟子屈)

北海道の天気

春(5-6月)

北海道の雪の季節は5月初くらいまで続く。 そのため春は短く,気温も10度前後であり、厚いオーバー、ジャケットが必要。

夏(7―8月)

夏であっても、昼間は上着もしくは長袖のシャツを着た方がいい。 夏は北海道の旅行シーズンである。

秋(9-10月)

北海道は、冬はいつも来るのが早い。 油断していると雪が舞い始める。秋だろうと厚いオーバーは決して大袈裟ではない。

冬(11-4月)

北海道の冬は、決して冗談事ではない。 十分準備した方がいい。

【参考】札幌の気温データ(平均値)

      11月   12月    1月   

平均気温  4.6℃ -1.0℃  -4.1℃ 

最高気温  8.1℃  2.1℃  -0.9℃ 

最低気温  0.9℃ -4.4℃  -7.7℃ 

2    3            4

平均気温  3.5℃  0.1     6.7

最高気温  -0.3℃  3.5℃  11.1

最低気温  7.2℃ -3.5     2.7

Photo_803 Photo_804 041 080 101

Photo_805

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540中国は見る(291)日本旅行⑮ 魅惑の北海道【中】

诱惑 皆来自日本北海道 2005-04-14 文章来源:南方网 

旅途北海道 冰雪的童话世界 2003-11-20文章来源:大洋

魅惑の3:国立公園の珍しい草花、高原植物

Photo_800 阿寒湖国立公園には火山地形、原生林の景観のほか更に三つの有名な湖がある。 阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖である。 阿寒湖は特別天然記念物のマリモ(ボール状の緑藻類)が生息していることで知られている。 一周一時間25分の遊覧船に乗って湖の神秘な景色を楽しむことができる。 途中下船するチュウルイ島では水槽の中に世界でも珍しい球体の緑のマリモを展示している“マリモ展示観察センター”がある。 湖の周囲は山が聳え立ち、原生林が生い茂り、北海道の壮大な景色が堪能できる。 阿寒の冬にはとても楽しいことがある。 近くにはスキー場があり、スキーを楽しめるし、氷が張った阿寒湖では雪上車・ソリを乗り回すことができるなど、いろんな楽しみ方がある。 その外、温泉街には北海道最大のアイヌ部落があり、アイヌの民芸品を売っている店が沢山ある。 また部落の中では、国の重要無形民族文化に指定されているアイヌ民族の古式舞踊が見られる。

Photo_801 摩周湖の水質の透明度は世界でも珍しいもので、世界第二位にランクされている。(注:1931の透明度調査で、バイカル湖をしのぐ41.6mの透明度1位を記録していた)。 湖底からは地下水が湧出し、一年を通して水温は低い。

Photo_799 屈斜路湖は温泉が多い。 神秘的な摩周湖とは対照的だ。 周囲には温泉やキャンプ場、リゾートホテルがあちこちにある。 

大雪山国立公園は北海道中部にあり、旭岳(標高2290m)を主峰とする火山群で、広大な自然に囲まれた日本最大の公園である。 公園内には2000m級の山々が連なり、原始林や草花、高山植物の宝庫になっており、沢山の観光客が訪れる。 昔住んでいたアイヌ人から、「神の住む山」とあがめられてきた大雪山は、北海道の屋根と言われている。

大雪山の火口は今でも硫黄が噴出している。 大雪山の北端に位置し東西15キロ、南北10キロもある火山の中央に火口(お鉢平直径2キロ)の全景見ることができる。 明治時代の文豪大町桂月がこの地を訪れ“富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ”という名文句を残している。これからも大雪山の大きさがわかろうというものだ。 日本人の心の中の神聖な山:富士山より大きいということだ。 起伏の険しい大雪山は、高い山に挑戦する登山家達の憧れの場所でもある。

大雪山国立公園に属する層雲峡は、アジア地域でも珍しい自然の景観がある。 約24kもの広さがある。 周囲の景勝の素晴らしさは、中国の黄山の壮大さに匹敵するものがあり、原始林、流れ落ちる滝、奇岩、断崖が連なる起伏に富んだ地形、時々姿を見せる野生動物など、生き生きとした自然の姿、四季折々の変化に人々は感動を受け、登山する人、旅行者が必ず訪れる場所になっている。

Photo_802 富良野は一面ラベンダーの中にある。 ラベンダーなどのモデル農場があり、ほかにテニス場などのスポーツ施設も完備している。 富田農芸園は広大な面積に100種類ほどの草花を栽培しており、その中でもラベンダーが一番多く、ほかにナデシコ、バラなどがある。

利尻、礼文、サロベツ国立公園は、北海道北部に位置しており、日本最北端の公園である。 主たる名勝地は利尻島である。 この円錐状の火山島の景色はとても素晴らしい。 もう一つの名勝地は礼文島。 この島には高山植物が多く、またいろいろな種類の野花が咲いている。 サロベツは広大な原野があり、高山植物と原生の草花が有名である。

【推薦コース】

日本北海道7日間 9950元(約150,000円)

東京、札幌、小樽、登別、大阪、京都を回り、本場北海道の温泉と美食をたっぷり楽しめます。 (以上のコースは「広東鉄青国際旅行社」が提供)

《旅行案内》

飲食

一般に日本食は米飯か麺類で、価格は800-1000円程度。 特典二つ:一つは大盛り、二つ目は店に展示されているサンプルと同様の物が出る。ただし、朝食は小さなお碗、小皿で種類が多い。 日本では中国料理は人気がある。

旅館

日本では旅館は便利である。 伝統的なタタミが多いが、寝てみると心地よいものである。 日本の旅館は、洋式ホテルは15000-45000円程度。 日本式旅館は、10000-30000円、ビジネスホテルは8000円程。ユースホステルは平均2300円位。 民宿は平均6500円。

交通

日本の鉄道(JR)は、グリーン車、特急、急行、普通、寝台車などに分かれている。 札幌には地下鉄がある。 旅行者は海外の日本航空または指定の旅行社で周遊券を購入でき、JRのすべての鉄道は有効期間内なら何度でも乗ることができる。

買物

日本での買物は、小型の家庭用電気製品が実用的である。 日本的なお菓子も親戚・友人達へのお土産に最適である。

貨幣

貨幣単位は円である。 日本では人民元を換えてくれる銀行は少ないので、事前に中国で日本円に換えておいた方がよい。 もし米ドルを持っていくなら、空港か銀行、ホテルで交換できる。

時差

中国より一時間早い。 (例:中国時間7時=日本時間8時)

注意事項

1.    日本では衣服はきちんとし、節度を守ること。

2.    日本地図を常に携帯した方が便利です。 また、日本は雨が多いので傘も持っていた方がいいです。

3.    日本は物が豊富ですが、物価は中国の数倍もしくは十数倍高いです。

4.    日本にはチップの習慣はありません。 ただ、ホテル、高級レストランなどでは10-15%のサービス代がかかります。

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539中国は見る(290)日本旅行⑭ 魅惑の北海道【上】

诱惑 皆来自日本北海道 2005-04-14 文章来源:南方网 

魅惑の1:札幌の美食と温泉

Photo_792 北海道の中心地・札幌は日本で五番目に大きな都市である。 東京から飛行機で90分のところにある。 札幌の街並みは整然としていて、緑も多く北欧の風情がある。 市内の大通り公園の散歩道には、一年中花Photo_793 が植えられている。 一年に一度の有名な雪祭りでは、この公園に雪で作った大きな雪像が沢山並び、多くの観客を集めている。 この公園の側には是非とも見るべき建物がある。 札幌時計台である。 時計台の中には展示室などがある、 ここは札幌のシンボルにもなっている。

北海道には二つの大事な役割がある。 一つは食べ物、もう一つは温泉。

札幌の水質はきれいで甘美、ビールはよく知られている。 食べ物もトップに上げられるほどで「食の都」という美称まである。 海産物料理は北海道の旅の楽しみの一つになっている。 土鍋の中に、ぶつ切りの鮭を入れて煮込んだ「三平汁」や「石狩鍋」は旅行者の垂涎の的だ。

北海道は火山が多く、温泉も大自然の美しい景色の中に点在する。 山中の温泉で旅の疲れを癒すのも楽しみである。

札幌は、冬のスポーツの中心地である。 藻岩山の斜面はスキーに適しており、設備も完備している。 ロープウェイとリフトを乗り継いで藻岩山の頂上に登ってみる。 山頂からは札幌市内が一望できる。 夜は札幌市内の美しい夜景が楽しめる。 二条市場は札幌市の中心にある。 札幌市民が毎日世話になっている大きな市場である。 道の両側にはビッシリと商店が並び、店員が店頭で威勢のいい掛け声を上げ売っている。 売っているものは新鮮なカニ、ウニ、イクラ、ジャガイモなど北海道産の海や山で取れたものだ。 ちょっと覗いて回り、味見するのも楽しみだ。 札幌から近い所に行くとしたら、定山渓温泉は理想的な場所である。 一時間程で原生林に覆われた渓谷が目にできる。 

