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233 中国の三面記事を読む(19) 林徽音と徐志摩 《下》

林徽因の略歴

 

生年:1904年 6月10日

没年:1955年 4月 1日

出身:福建省 闽侯

職業:建築家、教授、詩人、作家

原名:徽音

 

1904年6月10日、杭州で生まれる。 1916年、北京培華女子中学に入る。 1920年4-9月、父・林長民についてヨーロッパに行く。 ロンドン、パリ、ジュネーブ、ローマ、フランクフルト、ベルリン、ブリュッセルなどの地を巡り、同年ロンドンのセントメリー女学校に入学する。 1921年帰国し、また北京培華女子中学で勉強する。

1923年、新月社の活動に参加する。 1924年、アメリカに留学、ペンシルベニア大学の美術学部に入り、建築学科の授業を履修する。 1927年卒業。 美術学士の学位を取る。 同年エール大学の演劇学部に入り、G.P.パーカー教授のもとで舞台美術設計を学ぶ。 1928年3月、梁思成とカナダのオタワで結婚。 結婚後、ヨーロッパへ建築の視察に行く。 同年8月帰国、福州の実家へ戻る。 福州へいる間、烏石山第一中学で“建築と文学”について講演したり、倉前山英華中学で“造園建築芸術”について講演する。 1929年、東北大学建築学部の副教授となり“彫塑史”と英語を講義する。 この年、張学良が東北大学の校章のデザインを賞金を出して募集した。 林徽因が設計した“白山黒水”のデザインが当選した。 1930年、肺病のため北京香山の双清別荘で療養。 1931年、北京中国営造学社の招きに応じ入社。 1931年から1946年まで中国営造学社にいる間、中国の古い建築を調査研究した。 行き先は、北京、河北、山西、浙江、河南、山東、陝西等の地に及んだ。

 

1946年から清華大学の建築学部の教授となり、“中国建築史”を講義、また大学院生のため“住宅概説”等の特定テーマの課目も設けた。

 

1949年、中華人民共和国の国章設計チームに入り、1951年には天安門広場の人民英雄紀念碑の碑座の紋様やリリーフの設計に関わり、1951年には景泰藍の工芸生産を調査研究すると共に、民族的風格のある景泰藍の新しい図案を設計、自ら参加し試作した。

 

1950年、北京市都市計画委員会委員、工程師を兼任。 1953年、中国建築学会第一回理事会の理事に当選。 “建築学報”編集委員、中国建築研究委員会委員となる。

 

設計に関わった工事としては、北京大学地質館、灰楼学生宿舎、雲南大学学生宿舎、清華大学教師住宅、中南海懐仁堂改修工事等がある。

 

彼女が発表した建築に関する論文には《中国建築のいくつかの特徴を論ず》、《平郊建築録》(梁思成と共著)、《清式営造則例》第一章緒論、《晋古建築預査紀略》(林徽因、梁思成署名)、《天寧寺から建築年代鑑定問題を論ず》(林徽因、梁思成署名)、《中国建築史》(遼、宋部分)、《中国建築発展の歴史的段階》(梁思成、莫宗江共著)。

 

彼女の主な文学作品は、《誰愛这不息的变幻》、《笑》、《清原》、《一天》、《激》、《昼夢》、《瞑想》、等詩篇数十首。 話劇《梅真同他》。 短編小説《》、《九十九度中》等。 散文《窓子以外》、《一片陽光》等。

人民文学出版社から《林徽因詩集》(1985年)が出版されている。

また人民文学出版社と香港三聯書店が共同編集で(中国現代作家選集叢書の一)として《林徽因》を出版した。

 

徐志摩の略歴

 

生年:1897年 1月15日

没年:1931年11月19日

出身:浙江省 海宁 硖石

職業:詩人、散文家

 

1915年、杭州一中卒業後、上海滬江大学、天津北洋大学、北京大学に学ぶ。 1918年、アメリカへ銀行学を学びに行く。 1921年、イギリスへ留学。 ロンドンのケンブリッジ大学特別生として政治経済学を学ぶ。 ケンブリッジで2年間、西洋教育の薫陶を受けた。 また、欧米のロマン主義と唯美派の詩人の影響に染まった。 1921年、新詩の創作を始める。 1922年、帰国後新聞紙上に多くの詩を発表する。 1923年、新月社に関与し発足させる。 文学研究会にも加入する。 1924年、胡適、陳西等と週刊“現代評論”を創刊。 北京大学教授になる。

 

インドの大詩人タゴールが訪中した時、通訳をする。 1925年、ヨーロッパへ行く。 ロシア、ドイツ、フランス、イタリアなどを回る。 1926年、北京で“報”の文芸欄の詩の編集を担当、聞一多、朱湘等の人達と新詩運動を展開、新詩芸術の発展に影響を与える。 同年、上海に移り、光華大学、大夏大学、南京中央大学の教授となる。 1927年、新月書店の設立に参加する。 翌年、月刊“新月”創刊、編集となる。 また出国し、イギリス、アメリカ、日本、インドなどを回る。

1930年、中華文化基金委員会委員となり、英国詩社社員に選ばれる。

同年冬、北京大学と北京女子大学の教授となる。 1931年初、陳夢家、方徳と季刊“詩刊”を創設。 ペンクラブ中国支部の理事に推薦される。 同年11月19日、飛行機で南京から北京へ向かう途中、霧のため済南付近で山に激突、死亡する。

 

著作は、詩集《志摩の詩》、《翡冷翠の一夜》、《猛虎集》、《雲遊》、散文集《落葉》、《パリの断片》、《自》、《秋》、小説散文集《ハンドル》、脚本《卞昆岡》(陸小曼と共著)、日記《愛眉小札》、《志摩日記》、翻訳書《曼殊斐尔小説集》等。 彼の作品は、《徐志摩文集》として出版されている。

 

徐志摩の詩は斬新で韻律の調和もよく、比喩は奇抜で想像力も豊富、作品の感じは軽妙で洒脱、変化に富んでいる。 その洗練された芸術的表現から、新月派の代表詩人といわれる。 

 

彼の散文も独自の風格を持っており、詩歌に引けを取らない。 そのうち《自》、《想飛》、《私の知ってるケンブリッジ》、《翡冷翠山居閑話》などは後世に残る名篇である。

 

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