340 中国は見る(170) 日本人の顔 【下】
日本人の顔(下)
2006-07-26 17:27:16 主題:看看日本人的面孔
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私達は多分、長期的に多面的な顔を持つ日本人と向き合うことになろう。
これが日中関係の複雑な一面なのだ。 この点を理解すれば、私達は、“個別の日本人が私的な場面で「お詫び」を言うのを聞いた時、日本人全体が「お詫び」しているわけでないと理解できる。 たとえ今日、小泉首相が靖国神社の春の例大祭に行かなくとも、明日行かなないという保証はないし、別の小泉が行くかも知れない、教科書問題で完全「自粛」も期待できないこともわかってくる” 教科書問題、靖国神社問題、歴史問題等々があるからといって、日本が明日から軍国主義化するわけではない。
2005年は第二次大戦が終結して60年目の年だった。 60年の間に、日本の社会は一連の変化が起こった。 日本社会に強制的に西欧型民主と法制を導入させ、今や日本人社会の生活の一部となった。 日本の社会の中では、過去の戦争は侵略戦争でないと叫ぶ者もいるし、自費で中国の労働者や細菌戦被害者を助けて日本政府と裁判で闘う者もいる。 現代の日本社会は、このような多面的な顔を持っている。 問題は、どのような力がそれをどっちの方向に向かわせるかだ。 では、日中関係を良い方向に向ける力は、どこにあるのだろうか? 根本的な答えは、中国の発展と進歩にある。
歴史を振り返れば、日本の外交は常に最強の国と同盟を結び、外交的利益を得てきた。 第一次大戦前後は英国が強かった。 それで日本は日英同盟を結んだ。 第二次大戦期間中はドイツが強いと判断し、ドイツに付いた。 第二次大戦後はアメリカが強く、それに占領されていたから日米同盟を中心に置いた。 冷戦後、国際政治の構造にアメリカの超強大国の局面が現れた。 日本外交は更に日米関係を最重要国とした。 そして冷戦終了後最も象徴的なのが、日米共同の仮想敵国だったソ連が解体し、北の脅威が無くなったこと。 しかし90年代以降も、ソ連を仮想敵国とした日米安保条約は廃棄されなかったばかりか、逆に補強された。
これぞ“有事法案”
これと対照的なのは日本のアジア政策。 常に従属的で、二義的だった。アメリカの力を借りて中国大陸と対抗する。 これがずっと日本外交の主要な対応だった。 20世紀後半になって、アジア経済の猛烈な発展に伴い、日本国内でアジアを重視し、アジアへ戻れの声が高まった。
実際、中国は世界最大の市場となり、低賃金、人的資源と日本の豊富な資金と高度に発達した科学技術が結びつき、両者の経済は相互補完、相互利益の関係になった。 しかし、アメリカの立場から見ると、日中対立の方がアメリカにとって利益があるのだ。 日中関係の後ろにいるアメリカの存在について討論することは、本文の趣旨から離れることになるのでここでは述べない。 しかし、これは日本の国民性を考え研究する際、忘れてはならない問題である。
今、状況は変化している
90年代初め、私が日本に行った頃、日本のデパートで一番安い商品棚に中国の衣類や雑貨製品があった。 値段はとても安いものだった。
しかし今年行ってみたら、中高級用品棚には中国製品が溢れており、価格も結構いい値段だった。 衣類に限らず、デパートには大小さまざまな商品、家電製品、カラーテレビ、電子レンジ、カメラ等、どれをとっても大抵後ろに“中国製造”と印刷されている。 これらの場所には、もともと日本やほかの先進国の商品が置かれていた所だった。
先程、日本の弁護士が自弁で中国労働者の裁判の手助けをしていると述べたが、これに関連して私は旻子が書いた「尊厳―中国民間対日索賠紀實」【尊厳――半世紀を歩いた「花岡事件」(中国民間人対日賠償請求の記録)】に書かれていたことを思い出した。
1945年6月、秋田県花岡鉱山で強制連行された中国人労働者が虐待に耐えかね暴動を起こした。 有名な“花岡事件”である。
暴動の直接の導火線となったのは、日本の現場監督がムチで労働者を打ったからだ。 この人を人として扱わない行為は中国人労働者の忍耐の限界を超えたものだった。 しかし暴動の指導者達は暴動の決行日を決める時、比較的態度が穏やかで労働者達を打ったり怒鳴ったりしなかった現場監督の中の石川、越後のことを考慮し、彼等の休みの6月30日に決めた。
“花岡事件”の中国労働者達は、あの残酷な環境の中にあっても理性を失わず、日本人の善悪の顔を見分けていた。 我々後代の子孫としても見習うべきだと思う。
作者:劉暁峰(清華大学歴史学部副教授)
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