魅惑の2:小樽の北国旅情

023 小樽は北国のロマンがあり、運河の旅情がある。 小樽といったら代表的なのは小樽運河である。 約1キロほどの長さの運河に沿って散歩道がある。 夕方になりガス灯がつくようになると、運河の周辺が霧と共になんともいえぬロマンチックな雰囲気を漂わせるようになる。 小樽になぜ一杯工芸館があるか、特にガラス工芸が多いのだが、芸術家達は、一瞬の光の中に北国の無限の美を追い求めているからに違いない。

108 函館は、北海道でも名前の知られた観光地である。 函館は扇のような格好をした美しい町である。 函館は星型の要塞(五稜郭)やら見晴らしの良い函館山がある。 また新鮮な魚や野菜を売る朝市には、多くの観光客の姿も見える。

Photo_795 登別温泉は北海道でも有数のいい温泉である。 周囲には原生林が生い茂り、その自然の美しさは世界にも知られている。 温泉の湧出量は一日一万トンもあPhoto_798 り、温泉の含有成分には11種類の化学成分があり、世界屈指のものだ。 ここの第一瀧本館には、1500坪の大浴場があり、1000名の客が入ることができるという。 とにかくでかい。 登別の駅から温泉街までの8キロの道路の両側には桜の木があり、春には桜のトンネルができる。 秋には紅葉谷の紅葉が壮観である。 一年四季を通じてそれぞれ違う雰囲気があり、人の目を飽きさせない登別である。付近の地獄谷は爆裂火口跡で、絶えず地下から水蒸気を噴出している。 また近くには熊牧場があり、180頭を飼育しておりなかなかの見物である。

042_1 洞爺湖は“丘の上の沼”という意味で、湖には原生林で鬱蒼とした四つの島がある。 大島、観音島、弁天島、饅頭島である。 湖畔には洞爺湖温泉があり、湖の景色を楽しみながら温泉に入ることができる。 ここでの一番の目玉は昭和新山である。067  洞爺湖の南側にある小火山だ。 1943年何の前触れもなく爆発した。 昭和新山から有珠山にはロープウェイがある。 1977年、2000年、有珠山爆発で焼けた樹木の跡が残っている。 当時の爆発の模様は全部映画として記録され火山科学館で見ることができる。

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538中国は見る(289)日本の冬の楽しみ方(下)

スキー、温泉、うまい物

2006-11-29 15:26:59 冬季日本游玩指南:玩雪、泡温泉、品美食

来源:国际观光振兴机构  网友评论 0 论坛

(3)うまい物

食べ物の真髄

日本の食べ物の種類は多い。 刺身や、そのほかの海の珍味、うなぎ、ラーメン、鍋など楽しみが尽きない。 冬のおいしい食べ物とは一体どんなものがあるのか? ちょっと探ってみよう-------

   日本の鍋

寒い冬。 中国と一衣帯水の日本の一番のお薦めは「鍋物」だ。 日本の鍋も種類が多いが、よく知られている「すき焼き鍋」とあっさりした「日本式シャブ鍋」の二つを紹介しよう。

Photo_779 「すき焼き」は、日本の昔から伝えられているものだ。 19世紀後半から「鍋」は日本で普及し始めた。 まず最初に割下(醤油と砂糖、味りんなどで作った汁)を鍋に入れ、煮立てた後、牛肉、しらたき、ネギ、豆腐などを入れ煮込む。 食べる時、生卵につけて食べる。 野菜などやわらかくなったら、試しに卵につけて食べてみたらいい。 日本人は卵で食べるのが好きだ。 滋養にいいとか、元気になれるとか言われている。 いずれにしろ卵には栄養がある。

Photo_781Photo_780 もう一つは「しゃぶしゃぶ」(涮肉片=ShabuShabuと言う。 これも鍋の一種である。 薄く切った肉、野菜などを煮立った鍋の中にさっとくぐらせた後、タレをつけて食べる。 この日本語は中国の涮羊肉(ショワン・ヤンロウ)からつけられたという。 その味が、とてもさっぱりしているので日本人に好まれている。

  ラーメン

Photo_782 日本独特の食べ物を紹介しましょう。 日本に行く度に、いつも食べたくなるのがラーメンです。 ラーメンは、日本のどんな所でも見られる食べ物です。 人気のラーメン店にはいつも行列が出来ています。 Photo_783 私はラーメンは、日本の“国民食”と言っていいと思っています。

日本全国いたるところ、ラーメンの種類は数多くあPhoto_784 り、それぞれ特色があります。 比較的有名なものとして:九州の福岡博多ラーメン、熊本ラーメン、長崎ラーメン、中国地方の広島ラーメン、関東の東京ラーメン、福島の喜多方ラーメン、北海道の札幌ラーメPhoto_785 ン、函館ラーメンなどがあります。 日本のラーメンは、ラーメン自体の太さ、細さの区別のほか、普通スープの味によって大体四種類に分けられます。 骨ガララーメン、塩ラーメン、醤油ラーメン、味噌ラーメPhoto_786 ンの四種類です。 骨ガララーメンは、ブタ、牛、鶏の骨を原料にしており味が濃厚です。 塩ラーメンは、透き通って下まで見えます。 塩味なのであっさりした味付けです。 醤油ラーメンは、醤油を原料とPhoto_787 したものです。 味噌ラーメンは、日本の甘辛い味噌を原料としたもので、味噌の香りが濃いものです。

いずれのラーメンも、上述の原料のほか各店の独特の隠し味が加えられ、

Photo_788 ほかに海苔、メンマ、ネギ、モヤシなどが付けられています。 ラーメンにのっかっている材料のことをもっと詳しく紹介すると、チャーシューとゆで卵が主体で、ほかにメンマ、ジャガイモ、トウモロコシ、モヤシ、ネギ、ノリ、ゴマ、ナルト、白菜など、沢山の種類があります。

一度は食べてみる価値があります。

  正月料理

(1)         年越しそば

Photo_789日本では、12月31日の一年の最終の日を「大晦日」と言います。 一年が終り新年を迎える時、来る年も健康で長寿であるようにと、一家で一緒に夜、ソバを食べる習慣があります。

(2)     Photo_790    円形の餅(鏡餅)

正月の飾り。 大小二つの平たく円形の餅を上下に重ねて神棚に飾ります。 正月が過ぎると、この餅を割ってアズキ餅として食べます。

(3)         おせち

Photo_791 「おせち」は日本人の正月の必須料理です。 その出来上がりはとてもきれいなもので、栄養豊富なものです。 普通、昆布、魚介類、根野菜などを甘く煮たもので、それをきれいな重箱に詰めます。 見た目にも、とても食欲をそそります。

「おせち」の由来は古く、平安時代に遡るということです。 その当時は、宮廷で食べる料理のことを言いましたが、江戸時代頃から正月の正式な料理として定着しました。

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537中国は見る(288)日本の冬の楽しみ方(中)

スキー、温泉、うまい物

2006-11-29 15:26:59 冬季日本游玩指南:玩雪、泡温泉、品美食

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(2)温泉

Photo_750 日本は火山の多い国である。 だから火山活動によって-----温泉”が豊富に作られている。 北から南まで3500あまりの温泉があり、全国で75千軒もの温泉旅館がある。 日本は言わば“温泉王国”ということが出来る。 

日本の温泉がほかの国と違うところは、日本の温泉文 化から 日本人の生活の繊細さを感ずることが出来るところにある。 温泉に入る前に、最初に、湯船の外で身体をきれいに洗い流してから、浴槽に入らないといけない。 タオルも温泉の中に入れてはいけない。 タオルは浴槽の外に置くか、たたんで頭にのせるかしないといけない。 また温泉の中で頭を洗ったり、身体を洗ったりすることもダメだし、温泉の中ではセッケンやシャンプーを使うこともいけない。 温泉の中では、大声を出したり、騒いだり、泳いだり、走ったりしてもいけない。 静かにしなくてはいけない。 温泉の温度は冷たすぎても熱すぎてもいけない。

入浴時間は10分位が一番いい。 

Photo_751日本人は夕食前、寝る前、朝食前に入るのが好きである。 ホテルでは浴衣を用意してある。 着方は面倒ではない。 ただ、浴衣の左襟を上にすること。 でなく逆にすると、“死人”が着る服装になってしまう。 この着方は中国儒家思想の影響だそうだ。 日本がこの思想を受け継いでいるからには、浴衣や着物を着る時は、必ず襟の方向が自分の右手に来るように着ること。 もし日本で温泉体験の旅をする時は、浴衣の着方を“左上”と覚えておけばOKである。

