« 380 中国の三面記事を読む(85)  「西遊記」テレビ版もリメーク決定  | Main | 382 中国は見る(193) 日本ブラリ旅② 日本の温泉体験 »

381 中国の三面記事を読む(86)  桂林は 昔激戦地だった

1944年:激烈、勇猛だった桂林防衛戦争

2006-09-05 08:19:05 主题:1944:最残酷最激烈最勇猛的桂林保卫

本文网址:http://bbs6.news.163.com/zhongri/776664,30.html

9_4 広西というと「桂林山水甲天下」(桂林の山水は天下一だ)を思い、桂林というと漓江の流れ、象鼻山、七星岩などの美しい風景を思い浮かべるだろう。

でもここ桂林は、かって日本軍と戦ったが、中国人にさえ忘れられた激戦地----1944年、桂林防衛戦争が行われた場所だ。

中国人に抗日戦争中どの戦争が一番激しかったか訊ねると、「淞滬会戦」だとか「台児荘」「第三次長沙戦役」「常徳防衛戦争」「衡陽防衛戦争」

などと答えるだろう。 しかし中国侵略戦争に参加した日本兵に訊くと、その多くの老兵たちが一様に、1944年の桂林での戦争が中国で一番厳しい戦争だったと言っていた。

蒋介石と桂(広西)軍との対立、桂林を守備していた広西桂軍が国民政府の撤退要求を拒否したことなどから、桂林防衛戦争は国民党当局の抗日戦争史にはあまり記載されず、わずかに将校達の回顧録の中に記述があるだけだ。 それらの記述もばらばらな記述が多い。 日本人の資料を引用したほうが比較的正確だ。 敵の角度から見たほうが間違いないように思われる。 

日本人の戦史の中でも桂林防衛戦争は、対中国戦争中、中国軍からのものすごい反撃があった二つの内の一つだという。(もう一つは崑崙関戦役で日本の第五師団が中央軍第五軍に敗れた戦い)

まず当時の桂林防衛戦争前の状況を見ると、1944年の日本軍はいわゆる“豫湘桂(河南、湖南、広西)戦役”という大規模作戦を開始している。 湖南の衡陽で中央軍の第十軍の頑強な抵抗にあった以外は、河南、湖南を連勝し、向かうところ敵なし、国民党軍の大部分は潰走していた。

日本軍は、7個師団15万の兵力、タンク300両、飛行機30機あまりと大量の重砲を桂林の前線に集結させ、桂林進攻の準備をした。 

19441028日、日本軍は10数万の軍勢で、大挙して桂林を攻撃した。 桂林防衛戦が開始された。 日本軍は飛行機・大砲の援護の下、桂林の屏風岩、猫児山など4ヶ所の拠点を攻撃した。 ここを守備していた桂軍(広西軍)は、2個大隊700名あまりが114日まで抵抗を続けた。 114日、屏風山、猫児山などの陣地がついに陥落。 日本軍は桂林の町に向かって進撃を始めた。 桂林守備軍は、激しく抵抗した。 日本軍は27回も桂林市内突入を図ったが、市街戦で多数の損害が出たため、撤退せざるを得なかった。 そのため水路から上陸艇を使って桂林を攻撃しようとした。 漓江からの迂回侵攻作戦である。 しかし桂軍の正確な攻撃により大半が破壊されてしまった。 また地元の民間防衛決死隊も手榴弾を身体に巻きつけ筏で日本の上陸艇を爆破したりした。 日本軍はこの漓江だけで7000名余りの死亡者を出した。

川での激烈な戦いと同時に、市街戦の方も白熱していった。 日本の第58師団師団長の後日の戦況報告には、“わが師団は桂林にて、広西現地の土着武装軍の頑強な抵抗に遭遇。 この武装軍は装備は劣るものの、なかなか凶暴でその決死の抵抗は、わが軍の力をはるかに上回り、それがためわが軍の士気は沮喪して--------”。 このほか、下士官が書いた記録には、“小さい時、桂林の景色の素晴らしさ、珍しさを聞いていたが、今日、わが軍は戦争以来、最も激しい抵抗に遭い、市内至るところ銃声が飛び交い、地雷が鳴り響き、またあちこちで白兵戦が繰り広げられた。 わが大隊900名余のうち、戦争が終わった時残っていたのはわずか70余名、それも多くは負傷兵だった。 戦争終了後、敵軍の武器を見ると、なんとほとんど日本が40年くらい前に捨てた鉄砲だった。

このようなお粗末な武器で、わが軍にこのように多大の死傷者を与えたことに、敵ながらその武勇に感服した

このことからも、日本軍の死傷者の多さと士気の衰えが見て取れる。 117日になって、日本軍は猛攻による死傷者の増大により、急遽、大量の毒ガス弾を使用し、桂林の各守備軍陣地目がけて攻撃した。 守備軍の誰もが、ほとんど毒ガスのことなどわからず、逃げることも知らなかったため、大部分が毒ガスにやられ死傷した。 そのうち七星岩にいた800名の桂軍兵(多くは負傷兵)は、日本軍に数日間抵抗したが、日本軍は千人ほどが死傷しPhoto_111た後、七星岩内に毒ガスを撃ち込んだ。 日本軍はその後すぐにその中に飛び込んだ。 桂軍兵の多くは残った力で日本兵と白兵戦を展開したが、毒ガスのため刀折れ矢尽きついに全滅した。

19441110日、桂林は陥落した。 守備軍19千余り、そのうち12千人が戦死(そのうちの半分が毒ガスによる死亡)。 7000名余りが毒ガスにより倒れているところを捕らえられた。

一方の日本軍の死傷者数は、大本営への戦況報告の中で、“皇軍の桂林戦役での死亡は13千9百余人、負傷者は1万9千1百余人、行方不明300人余。 そのうち連隊長の戦死9名、大隊長の戦死31名、中隊長と小隊長の戦死100名近く、漓江の川は敵味方両軍の血に染まり真っ赤となった。 今回の戦役は、私が経験した中でも極めて壮烈なものだった。 これは戦争の規模ということではなく、敵軍の勇猛な戦いぶりについてのことである”。 桂林戦役後、美しい漓江には5キロにわたって中日両軍の死体が浮いていたということだ。 戦争の残酷さが見て取れる。 日本人を震撼させたこの戦役は、多くの中国国民には知られていない。

衡陽の防衛戦より、激烈な桂林防衛戦を上位に挙げた日本人のその理由は、桂林守備軍の装備が、衡陽軍より劣っていたこと。 それにもかかわらず、一番重要なことは桂軍が誰も“意識がはっきり”している時に投降しなかったこと(捕虜となったのは全員毒ガスで意識不明だったからだ)。 刀折れ矢尽き、傷ついた状況の中でも抵抗していた。 また日本人の回想録の中には、戦争に加わった民間人の中には白髪の老人も混じっていたという。 それに対し、衡陽の守備軍は装備が整った中央軍であるのに、理由はどうあれ結果的に投降したことだ。

3_12 5_9 6_9 7_6 Photo_112 Photo_113 3_13 Photo_114 Photo_115

8_3

|

« 380 中国の三面記事を読む(85)  「西遊記」テレビ版もリメーク決定  | Main | 382 中国は見る(193) 日本ブラリ旅② 日本の温泉体験 »

中国関係」カテゴリの記事

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/88988/11814736

Listed below are links to weblogs that reference 381 中国の三面記事を読む(86)  桂林は 昔激戦地だった:

« 380 中国の三面記事を読む(85)  「西遊記」テレビ版もリメーク決定  | Main | 382 中国は見る(193) 日本ブラリ旅② 日本の温泉体験 »