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234 中国の三面記事を読む(20) 林徽音の話題(上) 

唐代建築物の調査・発見

 

梁思成は1932年に《清式営造則例》の原稿を書き終え、1934年、中国営造社から出版された。 林徽音はこの本の原稿の最初から最後まで、何度も書き換えたり削ったりと修正の手伝いをしたほか、写真撮影や写真の選択など精力的に関わった。 梁思成は序言の中でこう書いている、“少なくとも彼女は、この本の半分の著者というべきだ” 林徽音は古建築学者である。 しかも、科学者の緻密な目、史学者としての思想、文芸家としての激情を併せ持ち,この方面の造詣が深い。 その頃の梁思成の論文と調査報告の大部分は、彼女の手が加えられていた。

それ故、梁思成はよく人にこう言っていた。 彼の文章は林徽音が手を入れてくれたお蔭で完成しました。

 

1935年初め、南京政府は山東曲阜の孔子廟の修復工事を行うことを決めた。 梁思成が曲阜へ行き孔子廟を実地調査し、修復計画を準備している時に、林徽音の肺結核がまた再発した。 病院の医師は、彼女に3年間の休養を伝えたが、林徽音は6ヶ月だけ休みますと答えた。 毎日、林徽音は睡眠以外は著作をしていた。 2月、彼女の《憶》(思い出)は楊晋豪編の《中国文芸年鑑》に取り入れられ、上海北新書店から出版された。 6月1日には、《吊徳》が“文明月刊”第7巻第6期に発表された。 彼女の小説“鐘録”、“吉公”、詩の“霊感”、散文“徐志摩逝去四周年を偲ぶ”などは、“大公報・文芸副刊”に発表。 ほかに、“霊感も書いたが、生前は発表されず、1985年出版の“ 林徽音詩集”に収められている。 1936年5月、林徽音は自分でもう回復したとし、また梁思成と洛陽へ行き、劉敦楨と陳明達等と共同で龍門石窟の調査を行い、続けて洛南市南郊の関羽の墓、また開封の宋代

の繁塔なども調査、泰安では泰山の麓の岱廟--------これは歴代帝王が神を祭ったところ----------も調査した。

 

日本人が以前、中国には唐代の木造建築は存在しないと断言していた。 唐代の木造建築を見るなら、日本の奈良へ来るしかないと。 しかし、梁思成と林徽音は、中国はこれだけ大きいところだから、絶対唐代の木造建築はあるはずだ。 二人は図書館へ行って、多くの資料を読んだ末に重大な発見をした。 フランスの中国学者ポシオが書いた“敦煌石窟図録”の中に、2枚の唐代壁画についての研究が目に留まった。 この2枚の壁画は、仏教の聖地五台山の全景を描いていた。 また、寺の名前もはっきり記されていた。 梁思成は北京の図書館で、“清涼山「山西五台山」誌”という本を見ると、その中に佛光寺の記載があった。 梁思成と林徽音は、この場所は交通も不便で、参拝客も少なく、古建築等の保存に最適だと判断した。 運試しに行ってみようと決めた。

 

1937年6月、梁思成と林徽音、莫宗江、紀玉堂は汽車に乗り太原へ行き、そこから車に乗り換え、また途中からロバに乗って五台山へ向かった。 険しい山道を避けながら前進し、時にはロバも前へ進めないところもあり、下りてロバを引っ張りながら進むこと2日、やっとこの五台の県城から東北60華里(約30キロ)の佛光寺へ到着した。 そこには、唐代の木造、泥で出来た人形、石刻、壁画、墨蹟、また寺の内外に、魏(或いは斉)唐の墓、塔、石の彫刻などが一杯集まっていた。 どれも我国の歴史文物の宝物である。

梁思成は《古建築を探す》という一文の中に、この佛光寺の情況を詳しく述べている。 翌日から詳しい調査を始めた。 斗拱(ますぐみ)、梁(はり)、装飾のある天井板、彫刻された柱・土台石を見て回った。 単体、総体は、いずれも間違いなく晩唐の特徴が見られた。 天井の上の真っ暗い空間に上がって見ると、そこには屋根を支える“主椽”(現代の屋根を支える術語を借用)を使用しているのが見えた。  それは唐代の絵画の中にだけみられるものだった。 この屋根裏部屋には、何千匹ものコウモリが棟木の上に集まっていた。 そのため多分上に書いてあるだろう日付を見つけることができなかった。 そのほか、木材には何千万ものコウモリの血を吸う臭虫(吸血虫)がいた。 みんなは厚いマスクを鼻にあて、真っ暗な中またものすごい臭気の中、何時間も測量し、絵を描きフラッシュで写真を撮った。

大広間で作業をしてから3日間、林徽音が一本の梁の下を見ていたところ、墨で薄く書かれた字を見つけた。 この発見はみんなに電撃のような衝撃を与えた。 今までのほかのどんな日付より感激的なものだった。

みんなが懸命になって佛像の中をかき分け,梁ををきれいにして、書き記された字を見ようとした。 彼女は、頭を後ろにやったり色んな角度からこの梁の字の文字を見極めようとし努力した結果、林徽音はかすかな人名を読み取った。 それと長ったらしい唐朝の官職もあった。 その中で、一番重要なのは右の梁にかすかに書いてあった。 “佛殿主女弟子寧公遇” そして外の石段の石柱に刻んであった年代は“唐大中十一年”、西暦857年に相当する。 彼等が北京へ戻った後、林徽音は朱自清と蕭乾に興味津々に、この時の調査の情況を語って聞かせた。 林徽音と仲間達が発見した佛光寺の本堂は、その当時国内で見つかった最古の木造建築だった。 

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