人々の印象にある日本人の仕事振りは“真面目”である。 “仕事大好き人間”という言い方さえある。 しかし実際は、大変遊び好きな民族でもある。 温泉について、日本人は単純に風呂に入るためだけでなく、一種のストレス解消にしている。 週末とか祭日になると、よくグループで温泉地に出かけ、熱燗の日本酒を飲みながら、温泉につかることが多い。 温泉には、種類が沢山あり、効き目もいろいろである。“温泉に入る”とストレスが解消できるという治療効果がある。 温泉には木枠で出来ている“大浴場”もあれば、大自然の中に作られた“露天風呂”(露天温泉:風呂は「泡澡」のこと)もある。 そこはかとなく匂う木の香りを味わいながら、湯に入り、春には花、秋には実、冬には真っ白な雪と、周りの景色を楽しめば、心はゆったりして、正に人生これ以上の楽しみはないといった気分になれる。 清酒をちょっぴり飲んで、真っ白な雪景色を楽しみながら、身体を露天の温泉につかっていると、ちっとも寒さを感じない。 これこそ人と自然の完全な結合です。 

冬は温泉に入る一番いい季節です。 ですから海外からの観光客が、日本に旅行に来て、もし温泉を体験しないとしたら、日本に行ったことにならないのと同じです。 

温泉は日本人にとって欠くべからざる生活の一部になっています。 温泉の泉質の違いにより、女性は美容効果のある温泉を選んだり、男性は疲労をとり血行をよくする温泉を選んだり、年寄は病気や健康に良い温泉に行ったりします。

冬の季節の特別のお薦めは:日本の中部地区の南木曾温泉と蓼科温泉です。 この二つの温泉は、ともに長野県の山に囲まれたところにあり、日本の伝統的庭園で作られています。 温泉の周りの風景はひっそりとして、あなたを別世界に誘ってくれるでしょう----------

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536中国は見る(287)日本の冬の楽しみ方(上)

スキー、温泉、うまい物

2006-11-29 15:26:59 冬季日本游玩指南:玩雪、泡温泉、品美食

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(1)スキー

日本の冬は白い天国。 春は花が満開、美しさを競い、夏は山野の樹が美しい。 秋は燃えるような紅葉が到るところで見られ、そして冬になると、真っ白な雪が一面を覆い、白銀の世界が私達を呼んでいる。

Photo_748 水蒸気が樹木の枝に凍りついてできる“樹氷”は、まるでダイヤモンドのように、太陽の下でキラキラと美しく輝いている。 日本の聖なる山―――富士山が白い雪をかぶり、一層颯爽とした雄姿を見せ、その圧倒的な存在感を示している---------

冬は、すべてを神秘的で美しく変えてしまう。 冬の美しさは、人々に大自然を満喫したいという欲望を呼び起こさせる。 湖面を氷が厚く覆うと、大人も子供もスケートを履いて、冬だけの楽しい運動に興じます。 スノー・ボートは、スキーが苦手な人や初心者達の格好の遊びです。 女の子にも人気があります。 スキー:冬の日本はどこにも設備の整ったスキー場があり、世界各地からもスキー愛好者が日本にやってきます。 日本にはスキーで必要な道具は借りることが出来、初級から上級までランク別に専門のレッスンも受けられます。 

日本の中部地区長野県は冬季オリンピックが行われた所ですが、また同時に冬のスキーの人気スポットでもあります。 次に、日本の有名なスキー場をいくつか紹介しましょう。

1.ヘブンそのはらスキーワールドPhoto_749

http://www.mt-heavens.com

  スキー・スノー・ボート 貸出あり

  名古屋から一番近いスキー場

  中央道園原ICから約5分  

2.白樺湖池の平スキー場Ikenotaira_2

http://www.ikenotaira-hotel.co.jp

  スキー・スノー・ボート 貸出あり  

  家族連れで遊べるスキー場

  中央道諏訪ICから約30分

  スキー場はホテルからわずか1

3.富士見パノラマリゾート

 http://www.fujimipanorama.com

  スキー・スノー・ボート 貸出あり  

  初心者向き

  中央道諏訪南ICから約7分

4.新潟苗場スキー場

 http://www.princehotels.co.jp/ski/naeba

  スキー・スノー・ボート 貸出あり  

  初級から上級までOK

  湯沢ICから国道17号線を通って約35分

5.新潟妙高高原スキー場

 http://www.princehotels.co.jp/ski/myoko

  スキー・スノー・ボート 貸出あり   

  妙高高原ICから約10分、野尻湖プリンスホテルから約15分

 2007120日(土)雪上花火大会挙行

6.北海道ニセコ東山スキー場

 http://www.princehotels.co.jp/ski/niseko

  スキー・スノー・ボート 貸出あり

  家族休暇にふさわしいスキー場

  新千歳空港から276国道で約1時間50

7.北海道キロロスキー場

 http://www.kiroro.jp/snow

  スキー・スノー・ボート 貸出あり

 北海道余市郡赤井川村常盤

 新千歳空港より車約1時間34

  札幌から約1時間

  毎月第1、第3日曜日は子供の日

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535中国の三面記事を読む(139) 「硫黄島からの手紙」を見て(4)

勝者か敗者かで英雄を評価するものではない

2007-01-29 22:17:40 :不以成败论英雄-《硫磺来信》

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1030982,15.html

抗戦について、私達はどのような遺産を残すべきだろう? 「手紙」は反面映画である。 反面とは悪い手本、見本は学ぶべきでないとする見方である。 中国の映画専門家が抗戦史の制作について努力してないとは言わない。 映画の中には、戦闘の細部において敵の当時の姿を、比較的公平に再現している。 中国の戦争映画は以前より残酷で、血生臭くなったのは進歩(?)したけれど、軍人の内面の世界や、その感情の矛盾については重点を置いてない。 本当の生身の人物を描くことの方が、人の身体がぶっ飛ぶより、よっぽど人々に深く考えさせ、共鳴を呼ぶものであることを知るべきだ。 また中国映画には、《甲午風雲》(1962年)や《鬼子来了》(2000年)のような自己解剖作品が少ない。 “中国はどうして負けたのか?”といった内部原因を探ることにより、文化の踏襲とか、歴史の進化とか、民族の盛衰とかを深く反省することができるのだ。 忌憚なくいうと、国の宣伝教育の主流は愛国主義と英雄主義だ。 しかし文化消費市場(書籍売場)では、これら宣伝教育は、ただ象徴的にみんな知っている教義を図解説明しているだけだ。 私が見たいくつかの本は自画自賛の誇張されたものや出所不明のいい加減な本ばかりだった。 映画やテレビの作品もほとんど《八路軍》や《新四軍》の活躍シーンや敵を簡単に粉砕するといった簡単なスト-リーばかり。 これによって生み出された優越感と精神的勝利法は、中国人の憂患意識を取っ払い、幻の強大感と安心感を作り出し、自己陶酔にはまるだけで、思いやりを持たない若者を育てているとは思はないだろうか? 

2_004 一方これと同じ時期、日本の青年達は、一世代上のことを知ろうとする意欲が強く、積極的に調べる努力を重ねている。 このような背景の中で「手紙」は、また彼等に「悲壮」な一頁を開けさせることになった。 そして更に多くの日本人に対して民族主義ブームが巻き上がっている。 中国人には「悲情」(悲しみ)意識がない。 悲情がなければ、どうして悲壮になれようか?

普通の戦争映画は、「正義」か「不正義」の定義を下し、誰がよくて誰が悪いと結論を出す。 また誰が負けて誰が勝ったかを説明している。 人々は習慣的にいいか悪いかの目で歴史を見ている。 だから簡単に結論を下している。 「手紙」にはこういった意図はない。 前にも言ったが、この映画は戦争の結末を描いたものではないし、白黒はっきりと線引きしているものでもない。 逆に戦争をグレーゾーンとして描いている。 イーストウッドの目には、戦争は絶対正義というものはないし、絶対邪悪というものもない。 みな戦争の犠牲者だと見ている。 もし戦争が人を狂わしているとするなら、戦争は双方の人を狂わしているのだ。 狂った双方が、すべてを顧みることなく敵を消耗させようとするのだから、良い悪いの区別などない。 映画の中で、日本兵が国際条約を守らずアメリカ医療チームを襲撃したり、米軍捕虜を生きたまま銃剣で刺したりする場面が出てくる。 アメリカ兵も同様に国際条約を破り、投降した二人の日本兵を射殺する場面もある。 戦争は人間性を飲み込み、人を鬼に変える。 戦争の暫しの平穏な時、敵も味方も我に返り、相手も自分と同じように普通の人間で、戦争でしかたなくここに来たのだと気付くのだ。 同じ境遇の人間がなんで敵となってるんだろう? この悲惨な世界、人生は永遠に解けない謎である。 善と悪も固定した基準に当てはめるのは容易なことではない。 勝者か敗者かで英雄を評価するものではない。 敵味方で人間性を論じてはならない。

確かにこの数年、歴史学界、映画界には“人間性を持った敵”の潮流がある。 ヒトラーを含めた戦争の狂人にも、その中には“やさしい”一面があったとして、興味ないし同情を呼んでいる。 その代表作は、《ヒトラー ~最期の12日間~The Downfall-Der Untergang帝国的毁灭2004年》。 

CNNのLarry King Liveの取材に対してイーストウッドは、栗林は人情味のある人で、人に好かれた人物だった。 「手紙」は事実のままの実像を描いたものだと述べている。

