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太太サロン“秘話

1930年代、林徽音が北京東城総布胡同に住んでいた時、彼女の家の応接間は“太太サロン”と呼ばれていた。 その当時の文壇の名高い巨匠達、朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾等がここに集まり、お茶にお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていた。 “太太サロン”の主役はやはり林徽音で、詩を読んだり、討論したり、その時の彼女の目はイキイキと輝いていた。 友達は林徽音の生活の中の重要な部分を占めていた。 彼等の賞賛と激励があったればこそ彼女も輝いたのだ。

この“太太サロン”には外国人もよく来ていた。 その中には英国籍中国系作家ハン・スーイン(韓素音)女士や大学関係の学者もいた。 アメリカのハーフォード大学の学長コナン(坎南)博士(Walter B. Cannon)も来ていた。 彼は娘ウイルマ(慰梅:Wilma)と娘婿のフェアバンク(費正清:John K. Fairbonk)を連れてきた。 その後彼等は“太太サロン”の常連となる。 

いろんな人がこの“太太サロン”について語っている。 それぞれの人達の思い出を紹介しよう。

蕭乾---一代才女林徽音》

私が始めて林徽音に会ったのは、1933年11月の最初の土曜日の午後でした。 沈従文先生が《大公報・文芸》欄に私の小説《蚕》を発表してくれた後、手紙でとても魅惑的な女性が私の小説を気に入ってくれて、私にお茶を飲みにいらっしゃいといっているとのこと。 その日、私は洗い立ての大褂(ひとえで丈の長い伝統的中国服)を着て、先に自転車で達子営の沈家へ行き、沈先生と一緒に北総布胡同の林徽音のその有名な“太太サロン”に足を踏み入れた。

林徽音はとても重い肺病に罹っていると聞いていたので、いつも横になって休んでいるだろうと思っていた。 しかし乗馬服を着ていて病人らしさはまったく見えなかった。 彼女はよくウエルマ夫人と外国人クラブで馬に乗っていた。 彼女が私に始めて言った言葉は“あなたは自分の感情で書いているわね、いいことだわ” 私にとっては大きな励ましになった。 彼女が話している時、ほかの人はほとんど口をはさめなかった。 沈先生、私、梁思成や金岳霖さえもソファに坐ってパイプをくゆらしてただうなずいて見てるだけだった。 林徽音のおしゃべりは、結婚している婦人のいわゆるくだらない話ではなく、学識・見識があり、舌鋒鋭い批評だった。 私は後になってよく考えた。 もし林徽音が、18世紀イギリスのジョンソン博士のように、身近にボズウェルがいて彼女の機知に富み、ユーモアのある話を、全部書き留めていたら、きっと素敵な本が出来てたに違いない! 彼女の話し方は回りくどくなく、あいまいさがなかった。 批評しても人から恨まれることはなかった。 私は林徽音の超人的な能力に感心した。 

《ウエルマ(費慰梅)――梁思成と林徽音》

哲学者の金岳霖は徐志摩の友達で、みんな“老金”(金さん)と呼んでいました。 梁氏夫婦は“老金”の隣に住んでいました。 梁氏夫婦の応接間には扉があり、そこを通ると“老金”の庭があって、彼の家へつながっているのです。 彼もよくこの扉を通って、梁氏夫婦の集いに参加しました。 毎週土曜日の午後になると“老金”の家でも友達の集会があり、それから梁家へ流れてくることもしばしばでした。 また、梁氏夫婦も、この庭を抜け“老金”の家へ入り込みほかの人と一緒になっていました。 いずれにしろどちらも彼等の親友たちでした。

私達が北京へ着いてまだ間もない頃、林徽音は友人の集まりに私達をよく連れて行ってくれた。 “老金”も歓迎してくれた。 みんな話をする時、私達外人のことなど気にすることなく、中国語でしゃべり、ドッと笑ったりしていました。 夫のフェアバンクが清華大学の教師になり、私達の中国語もだいぶ上達していたので、外人と思わないでくれたのでしょう。 

梁家の応接間のことで、どの人も覚えていることは、林徽音がいつも滔々と話し続けすべての話の中心にいたことだ。 彼女の雄弁は誰もが認めているところで、また同時に驚嘆させられたのは、著作も同じように得意だったことだ。 話と同様、創造性に富んでいた。 話題は軽いものから、鋭い分析、賢明な忠告、猛烈な怒り、狂ったような熱情、そして蔑視まで含まれないものはないくらいだった。 彼女はいつもサークルの中心人物だった。 彼女の信奉者は、その自由奔放で鋭い分析のおしゃべりに聞きほれていた。 

梁家の応接間ではしょっちゅういろいろな事が起こった。 特にご主人思いの召使・陳婆やが何かというとやって来て、細かい事をあれこれ林徽音に伝え、彼女の意見を求めるのです。 家のことであれ、隣の家のことであれ、どんなことでも林徽音に相談するのです。 こんな事がありました。 陳婆やがある日、慌てたように駆け込んで来ました。 梁家の西側の高い塀の隣に住んでいる家の屋根が崩れてポッカリと大きな穴が出来てしまったそうです。 彼女が言うには、そこの家に住んでいる人は貧乏で屋根を直す金がなく、林徽音に家主へとりなしてほしいというのです。 普段と同じように、林徽音はすぐやりかけの仕事をやめて、自分でこの事を調べに行きました。 林徽音は家主に交渉に行き、この住人が毎月銅貨50の家賃を払っていることがわかりました。 家主は、現在住んでいる住人は200年前の乾隆年間にこの部屋を借りて、毎月ずっとこの決められた家賃を払っている。 同じ家にずっと住んでいれば、中国の法律では家主は家賃を上げられない。 林徽音はテキパキと話をつけ、最後には林徽音が家主に屋根の修理代を渡して、この事件にケリをつけました。 

天才詩人徐志摩も、もちろん“太太サロン”の一人だった。 彼女はよく私に彼のことを話した。 ずっと彼のことを思っていたことでしょう。 私は時々思うんですが、よく英語でいろんな話題を話し合いましたが、多分、徐志摩と林徽音の間で交わされた話だったかもしれない。 彼女は永遠に徐志摩のことを忘れられなかったと思います。 だって彼女はその頃まだ若い女の子で、ロンドンで徐志摩から広い世界を教えてもらい、英国文学と英語の手ほどきをしてもらったのですから。

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