“人間性を持った敵”は、中国人にとっては受け入れにくいものだ。 この「手紙」は中国人には受け入れられないだろうと思う。 日本鬼子(日本の侵略者)は中国人にとって、人非人であり、南京大虐殺を連想させる。 趙微(女優)は、Photo_743 身体に日本の軍旗をまとって、みんなから非難された。 しかしあの「手紙」の感動的な映画を見たら、愛国同胞も今までとは違った見方になるのではないだろうか? 人には二重の性格がある。 日本鬼子にも二面性が見られる。 一つは獣性(占領区の一般人と捕虜に対して)、もう一つは兵士としての顔(太平洋の孤島での命がけの働き)。 勿論、中国人は侵略された経験があるので「手紙」を教訓とすることはないが。

最後に、人を感動させる作品こそ深く考えさせるものであり、深く考えさせる作品こそ充実感を与えてくれる。 「手紙」は、人を惹き付ける数少ない映画として深く心に残るものだ。 内容に引き込まれ見ている者を、知らず知らず客観的な審判者の立場から、主観的立場に移行させてしまい、主人公の運命(主人公が敵にもかかわらず)と同じ気持になってしまう。 映画の意図はどこにあるのか? 生命の意義はなんて考えるのも--------映画芸術の魅力の一つであり、また人間ドラマももうひとつの魅力である。

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534中国の三面記事を読む(138) 「硫黄島からの手紙」を見て(3)

勝者か敗者かで英雄を評価するものではない

2007-01-29 22:17:40 :不以成败论英雄-《硫磺来信》

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/1030982,15.html

敵に愛国主義はあるのだろうか? また英雄主義はあるのだろうか? 敵と「愛国と英雄」を結びつけるのは、何か聞いていて違和感を感ずるだけでなく、中国人の感情にもとるものだ。 反面史観映画は考え方も逆になる。 観客は敵の目から戦争を覗くことになる。 だから私達は暫く、自分が正当な人間であることを忘れ、彼等の身になって体験することにしよう。 こうすることが必要なのか? イーストウッドは次の通り言っている。Photo_741  “これら日本兵士のことはもっと世界に知られるべきです。 彼等は、自分達の国のために生命を捧げたのです。 アメリカの兵士と同様敬意を払うべきです。 またこの反面映画は、観客に敵と自分達の違いをわからせることでもあります。 太平洋戦争の客観的審判者として、私達は昔の敵と、現在の相手に対して一体どれくらい理解していると言えるでしょうか? 私達は、自分のことをわかっているでしょうか?

実際、戦争の当事者は、どちらも自分が正義の代表と思っているし、相手を邪悪の化身と見ています。 敵の角度から見た映画を作ることは勇気が要ります。 作者あるいは監督は、自分の国の既定の方向、既定の考え、そして歴史に対する既定の見方に触れる覚悟が必要です。 その次に、敵の角度から見た戦争には慎重でなければなりません。 うっかりするとバランスを失してしまいます。 バランスを失うと敵に同情したと言われたり、愛国(中国だったら漢奸、裏切り者と罵られます)でないとレッテルを貼られます。 

イーストウッドは最初、「手紙」がアメリカの観客達の反感もしくは罵声を浴びるのではないかと心配しました。 これが、なぜ「手紙」が一部の都市で先行上映されたかの理由です。 様子を見るためだったのです。 イーストウッドは、年配(第二次大戦の老兵達も含む)の人達が、概ねこの映画を喜んでくれ、日本側の戦争観についても理解をもっていることがすぐわかりました。 逆にこの映画を見ようとしなかったのは若者達でした。 彼等が受けた愛国教育は「善か悪か」の二元論だったからです。

ひるがえって中国を見れば、中国の思想も「善か悪か」といった「白黒を決める」対比論で貫かれています。 中国の戦争映画の基調は、多面的で色調豊かとは言えません。 これまでずっと上級機関が決定し管理してきました。 だから多元的とか独立精神とかは論外なのです。 イーストウッドが戦争を超越し、日米双方の反戦・厭戦を描いているのに、我国は戦争を、愛国主義を高揚させる手段とする段階にとどまったままです。 イーストウッドが獣性を超越して、人間性を描写しているのに、我国は依然として獣性と屈辱を使って民族の恨みに火をつけているのです。 今日の中国の戦争映画は、第二次大戦初期のアメリカの戦争宣伝映画のようです。 目的は士気を鼓舞するためです。 日米双方は当初、争って互いの偏見を基に相手を醜く描き、けなし合いました。 アメリカは日本兵を前歯をむき出した猿に見立て、日本はアメリカ兵を臆病者と見立てていました。 ちょっと皮肉っぽいのは、「星条旗」の中でPhoto_742 、上陸前の米軍海兵隊が船の中で“東京ローズ”の戦意喪失放送を聴いて意気消沈するのに対し、「手紙」の中では日本兵が日本の童謡を聴いて意気高揚するところです。 どの民族、国家も一定の歴史的過程と時間を経ないと本当の意味での国際主義に到達しません。 

我国はどうかというと、その歩みは何歩か遅れています。 無論、思考は一定の方向に固定され、また固定されやすい中国では、思想だけ先行してしまうと得するより損する方が大きいのです。 ちょっと考えて見てください。

中国の監督が日本人を使って“平型関大捷”(山西省で日中両軍が激戦したことで有名)の映画で、日本兵が八路軍と戦う映画を作るとしたら、中国人はきっと狂ったようになり、その監督は絶対に罵詈雑言を浴びせられ、こてんぱんに批判されるでしょう。

どの国にも自国の軍事伝統を誇りに思い、真剣に軍事教育を行っています。 ドイツは日本と同様、自分の国の軍事的伝統を大事にしています。 たとえ過去のファシスト敗戦の歴史があったとしてもです。 第二次大戦中、連合軍の船団を悩ませたドイツ潜水艦隊は4万の将兵がいましたが、そのうち3万は海底に眠っています。 しかしドイツ潜水艦の速さや、精密さは、今日のドイツ海軍に戦争遺産として残されているばかりか、ドイツ水兵の誇りにもなっています。 1981年、210分という長さの映画《U・ボート(Das Boot=从海底出撃)》は、当時の苦境の中での不撓不屈のドイツ水兵を描いています。 日本も第二次大戦での陸海軍の犠牲的精神やそのまま残された国歌と軍旗は同じように後の世代に引き継がれています。 日本軍国主義は滅びてまた復活したのではなく、もともと消えてはいなかったのです。 これと比べると、戦勝国のアメリカは時々、自身の戦争を振り返ります。 80年代、アメリカの多くの軍事研究家が、ノルマンディー上陸作戦の米軍より、ドイツ軍の方が勇敢だったと批判しました。 もっと驚くべき結論は:ファシスト国家の軍人は、民主国家の軍人より強い。 事実であるかどうかは置いても、アメリカ人の敢えて振り返り考えるという態度には敬服させられます。 

台児荘戦役(現在の山東省棗庄市付近での戦い)について、日本陸軍の総括報告にはこう書いてあります。 “敵とはいえ、その壮烈さに感嘆するばかり。 戦いの前に通訳を通じ投降を促したが応ずるものは皆無だった。 死体が山となり、血の海となったのは日本軍だけではない。 他を知らず、徒に自己陶酔に安んずることは、国軍のためならず。 このことを戒めとすべし”

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533中国の三面記事を読む(137) 「硫黄島からの手紙」を見て(2)

勝者か敗者かで英雄を評価するものではない

2007-01-29 22:17:40 :不以成败论英雄-《硫磺来信》

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西郷兵士

008_1 西郷は召集令状で軍隊に入った兵士で、入隊前はパン屋だった。 ほかの人と同じように、西郷は平和な生活、友達と家庭、特に出征時、お腹の中にいてまだ見たことのない娘のことを思っていた。 見たところ愚痴ばかり言っているようだが、芯は強い方だ。 「手紙」では、西郷を例にとって、日本兵はみんなが考えている“玉砕”一本槍ばかりでないことを伝えたかったようだ。 彼等の中には、退却、投降から戦死するかそれとも生きて家へ帰るか葛藤があった。 多くの人が、国のために報いるのに一番いい死に方は自殺だと考えていたが、西郷は反対だった。 彼は生きて家へ帰りたかった。 家へ帰るためには投降してもいいと思っていた。 中国映画《紫日》を見た人は、日本兵の集団自決のシーンを覚えているだろう。 でもあの壮絶なシーンは本当かなと疑問に思ってしまう。 「手紙」でも日本の集団自決のシーンが出てくる。 映画では覚悟を決めた兵士達が黙ったまま、手榴弾の信管を引いてそれを抱いて爆発するシーンが出てくる。 監督の目的は、決して敵をがむしゃらに意地悪く見るのではなく、またいたずらに涙を誘うのではなく、またただ勇敢を鼓舞するのでもない。 監督は事実を見せることによって、みんなに深く考えさせようとしているのだ。

陣地が陥落し、敗勢が決定的になった時、兵士達の中には、自分から自殺を選んだり、また無理やり自殺させられたり、死を少しも恐れぬものもいた。 またおじけづいて前に進めない者もいた。 敗戦になってから自殺することは価値があるものだろうか? 人間としてとるべき道だろうか? 意味があるものだろうか? 映画を見た人達が得た結論は、はっきり言って反対である。 私は、アメリカの有名なパットン将軍が1944年、兵士に演説した言葉を思い出した。 “お前達は国のために死ぬんじゃない。 相手に、国のために死なせるんだ”

伊藤中尉

5_011 栗林と西郷の間に、別に二人の性格の違う人物のエピソードが挟まれている。 その二人とは西竹一中佐と伊藤中尉。 西竹一はスター的人物である。 彼は1932年ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルを取った教養ある人物だった。 彼は栗林を尊敬し、彼のために働きたいと愛馬と共に硫黄島にやって来た。 西竹一と栗林は、共に見識のある人たちで、大きな志を持った“紳士の軍人”だった。 二人は薄暗い地下壕で、アメリカのウイスキーを飲みながら、これから先の厳しい前途を思い語り合った。 「手紙」の色彩は暗く、当時の日本兵の心境にはピッタリだ。

この将兵達の居場所は、逆境(苦労が多いところ)というより絶境(絶体絶命の場所)だった。 この戦争は、どの角度から見ても、もう日本帝国の大勢は決まっていることをみな知っていた。 彼等は軍中央部が、増援してくれないことも知っていた。 硫黄島の守備は、ただ敵の占領を遅らせるだけ、陥落は時間の問題だった。 私達は今、昔を振り返って見ているから、当然、硫黄島の戦争が日本の挽回に少しも役立たなかったことを知っている。 初めからわかっていたら、あんなふうにはすることもなかったろうと思う。 しかし、島を守っていた将兵は、硫黄島の守備の一日が、東京の一日の安全に繫がっていると信じていた。 明らかに無益とわかっていながら、背水の一戦を強行した。 これが「手紙」の映画が、人を感動させるところである。 日本軍人として死んでも投降しないという名誉のため、最後に両目を失明した西竹一は、足の親指で銃の引き金を引いて自殺した。

5_012_1 西竹一と対照的なのが急進的な伊藤中尉。 彼は常に軍人としての壮烈な死を望んでいた。 彼は栗林の命令に逆らい、地下壕から飛び出し、敵に向かい捕虜になってしまう。 伊藤が地雷を身につけタンクと共に爆死しようとする時、観客としては、日本人はなぜ天皇を至上とする盲従意識(栄誉と責任感)を植え付けられてるんだろうと考えざるをえなかった。 彼等は自分の命は、天皇によって決められ従うしかないと思っているのだ。 従って、日本人は亡命(命知らず)というより「宿命」で仕方ないと思っているのだ。 「星条旗」のアメリカには将来への明るい見通しがあったが、「手紙」には日本兵の将来に対する絶望があった。 

「英雄はどうして作られたか?」---「父親たちの星条旗」を見てという映画評の中に、私は今まで“軍人とは国のために戦い、戦友のために死ぬもの”と思っていたが、“軍人とは国のために戦い、自分の名誉のために死ぬものだ”という言葉を、ここに一言追加したいとあった。 実際、どの国であれ、どんな仕事であれ、軍人の命は、その国の政府によって決められるのだ。 軍人には選択などありえず、ただ前進するしかない。 「手紙」の監督は、まさにこう説明したかったのだろう。 世界で一番可哀想なのは、すべて運命で決められていることだ。 そして一番危険なのは軍人の盲従だ。

栗林中将

手紙は日本の将兵にとって、唯一、特別な意味を持つものだった。 この出されなかった手紙には、当時の生々しい戦況や当事者の考えが綴られており、戦争の重要な証拠品である。 「手紙」を撮影する時、イーストウッドのポケットには、常に栗林の手紙集があった。 中には栗林の家族に対する思いと愛情が記されていた。 イーストウッドは栗林の詩に近い手紙には、父親として子供に語りかける言葉、夫として妻に表す情に溢れているという。 はっきり言うまでもなく、これら60年前の手紙には、それぞれの将兵達の人間像が浮かび上がってくるものだ。 彼等は、軍人であるばかりでなく、息子であり、夫であり、父親だ。 そういう意味から言うなら、日本の将兵の中にも人間性の一面があるといえる。 

「手紙」は、兵士の内面に入り、彼等の人間性(離別、郷愁、愛情、夢、恐怖の思い)をあぶりだそうとしたものだ。 誰にもこういう感情はある。 敵味方を問わない。 兵士は誰だって死にたくはない。 生きて帰還し家族に会いたい。 別の言い方をすると、生まれつき悪事を働く兵隊などいない。 イーストウッドは取材に対して、“「恐怖と家族を思う」この二つのことは、日米軍人達が共通して持っていた。 東西の宗教と文化をはるかに超えるものだ”映画の中で感動的なシーンがあった。 日本人が、アメリカの負傷兵を捕らえた時、西竹一中佐がとても気にかけ、英語で彼と話をする。 残り少ない薬で彼を治療するよう命ずる。 アメリカ兵が亡くなった後、彼はアメリカの母親が息子に宛てた手紙を翻訳して、傍らの日本兵達に聞かせてやる。 日本兵達はみな厳粛な顔付きで、息を殺して聞き入っていた。 まるで自分の母親が書いてくれたように思えた。 このしんみりした雰囲気の中では、敵対国の恨みの気持は不思議なことに消えていた。 

1977年の映画《戦争のはらわた》(鉄十字勲章=The Cross of Iron)は、ドイツ人の目から見た第二次大戦の映画だ。 その中で、ドイツ軍のシュナイター伍長が、突撃隊を率いて、ソ連の赤軍陣地を襲撃する。 その時、十歳前後の少年兵を捕まえる。 この少年兵は所在なげに、ハーモニカを取り出し吹き出す。 音楽はたちまち敵の気持を変えてしまう。 人間性は普遍的なもの、共通のものだ。戦争に参加した双方にとって、勇敢な兵士はみな尊敬に値するものだし、戦死した英霊もまた尊重されるべきだ。 だからこそ、かって命がけで戦った米の老兵達が今、真珠湾や硫黄島に集まって共同で昔を記念しているのだ。 “度尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩仇”(長い年月を経て共にまだ生きている。 再会一笑恩讐消える)

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532中国の三面記事を読む(136) 「硫黄島からの手紙」を見て(1)

勝者か敗者かで英雄を評価するものではない

2007-01-29 22:17:40 :不以成败论英雄-《硫磺来信》

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イーストウッドと渡辺謙

3_006_2 歴史は勝者が書くものだ。 時には敗者の目から逆に見ようとするものもいる。 そうするとすべての歴史は本末転倒となり、是非善悪があべこべになってしまう。 《硫黄島からの手紙》(以下「手紙」とする)は、その数少ない逆行(反面)の映画だ。 この映画は、日本人の角度から「硫黄島の激戦」を再現したもので、その戦闘場面には震撼させられ、その反戦のテーマには深く考えさせられた。

第二次大戦勝利60周年記念の前から、イーストウッドは太平洋戦争の題材に目をつけていた。 そして今彼は、硫黄島の激戦を二部作として、日米の参戦兵士達のそれぞれの視点と言葉で、この戦争を描いた。 第一作の「父親たちの星条旗」(《父的旗》“FlagsofOurFathers”(以下「星条旗」とする)は、当時のアメリカ海軍海兵隊兵士が、アメリカの国旗を硫黄島に掲げるシーンを再現したもので、この映画は200610月公開された。 「手紙」は、日本人が出演する徹底抗戦の映画である。 日本の俳優・渡辺謙(ラスト サムライ《最后的武士》SAYURI妓回忆录》の主役)が、硫黄島守備の最高司令官栗林中道中将に扮し、二宮和也が西郷兵士役、伊原剛志がバロン西竹一中佐役、中村獅童が伊藤中尉役に扮した。 映画は全編日本語で英語の字幕が付く。 20061220日、先に一部の都市で先行上映した後、2007112日から全国公開された。 

4_001 1945年初め、硫黄島は戦争に突入した。 東京から約1250キロ離れた硫黄島は1887年日本領土に編入され、東京の管轄下にあった。 このニューヨークの三分の一といった小さな火山島(面積は20.1km2)は、戦略上重要な場所だった。 1944年夏、サイパンを陥落し、そこからB―29大型爆撃機を東京へ向かわせ爆撃した。 しかしサイパンから東京まで非常に長い航路で、B―29と護衛の戦闘機P-51は、途中給油が出来なかった。 1944年末までに、燃料切れや機械の故障などで、米軍はB―29、77機と750名もの損失を出した。 

硫黄島は、サイパンと東京のちょうど間に位置しており、この島を占領すれば、米軍は島に二つある飛行場を利用して、乗り換え、修理、給油基地とすることができるばかりか、ここを踏み台として直接効果的な日本本土爆撃が出来ることになる。 

日本人の目から見ると、東京を戦場にしないことが最上の策である。 米軍が東京に迫るのを阻止するため、日本軍は、1944年夏、多くの兵隊を硫黄島に送り守備に当たらせた。 1945年2月16日から3月26日の間、硫黄島は両者奪い合いの重要拠点となり、命がけの戦いがここで展開された。

生きるか死ぬかの命がけの戦いは、日米の力の差が歴然としている中で行われた。 まず先に日本のことを言うと、日本兵はすでに地下の修築工事で体力を消耗していた。 硫黄の臭いが漂う島で、栗林は部隊を指揮し、飲料水や食物が欠乏している中、地下要塞を掘らせていた。 戦闘が始まる前、栗林は妻に宛てた手紙の中で、生活必需品が欠乏し、みんな苦労している。 私はインドのガンジーのようにガリガリに痩せてしまっていると書いている。 

それから、日本兵の平均身長は、約1.6m、平均体重は60キロ、装備は99式歩兵銃と虫下しに浄水剤。 これと比べるとアメリカ兵は平均身長1.8m、平均体重約73キロ、装備はM1Garand 歩兵銃。 このほか日本の軍需産業は、太平洋戦争末期にはもう気息奄々の状態だった。 疑う余地もないほど兵力、国力、火力、体力、いずれにおいても米軍が優勢だった。 だから米軍は当初、5日で硫黄島を落とせると思っていた。 しかし結果は、硫黄島の戦いは実に36日間続いた。 米軍の海兵隊兵士6821名が戦死した。 優勢な米国兵は上陸時、平坦な海岸線を、何の援護もなく敵の砲火にさらされ、戦友の死体に隠れたりした。

劣勢な日本兵は、地理的優勢にあったが弾薬、食糧、薬、水が足りなかった。 戦争終了時、日本軍守備隊約21000名の将兵のうち、約2万名が戦死。 捕虜になったもの陸戦隊兵士216名、陸軍歩兵867名計1083名だった。

徹底抗戦した日本軍は何を考えていたのか? 戦争は後の人に何を残したか? 「星条旗」と同じように、「手紙」も、後の人が偶然、戦争で残されたままになっていた手紙を見つけたことが発端になっている。 過去に遡る方式で、日本軍の硫黄島での出来事が語られていく。 特にその中に二人の主要な人物がいる-----栗林中道中将と西郷兵士。 実際の栗林は53歳。 際立って優れた人だった。 戦いでは勇敢で、兵士の先頭に立ち、みんなから一目置かれていた。 この迫力ある人物を演ずるため、渡辺謙は、大量の資料を集めたり、故郷を訪れたりして、栗林の内心を詳しく研究したという。 その演技はもちろん予想通り文句なしの出来だ。 

Photo_924 栗林は1928年、アメリカに派遣されアメリカ軍の学校や基地を訪れ、アメリカの友人と知り合った。 帰国の際には、アメリカ人が送別の宴を開いてくれた。 その席で、彼はアメリカと日本は戦争してはいけない国だと本心を語っていた。 しかし開戦するや、彼は躊躇することなく戦地に赴いた。 山本五十六と同様、栗林もアメリカの強大さを知っていた。 具体的な作戦計画を決める際、栗林はどういう風にアメリカに対したらいいか知っていた。 彼の地下要塞工事のやり方は、従来の水際の砂浜を掘って、敵の上陸を阻止する常識とは違うものだった。 このことは古参将校達から猛烈な反対にあった。 彼は硫黄島は守りきれないことをわかっていた。 家族の手紙の中にも米軍が2ヶ月以内に攻撃するだろうと書いていた。 しかし彼の意識の中には、この二ヶ月は米軍に重い代価を支払わせる二ヶ月だと考えていた。 彼はアメリカ人に対して、戦争とは正真正銘に血が流れ、死体が散乱し、恐ろしいものだと伝えようと思った。 栗林が硫黄島へ着任した時、下級士官が二人の兵士に対し体罰を加えているのを見てただちに止めさせた。 彼は理不尽な体罰は士気を落とすと考えていた。 彼は兵士に自分の命を大事にし「死んではいけない」と命令を出した。 栗林の考えでは、一人でも生き残って戦いを続ける兵士の方が、むざむざ命を犠牲にする兵士より価値があると思っていた。 しかし戦闘の展開につれ、彼の武士道精神は益々はっきりしてきた。 栗林は部下達に生きて帰れると思うな、みんな死ぬ前に10人の敵を殺せと命じた。 最後の時、彼は突撃決行の命令を下し先頭に立った。 弾にあたり砂地に横たわった栗林は、昔、アメリカ人が贈ってくれたピストルで命を絶った。

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531中国の三面記事を読む(135) 米国版“南京大虐殺映画”

アメリカでプレミア・ショー

美国版南京大屠首映()

2007-01-27 03:39:00 来源: 新京(北京) 网友评论 2 论坛

新華社ロサンゼルス125日電:アメリカの映画制作者が、日本軍の南京大虐殺を記録した映画《南京》が、最近アメリカ・サンダンス映画祭で上映された。 映画の上映期間中、会場は連日超満員で、アメリカのメディアの関心を呼んだ。 記録映画《南京》は、沢山の写真や歴史資料を通して、193712月の日本軍の南京占領を紹介した後、ドイツ商人、アメリカの女性宣教師など10数名の欧米人が南京で国際安全区を設け、20数万の南京市民を虐殺から救った事の顛末を記録したものである。 この映画は西側の人々の目から見た、日本軍の南京での残虐行為だ。

記録映画の撮影の過程では、撮影メンバーが中日両国を次々と訪れ、80人近くの南京事件の生存者や当時の日本兵にインタビューした。 また、アメリカ国会図書館から日本軍が南京で行った残虐行為の珍しいフイルムなどを多数見つけ出した。

映画制作者のテッド・レオンシス氏は1月25日、自身のホームページに、この記録映画は映画祭で大きな関心を集めることが出来、大いに勇気付けられた。 この映画が多くの人に南京大虐殺の歴史についての理解に役立つことを希望すると共に、更に多くの映画人があの歴史に関心を持ってもらえたらと述べていた。 レオンシス氏は、アメリカで有名な企業家であり慈善家である。 現在、アメリカAOLの副会長である。 

ニュースの背景

映画制作者のレオンシス氏は、“これは忘れられた大虐殺です” 《南京》を作ったのは、“もっと多くの人にあの歴史を知ってもらいたいからです”

レオンシス氏が初めて南京大虐殺を知ったのは2005年だった。 その時、偶然古いニューヨークタイムスに載っていた張純如(アイリス・チャン)自殺の訃報を読んだ。 張純如はピューリッツァー賞を取ったベストセラー《レイプ・オブ・南京》の作者である。 張純如が本の中で書いていた歴史の細部は、レオンシス氏の心を打った。 “恐ろしい。 なんて悲惨だ。 見逃せない。 日本はこのことについて一切謝っていないし、認めようともしない。 これは忘れられたホロコースト(大虐殺)だ”とレオンシス氏はいう。

1937年の日本の中国侵略期間中、南京で起こった歴史の真実を再現するため、メインスタッフは、中国で約1ヶ月あまりの時間をかけて22人の事件生存者を探し出した。 レオンシス氏は、“この映画で一番感動的で見る価値のある場面は、南京事件の目撃者がカメラの前で語っている部分です。 これら生存者は、現在もまだ少数ですが健在です。

もし私達が今、この映画を作らなかったら、もう生存者はいなくなってしまうでしょう。 

映画スタッフは、先日、日本のメディアの取材を受けた時、次の通り答えた。 “南京大虐殺は、世界ではほとんど知られていない。 この映画を作ったのは、多くの人にこの歴史を知ってもらいためだ”

レオンシス氏は、“多くのアメリカ系中国人は、この映画の潜在的な観客です。 彼らにこの歴史を見てもらいたい。 また、この映画が日本でも上映されるよう希望しています。 これは決して反日映画ではなく、反戦映画なのです”

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530中国の三面記事を読む(134)「嫦娥」について【4】《完》

嫦娥の物語 (下)

もう一つの物語です 《嫦娥奔月嫦娥月に奔る)》

Photo_734 言い伝えでは、昔、天上に十個の太陽が現れた。 強い日差しに大地は燃え、海の水も枯れてしまうほどだった。 人々はもう生きて行けなかった。 これを目の当りにした后羿は、崑崙の山頂に登り、超人的な力で弓を引くと、一気に九つの太陽を射落とした。 后羿のこの素晴らしい働きは、人々から尊敬をもって迎えられ、多くの志士が后羿の名前を慕って弟子入りにやってきた。 その中には、ずる賢い蓬蒙も混じっていた。

ほどなく后羿は、嫦娥という美しくやさしい妻を迎えた。 后羿は、武術を教え、狩をする以外は、いつも妻と一緒におり、人々はこの似合いの夫婦を羨望の目で見ていた。 

ある日、后羿は、崑崙山の友人に会いに行く途中、王母娘娘(中国古代神話の仙女で、崑崙山の瑤池に住んでいる)に出会い、王母から一包の「不死の薬」をもらった。 この薬を服用すると、すぐ天に昇り、仙人になることが出来るという。 しかし后羿は、妻を捨てていくことが出来ず、この「不死の薬」を嫦娥に渡し保管させた。 嫦娥は、この薬を化粧台の中の貴重品箱にしまったのだが、これを偶然、蓬蒙に見られてしまった。 

三日後、后羿がみんなを連れて狩に出かけた。 胸に一物の蓬蒙は仮病を口実に残った。 后羿がみんなと共に出かけて間もなく、蓬蒙は手に剣を持ち、住居の奥に突き進むと嫦娥に「不死の薬」を出すよう脅した。

99_7 嫦娥は、蓬蒙にはとても敵わないと、とっさに判断し、貴重品箱を開け、「不死の薬」を取り出し、一気に飲み込んだ。 すると嫦娥の身体は、たちまち地面からヒラヒラと浮かび上がり、窓を飛び出ると、天上にどんどん上がって行った。 嫦娥は、夫のことが気掛かりで、人間界から一番近い月に降り立ち仙女になった。

夕方、后羿が家へ戻ると、侍女達が泣きながら昼間起こった出来事を話した。 后羿は驚き怒った。 剣を握り蓬蒙を殺そうとしたが、すでに逃げ去っていた。 后羿は、怒りと悔しさで胸が張り裂けんばかりだった。 悲しみの中、后羿は夜空を仰いで、妻の名を叫んだ。 この時、后羿は奇妙なことに気付いた。 その夜の月は、格別に明るく光り、しかも動く姿が嫦娥にとても似ていた。 后羿は急いで嫦娥が好きだった庭に祭壇を作らせ、彼女が普段よく好んで食べたお菓子や果物を並べさせ、月で自分を思っているであろう嫦娥を祭った。 人々は嫦娥が月に昇り仙女になったという話を聞くと、次々に月の下に祭壇を設け、善良な嫦娥に「吉祥平安」を願うようになった。 これ以降、中秋節の夜に、願い事をする風習が民間に伝わった。

嫦娥、月に奔るの物語は、美しい色彩で、嫦娥を称え、讃美している。 昔の文献にも嫦娥に関する記載がある。 人々は嫦娥、月に昇るの物語を、いろいろ加工し、修飾し、嫦娥のイメージを月のように美しく、人々の美に対する思いにダブらせているように思える。

現代に広く伝えられている「嫦娥、月に奔る」と異なる記載が《全上古文》所収の《霊憲》にある。 “嫦娥、ガマガエルとなる”という話である。 “嫦娥は羿の妻である。 王母の不死の薬を盗み、これを飲んで月に奔ったが、月に行く前に有黄に占わせると、有黄は「吉なり、翩翩たる帰妹、一人まさに西へ行かんとす。 天の晦芒たるに逢うも、驚くなかれ、恐るるなかれ、後にまさに栄えんとす」と占った。 そこで嫦娥はついに身を月に託したが、これがガマガエルである”

盗んだ罰でガマガエルに変えられ、一日中、不死の薬を搗き、寂しい生活を送っていることについて、李商隠が嫦娥の嘆きを詠んだ詩に「嫦娥应悔偷灵药、碧海青天夜夜心」というのがある。

(不老不死の霊薬を望んだことを後悔しているのだろう。 青い海原のような夜空を毎晩寂しい思いで見つめているのだ)

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529中国の三面記事を読む(133)「嫦娥」について【3】

嫦娥の物語(中)

嫦娥的故事  2006-12-16 19:14:17

源自:民俗民风

77_3 嫦娥は美しかったが孤独だった。 同年齢の女性達は近付こうとしなかった。 美しい嫦娥といると、彼女の引き立て役になるだけなので面白くないからだ。 嫦娥が后羿に冷たくされているのを知って、彼女等は陰でひそかに笑いあっていた。 美しいからって何さ、美しいのに夫に裏切られ棄てられたんじゃない。 同年代の男達は逆に、嫦娥に猛烈に親切になった。 家の前には、しょっちゅう水を届ける人、柴を届ける人が押し寄せた。 以前、嫦娥を高嶺の花とあきらめていた人が、今新たな希望を抱いて、嫦娥に認めてもらいたいと近付いてきた。 だが嫦娥の心は変ることはなかった。 これら下劣な男達が、どうして天下第一の英雄后羿と比べられようか? 時間が経つにつれ、嫦娥の冷ややかな表情に嫌気がさし、次第に彼女から離れていった。 かって彼等が見た甘い葡萄も酸っぱくなり、かって見せてくれた笑顔も消えていった。 

取って代わって出てきたのは、嫦娥に関するスキャンダルだった。 嫦娥はただ黙っているだけだった。

天下はこんなに広いのに、なんで私嫦娥の居場所がないの? 私はこの世の余計者だ。 私の存在のため、后羿は彼の愛する女性愛する子供にちゃんとした地位を与えられないでいる。 私がこんな愛のない結婚にしがみついて、一体何の意味があるっていうの? 

嫦娥は、后羿を探し彼とよく話し合おうと考えた。 嫦娥は、后羿と向かい合った時、ひんやりとして心が遠く離れている感じがした。 

“あの人と子供を連れて一緒に家へ帰りましょう!”

嫦娥は、淡々と言った。

“お前、本当に気にならないのか?”

“もし気にしてるんだったら来るわけないでしょう。 さあ帰りましょう!”

そこで、后羿は愛人と子供を連れ、大喜びで嫦娥と共に、昔の家へ戻ることにした。 嫦娥の寛大さに、后羿は心から感謝した。 “嫦娥は本当に人の気持がわかるいい女だ。 俺の子供がどうして、いつまでも私生児のままでいいものか。 これでよかった。 嫦娥さえ認めてくれるなら、他人に文句は言わせない” その女は更に喜びに目を輝かせた。 夢でこうなる日を待っていたのだ。 夢が実現するとは思いもしなかった。 今、起こっていることは本当は夢じゃないかしら? と夢うつつのように喜んでいた。

后羿は竹垣の門を開け、なつかしの我が家へ入った。 家の中は、すっかり模様替えされていた。 彼等を迎えるため、嫦娥はわざわざ街へ行き、新しいベッドを買い求め、自分自らベッドの掛布団を縫っていた。 また夜は豪勢な食事を用意していた。 みんな一緒に夕食をした。 食事の間、后羿は沢山酒を飲んだ。 嫦娥も飲み、女も沢山飲んだ。 后羿と女は感動と興奮で顔を真っ赤にしていた。 嫦娥は眉間に寂しさを漂わせていた。 じつはこれが彼女と后羿の最後の晩餐だった。 食事の後、嫦娥は永遠に后羿から去って行こうと考えていた。

Photo_733 夜が深まり、后羿は酔ったまま満足気に寝入った。 女も子供を抱いて寝付いた。 嫦娥は一人うこともなく、后羿の寝ているその横顔をじっと見つめ、そっと声をかけた。

“羿、お別れします! あなたを得られない以上、お別れするしかありません! お幸せに!”

話し終えると、嫦娥は后羿から預かっていた不老長寿の仙薬を飲み込んだ。 すると次第次第に身体が浮き上がり月の方に上がって行った。

后羿は、翌日目が覚めた後、嫦娥がいなくなったのを知った時、どんな気持だったろう。 もしかしたら悲しんだろう。 やはり嫦娥は彼の初婚の妻だし、嫦娥には大変申し訳ないことをした。 だが嫦娥は自分を犠牲にして羿の顔を立てたのだ。 そして結局、嫦娥の家出は、羿と彼女を助けることになった。

あるいは后羿は、嫦娥が彼に黙って仙薬を飲んだのは、彼に対する裏切りだと、怒り心頭になり、弓を取って月を射落とそうとしたかもしれない。 あるいは月に向かってため息をつき、何も言わず、暫くの間怒っていたかもしれない。

嫦娥は仙薬を盗み飲んだことで不老長寿となり、后羿の生命は、彼の子孫に代々引き継がれ、ある意味では、后羿も不老長寿(永遠に存在する)となったともいえる。

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528中国の三面記事を読む(132)「嫦娥」について【2】

嫦娥の物語(上)

嫦娥的故事  2006-12-16 19:14:17

源自:民俗民风

09 嫦娥、月に昇るという古代神話故事は、「嫦娥が后羿に隠れて仙薬を飲み、月へ逃げて行った」というお話で、誰もがみんな知っています。 でも嫦娥は、なんで仙薬をこっそり飲んだのでしょう? なんで一人だけ月へ行ったのでしょう? これについてはあまり知られていないと思います。 その物語をお話しましょう。

盤古が天地を開き、女媧が人を作ったことにより、この世は活気が満ち溢れ、人々は朝、日が出るとともに働き、日が落ちると休む生活をしていた。 その頃は生産手段も簡単だったし、労働の手段もまだまだ低いものだった。 苦労して働いても、物は十分でなかった。 

嫦娥と后羿の二人は、物や文化生活がない時代に生活していた。 彼等の結婚は、当時としては、とても釣合の取れたものだった。 一方は、9つの太陽を射殺した英雄であり、もう一方は絶世の美女だった。 彼等もその結婚が幸せで円満だと思っていた。 后羿が猟から戻ってくると、いつも家の前の竹垣の側に嫦娥が立って待っていた。 嫦娥は后羿の好きなおかずを用意し、愛する后羿の帰りを待っていたのだ。 后羿は獲物を背負って戻ってきた時、どんなに疲れていようと、家の外で嫦娥が自分を待ってくれているのを見ると、いつも彼女を抱きかかえてぐるぐると振り回すのだった。 それから家へ入り、一緒に夕食を食べた。

夕食を済ました後、手を取り合って黄河の岸辺へ行き、一緒に川の中へ入り、身体を洗い一日の疲労をとるのだった。 その後岸辺から河の中を泳ぐ魚を見たり、近くの花のきれいな野原に分け入ったり、月明かりの中隠れん坊遊びなどをした。 羿と一緒のとき、嫦娥の顔には幸せな笑顔が満ち溢れていた。 羿の目にも輝きがあった。

ある時、后羿が外から帰ってくるなり、嫦娥に一包みの仙薬を手渡し、興奮気味に話した。 今日、道で仙人に出会った。 その仙人が羿に霊験あらたかな妙薬をくれたのだ。 もし一人で飲めば仙人になることが出来、二人で飲めば不老長寿になれる。 彼は嫦娥と一緒にその薬を飲むことに決めた。 そうすれば嫦娥と永遠に一緒にいられる。 この話をしていた時、后羿は興奮して顔を紅潮させていた。

それからどれくらい日が過ぎたろう。 その頃はカレンダーもないから、どれくらい長い時間が過ぎたか調べようがない。 たぶん45年は経ったろう。  嫦娥は、もう后羿の目にあの以前のような輝きを見ることがなくなった。 狩から帰ってきても嫦娥を抱き上げ、振り回すようなこともなくなった。 后羿はため息ばかりするようになり、口数も少なくなった。 嫦娥はこの様子を見て心を痛めていた。 嫦娥はやさしく聡明な女性だから、后羿の悩みの理由が何なのかすぐわかった。 彼女は羿の子供を生んでいなかった。 

昔の言葉に“不孝に三つある。 跡継ぎのないのが一番の不孝”。 堂々たるあの太陽を射た英雄の后羿に子供がいないなんて許されようか? 嫦娥は、このことで深く自責の念にかられ、以前の幸せの笑顔も彼女の顔から消えていった。 世界に完璧なものなどない。 嫦娥には花のような容姿があり、天下第一の英雄を夫に持ちながら、元気で可愛い子供の母親になることが出来ないのだ。 これは女性にとっては残酷なことだった。 次第に后羿は嫦娥と顔を合わせないようになっていった。 また口もきかなくなった。 しかし后羿の目には、愛の光が見られるようになった。 だがその光は嫦娥に対してではなく、別の娘に対するものだった。 それからというもの后羿の帰りは遅くなり、時には帰らないこともあった。 后羿がいない日々、嫦娥はいつも空しかった。 内心深く自責にさいなまれていた。 だから嫦娥は羿の行為を許していた。

当時は、まだ文字もなく、法律もなく、道徳観念もまだ人々の頭にない時代だった。 当時の人々にとっては、“婚姻法”など、アラビアンナイトのような夢のお話だった。 法律がない以上、では嫦娥と后羿の結婚はどうして守るのか? 后羿のようなことは、当時としては普通で正常なこと。 一般の人がすることだったら、后羿はなおさら許される。 だって天下第一の英雄だから。 男女が愛し合うことは、当たり前のことであり、当時の人は法律や道徳の拘束など受けることはなかった。

嫦娥の心は苦しみにさいなまれた。 古代人だろうと現代人だろうと、愛情を失ったときの心の苦しみは一緒だろう。 嫦娥は以前と変らずに、夕飯の準備をし、后羿の帰りを待っていた。 いつかまたぐるぐる回してくれる日が来るのではないか、いつかまた過ぎ去った愛が戻ってくるのではないかと期待した。 后羿は、かって彼に温もりと幸福を与えてくれた家に戻ることはめったになかった。 現在の幸福は、もうこの家にはなく、ほかの別999_2の女の家にあった。 その女は嫦娥ほどの美しさとやさしさはなかったけれど、子供を生んでくれた。 后羿は、自分の子供を持って、一日中父親としての喜びに浸っていた。 もう竹垣の家のこと、嫦娥の美しい眸のこと、野原の花のことなど忘れていた。 そんなことは、子供の花のような可愛いほっぺたの前には、何の価値もなかった。 嫦娥は毎日毎日、竹垣に立ち待っていた。 しかし次第に失望に変り、とうとう絶望するようになった。

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527中国の三面記事を読む(131) 「嫦娥」について【1】

1.雲南の月探査望遠鏡が試運転開始

我国云南探月望远镜已投入试工作阶段 2007-01-19 09:11

源自:新华网网友评论

Photo_728 1月17日、昆明の鳳凰山にある雲南天文台に設置された大型電波望遠鏡が、中国の「探測1号」を目標とした軌道測量をスタートした。 この大型電波望遠鏡は、直径40米、重さ400トン、バラボナアンテナは広げるとバスケットボールの球場が4つ入るくらいの大きさになる。

Photo_729 現在、昆明鳳凰山、北京密雲、上海余山そしてウルムチ南山の4ヶ所の電波望遠鏡はすでに試運転に入っている。 今年(2007年)発射予定の「嫦娥一号」の月面探査時、衛星の位置やデータ受信などの任務を行うためだ。

 

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2.「嫦娥計画」

Photo_730 みなさんご承知の通り、中国は2003年10月15日「神舟5号」に宇宙飛行士を一人乗せ、高度343kmの円軌道を約21時間飛行した後、無事帰還しました。 続いて2005年10月12日には「神舟6号」に宇宙飛行士を二人Photo_731 乗せ無事帰還しています。 来年には「神舟7号」打ち上げを予定、宇宙遊泳を計画しています。 また、今年(2007年)中には、月面探査のため「嫦娥一号」を打ち上げる予定など、着々と宇宙計画を進めています。 

このブログは、この宇宙の話ではなく、「嫦娥一号」の「嫦娥」についてお話したいと思います。 でもまずは「嫦娥一号」の計画についても少し触れておきます。 「嫦娥計画」は3段階に分かれていて、最初は無人探査となりますが、将来的には宇宙飛行士を月面に送り込む壮大なイベントです。

《1》   軌道周回計画

第一段階として、月面探査衛星を打ち上げ、月面の3次元映像を撮影する。

《2》   着陸計画

月面への着陸、月面探査車による月面巡回調査を行う。

《3》   帰還計画

月面から採取した月面元素サンプルを持ち帰る。

以上が「嫦娥計画」の概略です。 ところでこの「嫦娥」とは何か?

中国の伝説上の美女で、月に住む仙女の名前です。 日本なら「かぐや姫」と言ったところ。 「嫦娥」を紹介する前に、日本の「月」に関する話に触れてみましょう。 

3.日本の「月」に関する話題

Photo_732 まず、かぐや姫は、815日(旧暦)が近付くにつれ泣き悲しむようになり、15日当日、養い親に“この世のご縁は今日限り、私は月の世界の者、今晩、天上から使者が迎えに参ります”と言って、そのまま天上へ上がって行ってしまいます。 その後、かぐや姫がどうなったのか、月での生活のことなどはわかりません。 それから「月」というと「十五夜お月さん」とか「兎の餅つき」などもお馴染みです。 815日や十五夜などは、中秋の名月(陰暦815日)に観月する中国の風習が影響しているのでしょう。 

月の中に兎が住んでいるという伝説については、「淮南子」という本に“日中に踆鳥あり、月中に蟾蜍あり”と載っています。 蟾蜍とはガマガエルのこと。 「楚辞」には、“夜光(月)は何の徳があって死んでも育つのだろうか。 それは顧兎が腹中にいるからである”と見えている。 つまり月の表面の陰影を、前者はガマガエルと見、後者は兎と見たからである。 月の中に兎がいるという伝説は、インド、チベット、メキシコにもある。 中国の兎は、あるいはインド伝来ではないかという説もあるが、今のところ不明である。

さらに少し遅れて出た「擬天文」には、“月の中に何かいる。 それは白い兎が薬をついているのだ”とはっきり載っており、日本の“兎が餅をついている”という説話の原型が出ている。 兎が薬をついているという説の起こりは、むかし姮娥(嫦娥ともいう)が西王母(伝説上の仙女)の不死の仙薬を盗んで、月へ逃げて行ったということに基く。 姮娥は窃盗の罪でガマガエルにされたが、そのおかげで、不死の薬は月にあり(前記「楚辞」には、死んでも育つとして不死をうたっている)、さらに、その不死の薬は、兎が杵をもって搗いているからだというのである。 兎がいるという話は古いが、ガマガエルの方はかなり新しいとされ、兎とガマガエルの両方がいるという説は、もっと新しい。 いずれにせよ、日本に伝来してからは、兎が餅をついているという楽しい話になったわけである。 伝来した時期は不明。 (上記「かぐや姫」と「月と兎」については、河出書房新社の中国伝来物語から引用しました)

「嫦娥」物語については、次回以降で紹介します。

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